五蘊

坐禅や仏教を通じて気づいたことを書いています。

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最近の記事

「山水経」メモ⑦

「たとひ草木土石牆壁の見成せる眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。」 たとえ、草木、土石、牆壁など、日常に目にするさまざまな事象をあるがままのすがたとしてはっきり見通す眼目があったとしても、疑うほどのことではないし、動揺するほどのことでもない、仏道の全現成ではないからだ。 「たとひ七宝荘厳なりと見取せらるゝ時節現成すとも、実帰にあらず。たとひ諸仏行道の境界と見現成あるも、あながちの愛処にあらず。たとひ諸仏不思議の功徳と見現成の頂寧をうとも、如実こ

    • 「山水経」メモ⑥

      「青山も運歩を参究し、東山も水上行を参学するがゆゑに、この参学は山の参学なり。山の身心をあらためず、やまの面目ながら廻途参学しきたれり。」 「青山」も自身の歩みを参究し、「東山」も水の上を流れ行くことを参学するがゆえに、この参学は「山」(=自己)の参学なのである。「山」の身心をあらためず、その「山」の面目のままで、(久遠の時のなかを)廻るようにして参学してきたのである。 「青山」と「東山」 ここでは「青山」と「東山」が対になっている。「青山」は法身であり、〈いのち〉その

      • 「山水経」メモ⑤

        「未朕兆の正当時、および空王那畔より、進歩退歩に運歩しばらくもやまざること、撿点すべし。」 時間の発生する以前の〈いのち〉そのものである時、および過去空劫に出現した空王仏の時代(=久遠の過去)より、「進歩」「退歩」というありかたで「青山」(法身)の歩みは一時もやんだことがない、という事実を点検するべきである。 「運歩もし休することあらば、仏祖不出現なり。運歩もし窮極あらば、仏法不到今日ならん。」 「青山」(法身)の歩みがもし休まることがあるならば、仏祖が現れることもない

        • 「山水経」メモ④

          「青山すでに有情にあらず、非情にあらず。 自己すでに有情にあらず、非情にあらず。」 「青山」はまったく有情ではないし、非情ではない。自己もまったく有情ではないし、非情ではない。 「有情」とは人間や動物などの感情を持った生き物のこと、「非情」は山川草木などの感情を持っていない生き物のことをいうが、法身である「青山」はそのような人間の考えた分類には当てはまらない。ということは同時に、自己も本来そうした分類で定義することなどできない存在なのだ。 「いま青山の運歩を疑著せんこと

        「山水経」メモ⑦

          「山水経」メモ③

          引き続き、芙蓉道楷禅師の「青山常運歩」について。 「常運歩」とは青山(法身)の永遠の歩みのことであり、それは始まりも終わりもない〈いのち〉のはたらきである。 「いま仏祖の説道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。『常運歩』の示衆を究辨すべし。」 今の仏祖(芙蓉道楷禅師)の道を説くことばが、まさしく自己の歩みを指し示している。これは自己の根本を得るためのことばである。「常運歩」の示衆(説法)を明らかに参究しなさい。 「運歩のゆゑに常なり。」 歩みがやまないゆえに「常」

          「山水経」メモ③

          「山水経」メモ②

          「山」とは朕兆未萌(=父母未生已然)の自己のことであった。 続いて、芙蓉道楷禅師のことばが引用される。 「大陽山楷和尚示衆云、『青山常運歩、石女夜生児』。」 「大陽山楷和尚」というのは芙蓉道楷(1043~1118年)のことで、中国曹洞禅の流れをくむ人。 「青山常運歩」は直訳すれば「青山はつねに歩いている」となる。が、これではなんのこっちゃ分からない(「石女夜生児」については後のほうで言及されるのでここでは触れない)。 「青山」と「白雲」 禅語に「青山元不動 白雲自去

          「山水経」メモ②

          「山水経」メモ①

          『正法眼蔵』に「山水経」という巻があります。なかなか難解な巻ではありますが、ユニークな内容なので、個人的に繰り返し読むことが多いです。なので、今まで読んでくるなかで気づいたことを自分なりのメモとして書いていきたいと思います(あくまで個人的な解釈です)。 巻名について 「山水」に「経」(スートラ)という文字がつけられている。 「経」(スートラ)とは経典のことではあるけれども、禅では自己のことをいう。道元禅師は「仏経」巻のなかで以下のように言っている。 「いわゆる経巻は、尽

