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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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#禅

「現成公案」メモ⑪

以下の節では、「衆生と悟り」の関係について語られる。 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。 人が悟りを得るというのは、水に月が宿るようなものである。月はぬれず、水も乱れない。 水と月(衆生と悟り) 「水」は衆生を表わし、「月」は悟り(菩提)を表わす。 衆生が菩提心を発すことを発心(発菩提心)という。悟りの心は本来、衆生に備わっているから発心することができる。したがって、衆生と悟りが分かれていて、衆生が修行をすることで未来に悟りを得るのではな

「現成公案」メモ⑩

以下の節では、仏法における生と死について語られる。 この節については以前にも「前後際断」という言葉を中心に書いたが、あらためて書いてみたいと思う。 以下、本文 たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。 焚き木は燃え尽きて灰となる。元の焚き木に戻ることは決してない。そうであるが、灰は後、薪は先(前)と考えてはならない。 燃えて灰となったものが元に戻ることは決してないというのは、単純な物理法則(エントロピ

「現成公案」メモ⑨

人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。 人がはじめて法(ダルマ)を求めるとき、法は求める対象になっているため、法そのものからかえって離れてしまっている。法(ダルマ)とは自己の真理のことだから、自己を先に立てて法を求めれば、当然、法と分離してしまう。 『学道用心集』では「法我を転じ、我法を転ずるなり」(法が自己を転じ、自己が法を転ずるのだ)と言っている。 ここでは主客が逆転している。つまり、まず法のほうが主体となって自己を証し、そのあとに自己が法を証し

「現成公案」メモ⑦

修証において、自己が先手となるのを「迷」といい、万法が先手となるのを「悟」という。どちらも仏法における修証であり、一如である。 迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。 仏法から見た万法とは「仏のいのち」そのものである。 「迷」という自己(主体)における弁道が熟しきり、「仏のいのち」である万法に証され、自己が「仏のいのち」そのものとなってしまうことを「大悟」といい、それが「諸仏」である。そのとき自己は完全に消え失せて

「現成公案」メモ⑥

第一節では、「諸法の仏法なる時節」(如是・絶対肯定面)と「万法ともにわれにあらざる時節」(不是・絶対否定面)が表裏一体(一如)であり、その両面をも超出していく仏道修行において、本当の「生滅」(生/死)、本当の「迷悟」(迷い/さとり)、本当の「生仏」(衆生/諸仏)が現成しているということだった。 続く第二節以降は、その基本構造を背景にしながら、すべてが一如であるということはどういうことか、さまざまな角度から具体的に論じられていく。 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法

「現成公案」メモ⑤

しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。 仏道においては、絶対肯定の面(如是)と絶対否定の面(不是)とが一如であり、その両面(豊倹)をも超出していくという修行のかぎりにおいて、本当の「生滅」が現成し、本当の「迷悟」が現成し、本当の「生仏」が現成するということであった。 「しかもかくのごとくなりといへども」の「かくのごとく」とは「是の如く」と書くので「如是」ということである。 仏道とは絶対肯定と絶対否定が一如であり、その両面をも超出して

「現成公案」メモ④

仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。 「諸法の仏法なる時節」(如是・諸法実相)の絶対肯定の面と「万法ともにわれにあらざる時節」(不是・諸法空相)の絶対否定の面が一如である。 豊倹の「豊」とは絶対肯定の面であり、「倹」とは絶対否定の面のことである。両面が一如だということはどちらにも偏ったり滞ったりしてはならないということ。だから仏道というのはその両面をも超出(=跳出)しているのだという。 修行の躍動性 ここで「跳出」という言葉が使われている

「現成公案」メモ③

万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。 一文目は「諸法~」であり、ここでは「万法~」となっている。「諸法」は仏法から見た自己という肯定面を示していたが、ここでは自己の面は消えている(裏に回っている)。よって、すべてがひっくり返っている。 「われにあらざる時節」とは、無我(無自性)という意味もあるが、ここでの「われ」は「我」(実体)という意味だけでなく、主体(自己)の意味も込められている。つまり主体(自己)の面が消えると純粋な客

