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風に触れて旅をする -大気を味わうロードムービー傑作3選【エッセイ#45】

映画のジャンルの中でも、ロードムービーには、どこか幸福感のようなものがあります。

映画というのは、リュミエール兄弟の頃から、世界各地にカメラを持って跳び、様々な旅先の風景を捉えては、上映していました。映画は、最初期から、自分にとって未知の光景を見たいという欲望と、上手く呼応していました。
 
それゆえに、カメラが小型化して、伝統的な撮影スタジオが崩壊した70年代以降、カメラを持ち出して、一緒に旅をするように、撮影するような映画が興隆を迎え、世界をヴィヴィッドに伝えるような幸福な傑作が多く生まれてきました。
 
ここでは、そうした中から、私の好きなロードムービーを3本紹介したいと思います。何の関連もないけど、繋ぎ合わせると、一つの旅となるような3本。読みながら、旅先のあの感じや気分、空気感を味わっていただければ。そして、紹介した映画を鑑賞するきっかけとなれば、嬉しいです。


 選ぶときには、かなり緩いですが、次のような条件を付けました
 
1.  
主人公たちが旅をするだけでなく、
実際に撮影場所を移動して製作されている

2.
主人公たちは、どこかいきあたりばったりに
旅先で偶然色々な人物と出会う

3. 
旅の目的はあるが
段々と当初の目的が消えたり、
曖昧になったりしていく

4. 
その結果、主人公たちは
旅そのものの時間を楽しむようになる

5. 
そして、旅先の温度や大気までも、
観客は画面から感じられるようになる


 
勿論、これは、ロードムービーというジャンルの定義でも何でもありません。私が魅力的だと思うロードムービーの条件です。キーワードは大気を感じ取れるような作品。当然、この条件に当てはまらない名作ロードムービーも沢山あります。
 
例えば、最近話題になった作品に、濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』がありました。あの作品では、確かに、後半ある旅に出るのですが、そこまで「ロードムービー」感がありませんでした。
 
おそらく、前半部分の演劇に関する印象が鮮烈なのと、主人公たちの目的がはっきりしすぎて、あまり偶然の出会いがないように思えたからでしょう。大変優れた作品ですが、ロードムービーのほわんとした、ある種の多幸感とは、少しベクトルが違ったように思えます。
 
使い古された表現ですが、人生は旅なのは間違いありません。行き当たりばったりの、映画の旅をほんの少しだけ覗いてみましょう。


 
『都会のアリス』
(ヴィム=ヴェンダース監督 1973年)
 

『都会のアリス』

以前ヴィム=ヴェンダースをほんの少し取り上げて、『ベルリン天使の詩』を最高傑作と書きました。その考えに変わりはないですが、初期の彼のロードムービーも、捨てがたいものがあります。

 
彼が西ドイツで撮った、ロードムービー3部作『都会のアリス』、『まわり道』、『さすらい』は、そのジャンルの嚆矢という意味でも、金字塔と言って良いでしょう。その中でも、『都会のアリス』は、初期の傑作です。


アメリカで取材していたドイツ人作家が、空港でアリスという女の子と母親に出会います。母親からアリスを世話するように頼まれ、アムステルダムまで連れていくことに。しかし、母親は現れず、男はアリスと一緒に、彼女の祖母の家を訪ねる旅に出ます。


 
この映画は白黒であり、アリスと出会うまでの、アメリカでの描写は、夜が中心で、非常に孤独な暗い感じを受けます。それが、アリスに出会ってからは、明るい光の描写に変わります。
 
何とも懐かない少女に手を焼きながらも、画面全体に真っ白い光が差し込んでくる。その印象によって、あざといドラマ無しに、二人が一緒にいることが自然に受け入れられていきます。

『都会のアリス』


とりわけ、公園のような水辺で、二人で憩うシーンは、素晴らしい安らぎの時間が流れています。祖母の家を探しても、見つからない。でも、二人でとにかく移動することで、今いる時間を楽しむこと。

車で移動し、列車は飛行機で微睡みつつ移動し、引き延ばされた時間を蔑ろにせずに捉えることで、観客もその時間を味わうことができます。
 
それこそが、勿論『不思議の国のアリス』を意識したタイトルの意図でもあるのでしょう。都会の童話として、光と微睡みの中で夢見ているような童話。都会と郊外のたおやかな空気が画面を満たしています。
 
最後、二人は目に見えて成長したわけでもありません。しかし、どこかすがすがしさがあるのは、二人の人生がこの後も続くことが、理解できるからでしょう。そして、二人を置いて大きく飛翔していくカメラは、私たちの世界そのものが広がった感覚を与えてくれます。

『都会のアリス』



 
『さすらいの二人』
(ミケランジェロ=アントニオーニ監督 1975年)
 

『さすらいの二人』

白黒ではなく、カラーでその土地の空気感まで捉えた美しい映画という点で、私が偏愛しているのが、この作品。アントニオーニは、『情事』や、『太陽はひとりぼっち』等、謎めいた男女の消失を描いてきましたが、おそらく、その中でも頂点に達する作品です。


あるジャーナリストが砂漠で見つけた死体は、自分とそっくりでした。彼は、その男になりすますのですが、実は元の男はトラブルを抱えており、ある組織から追われることになります。


 
ドッペルゲンガーと、追跡の物語(一応カーチェイスっぽい場面もあります)と言えますが、それは建前のようなもの。ジャック=ニコルソン演じる男が、アイデンティティが曖昧なまま、スペインをさまよう様を捉えることが主題になっていきます。
 
