【公式】臨済宗大本山 円覚寺

鎌倉にある臨済宗大本山円覚寺です。 YouTubeにてお届けしてます「毎日の管長日記と…

【公式】臨済宗大本山 円覚寺

鎌倉にある臨済宗大本山円覚寺です。 YouTubeにてお届けしてます「毎日の管長日記と呼吸瞑想」を中心に毎月の「日曜説教」、短い法話の「一口法話」などお伝えさせていただきます。 【公式ホームページ】https://www.engakuji.or.jp/

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第1275回「浅草の観音さま」

六月二十八日、午前中に大用国師の毎歳忌の法要を終えてそのまま上京しました。 浅草寺仏教文化講座の講演に招かれたのでした。 古くから行われている講座で、今回でなんと八一八回目であります。 毎月2人の講師を招いて講座を開かれているのでした。 会場は浅草寺ではなく、明治安田生命ホール丸の内というところでした。 控え室につくと、浅草寺教化部の清水谷尚順先生にご挨拶させていただきました。 長く続く文化講座で、常連の方が多いということでした。 とても素晴らしい会場だったので、話す方も話しやすかったものです。 マイクや音響のいいところは、とても楽であります。 観音様を信仰している私にとっては、浅草寺さまからお招きいただけるというのは感激であります。 数年前に京都の清水寺からもお招きいただいてお話させてもらったことがありました。 これで東京の浅草の観音様からもお声をかけていただいたので、もうこれ以上のよろこびはありません。 浅草寺については、当日いただいた『浅草寺』という浅草寺で発行されている本に詳しく書かれています。 浅草寺そもそもの興りについて、次のように書かれています。 いただいた本『浅草寺』から引用させてもらいます。 「浅草寺は、千四百年近い歴史をもつ観音霊場である。 寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇三十六年 (六二八) 三月十八日の早朝であった。 宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。 まだ仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。 しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。 土師中知(はじのなかとも)(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像だとわかった。 そして翌十九日の朝、里の草刈り童子たちが藜でつくった草堂にこの観音さまをお祀りした。 「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。」 というのであります。 西暦六二四年というのですから古い古い歴史であります。 もうあと四年で開創一六〇〇年になるのです。 長い歴史の中多くの方によって護られてきた信仰のお寺であります。 いただいた本『浅草寺』には、 「慶安二年(一六四九) の再建以後およそ三百年の間、浅草寺の本堂は不思議と火事を免れてきた。 江戸時代の文献には、火が至近になると雨が降る、あるいは風向きが変わるなどの霊験が再三起きたと記されている。 大正時代の関東大震災でも奇跡的に火難から逃れ、境内に五万人もの人が避難して救われたという。 しかし、昭和二十年(一九四五) 三月十日未明の東京大空襲では、人間の愚かさをお示しするかのごとく諸堂伽藍もろとも本堂が烏有に帰した。」 というのです。 慶安二年に徳川家光が願主となって再建されたのだそうです。 国宝に指定されていた建物だったのです。 そんな本堂が、戦争で燃えてしまったのでした。 それでも戦後復興なされました。 これもいただいた本によると、 「新本堂は、昭和二十六年(一九五一)に起工。 天皇陛下より金一封を拝領し、信徒の熱意あふれる協力も得て、 七年後の昭和三十三年(一九五八)、無事に落成を見た。 また昭和三十五年(一九六○)には、慶応元年(一八六五)の焼失以来九十五年ぶりに雷門が再建された。 開創以来今日まで千四百年の長きにわたり、浅草寺は多くの庶民の信仰心に支えられてきた。 そして現在、日本全国は言うまでもなく、世界の各国からも、年間延べ約三千万人もの人びとが参拝に訪れている」 というのであります。 三千万人というのですから、想像を絶する数であります。 浅草寺さまのご本尊は絶対秘仏といって、開帳されることがないのです。 ですから誰もそのお姿を拝んだことはないと言われています。 一般には「一寸八分(約5.5センチ)の金色の像」と伝えられていまが、それは俗説だと教わりました。 いただいた本『浅草寺』には、 「火災が多発した江戸時代、大火の際は必ず、非常用のお輿にご本尊と御前立を奉安し、安全な方向の寺院に向けてご避難した。 そして鎮火を確認すると、一刻の猶予もおかず本堂へご帰座していただくことが慣例であった。 護衛には、寺の開創以来仕えている土師氏と檜前兄弟の子孫三人、寺侍数名など十人近くの人が当たった。 また、どれほど混雑していても、浅草観音のご避難とわかれば道は開かれ、通り抜けられたという。 東京大空襲のとき、ご本尊は前もって本堂の真下、地中約三メートルのところに埋めた青銅製天水鉢の中に安置されていた。 これにより本堂焼失にもかかわらずご本尊はご安泰であった。」 というのであります。 御前立の観音さまも滅多に開帳されないということでした。 お姿を拝むことができないのですが、それでも何千万人もの人がお参りするのですから、その霊験あらたかなことはいうまでもありません。 浅草の観音さまとご縁をいただいて、感慨無量なのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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      第1274回「大用国師の人となり」

      いろんな逸話を学ぶと、その人となりがわかる気がします。 逸話を学ぶことの良さであります。 誠拙周樗禅師、大用国師には逸話がたくさん残されています。 三歳で父を亡くして、母安子はその時三十二歳でした。 母と子二人の生活は経済的に苦しかっただろうと察します。 大用国師がまだ四,五歳の頃に、母は再婚して半農半魚の村、 家串の藤井平兵衛のもとに再嫁しました。 やがて新しい夫平兵衛との間に平蔵という男の子が生まれました。 大用国師の義理の弟にあたります。 そんな家庭の事情もあって、母はまだ七歳の大用国師を宇和島仏海寺霊印和尚に預け、出家させたのでした。 七歳から一六歳まで、このお寺で育ちました。 殿様の頭を打つほどですから、気丈な子であったことがわかります。 また季刊『禅文化』六〇号「誠拙禅師特集」に掲載されている朝比奈宗源老師の文章には、こんな逸話も書かれいてます。 「その位で誠拙さんにはやんちゃなところがあり、朝ねむいところを起こされると、ともかく寺ではまっさきに本堂の半鐘を鳴らさなくてはならないので、いそいで本堂の縁側へいき、片手で半鐘をヂャンヂャンと鳴らしながら、片手で着物の前をまくって椽側から下へシャアシャアとやったという活撥な話は、小僧の私たちには身近な小英雄の行為のように思えて、とてもうれしかった。」 というのであります。 とてもまねしていいものではありませんが、「やんちゃ」な一面がよく現われています。 こんな逸話が残されていることから察しますと、従順でおとなしい模範的な小僧というよりも、師匠のことなどあまり聞かない気の強い方であったように思います。 それも、やはりそんな家庭の事情でお寺に入れられた経緯も関わっているかと思います。 師匠である霊印和尚からはよくお叱りを受けていたようであります。 そんな我が子が心配で母も時折、家串から宇和島仏海寺まで来て、 「和尚さんの言うことをよくきくのですよ」といさめ、さとしたのだろうと察します。 そんな気丈夫なご性格だったからこそ、厳しい禅の修行もやり遂げられたのでしょう。 禅文化研究所発行の『禅門逸話集成』第一巻にはこんな話があります 「諸方行脚に出た誠拙は、その当時、道声の高かった月船和尚に参じようとて永田の宝林寺に行った。 折しも月船は不在で一僧が出てきて、掛塔を乞うたが、許されない。 門宿を頼んでみたが、これも許されない。 ちょうど雨も降ってきたので、仕方なく誠拙は合羽を着て永田山を下りてゆくと、地蔵堂があったので、これを幸いと地蔵堂の中に入って、遠慮もなく石地蔵の頭に腰をかけて、ぐうぐうと眠りこんだのである。 すると、たまたま外から戻ってきた月船和尚がこれを目にして、誠拙の凡ならざる器を見抜き、ついに掛塔を許したのである。」 これくらいの気概があるからこそ、後に荒れていた円覚寺に僧堂を再興さるという偉業も成し遂げられたのでしょう。 気丈夫なご性格の反面お優しい面もございます。 晩年になって小僧時代の母の思い出を詠んだ歌が残されています。 おとづれていさめ給ひし言の葉のふかき恵みをくみて泣きけり という和歌です。 もう七十歳にもなる大禅師が、小僧時代に度々寺を訪ねてきて、自分のことをいさめてくれた亡き母の言葉を思い出しているのです。 そして、その深い母の愛情に涙を流している和歌です。 母のおられた家串から宇和島までは二〇キロもあります。 そんな道のりを歩いて、お寺までやってきては、「辛抱するのですよ、和尚さんのいうことを聞きなさいよ」といさめてくれた母を思いおこしているのです。 こんな和歌もあります。 子をすてし親の心をわすれなば奈落は袈裟の下にこそあれ 可愛いわが子を一人出家させた、その親のかなしみを忘れたら地獄に落ちるぞ、と自分自身に言いきかせているのです。 母は長生きされて、なんとあの時代に九九歳という長命でありました。 八八歳のお祝いには、宇和島で行けないので使いの僧を出してお祝いを届けさせています。 そして母が亡くなったあと、大用国師は、その母の菩提の為に、西国三十三ヵ所の札所を巡礼するのです。 七〇歳の秋から明くる年の春まで三十三の札所を廻っておられます。 たらちねの長き別れの手向けにはいやつつしまん我身ひとつを これは西国三十三所巡礼の途上で詠まれた歌です。 母の死後、自分は僧としてこれからもわが身を慎んでいくことを誓っているのです。 それから大用国師がお亡くなりになる時の話もございます。 臨終の間際、義弟平蔵をはるばる宇和島から京都まで呼び寄せています。 「ワシは平蔵と会ってから死ぬ」と言われたそうなのです。 平蔵の姿をみると「平蔵か、よう来てくれた。裸になれ、暑かったろ」と、平蔵を自分の病牀中に入れ、抱きしめて 「平蔵や、ワシはこれで満足した」と語りかけ、そのあと病に痩せ衰えた身を起こし、法衣を着て経を誦みながら遷化したという逸話が残されています。 三歳で父を亡くして、七歳で母と別れて寺に預けられ、そんな不遇な環境にもめげずに大成されたのでした。 しかし、七十を超えても母のために西国三十三ヵ所の札所を巡礼し、そして臨終には、義理の弟を呼びよせて別れをするところなどには、暖かい情が感じられるのであります。 そんな愛情があればこそ、多くの修行僧を指導することもできたのだと思います。 大用国師の人となりをうかがわせる逸話であります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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        第1273回「大用国師の逸話」