「現成公案」メモ②

以下、本文。 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。 「諸法」とはそのまま訳せば、もろもろの法(ダルマ)ということ。法(ダルマ)はいろいろな意味合いがあるが、ここでは存在を存在たらしめている「かた」のこと(「理法、軌範」※)。では、どういう存在の「かた」なのかといえば、当然、自己を自己たらしめている「かた」である。 「諸法」を”すべての存在”と捉えることもできるけれど、次の文(万法ともにわれにあらざる時節~)における「万法」

「現成公案」メモ①

『正法眼蔵』の「現成公案」巻について、あくまで個人的なメモです。 「現成公案」巻は『正法眼蔵』の巻頭に位置するもので、ある意味、『正法眼蔵』のエッセンスを凝縮したような面がある。同時に、俗弟子に向けて書かれたものであるためか、難しい仏教用語や語録からの引用が少なく、かな表記も多い。だから一見、読みやすいように思えるけれど、そのぶん意味を取り違えてしまう危険性も多いように思う。 巻名について 「現成公案」という巻名について。 「現成」という言葉は「現前成就」の略語で、ある

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第1292回「憐れみと慈悲」

七月の日曜説教の午後からは、一般の方々の布薩の会を催していました。 毎回大勢の方がご参加くださいます。 リピーターの方がほとんどなのですが、毎回初めての方もいらっしゃるので、そもそも布薩とは何かということからお話しています。 戒を受けて、その戒が守られているかどうかを反省するのが布薩であります。 それではそもそも戒とは何かということから話をしました。 漢字としての「戒」という文字には、 動詞として「いましめる。用心する。緊張して備える。気を張って用心させる。」 という意味や、「あやまちをしないよう、今後に気をつけさせる。さとす。」という意味もあり、また名詞として「いましめ。いつも、気をつけて避けるべき事柄」という意味もあります。 また仏教語として「仏道にはいった者が、生活を引き締めるおきて」という意味もあります。 私は梵語のシーラという言葉の意味を鑑みて「良き習慣」と言うようにしています。 戒は、良き習慣を身につけることなのです。 岩波書店の『仏教辞典』にも「仏教の修行者は、在家も出家もすべて戒に基づいて修行をする。 戒定慧の三学といって、戒の実行があってはじめて、禅定と悟りの智慧とが得られる。戒の自発的決心が修行の根本である。」 と解説されています。 坐禅の修行の土台となるものでもあります。 三聚浄戒は、大乗仏教の一番根本の教えであります。 三聚浄戒とは、第一摂律儀戒(しょうりつぎかい)、第二摂善法戒(しょうぜんぽうかい)第三摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)の三つです。 難しい言葉ですが、松原泰道先生は、三聚浄戒を分かりやすく 「小さいことでも少しでも悪い事は避け、よいことをし、人にはよくしてあげよう」と説かれていました。 三聚浄戒などは、まさしく禁止事項ではなく、良い習慣そのものです。 仏道というのは、このことに尽きるといっていいでしょう。 それから悪い事を避ける、実際の悪い行いとして、十善戒には十の事柄が示されているのです。 それから今回は、三帰依についても少し詳しく話をしました。 そうして礼拝の説明に入りました。 礼拝の前に、少し準備体操もしましたので、布薩の開始が少し遅くなってしまいました。 最後に質問の時に、青年が質問されました。 だいたい、こういう催しに二十代の方が出ているのは珍しいものです。 お見受けしたところ、二十代の学生さんかなと思いました。 布薩の説明で慈悲についても話をしましたので、憐れみと慈悲との違いについて聞かれました。 とてもよい質問でした。 「あわれむ」という言葉は、『広辞苑』には、 「①賞美する。愛する。 ②ふびんがる。同情する。 ③慈悲の心をかける。めぐむ。」 という意味があります。 憐れに思うとか、気の毒に思うという、少し慈悲とは異なるのであります。 もっともはじめに憐れに気の毒に思うところから慈悲の心が湧くことはあります。 