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「現成公案」メモ④

 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
 しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。」

「諸法の仏法なる時節」(如是・諸法実相)の絶対肯定の面と「万法ともにわれにあらざる時節」(不是・諸法空相)の絶対否定の面が一如である。

豊倹の「豊」とは絶対肯定の面であり、「倹」とは絶対否定の面のことである。両面が一如だということはどちらにも偏ったり滞ったりしてはならないということ。だから仏道というのはその両面をも超出(=跳出)しているのだという。

修行の躍動性

ここで「跳出」という言葉が使われているのは、仏道修行の躍動性を表現してのことだろうと思う。いわば「こんな理屈云々だけで分かった気になるなよ」との釘差しが裏にあるのかもしれない。

その両面(肯定面/否定面)をも超出(=跳出)している仏道修行という運動のなかに、本当の「生滅」があり、本当の「迷悟」があり、本当の「生仏」(衆生・諸仏)がある。

ここでは「迷悟」だけでなく、すべてが一つの熟語として書かれている。これは一如であるということである。

衆生本来仏なり

とくに「衆生と諸仏」を「生仏」と書いているのが面白い。

諸仏は発心・修行する衆生と感応道交するところに本当の諸仏となる。逆に言うと、発心・修行する衆生がいなければ諸仏も諸仏にならない。

発心・修行する衆生がいるから諸仏も「生仏」=本当に生きた仏になるという意味合いが込められている。

それは当然、諸仏の教えがあるから修行によって衆生も本当の衆生になれるのだと言える。衆生本来仏なり。これも一如である。


【追記】2024/7/15
「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり」のなかの「生滅」について。これはただの刹那生滅のことではない。
ここでは「死」が「滅」と言い換えられている。

「海印三昧」巻では「滅は法の滅なり」と言っている。「滅」は寂滅(涅槃)や不滅の意味も持つ。

またこうも言っている。「滅の四大五蘊を手眼とする、拈あり収あり。滅の四大五蘊を行程とせる、進歩あり相見あり。」

つまり、「滅」というありかたにおいても五蘊(自己)はあり、そこでも修行は続いている。

ここでの「生滅」については、「現成公案」巻で、のちほど「薪」と「灰」の比喩において語られる。

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