例えば、ニコルソンが、ロープウェーに乗りながら、鳥が羽ばたくように、手を広げたり、マリア=シュナイダー演じる大学生と、楽しくおしゃべりして愛し合ったり。
 
自分のアイデンティティが消えることで、ニコルソンはその境遇を楽しんでいるように思えます。しかし、手放しで能天気に自由を享受しているわけではありません。

『さすらいの二人』

 
自分の存在証明が消えることは、現状のしがらみから解放されると同時に、何か自分とは無関係なはずの存在から追われ続けることを意味します。

それが、権力と言われるものなのか、社会と言われるものなのか、はたまた死と呼ばれるものなのかは分かりません。でも、それゆえに、現在の自分を取り巻く空気に深く触れることになります。この作品は見事にそれを象徴しているように思えます。


 
スペインのエキゾチックな雰囲気は、あまり強調されません。それがかえって上品で、乾いた空気感が強調されます。

人が自分の日常のアイデンティティを消して、彷徨う時の爽やかさ。じとじとした汗から解放されて、肌を風が撫でてすり抜けていく、その心地よさが、追われ続ける不安と共に、全編を通り抜けていくのです。
 
そして、ラストの伝説的な長回し移動撮影は、初めて見ると、本当に驚くと思います。一体、これはどうやって撮ったのか。そして、このラストは一体何を意味しているのか。是非、確かめていただければと思います。

『さすらいの二人』

 『永遠と一日』
(テオ=アンゲロプロス監督 1998年)

 

『永遠と一日』


カメラの驚異的な長回し、そして、ロードムービーと言えば、ギリシアの巨匠テオ=アンゲロプロス監督作品です。ギリシアの現代史や、現代の移民を巡る憂鬱で寓話的なストーリーが多い中、ストレートに感動的に個人の内面を描き、カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを獲得した作品です。


 詩人のアレクサンドロスは、重病で明日にはアテネの病院に入院しなければならず、車で人生最後の旅に出ます。そんな中、ふとしたことで、アルバニア移民の少年と出会います。亡くした妻や、敬愛している詩人について回想する中、少年を祖母の元へ送り届けるため、国境に向かうことにします。



ギリシアと言えば、エーゲ海の紺碧の空と海、乾いた日差しと白い漆喰の建物を思い浮かべます。しかし、アンゲロプロス監督の作品では、ほぼ全て曇りで、雨か雪が降りそぼっています。濡れた路上と憂鬱な天気の中、主人公たちが歴史の流れに翻弄されて彷徨う作品です。
 
そんな中、『永遠と一日』では、ほぼ唯一の例外として、まさにイメージ通りの、晴れ渡るギリシアの海や空が登場します。それが、亡き妻との幸せな回想場面。現在の憂鬱な曇り空と対照的に、海の汐風と乾いた陽光が、画面いっぱいに溢れます。
 
『ベルリン天使の詩』で主演したブルーノ=ガンツが老詩人を演じます。面白いのは、妻との若い頃の回想場面でも、ガンツが現在の姿で演じていること。

映画では、イングマール=ベルイマンの名作『野いちご』で使われて有名になった手法で、度々アンゲロプロスも用いています。しかし、よれよれのコートの老人が、夏服姿の妻や友人たちと会話するのは、ちょっとシュールな光景です。

『永遠と一日』


まるで、監督本人の遺作として撮られたかのような、この作品。発表された当時は、今までと違う感触に、戸惑う声もありました。移民や戦争、歴史問題を描いた重厚な作品群に比べて、あまりにも懐古的というか、まるで映画祭の最高賞狙いに、感動を強いるような、あざとさがあるというか。
 
この作品以降アンゲロプロスは二作品撮っているのですが、それらは、寧ろ他の作品に近い、全編曇り空の、重厚な歴史寓話です。『永遠と一日』のあざとさは、彼の作品の中でも唯一の例外なのです。
 
しかし、今見直すと、寧ろそのあざとい部分が、かえっていいと私には思えます。現在の曇り空の湿った大気と冬の雪と対比する、過去の夏空と暖かい海の風。現在の暗く憂鬱な移民たちの苦闘と、過去の幸せな家族の団欒。そしてそれを繋ぎとめる、詩の数々。

『永遠と一日』


これはロードムービーであり、優れたメロドラマでもあります。他のアンゲロプロスの作品では、戦争や移民、独裁による弾圧など、重い話題を、かなり寓話的に語るため、私から見ると、かえってあざとく、技法とイデオロギーだけが突出してしまう部分があったように思えます。

しかし、一人の男性の内面に絞って、図式的になることを恐れないこの作品には、もっと自由な風が吹き抜けています。
 
陽光に満ちた妻との回想場面は、現在では決して手に入れられないユートピアであり、あまりにも暗い現代と対比されるからこそ、その温かい心地よさを、感じることができます。


 
旅をすること、というのは、変化する外の空気に触れながら、自分の内面を遡ることでもあるのだと、この作品は伝えてくれます。そこには、きっと誰もが持っていて自分が生きる推進力となる理想の光景の、優しい風が吹いているのです。
 
だからこそ、冒頭と円環を描く、美しいラストシーンが、私たちの存在そのものに向かって語り掛けているように、力強く思えるのでしょう。
 



3つの異なる場所の作品を繋いで、ロードムービーとして見てきました。物語の要素や感動させるようなエピソードは薄い。でも、旅の本質とはきっとそういうものでしょう。
 
大した目的もなく、日常から解放され、ほんの少しの不安と共に、歩き続ける。そうすることで、この世界に驚くほど豊かで心地よい風が吹いていることを知る。
 
これらは、そうした旅の一つの喜びを味わせてくれ、私たちの人生を彩ってくれる豊かな作品と言えるでしょう。機会がありましたら、ぜひ体験していただければと思います。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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