憐れむというのは、どうしてもやはり自分とその人のことを比べて、かわいそうだからという気持ちがあると察します。 お釈迦様の慈悲もまた、憐れみからはじまっているところがあります。 お釈迦様が悟りを開いて、説法せずにおこうかと思っていたところ、梵天がお釈迦様にお説法してくださいとお願いしたのでした。 それに対してお釈迦様は 「梵天王の勧請を知りて、衆生に対する哀憐の心を生じ、覚者の眼をもって、世間を眺めたもうた。 そこには、塵垢多い者もあり、塵垢少ない者もあった。 利根の者もあり、鈍根の者もあった。善き相の者もあり、悪しき相の者もあった。教えやすき者もあり、教えがたき者もあった。 その中のある者は、来世と罪過の怖れを知っていることも見られた」 と思われたのでした。 かくして哀憐の心をもって人々をご覧になって法を説こうと決意されたのでした。 しかし、哀憐だけではじゅうぶんとはいえないのであります。 そこに空の教えがあるのです。 「慈悲と空とは、実質的には同じです。哲学面から見ると空ですが、実践面からいうと慈悲になります。 われとなんじが相対しているとき、そこに隔てがあるかぎり、われとなんじの対立はいつまでも残っています。 けれど、その根底にある空の境地に立って自分の身を相手の立場に置いて考えるようにすると、そこから、ほんとうの意味の愛が成立します。 それを仏教では「慈悲」とよんでいます。 「慈悲」ということを、仏典ではまれに「愛」ということばで表現している場合もありますが、愛の純粋化されたものが慈悲である、ということがいえます。 世俗の愛は、いろいろな要素がまといついています。 純粋の愛というものは、不純物がありません。 われわれが空の境地を体得すると、よい行いがおのずから現れでてきます。」 というのは、「現代語訳 大乗仏典1『般若経典』中村元」にある言葉です。 もう少し堀下げてみますと、相国寺の僧堂で長年坐禅された片岡仁志先生は、『禅と教育』の中で次のように説かれています。 「絶対無の自覚というものが、有のもとです。 絶対無になってみると、すべてのものがおのれと見えます。 すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えないということです。 これは、ただの同情だとか感情移入だとかいうような心理的な作用とはまた違います。 感情移入というような心理学的な説明の仕方もあるでしょうけれども、その事柄それ自体は、そういう説明よりもっともとになるものです。 感情移入をする前に、われわれのこの絶対無の体験からみれば、ものと我とは本質的に繋がっているのです。 その繋がりが、実際は愛というものの根本です。 われわれの前に現われるものをすべて我として見るということは、すべてを愛することです。 自分が自分を愛するがごとく、自分以外のものが自分と同じように見えるということです。 他人が自分に見えて、自分を見るのにまた他人と同じように見える。 絶対公平に自他を見るということ、それが智慧であると同時にまた愛なのです。 そういう智即愛というのでないと、本当の愛にはなりません。 そうでないと、どうしても、好き嫌い、感覚的な好悪の情というものが愛を支配するようになってしまう。 そういう感覚的な好悪や好き嫌いというものも働くでしょうが、それが根本になってはいけません。 感覚的な好き嫌いとか、主観的な好悪の情とかを超えて、ただ人を愛する、つまり人類一如の愛というふうなものがあります。」 と説かれているのです。 憐れみというとやはり感情移入であると思われます。 これもまた大事なことでありますが、それだけでは疲弊してしまったり、また相手にとって重荷になってしまうこともあるものです。 そこでやはり坐禅修行して空を体験して自他一如の世界からはたらくのであります。 質問してくださった青年とは布薩のあと、少しお話させてもらいました。 その日はお母様とご一緒に参加してくださったのでした。 都内の大学に通われているそうです。 こういう前途有望な青年が、お寺で布薩を体験してくださるとは有り難いことであります。 何か将来に希望を感じる一日となりました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1285回「鉄饅頭」

