五蘊

坐禅や仏教を通じて気づいたことを書いています。

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最近の記事

「前後際断」について

 禅ではよく「今、ここ」が大事だと言われます。人間の思考はすぐ過去や未来をさまよってしまいますから、そういった妄念をスッパリ断じて「今、ここ」に集中せよ、あるのは今だけだ、前後際断だ……そんなふうに「前後際断」という言葉が使われたりするのを耳にします。  「前後際断」という言葉は『正法眼蔵』「現成公案」巻の中に出てきますが、はたして本当にそのような意味で使われているのでしょうか。 現成公案とは  「現成公案」巻の冒頭は「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり

    • 「不染汚」について

       「染汚」(「ぜんま」「ぜんわ」)とは聞きなれない言葉ですが、禅の語録などにはよく出てきます。いわゆる煩悩のことをいいます。これについて考えてみたいと思います。 貪瞋痴の三毒  煩悩は煎じ詰めれば三つにまとめられます。すなわち貪瞋痴です。 「貪」(むさぼり)と「瞋」(いかり)は、執着心や感情的な怒りのことだけではなく、広い意味で「好きと嫌い」「善と悪」「是と非」などの二元的な判断・反応を意味します。「痴」(愚痴)とはそういった二元的な判断・反応が引き起こす苦しみに対しての

      • 「虚空」について

        「虚空」とは 「虚空」はサンスクリッド語でアーカーシャといいます。それはただの虚無や実体のない空虚なものという意味ではありません。  ヴェーダーンタ哲学によれば、形ある一切のものはこのアーカーシャ(虚空)から生まれたといいます(現代の量子論的に言うならば量子真空のことです)。宇宙の創造の初めにはこのアーカーシャ(虚空)だけがあり、そこにプラーナの力(=生命力)が働くことで、形ある宇宙が創造されました。  ちなみに、ルドルフ・シュタイナーやエドガー・ケイシーなどの霊視能力者は

        • 「観音力」について

          念彼観音力 「観音力」とは文字どおり”観音さまの力”ということですが、それはいったい何なのでしょうか。自分なりに考えてみたいと思います。 『観音経』の内容  「観音力」という言葉は『観音経』の偈に出てくるもの(「念彼観音力」というフレーズで有名)です。  『観音経』自体は、『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」を独立したお経として扱ったものなので、本来『法華経』の一部です。ですが内容はある意味、かなり独特なものです。  その『観音経』に書かれている内容ですが、要約すると

        「前後際断」について

          「花」について

           仏教では仏の悟りを花で表現したりします。  中でもやはり水面に咲く蓮の花が有名です。泥の水は煩悩うずまく衆生世界を意味しますが、そこに根を張りながらも水面に真白な花を咲かせる白蓮が象徴的です。水面に咲いた花は泥ひとつ付かない、まったく清浄そのものですが、同時に泥の世界とも離れていません。煩悩即菩提をよく表していると思います。 「春は花」   道元禅師に有名な歌があります。  「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」  これは自然の風物を歌ったもので

          「花」について

          「アダム」について

           なんとなく聖書の「アダム」について書いてみたくなったので書いてみます。(ですが、正しい神学的知識などロクにない人間が書くものなので、どうかそこのところは大目に見ていただけましたら幸いです) アダムの「罪」とは  聖書によると、神「ヤハウェ」が土からみずからに似せて形づくり、みずからの息(プネウマ)を吹き込んで生まれたのが最初の人、アダムです。そして神は「人が独りでいるのはよくない」と、アダムの肋骨からイヴをつくりました。  自分自身から生まれたイヴはアダムにとって汝であ

          「アダム」について

          「思量」について

          「箇の不思量底を思量する」とは  道元禅師が坐禅の要術(法術)だと言っている言葉があります。    「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」    これについては以前、『正法眼蔵』の「観音」巻を中心にちょっと考察したことがありますが(「『自受用三昧』について」参照)、今回は以前とは違う切り口から自分なり(=独断的)に考えてみたいと思います。ですので、おそらく”正統的な”解釈からはだいぶ外れていると思われます。 「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」  この言葉は

          「思量」について

          「浄土」について②

          「浄土」の場所  そもそも浄土は"どこ"にあるのでしょうか。  「浄土三部経」の一つである『阿弥陀経』にこう書かれています。 「これより西方の十万億の仏国土を過ぎて、ひとつの世界があります。その名を極楽といいます。その国に阿弥陀という名の仏があり、今も法を説いています」(『全文現代語訳 浄土三部経』大角修訳・解説) 反物質世界  ①の記事で書いたように、「西方」は「東方」の逆対応的な場所のことですから、浄土とは物質世界に対する反物質世界といえます。それは「十万億の仏国土