        大用国師、誠拙周樗禅師にはいろんな逸話が残されています。 月船禅師のもとから円覚寺に来られた時の話はよく知られています。 どんな話なのか季刊、『禅文化』六〇号「誠拙禅師特集」に掲載されている朝比奈宗源老師の文章から引用します。 「誠拙さんが月船老師の印可をうけて後、円覚寺から、どなたか将来円覚寺の中心となって衰微しきったこの寺の再興をするような有為な人物をご推薦願いたいと申入れたのに対し、月船老師は誠拙さんを推し、その大任を命じた。 こんなことを書くのはつらいが、その時分の円覚寺は全く綱紀が緩るみ、僧侶の生活も甚しく乱れていた。 いくら偉いといっても漸く二十七歳であった誠拙さんは、その頽廃の甚しさにあきれ、とても自分のような若僧に改革などできないと思われたので、暫くいて東輝庵へ帰り、月船老師に相見して、 「円覚寺の紊乱は聞きしにまさるもの、私のような者に果せる仕事ではございません、帰って参りました」 と申上げると、老師はその言葉が聞えなかったような様子で、 「わしはこの人を見そこないましたか」と、独語のようにいわれた。 わしはこの人ならきっとやりとげるだろうと信じたが、この人はそれだけの根性はない人であったか、わしの眼が狂っていたのかなあという意味である。 これを聞いた誠拙さんはぐっときた。 老師はそれ程自分を信じて下さったのか、それを知らずに仕事が困難だからとのこのこと帰って来た自分は、なんという腑甲斐ない男か、ううん!と心の下でうなって、 ようし!やらずにおくものかと覚悟をきめ、威儀を正して老師に一礼して、ものもいわずに引下がり、玄関に置いてあった袈裟文庫を肩にひっかけ、直ちに円覚寺に引き返した。 それからの誠拙さんは、すすんでその堕落しきった坊さん達の仲間にとけこみ、賭けごとなどをしている時でさえも席をはずさず、煙草盆の火を入れてやったり茶をくんでやったりして和光同塵し、徐々に一山の風規を改め、三十年もの長い間に、伽藍の修理や再建、僧堂の創建、規矩の制定等々から、その門下に優秀の人材を多数打出し、開山仏光国師の再来と呼ばれ、晩年には仏光国師の法孫の開いた京都の天竜、相国の二大寺に招聘されて、それぞれに僧堂創建したり、さらに南禅その他の諸寺に応請したりして、ひろく天下に化を布かれた。」 と書かれています。 しかし、この話は果たして誠拙禅師のことなのか、疑問があるのです。 朝比奈老師もその点について次のように書かれています。 「しかし、この一旦円覚を下ったという挿話は、『続禅林僧宝伝』第一輯下によると誠拙さんではなく、円覚寺塔頭続灯庵中興の実際法如の伝に出ているが、どうも誠拙さんの話にした方がぴったりする。 大体高僧伝などには余り宗門の見苦しいことは書かないのが例である。 私は相当ながく宝林寺にいて、親しく円覚寺に出入し、本山や近末寺院の間に伝わる話を聞かれたと思う師匠が、体裁をつくろわず、賭事の席で奉仕したことまでまじえて話されたこの話の方が真実味があるように思うが、いかがであろう。」 ということなのです。 そして朝比奈老師は、 「もっとも、この話しを聞いた当時はただ一途に誠拙さんのことと信じ、月船老師の一言に人生の意気を感じ、一言もいわずにすっと立って礼拝して、再び山に帰ったなぞ、若い誠拙さんの颯爽とした姿が目に見えるようで、若い私たちを興奮させた。」 と書かれています。 またもともと気丈な方だったようで、禅文化研究所発行の『禅門逸話集成』第一巻にはこんな話があります。 「誠拙は宇和島藩主伊達侯の菩提寺である仏海寺で、霊印和尚の弟子となった。 誠拙がまだ小僧時代のことである。 ある日、伊達侯が仏海寺を訪ね、和尚と物語りの末、誠拙に肩をたたかせながら、 「小僧、そのほうの打ち方はなかなかよく効くぞ。 今度江戸から帰る時は、いい法衣を買ってきてやろう」 と約束した。 その後、参勤交代から帰った侯は、また仏海寺に来て和尚と語り、例によって誠拙に肩たたきを命じた。 すると誠拙は、 「お殿さまはこの前、江戸から帰る時は、きっといい法衣を買ってきて下さると約束されましたが、法衣はどうなりましたか」 と肩をたたきながらたずねた。 すると侯は、「おお、そうであったな。すっかり忘れておったわ」 と答えた。 これを聞いた誠拙は大いに怒って、「嘘つきめ! 武士に似あわぬ二枚舌だ」 と思いきり侯の頭をなぐって行ってしまった。 驚いたのは師匠の霊印和尚である。 殿さまの頭をなぐったのだから、その場でお手打ちになってもいたしかたのないところだ。 しかし、侯は怒るどころか、にこにこ笑って、 「いやいや、なかなか見どころのある小僧じゃ。 この宇和島で予の頭に手をあげるのはこの小僧だけだ。和尚、これからも目をかけてやれ。末頼もしいやつじゃ」」 という話であります。 そんな権力のある者にもおもねらないご性格は最後まで変わらなかったようです。 朝比奈老師の『獅子吼』という本には、こんな逸話が書かれています。 幕府の権力者であった松平定信公との話であります。 松田定信は白河楽翁とも名乗っていました。 「国師が円覚寺へ参詣に来た松平定信を出迎えたものか、二人の問答に出る般若水は当山の裏門を入ったすぐ左側のちょっとした岩の下にある。 以前は清らかな水がちょろちょろと出て、下のこれも可愛いい滝壺のような水溜りに洒いでいた。 そこには昔から境内の十勝の一つとして般若水という立札があった。 これを見た楽翁は、「般若水というが、この水にどういう仔細があるのですか」ときくと、国師はすかさず、「左様この水は四六時中、般若の真理を説き通しでありますが、あなたには聞こえませんか」と一拶した。 また進んで僧堂の前へ来ると、 「坐禅」と書いた牌が掛けてあるのを見て「坐禅」とは、ときくと「あなたが鉄鞋で一日中に日本国中を一とめぐりすることができても、この坐禅のことばかりはお分りになりませんよ」と、時の天下の権力者を子供扱いしたと伝えられている。」 という話であります。 どれも大用国師の人となりをよく表している逸話であります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1272回「大用国師をしのぶ」