五祖法演禅師の語録に 「一箇の鉄酸饀を咬破す。直に得たり、百味具足することを」 という言葉があります。 「鐵酸饀」とは、『禅語辞典』には。 「酸饀は僧侶が食べる精進のマントウ。 それが鉄製だというのは、全く歯が立たぬ、取りつくしまもないものの喩え。」 と解説されています。 夢窓国師がこの鉄饅頭について説かれています。 講談社学術文庫『夢中問答』にある、川瀬一馬先生の訳文を参照します。 「圜悟禅師も言われた。 よい生まれつきの人は、必ずしも古人の言句・公案などを見る必要はないと。 これでよく判ることだが、公案を与えるというのも、決して宗師の本意ではないのだ。 たとい情をかけて、一くだりの公案を与えたとしても、それは仏の名号を唱えて、往生極楽を求め、陀羅尼を誦し経を読んで、功徳を求めるのと同じではない。 そのわけは、宗師が弟子たちに公案を与えることは、極楽浄土に往生するためでもなく、成仏得道を求めるためでもない。 それは世間の変わったことでもなく、仏法の道理でもない、すべて人間の情識(とらわれた考え)の届かないところである。 それ故に、公案と名づけたのだ。 これを鉄の饅頭に譬えている。 ただ情識という舌のとどかないところに向かって、咬んで咬んで咬みまくれば、きっと咬み破る時節があるであろう。 その時初めて、この鉄の饅頭は、世間の種々な味わいでもなく、世間出世の妙法の滋味や義理を読み取る味わいでもないということがわかるであろう。」 というものであります。 全く歯の立たない鉄の饅頭を咬んで咬んで咬み破るというのであります。 七月の前半は、修行道場で摂心という修行の期間でありました。 修行僧達は、文字通り、この鉄の饅頭を与えられます。 この春修行道場に入門した者も一様にこの鉄の饅頭に取り組みます。 大慧禅師は、富枢密に与えた手紙に、 「ただ妄想顚倒の心、思量分別の心、生を好み死を悪む心、知見解会の心、静をねがい動をいとう心を、一度におさえつけ、そのおさえつけるところについて、話頭を参究なさい。 (たとえば) ある僧が趙州に、「狗子にも仏性があるのでしょうか」とたずねる。趙州は、「無い」とこたえる。 この「無」の一字こそ、いろんなねじけた知覚をくじく武器です。 (この「無」を悟るのに)有無の意識をおこしてはいけません。 理窟の意識をおこしてはいけません。 意根によって思量し臆度してはいけません。 眉をあげ目をまばたくところにじっとしていてはいけません。 言句の上でその場しのぎをしてはいけません。 無事そのものの中にとどまってはいけません。 挙示されたことについて早合点をしてはいけません。 文字にとらわれて証拠がためをしてはいけません。 ただ朝から晩まで行住坐臥の中で、いつも工夫し、いつも気を引き立てなさい。 「狗子にも仏性があるのでしょうか。」「無い」(と言った工合に。) 日常(の暮し)から離れないで、ためしにこんな風に工夫をしてみなさい。 ひと月はおろか十日のうちにはじきに分るでしょう。 一郡千里四方にわたる公務も、何らさまたげになりません。 古人は、「わしの胸中ははつらつとした祖師の意だから、拘束するものは何もない」と言いました。 (こうしたわけで)もし日常を離れて別にめあてがあるなら、波を離れて水を求め、器を離れて金を求めるようなもの。 求めれば求めるほど遠ざかることとなります。」 と説かれています。 現代語訳は、筑摩書房『禅の語録17 大慧書』にある荒木見悟先生の訳文であります。 このような無字の公案を今も変わらず行っています。 暑い中ですが、暑いという思いも忘れて、ただ無の一字になりきって坐るのであります。 これを鉄饅頭に喩えたのです。 大慧禅師が「この「無」の一字こそ、いろんなねじけた知覚をくじく武器」だと仰せになっていますように、今まで学校で習って蓄えてきた知識などを砕いてしまうのであります。 これがなかなか容易ではありません。 私たちの心には比べるという癖がついてしまっています。 暑いときと涼しい時を比べるから暑いのが苦痛になるものです。 そこでやはり強い心が必要となるのです。 鈴木正三が『万民徳用』の中で、 「凡夫というのは、幻や化生の偽りを本当だと思い込み、姿形に執着して私心を作り出す。 そして貪欲・瞋恚・愚痴の念から始めて、あらゆる煩悩を起こしながら本心を失う。 散乱の心の止む時が無く、念が次々と起こるに従ってその念に負け、心を壊して身を苦しめる。 又、浮心が無く、闇に沈んだまま虚しく月日を過ごし、自分に迷って漂い、物に出会って執着するのを凡夫心と名付ける。 だから、本来の心の異名を知るべきである。 金剛のように堅固な正体といい、堅固な法身という。 この心は、物事に関わらず、恐れず、驚かず、憂えず、退かず、動かず、変化せずに、一切の物事の主人と成る。 このように心を通じ徹して用いることが出来る人を、大丈夫の漢(大いなる優れて丈夫である漢)、鉄心肝(心や肝が鉄のように強い人)といい、達道の人ともいう。 この人は諸々の念に碍げられる事はなく、万事を使うことができ、大いに自在である。 そうであるから、仏道修行の人は、まず、勇猛の心が無くては修行が成就できない。 怯み弱い心では仏道に入ることもできない。 固く守り強く修行しなければ、かの煩悩に従わされて苦しみ患いを受けることになる。 つまり、堅固な心をもって万事に勝つのを道人と言い、姿形に執着する念によって、万事に負けて苦悩する人を凡夫と言う。」 と説かれているのであります。 現代語訳は中公クラシックス『鈴木正三 鈴木正三著作集Ⅰ』にある加藤みち子先生のものです。 私もどうにか若い者につられて汗を流しながら坐禅をしているのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1284回「らっぱ仏法」

