「身心学道」メモ①
『正法眼蔵』の「身心学道」巻のメモを書いていきたいと思います。
禅では「身心一如」や「身心脱落」などといわれますが、ここでいわれる「身」と「心」とは、普通、一般的に思われている肉体と精神のことではありません(もちろん、それも含みますが)。では、仏道でいわれる「身」と「心」とは何なのか、その「身」と「心」による学道とはどういうものなのか。そのことが、この巻では詳しく語られています。
以下、本文。
《仏道は(誰もが本来そのなかで生きているのであるから)その道から外れようとしても外れようのないものだが、(だからといって)学ぼうとしないならば、いよいよ道から遠ざかってしまうのである。南嶽懐譲禅師の言われるように、「修証(=修行と実証)はないのではない。が、分別心(二元相対的な考え)によって汚染するならば道を得ることはできない」。仏道を学ばないならば、すなわち外道(=仏道以外の教えを学ぶ者)や一闡提(=成仏する機縁をもたない者)などに堕ちてしまう。このゆえに釈迦牟尼仏も未来の仏である弥勒菩薩も必ず仏道を修行するのである。》
学道とは
仏道は本来、誰もが生きている道である。仏によって実証された法(ダルマ)とは本来の自己のあるがままのすがたであるから、そこから外れるものはない。ならば、そのままでいいかというと、そうではない。学ぼうとしなければ、ますます本来の道から遠ざかってしまうものだという。そのくらい無明(=根本的無知)の力はすさまじいということだろうと思う。
『弁道話』にいわく、
「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。」
本来、仏法は誰にも備わっており、誰もが仏道を歩んでいるが、そのことを自覚し、修行により実証しなければ、現れず、得ることもない。
修証これ一等なり
本文中に南嶽懐譲禅師のことばが引用されているが、ここでいう「汚染」(「染汚」とも書く)とは分別心のことである。仏道を分別心(二元相対的な考え)によって理解し、実行しようとすると、修(=修行)と証(=悟り)とが分断され、自己とは分離された「真理」や「悟り」なるものを対象的に追いかけるような修行に陥る。そのような分別心による汚染を受けたものはすでに仏道ではない。
「それ、修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり」(『弁道話』)
修と証がひとつではないと思い、修と証を分けてしまうのが、外道の見である。対して仏法においては修と証は一等である。今も証上(仏によって実証された道)の修行をしているのであるから、初心の弁道がそのまま本証(=仏の悟り)の全体なのである。
つまり学道とは本来の自己である仏の道の上で本来の自己に目覚めていくことであるといえる。だから、仏となった釈迦牟尼仏も、未来に仏になると約束されている弥勒菩薩も、ともにその道を修行するのである。
そのことが分かっていないと、分別心である自我が真理を悟ろうとするような修行になり、道から外れてしまう。それではどこまでいっても、本来の自己から遠ざかるばかりである。