          「浄土」について②

          「浄土」について①

          そもそも「浄土」って?「浄土」と聞くと、何となく死後の世界のようなものを思い浮かべますが、実際よく分からない言葉です。 以下、その意味について自分なりに考えてみたいと思います。 「浄土」と「穢土」 (正反対の世界)  浄土とは文字どおり汚れの一切ない清浄なる世界、という意味です。対するこの娑婆世界(現象界)は、"穢土"と言われるように不浄の世界です。  「無常・苦・無我・不浄」というのが娑婆世界(現象界)の性質であるのに対して、浄土は娑婆世界とはまったく逆の「常・楽・我・

          「浄土」について①

          「夢」について

           法華経の冒頭(序品第一)で、無数の仏弟子や菩薩、衆生に囲まれながら、ブッダは無量義処三昧に入り、東方に光を放ちます。  「無量義処三昧」とは、すべてのブッダの教え(=無量義)の大元になっている光の世界にブッダ自身が帰っているということです。仏(如来)というのは本来、光そのものだからです(毘盧遮那仏や阿弥陀仏は「光明」という意味を持ちます)。  その光に照らされた「東方」とは娑婆世界、つまりはこの世界(現象界)のことです。仏の放った光の中に、六趣の衆生をはじめ、衆生を救おうと

          「夢」について

          「家」について

           今年亡くなった音楽家バート・バカラックとハル・デイヴィッドによる作品に「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム( A House is Not a Home)」という曲(ルーサー・ヴァンドロスやディオンヌ・ワーウィックが歌ったことでも有名です)があります。  内容は「愛する人のいない家は”House”ではあっても、”Home”ではない」といった、感傷を誘うものではありますが、「”House”は”Home”ではない」という一見さりげない言葉には、世俗的な意味を超えた何とも深いも

          「家」について

          「アラヤ識」と「五蘊」について

           ベルクソンは、脳の中に記憶があるのではないと言っている。脳は物質であり、イマージュである。対して記憶は純粋な即自存在であり、物質ではない。したがって物質である脳の中に物質ではない記憶が保存されているというのはナンセンスである。記憶自体は物質的変化と関係なく、永遠に無傷のまま宇宙の”どこか”に保存されている。脳はただ記憶を現在の知覚へと送り出している仲介機能を果たしているにすぎない。だから脳が破壊されても記憶自体がなくなることはないという。ではいったい記憶はどこに保存されてい

          「アラヤ識」と「五蘊」について

          「時」について③(経歴する「有時」)

           「時」が存在であり、自己が「時」である。  しかし、このことを頭で理解しただけでは、現代の実存哲学とあまり変わりがない。道元禅師の言う「有時」の世界は、そのような哲学的思弁によって静的にとらえられるものではなく、自らの身心による修行を通して動的に体得されていくものである。つまり「時」である自己の修行によって具体的に現成していく世界が「有時」である。したがって、それは水平性(二元的な時間・空間)の世界の話ではなく、垂直的な運動(=「時」)の世界である。  道元禅師の言う仏

          「時」について③(経歴する「有時」)

          「時」について②(「有時」という世界)

           前回、スクリーン上の世界(現象界)を照らしている光が、本当の時間すなわち「時」であり、この世界(現象界)とは実在(光明)の影であるということを書いた。  しかし、このように言葉にすると、どうしても照らすもの(=実在)と照らされるもの(=世界)とが分かれて存在しているかのような錯覚が起きる。そうではなく両者は一如である。言葉は性質上、二元的な構造を持っているので仕方がないものの、気をつけなければならない。  道元禅師はそうした言葉のもつ二元性を避けるためか、「有時」という言

          「時」について②(「有時」という世界)

          「時」について①(光としての自己)

           昔から時間のことを「時光」や「光陰」と呼ぶ。時間の過ぎ去る速さを光の速さに例えたものだろうが、「時光のなはだしく速やかなる」とか「光陰虚しく渡ることなかれ」と言われたりもする。  しかし、「時」が光であるとは、かなり深い意味があるのではないだろうか。  周知のとおり、われわれ凡夫の世界は「生老病死」という直線的な時間が支配する世界である。それに対し、仏道の世界は「発心・修行・菩提・涅槃」という垂直的な運動であるというようなことを以前、書いた。人は、生老病死する自我としての

          「時」について①(光としての自己)

          「身心一如」について

           常識的には、人間は心と体という二つの構造を併せ持っていることになっている。心とは思考や理性、感情などの精神的構造のことであり、体とは骨や筋肉、内臓などの物質的構造のことを言うが、二つの構造は全く別のものであり、それらが結びついて人間という構造が成立している。こうした考え方を心身二元論という。  それに対して仏教では、心と体を別のものとは考えない。禅などで言われるのは、心と体とは分かれて存在しているのではなく密接につながって存在している、いわゆる「身心一如」である、と。つまり

          「身心一如」について