          ここのところ、日本の仏教について書いていたのは、五日ほどかけて、佐々木閑先生がnipponドットコムに連載されていた『日本の仏教』という文章について講義をしていたからでした。 ここには、お釈迦様の教えがどのようなものなのか分かりやすく書かれています。 佐々木先生の文章を引用させてもらいますと、 「ブッダは、自分が感じている 「生きる苦しみ」 を取り除くことができるのは自分だけだと考えた。 外部世界に、苦しみを消し去ってくれるような超人的存在はいないと確信したのである。 瞑想の力を使って心の内側を精密に観察し、苦しみの根源がどこにあるかを見つけた。 そして、ありもしない「自我」を想定し、その、自我に合わせて都合よく世界を見ていこうとする自己中心の世界観、それこそがわれわれに苦しみをもたらす根本原因だと見抜いた。 この、私たちが本能的に持っている、誤った自我意識から生ずる、心のさまざまな悪い作用をまとめて 「煩悩」と呼ぶ。 自己観察によって苦しみの根源を見極めたブッダは、それらの煩悩を絶ち切って、苦しみの海から自分自身を救い出すための実践方法を考案した。 「仏道修行」と呼ばれる、仏教特有の精神的トレーニング方法である。」 と書かれています。 ここにある「煩悩を絶ち切って、苦しみの海から自分自身を救い出すための実践方法」こそがお釈迦様の教えの中核なのでありました。 ところが日本の仏教はその伝来から特殊な経緯をたどっています。 佐々木先生は「日本が中国文化圏に加わることを外交的に示すための手段として着目されたのが仏教である」と書かれているのであります。 日本の仏教は、伝来のときから、国の施策と大きく関わっていたのでした。 平安時代に入ってきた天台宗も真言宗もまた国と深く関わっていました。 それに対して、鎌倉仏教は独自に発達しました。 鎌倉新仏教は、民衆中心であり、政治権力に対して宗教の自立性を主張していました。 それが江戸時代になって、また大きく変わってゆきます。 徳川幕府は、佐々木先生の言葉によると「日本全土に広く存在している無数の仏教寺院を幕府の行政機関として活用することで、国民を個人単位、あるいは各戸単位で管理統括する」こと、「日本を侵略しようとしている西洋諸国の先遣隊である (と見なされていた) キリスト教を排除するための宗教的防波堤として仏教を利用する」ということになったのでした。 総じて江戸時代に仏教は沈滞していた一面が強いのであります。 もっともすぐれた仏教者が出ていることも事実であります。 江戸時代には、円覚寺も沈滞の気風にあったと『円覚寺史』にも書かれています。 江戸期には、寺院の増加に併せて僧侶も増え、宗風が沈滞して、円覚寺でも禅の修行が疎かになる事態もあったようです。 そういう沈滞の気風の中で、九州に古月禅師がでて、禅風を挙揚されました。 その同じ系統にあたると言われる月船禅師が関東で教化を挙げられました。 永田の東輝庵で多くの修行僧を指導したのでした。 白隠禅師も静岡の原の松蔭寺で大いに教化をなされていて、沈滞の気風を一掃しようとされました。 その月船禅師の元には、後に相馬の長松寺に住する物先海旭禅師や、後に博多の聖福寺に住して有名になる仙厓義梵禅師などのほかに、後に白隠禅師のもとの参じた峨山慈棹禅師や隠山惟琰禅師など錚錚たる禅傑が修行されていました。 そんな中を若き誠拙禅師も修行されていたのでした。 当時の円覚寺は続灯庵の実際法如禅師や仏日庵の東山周朝禅師らによって何とか円覚寺にも宗風を復古させようという機運が起こっていました。 特に円覚寺の舎利殿開山堂をいただく正続院だけでも僧堂として伝統の修行を復活させようと努力していました。 そこでもっとも大切なのはその指導者を得ることであり、その白羽の矢が立ったのが誠拙禅師その人でした。 当時まだ数え年二十七歳、その若き僧に円覚寺の将来が託されたのでした。 いろんなご苦労があったと思われますが、円覚寺に僧堂を築きました。 禅堂を建て、宿龍殿という本堂や修行僧の住いもつくり、一撃亭という師家の住いも作られました。 六十二歳の時に八王子の広園寺にも僧堂を開単されました。 六十四歳で僧堂師家をご自分の弟子の清蔭禅師に譲られ一時山内の伝宗庵に隠居されます。 更に横浜金井の玉泉寺に隠居しようとされました。 ところが隠居の間もなく、明くる六十五歳で京都相国寺の大会に拝請され師家をつとめて『夢窓国師語録』を提唱しました。 誠拙禅師の名は天下に広まり、六十九歳で天龍寺の大会も師家をつとめ、天龍寺にも僧堂の基礎を築かれました。 さらに最晩年の七十六歳で再び上洛され、今日の相国寺僧堂を開単されました。 今も相国寺僧堂にはその時の禅堂が残っています。 ところが、その時病に倒れご遷化なされます。 文字通り僧堂の為に捧げた御一生でした。 六月末の二十八日は、誠拙禅師のご命日で、僧堂で法要を営んでいました。 「大用国師」の諡号は大正八年に追贈されています。 六月二十八日、毎年のことですが、大用国師をしのぶ法要をお勤めしたのでありました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

        第1275回「浅草の観音さま」

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          第1271回「鎌倉新仏教の祖師たち」