「らっぱ仏法」という言葉が鈴木正三の書物の中に出てきます。 『驢鞍橋』の巻上九十七に 「一日示曰、我平生果し眼に成、八幡と云てねぢまわし、じりじりと懸る機に成て居る。 我法はげにと出家には移り難かるべし。 只武士に移るべき也。其故は、 我少しも殊勝気なし。 只常住ねぢまわして居る機一つを用ひ得る計り也、我法はらつは仏法と也。」 というもので、『日本の禅語録十四 正三』にある古田紹欽先生の現代語訳では、 「ある日、こう言われた。 「私は平生、果たし眼になり、南無八幡と唱えて心のねじをかけ、じりじりと敵におそいかかる時の心がまえになっておる。 それで私の仏法は、ほんとうに出家の方には移りにくいであろう。 ただ武士に移るであろう。 そのわけは、私にはすこしも神妙らしさがない。 ただいつもねじをまわしておる心がまえ一つを用い得るだけである。 私の仏法はらっぱ仏法だわい。」」 となっています。 「らっぱ」とは何か、『広辞苑』には、 「①「すっぱ(透波)」①に同じ。 ②あらくれ者。無頼漢。」 とあります。 「すっぱ」と同じだというので、「すっぱ」を調べてみると、 「すっぱ 「戦国大名が野武士・強盗などの中から召し出して、間諜または軍隊の先導などを勤めさせたもの。乱波(らっぱ)。間者。忍びの者。」 と解説されています。 一説には、密かに活動するものを「透波(すっぱ)」、騒がしく動静が整わないものを「乱波(らっぱ)」とも言われます。 また関東では「乱波」、甲斐以西では「透波」という地理的な使い分けがあるという説もあるようです。 「らっぱ仏法」について、『日本の禅語録十四 正三』の註釈には、 「あらくれ仏法。 「関東らっぱ」というように関東の荒武者を呼んだから。 『驢鞍橋』上・百十四に「了庵和尚も、法は関東らつはに移るべしと云給と聞く、是好見様也」とある。」 と解説があります。 そこで『驢鞍橋』巻上の百十四を参照してみましょう。 こちらは、中公クラシックス『鈴木正三 鈴木正三著作集Ⅱ』にある加藤みち子さんの訳を引用します。 「百十四 壬辰(みずのえたつ)(承応元・一六五二)十月六日、夜話に言われた。「フクワン者(おおざっぱな者)は、ブンマケテ(おおざっぱなので)この世に苦しむことが少ない。 これは仏法を受ける器である。 了庵和尚(慧明、一三三七~一四一一)も、仏法は関東のラッハ(俠気のある剛健なもの)に移るだろうと言いなさったと聞く。 これは良い見方である。 しかしながら、フクワン(おおざっぱ)ばかりで確りとした機(気)一つが無ければ、修行は成就しにくい。 その理由は、この世が粗相なほど、修行も粗相であり、うかうかと過ごしてしまい、落ち付いて修行することが無いからである。」 時に或る者が言う。 「誠に某長老のように粗相な人は修行が成就し難い。」師が言われた。 「中々、ぶちまけて可笑しい人である。取り留めることの成就する性質ではない。 あれは何もかも打ち捨て打ち捨てなされ、と捨修行を教えるのがよい。」」 というものです。 これは『驢鞍橋』の冒頭に、 「 師匠がある日こう言われた。 「近年、仏法に勇猛堅固の大威勢があるということを言わなくなった。 ただ、柔和になり、殊勝になり、無欲になり、人はよくなったが、怨霊となるほどの気質をつくり出す人がいない。 皆、勇猛心を修行によって奮いおこし、仏法の怨霊とならねばならぬ」と」とように、ただお人好しのようになっていることを嫌っているのであります。 