          「山水経」メモ①

          「持つ」について

          エーリッヒ・フロムは人の生きる様式には二通りあると言っています(『生きるということ』原題”To Have Or To Be?”)。 一つは「持つ」(to have)という様式、もう一つは「ある」(to be)という様式です。 仏教的にいうならば、「持つ」(to have)という様式は自我のマインド、つまり「有心」であり、「ある」(to be)という様式は「無心」です。 「ある」(to be)ということについては以前に書きました。 「持つ」様式(to have)と自我の

          「持つ」について

          「現成公案」メモ⑯

          以下は「現成公案」巻の最後の節になる。ここでは麻谷山宝徹禅師(馬祖道一の法嗣)と弟子の僧との問答が取り上げられ、前節における「得一法、通一法」「遇一行、修一行」の意味が具体的に示される。 「麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、 『風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ』。」 麻谷山宝徹禅師が扇を使って風を送っていたときに、弟子の僧が来て問うた、「風性(空気)はつねに存在し、行き渡らないところなどありません。なのに、どうしてそのうえ

          「現成公案」メモ⑯

          「現成公案」メモ⑮

          「しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。」 そうであるように、人がもし仏道を修証する場合は、一法を得ては、一法に通ずるのであり、一行に遭うては、一行を修するのである。 「一法」と「一行」 ここでは「法」と「行」という言葉が対になって使われている。 「法」(ダルマ)は存在、真理、教えなどの意味がある。「行」(サンスカーラ)もいろいろな意味があるが、ここでは行い(身・口・意)のことと言っていいと思う。この二つは一如である。つまり、

          「現成公案」メモ⑮

          「現成公案」メモ⑭

          「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。」 そうであるのに、水を究め、空を究めてから、水や空を行こうとする鳥や魚があるとすれば、水にも空にも「道」を得ることができないし、「処」を得ることができない。 「道」と「処」 ここで「道」と「処」というキーワードが出てくる。もちろん、ここで鳥と魚を比喩に伝えようとしているのは、仏道のことである。 メモ①にも書いたが、これは『法華経』(如来

          「現成公案」メモ⑭

          「現成公案」メモ⑬

          「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。」 魚が水を泳いでゆくが、泳いでゆけども水の際はなく、鳥が空を飛ぶが、飛ぶといえども空の際はない。 無辺際の世界 この節では自己を「魚」と「鳥」、万法を「水」と「空」として説明される。「魚」や「鳥」にとっての「水」や「空」は自己の生きる世界そのものであり、人間が考えるような空間的(=辺際)なものではない。国や社会などの概念で、どこまでがこちらの世界、どこからがあちらの世界というように分

          「現成公案」メモ⑬

          「現成公案」メモ⑫

          「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。」 身心に満ち足りるまでいまだ法を参究しきっていないときには、法がすでに足りていると思ってしまう。法がもし身心に充足すれば、まだまだ十分ではないと思うものである。 「たとへば、船にのりて山なき海中にいでゝ四方をみるに、たゞまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。」

          「現成公案」メモ⑫

          「現成公案」メモ⑪

          以下の節では、「衆生と悟り」の関係について語られる。 「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。」 人が悟りを得るというのは、水に月が宿るようなものである。月はぬれず、水も乱れない。 水と月(衆生と悟り) 「水」は衆生を表わし、「月」は悟り(菩提)を表わす。 衆生が菩提心を発すことを発心(発菩提心)という。悟りの心は本来、衆生に備わっているから発心することができる。したがって、衆生と悟りが分かれていて、衆生が修行をすることで未来に悟りを得るので

          「現成公案」メモ⑪

          「現成公案」メモ⑩

          以下の節では、仏法における生と死について語られる。 この節については以前にも「前後際断」という言葉を中心に書いたが、あらためて書いてみたいと思う。 以下、本文 「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。」 焚き木は燃え尽きて灰となる。元の焚き木に戻ることは決してない。そうであるが、灰は後、薪は先(前)と考えてはならない。 燃えて灰となったものが元に戻ることは決してないというのは、単純な物理法則(エント

          「現成公案」メモ⑩

          「現成公案」メモ⑨

          「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。」 人がはじめて法(ダルマ)を求めるとき、法は求める対象になっているため、法そのものからかえって離れてしまっている。法(ダルマ)とは自己の真理のことだから、自己を先に立てて法を求めれば、当然、法と分離してしまう。 『学道用心集』では「法我を転じ、我法を転ずるなり」(法が自己を転じ、自己が法を転ずるのだ)と言っている。 ここでは主客が逆転している。つまり、まず法のほうが主体となって自己を証し、そのあとに自己が法を

          「現成公案」メモ⑨