          日本の仏教史で、最も仏教が勢いよかったのが鎌倉時代でありましょう。 岩波書店の『仏教辞典』には、「鎌倉仏教」として、 「日本の仏教史の中で鎌倉時代の仏教を特別視するのは近代以降のことである。 特に、禅や浄土系の諸宗、日蓮宗など、この時代に端を発する諸宗や、その祖師の活動を<鎌倉新仏教>と呼んで、日本の仏教史の中でも特別優れたものとして評価することは、戦前から戦後にかけて長い間常識視されてきた。 その特徴として、民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張したことなどが挙げられた。 それに対して、南都北嶺(なんとほくれい)の仏教や真言密教などは旧仏教とされ、新仏教の活動を阻害したり敵対したりする勢力と見なされた。」 と分かりやすく解説されています。 「民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張した」ということは実にその通りであります。 単純化したけれども深化しているというところが特徴でもあります。 それは、法然上人、親鸞聖人、栄西禅師、道元禅師、日蓮聖人、そして一遍上人の六人であります。 法然上人は一一三三年に生まれ一二一二年にお亡くなりになっています。 浄土宗の開祖であります。 法然上人は、美作(岡山県)の生まれです。 漆間(うるま)時国の子でした。 九歳のとき父は夜討に遭いましたが、遺誡により仇討を断念しました。 十三歳で比叡山に登り、十五歳のときに出家しました。 十八歳のとき、西塔の黒谷に隠棲していた慈眼房叡空をたずねて弟子となり、法然坊源空と名を改めました。 それからというもの実に二五年もの間叡空について修行を積みました。 四十三歳のとき、黒谷の経蔵で善導著『観無量寿経疏』散善義の「一心専念弥陀名号」の文により心眼を開きました。 そこで、専修念仏に帰依したのでした。 まもなく叡山を下り、東山吉水(大谷)においてあらゆる階層の人々に浄土念仏の教えを説いたのでした。 その法然上人を訪ねたのが親鸞聖人でした。 親鸞聖人は、一一七三年のお生れですから、法然上人よりは、四〇歳もお若いのです。 一二六二年にお亡くなりになっていますので、九十歳と長命でした。 浄土真宗の開祖であります。 九歳で出家し比叡山にのぼりました。 比叡山では常行三昧堂の堂僧を勤めていたといわれています。 しかしそこでの二十年間の修行は悩みを解決してくれず、二十九歳(1201)で、六角堂に参籠し、聖徳太子の示現を得て吉水に法然上人をたずねました。 自力雑行(ぞうぎょう)を棄てて他力本願に回心したのでした。 法然上人から『選択(せんちゃく)本願念仏集』を授かります。 そのころ、親鸞と改名したようです。 一二〇七年、念仏弾圧で還俗(げんぞく)して越後(新潟県)に流されたのでした。 それからは非僧非俗を貫き、愚禿と称しました。 一二一一年(建暦1)赦免され、更に家族とともに常陸(茨城県)に移住しました。 京都に帰るまで約二〇年間、関東各地で布教したのでした。 六二,三歳のころ、ようやく京都に帰りました。 お二人が経験されたのが、「承元の法難(じょうげんのほうなん)」でした。 一二〇七年(建永二年、承元元年)後鳥羽上皇によって法然上人及び親鸞聖人らが流罪とされた事件です。 法然上人は、土佐国番田(現、高知県)へ、親鸞聖人は越後国国府(現、新潟県)へ配流されたのでした。  この時、法然上人も親鸞聖人も僧籍を剥奪されました。 そんな苦難があったのでした。 お二方は念仏の教えを弘められた方でした。 禅も鎌倉時代に興りました。 なんといっても栄西禅師と道元禅師であります。 栄西禅師は臨済宗を、道元禅師は曹洞宗を伝えたのでした。 栄西禅師は一一四一年にお生れで一二一五年にお亡くなりになっています。 日本に於ける臨済宗の祖であります。 そして鎌倉幕府の帰依を受けた最初の禅僧でもあります。 道号は明庵、葉上房、千光法師ともよばれます。 備中(岡山県)吉備津神社の社司賀陽氏の出でです。 比叡山で台密を学びますが、二八歳で五カ月の間、そして更に四七歳で五年の間、なんと二度にわたって宋に入って学びました。 天台山に巡礼し、虚庵懐敞(きあんえしょう)より臨済宗黄竜派の禅と戒を受けて帰国したのでした。 帰朝後、京都で教外別伝の禅を説く日本達磨宗の大日能忍とともに比叡山の弾圧をうけて布教の停止を言い渡されてしまいます。 しかし『興禅護国論』を上進して仏法の総府、諸教の極意としての禅宗の立場を弁明しました。 鎌倉幕府の帰依で、鎌倉に寿福寺を建て、更に京の都に建仁寺を開創しました。 東大寺再建の大勧進となるなど、広く日本仏教の中興につとめた方であります。 道元禅師は一二〇〇年のお生れで一二五三年にお亡くなりになっています。 日本曹洞宗の開祖です。 道元禅師は八歳で母を亡くしています。 一三歳のとき比叡山にのぼり、翌年座主公円について得度しました。 のち三井寺(園城寺(おんじょうじ))に公胤をたずね、そのすすめで建仁寺に入って学びます。 栄西禅師がお亡くなりになった後は、栄西禅師の高弟明全禅師に師事しました。 一二二三年明全禅師とともに入宋しました。 如浄禅師に参じて一二二五年、如浄禅師の「身心脱落」の語を聞いて得悟したことで知られています。 宇治に興聖寺を開いていたのですが、その頃比叡山から弾圧を受けています。 そして越前に永平寺を開いているのです。 日蓮聖人は一二二二年のお生れで一二八二年にお亡くなりになっています。 日蓮宗の開祖です。 安房国(千葉県安房郡)小湊に漁夫の子として生れました。 一二歳のとき清澄寺(きよすみでら)にあずけられ、一六歳で出家しました。 その後、鎌倉遊学を経て、ついで比叡山に学びました。 この間に天台教学のみならず、密教・浄土教など広く学んでいます。 そして法華経中心の信仰を確立するに至りました。 三十二歳のとき故郷に帰りました。 このとき清澄寺で<南無妙法蓮華経>と唱えたとされています。 法然の浄土念仏に批判を加えたことがもとで故郷を追われ、鎌倉に来て布教を開始しました。 法華信仰の確立を訴えて、『立正安国論』を三十九歳の時に著しています。 日蓮聖人は文永八年竜の口の法難の直後、佐渡へ流刑に処せられています。 最後は一遍上人です。 一遍上人は一二三九年のお生れで一二八九年にお亡くなりになっています。 時宗の祖師です。 伊予(愛媛県)の出身で、はじめ天台を学び、のちに太宰府で証空の弟子の聖達(しょうたつ)について浄土念仏を習いました。 証空は法然上人の門下です。 三十三歳のとき、信濃の善光寺に詣でて二河白道(にがびゃくどう)の図を写し、故郷に帰って三年間、それを本尊として念仏に励みました。 三十六歳のとき、四天王寺・高野山を経て熊野に参籠し、熊野本宮の神からご神託を得ます。 「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」と書いた念仏札を配り、賦算して全国を巡歴遊行したのでした。 大きく分けると法然上人、親鸞聖人、一遍上人の念仏の教えと、日蓮聖人の題目の教えと、栄西禅師と道元禅師の禅の教えの三つになります。 それぞれ旧仏教からの厳しい弾圧などに耐えながら、多くの民衆に仏法を弘められたのでした。 苦しい時代に、その人たちと共に苦労しながら、仏教を新たに復興させた祖師達であります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1271回「鎌倉新仏教の祖師たち」

