文学と僕、そして檸檬

僕は梶井基次郎の檸檬という文学作品が好きだ。

きっかけは中学時代のある日。
元々読書が好きだった僕は、あの日も教室で本を読んでいた。
そこにいた1人のクラスメイトが話しかけてきた。

「檸檬って知ってる?」
「なんか檸檬っていいよね」

当時の僕は檸檬という作品を知らなかったし読んだこともなかった。

が、その話しかけてきたクラスメイトは、頭が良くて才色兼備、僕の憧れの存在だった。
だから僕は、

「いいよね」

そう嘘をついた。
この瞬間、僕と文学は切り離せない関係になった。

嘘をついた以上、僕は檸檬を読まなければならなくなった。

急いで図書館で本を借りた僕は、梶井基次郎の檸檬を貪り読んだ。が、当時の僕にはあまり良さが分からなかった。

檸檬という作品は簡潔に言うと、精神を病んでしまった青年が京都の丸善という書店に爆弾に見立てた檸檬を置いて出ていくというものである。

改めて書きだしてみてもよく分からないのがよく分かる。

当時の僕は何とか話題について行こうと何度も読んだ。意味もわからないままに。

その甲斐あってか、その彼女とはなんとなく仲良くなった。

おすすめの本を勧め合ったり、放課後に駄弁ったりした。

なんなら泣きながら話す彼女の別れ話の相談に乗っているところが見つかって、付き合っている疑惑まで出た。

でも、それ以上でもそれ以下でもなかった。


それから、僕らは同じ学校の高校生になった。

彼女は順調に高校生活を過ごしているように見えた。

一方、僕は体調を崩してその高校を辞めてしまった。

そこから僕らは疎遠になってしまった。


その後、当初の目標とは異なる形になったが、遠回りをしてなんとか僕は田舎のしがない大学生にはなることができた。

一方、風のたよりによるとどうやら彼女は日本で一番頭のいい大学に行ったらしい。

僕は僕なりに頑張ったつもりだが、どこか引き目を感じていた。


その頃、僕は頭の中の片隅にあった檸檬という文字列をふと思い出した。
そして、僕は本棚の奥で埃が被っていた檸檬を取り出して読んだ。

なぜかとても作中のこの青年に共感できた。詳しく言語化は出来ないが、なんだかあの頃分からなかったことが今なら分かる気がした。

そこから読書熱が再燃した僕は、大学で日本文学を専攻した。


20歳になった年、同窓会があった。

みんなで進学校を目指して頑張っていた船からひとりドロップアウトした僕は参加していいものか今までにないくらい悩んだ。断った。

が、結局行った。

そこには久しぶりに見る彼女がいた。

とても順調そうに見えた。

「元気そうで良かった。久しぶり。」

そう言った彼女はどこか手の届かない存在になったように思えて、僕は何も言葉が返せなかった。

あなたのおかげで、大学でも文学を専攻していて、自分の人生の方向が決まった、そう言いたかった。けど、言えなかった。


そして、今年僕は大学を卒業して、社会人になった。

全く文学と関係のない業界で社会の波に揉まれている。


仕事を終えて携帯をいじっていたある日、携帯が重い。

LINEを整理したら軽くなるかなと思い、LINEを開き整理作業を始めた。

作業を進めていると画面には、遠い昔に登録したままのその彼女のアカウントが。

そういえば、そういう人もいたなあと思いながら整理作業を続けようとしたら、檸檬の文字。

前見たときは違ったものだった気がするアイコンが、いつのまにか檸檬の表紙になっていた。




結論から言うと、この後僕は彼女と連絡を取らなかった。

今までの僕だったら、何か起こるかもしれないという期待を持っていたかもしれない。もしかしたら連絡を試みようとしたかもしれない。


だが今の僕にはそんなものはない。僕は色々なことを知りすぎた。

絵空事は文学の中にしかないのだから。

そう思った刹那に、純真無垢だった過去の自分とはすっかり変わってしまった自分を嘆いた。

僕はなにか文学の本質を見落としているに違いない。

今までいったい僕は何を学んできたというのか。



今日も僕は檸檬を読む、文学とは何かを見つめ直すために。

そしてあの頃の自分を取り戻すために。


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