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文字の熱が描く夢 -西洋中世の写本の美について


 
 
国立西洋美術館で開催中の『内藤コレクション 写本 -いとも優雅なる中世の小宇宙』展に行ってきました(8/25まで)。
 
中世の美術は好きなので行ったのですが、想像していた以上に素晴らしく、色々と思考を誘発させられる展覧会でした。






この展覧会は、内藤裕史という、本業は医学の教授で、中世の写本のコレクターという方が国立西洋美術館に寄贈した、西洋中世の写本零葉(本から切り離されたページの獣皮紙)コレクションを展示したものです。

 

展覧会チラシより



13世紀頃の中世には、まだ印刷技術はありませんでした。本を作るには、写本として、一つ一つの文字や、カットを全て手書きで描かないといけません。

それは、動物の皮を加工した獣皮紙に、気の遠くなるような時間をかけて描き込まれて作られる工芸品であり、贅沢な嗜好品でした。
 
題材としては、聖書の一節や、典礼用の祈祷(原初の音符みたいなものもあります)等、今となっては、それ程奇を衒わないもの。
 
しかし、その視覚的な表現は、言葉を失うほど美しいです。




間近で実物を見ると、緻密さと質感の細やかさに驚かされます。少したわんだセピア色の獣皮紙に、薄いインクの文字が狂気じみた細やかさでぎっしりと詰まって並ぶ、壮観なレイアウト。
 
そのフォントの揺るぎない美しさ。そして、文字に絡みつく赤や金の装飾の艶やかさ。そこからは、恐ろしいほどの言葉の熱量のようなものが、凝縮されて伝わってきます。
 
あまりにも細かすぎるので、これは読むことを意図しているのではなく、視覚的な並びだけでも、美しさを感じられる文字になっています。


聖王ルイ伝の画家(マイエ?)(彩飾)
《『セント・オールバンズ聖書』零葉》
フランス、パリ
 国立西洋美術館 内藤コレクション




こうした文字の美は、中世の人々に、現代の私たちには想像もできない程の、強烈な美の快楽を与えたはずです。
 
今では色褪せてしまっていますが、当時は真っ白な動物の皮に、色鮮やかな文字が躍る。
 
中世の城や教会の薄暗い光、あるいは、夜の闇の中で蠟燭の光にぼんやりと照らされて浮かび上がるその文字は、どんなリアルな絵画や写真を見た時よりも、つややかで淫靡な幻想を立ち上げたことでしょう。




熱を持った文字が秩序と美をもって描く、聖書の中の、この世を超えた世界。
 
それはまるで、架空の世界の地図か天球図のようでもあり、展覧会のサブタイトルにもあるように、ちっぽけな獣皮紙だけで「小宇宙」を作っています。なるほど、これはコレクター心をそそる逸品に違いありません。


フランチェスコ・ダ・コディゴーロ(写字)、
ジョルジョ・ダレマーニャ(彩飾)
《『レオネッロ・デステの聖務日課書』零葉》
イタリア、フェラーラ 
国立西洋美術館 内藤コレクション




例えば、イスラム美術でも、中世の美しいカリグラフィーの写本があります。十字軍による文化の混交もあり、当時最先端だったイスラム文化が、中世西洋美術に与えた影響も大きいのでしょう。
 
ただ、イスラム美術が、どこか大らかな古代の息吹を残した、華やかな色彩と文字に彩られているのに対し、この西洋中世の写本は、神経質に切り立った文字に込められた、狂熱を感じさせます。
 
そうした言葉への熱が、もしかすると、その後の西洋の狂騒的な拡大と文化の発展に繋がったのかもしれない。

今振り返るとまあ、色々と問題はあったものの、間違いなく人類全体の文化の成長を担った、その知と欲望の熱というか。
 
勿論、歴史の動きには様々な要因があるわけですが、そんな妄想をも抱かせるほど、現代から見てもシャープな表現に思えました。




興味深かったのは、最後の方に、印刷技術が出来た後の、15世紀以降の「写本」もあったことです。
 
それらも美しいのですが、13世紀頃の手描きの写本にあったような熱量が、薄れてしまっているように見えました。
 
もしかすると、印刷の活版技術というのは、中世の文字が内包していた熱や、狂気、あるいは魔のような力を、薄めるためにあったのかもしれません。
 
文字とは本来、魔法使いが地面に魔方陣を描くように、現実世界に楔を打って、世界の裏側を人間の脳内に出現させるための、刻印のようなものだったのかもしれない。
 
そんな文字が同じ形で判を押され、人が自由に熱を込めていたレイアウトが、再生産に適した、程よい活版に収まる。
 
それは、人類が、人の手や動物の皮を介した魔の世界を失うと同時に、新しい世界へと、一つの扉を開けた瞬間だったと言えるのかもしれません。


ジョヴァンニ・ディ・アントニオ・ダ・ボローニャ(彩飾)
《典礼用詩篇集零葉》
イタリア、ボローニャ
国立西洋美術館 内藤コレクション





彫刻を除く二次元の中世美術は、西洋以外でも基本的には、遠近法のない俯瞰の絵画と、こうしたレイアウトの美の組み合わせだと思っています。
 
東アジア圏の、墨と紙による、緩やかな文字の並びや、うっすらと霧立ち上る風景画。

西アジアのイスラム圏の、気の遠くなるほど緻密なモザイク画。
 
それぞれの地域での風土や気質の特性が、文字や文様に宿って、現実とは違う、それぞれの魔を創り出します。




それは、人類が、現実を遠近法によって捉える前の、幼年期の記憶のようなものかもしれません。
 
小さい頃、家や周りの人々が、とても大きく感じられて、自分の中の想像と組み合わさって、夢想の世界が出来上がっていた。
 
成長するにしたがって、現実という、「自分だけの世界とは違う」世界があることに気づいて、そこに合わせて、私たちはものの見方を修正していく。
 
中世美術を鑑賞することは、そうした子供の世界にあった魔の宿る夢を、再体験することなのかもしれません。
 
それは、様々な形でものを創る現代の人にも、大きな刺激になることでしょう。機会がありましたら、是非その凄絶な美を鑑賞いただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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