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          第1270回「戒の変遷」

          「比丘」という言葉があります。 『広辞苑』には、もともとは食を乞う者の意で、「出家して具足戒を受けた男子。修行僧を言う」と解説されています。 岩波書店の『仏教辞典』には、 「仏教興起時代には諸宗教一般に、托鉢する男性の修行者をこのように呼んだ。 仏教では、出家得度して具足戒を受けた男子の修行者を<比丘>と呼ぶようになり、<パーリ律>では227の戒条、『四分律』では250戒(二百五十戒)を受けるとされる。」と明記されています。 出家するということは、具足戒を受けるということでもありました。 「ありました」という過去形で述べていますように、いろいろの変遷があって、今は行われていないのであります。 「具足戒」を調べると、その内容は 「犯せば僧伽より追放される重罪である<波羅夷(はらい)法>(婬・盗・殺・妄)、」 それから次に僧残法があります。 これは「六昼夜他の全ての比丘を礼拝するなどの贖罪の摩那埵を行い、20人以上の比丘からなる僧伽の前で出罪羯磨(しゅつざいこんま)を行う(罪を隠していた場合には同じ期間の別住がさらに課せられる)などの一定の手続きの後に許される」ものです。 それから「僧伽または衆多人(2、3人)または1人の比丘の前に不法に所持したものを捨てることで許される」という「波逸提(はいつだい)法」があります。 そして「他の比丘に向かって懺悔(さんげ)すれば許される」という「波羅提提舎尼(はらだいだいしゃに)法」があり、 最も軽いもので「自ら反省懺悔することで許される」という「突吉羅」があるのです。 罪の重さでこのように分類されています。 「波羅夷」は重罪で、教団から追放されるのです。 仏教では、体罰などはありませんので、もっとも重いものが教団追放です。 それはまず「淫事を行うこと」でした。 出家者には結婚や性行為は認められませんでした。 それから盗むというのは「与えられていない物をとること」です。 殺は「人を殺すこと」で故意に人を殺すことを言います。 妄語戒というのは「宗教的な嘘をつくこと」であり、「自身が正しい覚りを得ていないことを認識しているのに究極の覚りを得た」と嘘を言うことです。 僧残法は、一応教団には残れますが厳しい罰が課せられます。 そこには女性に触れることなども含まれています。 もともと性に対しては厳しい戒が課せられていたことが分かります。 僧残法ではありませんが、お金を蓄えてはいけないというのもあります。 美食を求めてはいけないというのもあります。 軍隊が合戦するのを見てはいけないというのもあります。 それほどまでに暴力行為を否定するのが仏教教団でありました。 立って小便してはいけないという決まりもあります。 これら二百五十もの戒を受けることが、出家して比丘になることなのでした。 これは、『四分律』という中国で翻訳された律典によっています。 これは小乗部派の一つ、法蔵部の伝持したものです。 中国では道宣律師がこれを重んじました。 道宣律師は終南山(陝西省西安南方)に住し、律学に励んだ方です。 そしてかの鑑真和上は、その孫弟子にあたります。 鑑真和上が、この『四分律』に基づいて、日本において具足戒を授けたのでした。 そのご功績は実に大きなものです。 しかし、『四分律』は部派仏教のものでした。 大乗仏教が興ると、大乗の利他の精神に基づいて大乗戒が説かれるようになってきたのでした。 最初は十善戒が主張されました。 のちに『瑜伽師地論』において、<三聚浄戒>が説かれるようになりました。 三聚浄戒は、止悪とともに作善と衆生利益とを誓う戒です。 悪いことをしないように、良い行いをして、人々のために尽くそうと誓う戒なのです。 中国・日本では梵網経に説く梵網の<十重四十八軽戒>が重視されるようになりました。 はじめの頃には、律蔵の律と梵網経の戒とが併修されていましたが、伝教大師最澄は律を捨てて<梵網戒>のみを大乗仏教の修行規範とすべきことを主張するようになりました。 それまでの東大寺など三戒壇に於いての受戒だけでは、伝教大師にとって弟子の育成は困難だったのでした。 その受戒制度では一年にわずかしか朝廷より認可されなかったようです。 そのように国が管理していたものでした。 そこで伝教大師は、大乗戒の独立をお考えになったのでした。 今まで東大寺などで授ける具足戒を大乗戒に変更することを主張したものでした。 これが認められて、比叡山に新たに大乗戒の受戒が行われるようになったのです。 ただいま私ども円覚寺でも布薩のおりには大乗戒である三聚浄戒と、十善戒、十重禁戒を唱えているのは、こんな経緯がもとになっているものです。 三聚浄戒と十善戒、十重禁戒をこちらに紹介しておきましょう。 円覚寺の布薩で唱えているものです。 三聚淨戒 第一摂律儀戒 み教えにしたがい 過ちのない行いに 生き 第二摂善法戒 み教えにしたがい 善き行いにつとめ 第三摂衆生戒 みほとけの作すが如く、いのちと人の世に誠を尽さん 十善戒 第一不殺生 すべてのものを慈しみ、はぐくみ育て 第二不偸盗 人のものを奪わず、壊さず 第三不邪婬 すべての尊さを侵さず、男女の道を乱すことなく 第四不妄語 偽りを語らず、才知や徳を騙(たばか)ることなく 第五不綺語 誠無く言葉を飾り立てて、人に諂(へつら)い迷わさず 第六不悪口 人を見下し、驕(おご)りて悪口や陰口を言うことなく 第七不両舌 筋の通らぬことを言って親しき仲を乱さず 第八不慳貪 仏のみこころを忘れ、貪りの心にふけらず 第九不瞋恚 不都合なるをよく耐え忍び怒りを露わにせず 第十不邪見 すべては変化する理を知り心を正しく調えん 十重禁戒(じゅうじゅうきんかい) 第一不殺生 命あるものをむやみに殺さない 第二不偸盗 人のものを盗み取ることをしない 第三不淫欲 道に逆らった愛欲を犯さない 第四不妄語 嘘偽りを口にしない 第五不沽酒 酒に溺れて生業(なりわい)を怠ることをしない 第六不説四衆過罪 他人の過ちを責めない 第七不自讃毀他 自分を誇り他人を傷つけることをしない 第八不慳貪 物でも心でも人に施すことを惜しまない 第九不瞋恚 怒りに燃えて自分を失わない 第十不謗三寶 仏法僧の三寶をそしらない このような戒を今唱えているのは、長い仏教の歴史の変遷を経てのことなのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1269回「仏教伝来」

          仏教伝来はいつなのか、西暦五三八年のことだと言われています。 岩波書店の『仏教辞典』にも 「私的には、すでに帰化人が仏法を信奉していたと思われるが、公的には、538年、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)(聖王)が使者を通して仏像や経典を送ってきたことが、日本への仏教伝来(公伝)とされる。」 と書かれています。 「聖明王」については、 「?ー554 正しくは<聖王>。百済(くだら)と日本との関係は、他の朝鮮諸国と違い、一貫して良好であった。 6世紀の初め頃、百済に武寧王(ぶねいおう)が立ち、高句麗(こうくり)に攻められ漢城を捨てて公州に移ったが、やがて百済を立て直し、倭と修好した。 武寧王の子聖明王は父王が523年に没した後、百済王となり父王の志をつぎ日本と修好し、仏像・経論を大和(やまと)の朝廷に献じた。 これが我が国への<仏教公伝>で、その年は五三八年であるが、五五二年(欽明13)とする説もある。」 とも書かれています。 西暦五三八年というと、中国においては梁の武帝が盂蘭盆会を行った年でもあります。 武帝は、南朝梁(りょう)の初代皇帝であります。 在位は五〇二年から五四九年まで、蕭衍という名です。 南朝文化黄金時代を現出させ、南朝の仏教も頂点に達した時の方です。 武帝は、仏教を篤く信奉し、帝位についた502年、自宅を光宅寺と改めたほどです。 その寺には法雲(四六七~五二九)という高僧を住まわせています。 武帝は、達磨大師とも問答した事で知られています。 504年には詔を下し、道教を捨てて仏教に帰依しました。 「511年、自ら断酒肉文を撰し、仏教徒としての戒律生活に入り、513年、宗廟の犠牲を廃し、517年、天下の道観(どうかん)(道教寺院)を廃して道士を還俗(げんぞく)させた。519年、禁中に戒壇を築き菩薩戒(ぼさつかい)を受けた」と『仏教辞典』には書かれいてます。 達磨大師と問答されたことは禅門でも知られています。 百済の聖明王は、梁の武帝からも支援を受けていました。 また五三八年というと、天台大師智顗の生まれた年でもあります。 もちろん、まだ玄奘三蔵は生まれてはいません。 鳩摩羅什はいましたので、鳩摩羅什訳の『法華経』などを読むことはできた時代です。 そんな頃『仏教辞典』によれば、 「氏族分立の時代で、伝来にさいして崇仏・排仏の論争がおきたというが、実際は国際派の蘇我(そが)氏と国内派の物部(もののべ)氏の権力争いに仏教が巻きこまれたものであり、信仰的には、蘇我氏が自己の氏神として仏を取りいれ、物部氏は国神(くにつかみ)を立てたということである。 仏が<蕃神(となりぐにのかみ)>とか<客神(まろうどがみ)>などと表現されたように、当時は、まだ仏と神との違いは知られていない。」 と書かれています。 歴史で学ぶことですが、蘇我氏と物部氏の争いがあって蘇我氏が勝ったのでした。 飛鳥時代になると、天皇を中心とした国家体制が整って、「寺院の建立、経典の読誦・講説、諸種の法要、仏像の製作など」がなされて、それは「多くは鎮護国家・除災招福を目的としたものである」と書かれています。 また『仏教辞典』には、 「奈良時代になると、仏教の浸透が進み、南都六宗のように、学僧によるめざましい研究成果も現れ、日本文化の形成に仏教が大きな影響を与えた。 他方、仏教の日本化も見のがされてはならない。 現実超越を基調とする仏教は、しばしば日本的変容を受けて現実肯定的になっていった。神仏習合や文芸に摂取された仏教に、それが見られる。」 とも書かれています。 仏教が日本に伝わって定着するには、仏法僧の三宝がそろうことが必須でした。 仏様とその教えと、その教えを信奉する教団の三つであります。 仏様とその教えとは、仏像と経典をいただければそれで、十分であります。 問題は教団であるサンガです。 サンガを輸入するのは容易ではありません。 サンガとは僧侶たちが作る組織です。 最低でも四人がいないとサンガにはなりません。 しかも、出家して僧侶となるためには、 十人以上の僧侶の許可が必要とされているのです。 十人の僧侶を船で大陸から連れてこないといけないのでした。 今と違って船で大陸から渡ってくるのは容易ではありませんでした。 当時日本の僧が中国に行っても正式に受戒をしていないので、沙弥としてしか扱われなかったようです。 なんとか日本でも受戒できるようにと七三三年(天平五)に栄叡と普照らが中国から戒師を招請するために派遣されました。 栄叡・普照らは、七四二年(天平14)揚州大明寺の鑑真和上を訪れ、来日を要請しました。 鑑真和上は六八八年のお生れですので、この時で五四歳でした。 当時海を越えて日本に来るというのはたいへんなことでした。 五度の渡日を企てましたが、妨害や難破により五度とも失敗しました。 鑑真和上自身も失明しました。 そうした失敗を乗り越え、七五三年(天平勝宝5)十二月に渡日に成功しました。 鑑真和上も六五歳になっていました。 七五四年(天平勝宝6)には奈良に入り、四月には東大寺大仏殿の前に仮設の戒壇を築いて聖武上皇・光明太后らに菩薩戒を授けました。 さらに、80余人の僧に具足戒を授けました。 ここに、戒壇で三師七証方式により『四分律』の二五〇戒を授ける国家的授戒制が始まったのでした。 こうしてようやく日本も正式に仏教国となることができたのでした。 五三八年に仏像などが伝わってから七五四年まで、実に二一六年の歳月がかかったのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1268回「四苦八苦」