仏道修行には、こういう勇猛果敢な精神も必要なのです。 鈴木正三がまだ出家する前に書かれた『盲安杖』という書物があります。 そこには、次の十の項目について仏道が説かれています。 「一、生まれかわり死にかわりして絶えることのない迷いの世界を、よく知って、その中に涅槃という悟りの楽しみの世界があるということ。 二、自分をよく反省して、自己をよく知るべきこと。 三、ものごとにおいて、つねに他人の心になりかわってみること。 四、誠があって、忠義と孝行に励むべきこと。 五、自分の身の程をよく見分けて、それぞれの性分を知るべきこと。 六、執着する所を離れて、かえって得るところがあること。 七、自己を忘れ無我になって、しかも自己をよく守るべきこと。 八、立ちあがって、必ずその独りを慎むべきこと。 九、妄念をほろぼして、本分の心を育つべきこと。 一〇、利己的な小さな利益を捨てて、衆生を救うような大衆のための大きな利益を得るようにつとむべきこと。 一が「生死を知りて楽しみ有ること」なのですが、そこには、 「すべてはかないことである、どんな親しい者も、うとい者も、先に死んで死というものがあることを教え示しているが、これを余所ごとだと思って空しく過ごしてしまう。 どんな人でも一人としてこの世に残りとどまるかどうか、どんなことでも、しばらくとどまっているものがあるかどうか、みな夢幻のはかない世の中であることが、眼に見え、耳にいっぱい聞こえるではないか。 まさに知るべし、元来無常の世であることを。 もし明らかに無常の世であることを知ったならば、如何なるさわりがあるであろうか。 夢の中で見たものに執着して、それを自分のものであるかのように楽しんでいるこの身は一体何ものなるぞ。 地・水・火・風の四つの元素が、仮に和合して肉体をつくっているだけで、決して自分のものではない。 四大というこの四つの元素に執着する時は、この四大が私をまどわしてしまう。 かさねがさね四大にまどわさるることなく、究明してみよ。 一箇の我というものがあるが、これもまた我ではない。 それは四大を離れていながら四大に属し、四大に連なりながら四大を自由に用いるのである。 古人も言っているではないか、「物あり、それは天地に先立ってある。しかし、それは形がなく、本来しずまりかえって静かである。 しかしまた、それがすべてのものの主人公となってはたらき、春夏秋冬をめぐって凋むことがない」と。」 と説かれています。 これなどは仏教の無常、無我の道理をよく説かれています。 しかし、常であると願い、我に執着する心がとても強いので、やはり勇猛果敢な心で修行しないと負けてしまうのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

浄土経【仏教の基礎知識05】

竹下雅敏説 3万2000人もの大勢の修行僧たちと共に、ラージャグリハの鷲の峰に滞在していたと書いてある。この記述は地球レベルの場所を指しているわけではない。すでにゴータマ・ブッダが亡くなってから200~300年が経っている。したがって、師がここに滞在していたというのは明らかに霊界のことを指している。霊界のある場所に3万2000人もの修行僧たちと一緒に滞在していたということだ。 仏説とは霊界でゴータマ・ブッダが直接弟子に語った内容を指す。それを霊界通信を通じて降ろしてきたもの。