          四苦八苦という言葉があります。 日常でも使われる言葉で『広辞苑』にも 「①〔仏〕生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせたもの。人生の苦の総称。 ②転じて、非常な苦しみ。また、さんざん苦労すること。」と解説されていて、「弁解に四苦八苦する」という用例もあります。 岩波書店の『仏教辞典』でもう少し詳しく調べてみます。 「四苦八苦」とは、 「苦しみを四つあるいは八つに分類したものの併称で、原始経典以来説かれる。 <四苦>とは、生(生れること)・老・病・死で、これに怨憎会苦(憎い者と会う苦)、 愛別離苦(愛する者と別れる苦)、求不得苦(不老や不死を求めても得られない苦、 あるいは物質的な欲望が満たされない苦)、五取蘊苦(五盛陰(ごじょうおん)苦・五陰盛(ごおんじょう)苦とも。 現実を構成する五つの要素、すなわち迷いの世界として存在する一切は苦であるということ)を加えて<八苦>となる。 後世になると四苦八苦は、人間界のすべての苦ということから、この上ない苦しみ、言語に絶する苦を意味するようにもなった。」 と解説されています。 お釈迦様の教えでも大切にされている四聖諦では、一番目に苦聖諦があります。 この苦を理解するのは、仏教を学ぶにはとても重要なことであります。 修行僧達にも、自分の人生は苦であると思うかと尋ねると、苦と答える者もいれば、そうでもないと答える者もいます。 たしかにこの春に道場に入った者にしてみれば、不自由な暮らしですので、身体的に苦であると感じることが多いでしょう。 今までのイスの暮らしから、畳の上で暮らすことになるだけでも身体的な苦があります。 更に自分の好きなようにできないというストレスがあります。 精神的な苦もあることでしょう。 しかし、仏教で説く苦というのはそういうものではないのです。 その点について、ワールポラ・ラーフラ氏の著書である『ブッダが説いたこと』(今枝由郎訳)を参照してみましょう。 「第一聖諦 ドゥッカの本質」として次のように書かれています。 「パーリ語(およびサンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみ、あるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。 しかし、四つの真理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、より深い哲学的な意味合いがあり、はるかに広い意味で用いられている。 確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。 それゆえに、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を一語で表わすのは難しい。 そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。」 と説かれています。 ここで「苦」には「不完全さ、無常、空しさ、実質のなさ」という意味があるとされています。 更に「<ブッダが、「人生には苦しみがある」と言うとき、彼はけっして人生における幸せを否定しているわけではない。 逆にブッダは、俗人にとっても僧侶にとってもさまざまな精神的、物質的幸せがあることを認めている。 ブッダの教説をまとめたパーリ語の五部経典の一つである増支部経典の中には、家族生活の幸せや隠遁生活の幸せ、 感覚的喜びによる幸せやその放棄による幸せ、執着による幸せや無執着による幸せといった、 さまざまな肉体的、精神的幸せが列挙されている。 しかしそれらはすべてドゥッカに含まれる。 さらには、高度な瞑想によって得られる、普通の意味での苦しみの片鱗すらない、非常に純粋な精神的次元も、またまぎれもない幸せとされる次元も、心地よさあるいは不快さといった感覚を超越し、純粋に沈静した意識の次元も、すべてはドゥッカに含まれる。 同じく五部経典の一つである中部経典の一つのスッタ〔経]では、瞑想の精神的幸せを賞賛したあと、ブッダは、「それらは無常で、ドゥッカで、移ろうものである」と述べている。 ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることである。 普通の意味での苦しみがあるからドゥッカなのではなく、「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのである。」 ということなのです。 岩波書店の『仏教辞典』にも 「肉体的精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないから苦であるとされ、これを苦苦・壊苦(えく)・行苦(ぎょうく)の<三苦>という。」 と解説されています。 苦苦、壊苦、行苦については『ブッダが説いたこと』を参照してみます。 「ドゥッカの概念は、 ①普通の意味での苦しみ ②ものごとの移ろいによる苦しみ ③条件付けられた生起としての苦しみ の三面から考察することができる。 老い、病い、死、嫌な人やものごととの出会い、愛しい人や楽しいこととの別れ、欲しい物が入手できないこと、悲痛、悲嘆、心痛といった、人生におけるあらゆる種類の苦しみは、普通の意味での苦しみである。 人生における幸福感、幸せな境遇は、永遠ではなく、永続しない。 それらは、遅かれ早かれ移ろう。そしてものごとが移ろうときに、痛み、苦しみ、不幸が生じる。 この浮き沈みは、移ろいによって生じる苦しみとしてドゥッカに含まれる。 以上の二種類の苦しみは容易に理解でき、誰にも異論がないだろう。 第一の真理である「ドゥッカの本質」のこの点は容易に理解できるので、一般によく知られている。 それは、誰しもが日常生活で体験することである。」 「しかし、第三の「条件付けられた生起」としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。 仏教的観点からすれば、私たちが一般に存在、個人あるいは「私」と見なしているものは、たえず移ろい変化する肉体的、精神的エネルギーの結合にしか過ぎず、それらは五集合要素から構成されている。 そしてブッダは、 「これら執着の五集合要素はドゥッカである」 と述べている。 また他の箇所では、「ドゥッカとは五集合要素である」とはっきりと定義している。」 と説かれています。 お互いこれが自分だと思い込んでいますが、その自分という実体のあるものはなく、五つの構成要素が集まって、あるように見えているに過ぎないのです。 ありもしない自分を確かにあるものだと思い込んで、自分中心にものごとを見ているのが苦しみの原因なのです。 五つの構成要素が五蘊であります。 五蘊は色受想行識の五つです。 『仏教辞典』には、 <色>は感覚器官を備えた身体、 <受>は苦・楽・不苦不楽の3種の感覚あるいは感受、 <想>は認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用、 <行>は能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求、 <識>は認識あるいは判断のこと。 人間を<身心>すなわち肉体(色)とそれを依り所とする精神のはたらき(受・想・行・識)とから成るものとみて、 この五により個人の存在全体を表し尽していると考える。」と解説されています。 この五蘊によって自己中心の世界観を作り出しています。 これがお互い迷い苦しむ原因なのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1267回「真向法協会で講演」

          真向法協会の令和6年度定時総会に合わせて行われた「健體康心」の集いに招かれて講演をさせてもらいました。 ちょうど龍雲寺で吉村誠先生の唯識の講義を聴いた後でありました。 吉村先生のご講義が午後3時までで、市ヶ谷にあるホテルでの講演が午後4時からでしたので、ちょうどよく移動ができました。 真向法協会の会長である佐藤康彦先生からの御依頼でありました。 真向法と私とのご縁は長く、まだ学生の頃、ある先輩の僧から坐禅をするには、この真向法を行うとよいと教わったのでした。 教わった頃は、体が硬くて特に第三体操の開脚などは、九十度も開かないし、前に傾くことなど全くできなかったのでした。 それでも一日一ミリで無理なくやればいいのだと教わって始めたものでした。 坐禅をするためによいものであれば、何でも取り入れようと思っていたものです。 長い間続けるうちに、第三体操の開脚も楽にできるようになったのでした。 真向法の創始者は長井津先生であります。 長井津先生は、仏教学者として高名な長井真琴先生の弟さんでいらっしゃいます。 長井真琴先生といえば、パーリ語仏典研究の草分けのような方であります。 佐々木閑先生は、その縁戚にあたるそうなのです。 長井津先生は、お兄様の真琴先生と同じく、福井県の勝鬘寺というお寺で生まれました。 真琴先生は仏教学者となられましたが、長井津先生は商売で身を立てることを志し、大倉組 (現大成建設・ホテルオークラ)の大倉喜八郎に仕えました。 若くして出世し膨大な財産をつくるまでに成功したそうです。 しかし、事業は成功しても一番大事な健康管理には何もしていなかったのでした。 そして四十二歳の時に脳溢血で倒れてしまいました。 命は助かりましたが、 左半身不随となり、お医者さんには不治を宣告されます。 そして職を失い、希望を失い悶々と悲嘆にくれていたそうです。 その前に奥様も亡くされていたのでした。 そんな時に、やはりお寺で生まれ育ったからか、ふとお経を読む気になったそうです。 勝鬘寺には 「勝鬘経」 というお経がありました。 勝鬘経に「勝鬘及眷属頭面接足礼」という言葉があります。 勝鬘婦人と一族従者達は、頭を仏の足に接して礼拝したという一節です。 この「頭面接足礼」から長井津先生は、真向法の第一体操を作り出したのでした。 更に長井津先生は、頭面接足礼を座った礼「座礼」とし、立ってやる礼「立礼」を考えられました。 そのもとになった動作が、神主さんの礼拝動作だそうです。 背筋を伸ばし、腰を丸めずに直角にお辞儀をする動作です。 第一体操を座って行ない、第二体操を立って行っていたそうなのですが、この動作を座って行うことになったとのことです。 これが第二体操です。 この体操を当初は「念仏体操」や「礼拝体操」として行っていたそうなのです。 それから更に第三体操や第四体操も加わって現在の四つの体操となっているのです。 真向法協会の佐藤康彦先生からは、四つの体操の心として、第一体操は感謝、第二体操は反省、第三体操は寛容、第四体操は自由だと教わりました。 私は体操としはもちろんですが、このひたすら礼拝に徹しようとされた長井津先生のお心に感動します。 それで今も感謝の気持ちをもって第一体操から四つの体操を繰り返して行っています。 講演会は、真向法協会の方々がお見えになっている会なので、皆さんとても姿勢が美しいのでした。 腰の立った美しい姿勢は本人も健康になりますし、見る人をもすがすがしい気持ちにさせてくれるものです。 そんなことをお話して、私と真向法との四十年来のご縁を話しながら、「自己を調える」という題で話をしました。 ちょうど入梅の頃でありますので、私の好きなお釈迦様の話から始めました。 お釈迦様がある時に、まだ修行を始めたばかりの弟子達を連れて旅をしていました。 ただでさえまだ出家したばかりですから、家族のことや故郷のことが恋しくなってしまいます。 その上途中で雨に降られて、皆だんだん気が滅入ってきました。 そこでお釈迦様は皆の気持ちを察して、雨宿りをしようと、途中である家に立ち寄りました。 ところがその家は雨漏りのする家でした。 そこでお釈迦様は雨に因んでお説法をされました。 「屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する」と説かれたのでした。 これでは仕方ないと、更にもう少し歩いていって、また家を見つけて雨宿りをしました。 その家は雨漏りがしませんので、皆も安心して休みました。 そこでお釈迦様は「屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない」とお示しになりました。 『法句経』にあるこの教えを、友松円諦先生は 「そあらに葺かれたる屋舎に雨ふれば、漏れやぶるべし。かくのごとく、心ととのえざれば貪欲これを破らん」 「こころこめて葺かれたる屋舎に雨はふるとも漏れやぶることなし。かくのごとくよくととのえし心は貪欲も破るすべなし」と訳されています。 そんな『法句経』の詩を紹介して、いかに自己を調えるか、『天台小止観』にある二十五の方便をもとに話をさせてもらいました。 会場では、この度出版された帯津良一先生との対談本も販売してくれていました。 この対談本にも真向法の四つの体操が絵入りで解説されています。 四十年来実践してきて、その協会の総会で講演させてもらうという、実に有り難いご縁でありました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1267回「真向法協会で講演」

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          第1266回「唯識を学ぶ」

          学生時代には、ほんの少しですが、仏教学を学んでいました。 一応サンスクリット語、パーリ語を習い、更にチベット語も勉強していました。 金剛般若経を研究していて、弥勒作と伝えられる金剛経の頌をサンスクリットとチベット語を参照して論文を書いたことを覚えています。 それだけにインド仏教学というのがいかにたいへんな学問であるかを、身をもって体験していました。 私のような者にはとても無理だと分かって、あきらめたのでした。 そんな仏教学を学んでいて、般若経から中観思想を学んでいると、どうしても中観派と対象的な唯識に関心を持つものです。 そんな興味を持ち始めた私に、とある先輩の方が、唯識に手を出すと卒業できなくなると言われたことを覚えています。 それほどまでに唯識という学問は深淵で難解なのであります。 まだ命のあるうちに、もう一度この唯識を勉強しておきたいという気持ちだけを持ってきました。 書物の上では、いろんな唯識について解説書を読んで来ていました。 この度龍雲寺の細川さんと円融寺の阿純章さんとが主催で、僧侶を対象に唯識の勉強会が始まるとご案内いただいたのでした。 是非ともこの機会に学ぼうと思ったのですが、一回目と二回目には、すでに予定が入っていてお伺いできず、講義の録画を拝見して学ばせてもらったのでした。 第三回目には、ちょうど上京して講演する予定があり、その講演の前に講義に出てからでも間に合うと分かったので、講義を拝聴してきました。 講師は駒澤大学の教授である吉村誠先生であります。 一回目と二回目を動画で拝見していましたが、その資料の作り方から、講義の内容、よくぞあれほどの深い内容を話されたと感服していました。 是非とも一度お目にかかってみたいと思っていましたので、今回その願いが叶ったのでした。 控え室で親しくお話させてもらいました。 仏教学の落伍者である私にとって、仏教学の教授である先生は仰ぎ見る存在なのであります。 どれほどたいへんな道のりであるのか多少分かりますので、尊敬の気持ちは人一倍強いのであります。 有り難いことに気さくにお話させてもらいました。 とりわけ熊野にとても関心をお持ちだと分かって、うれしくなりました。 しばらく熊野談義に花が咲いたのでした。 熊野三山についてとても造詣が深く、何度も訪ねてくださっているというのです。 そうしているうちに講義が始まりました。 今回は、有り難いことに瑜伽行派の修行について講義して下さいました。 瑜伽行派というのが、弥勒が創始し、無着と世親の兄弟が組織体系化したと伝えられ、瑜伽行派の論師たちは、時代とともに唯識論者と呼ばれるのです。 「唯識」は「仏教学説の一つ。一切の認識はただ自己の識(心)によって生み出されたもので、認識の対象となる事物的存在はないと説く。」と『広辞苑』に解説されています。 岩波書店の『仏教辞典』には 「あらゆる存在はただ<識>、すなわち<心>にすぎないとする見解。 般若経の空の思想を受けつぎながら、しかも少なくともまず識は存在するという立場に立って、自己の心のあり方をヨーガの実践を通して変革することによって悟りに到達しようとする教えである。」 と説かれています。 瑜伽行派の瑜伽というのは「ヨーガ」のことです。 「ヨーガ」とは、吉村先生は、「心を落ち着けて真理を観察すること」と分かりやすく説明して下さっていました。 この真理を観察することが修行となります。 もともとブッダも真理を観察するようにと教えてくださっていたのでした。 『ブッダ最後の旅』に、 「修行僧たちよ。 ここで、修行僧は、身体について身体を観察し、熱心に、よく気をつけてこの世における貪欲や憂いを除去していなさい。 感受に関して感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。 心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。 このようにしてこそ修行僧は正しく念じているのである。」 という言葉があります。 四念処と呼ばれる教えですが、すでに『ブッダ最後の旅』において説かれていることを今回教わりました。 更に部派仏教では、五停心観(ごじょうしんかん)が説かれています。 不浄観、肉体や外界の不浄なありさまを観じ、貪りの心を止めること、慈悲観で一切衆生を観じて慈悲の心を生じ、怒りの心を止めること、因縁観で、諸事象が因縁によって生ずるという道理を観じ、無知の心を止めること、界分別観で五蘊・十八界などを観じ、物に実体があるという見解を止めること、そして数息(すそく)観で呼吸を数えて、乱れた心を止めることであります。 数息観について吉村先生は。言葉によって思考することをやめさせる修行だと教えて下さいました。 言葉を使うことによって自我意識が強くなり、煩悩も強くなります。 禅の公案も言葉によって考えることをやめさせるものでもあります。 それから大乗の瞑想は空観なのだと教わりました。 空、無相、無願という三つを観じるのです。 そうしていよいよ瑜伽行派の修行の内容を教わっていったのでした。 解深密経、瑜伽師地論、唯識三十頌などという難解な経典をもとにして解説してくださいました。 瑜伽師地論では、仏教におけるヨーガを体系化して、大乗のヨーガが説かれています。 大乗のシャマタ、ビパシャナについて解説してくださいました。 法仮安立という言葉にされた仏の教えを拠り所として止観を修めるのです。 止の所縁は無分別影像、観の所縁は有分別影像などと難解な言葉が続きます。 それでも先生の明快な解説を聞きながら、メモをとっていると、なんとなく理解できたような思いになるのでした。 私にも唯識の世界の一端が垣間見られたような感慨に耽っていました。 とりわけ今まで学んだことのなかった、瑜伽行派の修行の内容を学べたので、禅の修行との関連も少し分かったように感じました。 分からなかったことがわかり、知らなかったことを知るというのは、大きな喜びであります。 そんな感動のうちに講義が終わったのでした。 ところが寺に帰って復習しようとして、メモしたノートを見返したのですが、やはりよく理解できていないのでした。 講義があまりに素晴らしく、理解できたような気になっていただけと分かったのでした。 専門家が何年もかけて学ぶのが唯識なのですから、私のような門外漢が少し聞いて分かるはずもありません。 それでも、今回のことをご縁に、これからも根気よく学んでいこうと思ったのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1266回「唯識を学ぶ」

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          第1265回「あけてみたれば…」

          麟祥院での勉強会では、この四月から小川隆先生の『宗門武庫』の講義と、私が『臨済録』について簡単な話をしています。 先日は、「元来黄檗の仏法多子無し」という箇所を講義していたのでした。 その講義の前に控え室に入ると、すでに小川先生と大乗寺の河野老師とがお見えになっていました。 小川先生にご挨拶して驚いたのが、イスに坐っている姿勢がとても美しくなっていらっしゃることでした。 わずか一度のイス坐禅で、これほどまでに変わるのかと驚いていました。 講義でも講座でも受ける人の心によっていろいろであります。 イス坐禅などというと、こんなものは坐禅ではないと憤慨される方もいらっしゃいますし、私が体をほぐすことに時間をかけて行っていますので、坐禅の時間が足りないと言われる方もいらっしゃいます。 小川先生は、あのワークから自分自身の体に変化を感じられたのでしょう。 そしてその感覚を日常でも絶やさないように意識してくださっているのだと思いました。 その日は五時半まで麟祥院で講義をして、そのあと六時半から八重洲でイス坐禅の会だったのでした。 「多子無し」については、先日の管長日記にも詳しく記した通りであります。 朝比奈宗源老師の『臨済録』では、 「なんだ!黄檗の仏法なんてそんなたあいもないものだったのか。」となっています。 大森曹玄老師の『臨済録講話』には、 「黄檗の禅って、どんなドえらいことかと思ったら、ナーンだ、こんなものだったのか。明けてみたらば猫の糞かなというところである。」と説かれています。 ただいまは入矢義高先生によって、「ああ、黄檗の仏法は端的だったのだ。」と訳されています。 入矢先生の『求道と悦楽』に納められている「禅語つれづれ」には丁寧な解説があります。 こちらも麟祥院で紹介したのでした。 「さて問題は「多子無し」である。これも俗語なのであるが、従来これは「なんの造作もない」とか、「大したことはない」(岩波文庫旧版)とか、「たあいない」(同上新版)などと解釈されてきた。某師の『臨済録新講』 でも、右の一句を「黄檗の禅って、どんなえらいことかと思ったら、ナーンだ、こんなものだったのか」と釈し、さらに「明けてみたらば猫の糞かなというところである」という解説までついている。みな誤りである。」 と手厳しく説かれています。 某師とされて敢て名前を出されていませんが大森曹玄老師であります。 「つまり「多子無し」とはここでは「特別変ったしさいがない」「普通のもの以上の何か違ったものがない」ことである。」 ということなのです。 さて、この大森老師の「明けてみたらば猫の糞かな」という言葉はどこから来たのかとあれこれと調べてみたのでした。 すると、手沢本と呼ばれる、昔の方が手書きで註釈をしたものの中に見出すことができました。 大森老師も天龍寺で修行された方ですから、天龍寺に伝わる手沢本、書き入れ本を写されたりしたのかと想像します。 円覚寺に伝わる手沢本にも「さしたることもない」「明けてみたらば猫の糞かな」と書き込みがあるのです。 なるほど、ここから来たのかと分かったのでした。 講義のあと、河野老師とこの手沢本のあれこれについて話しあっていました。 河野老師は、抄物と呼ばれる註釈書をたくさん調べておられるのです。 しかし『臨済録』には、こんな言葉があります。 入谷先生の現代語訳を参照します。 「当今の修行者が駄目なのは、言葉の解釈で済ませてしまうからだ。 大判のノートに老いぼれ坊主の言葉を書きとめ、四重五重と丁寧に袱紗に包み、人にも見せず、これこそ玄妙な奥義だと言って後生大事にする。 大間違いだ。愚かな盲ども! お前たちは干からびた骨からどんな汁を吸い取ろうというのか。 世間にはもののけじめもつかぬやからがいて、経典の文句についていろいろひねくりまわし、一通りの解釈をでっちあげて〔人に説き示す〕ものがいる。 これはまるで糞の塊を自分の口に含んでから、別の人に吐き与えるようなもの、また田舎ものが口づてに知らせ合うようなものでしかなく、一生をむなしく過ごすだけだ。」 という言葉です。 河野老師と「そもそも『臨済録』に、「大策子上に死老漢の語を抄(うつ)し、三重五重に複子(ふくす)に包んで、人をして見しめず、是れ玄旨なりと道って、以って保重を為す。大いに錯れり。」とあるのにね、今も同じことをやっているね」と笑いながら語り合っていたのでした。 「大判のノートに老いぼれ坊主の言葉を書きとめ、四重五重と丁寧に袱紗に包み、人にも見せず」といって大事にしているのですが、そこに何が書かれているのかというと、「明けてみたらば猫の糞かな」という言葉です。 これこそ、大事なノートだといいながら、それを明けてみたらば猫の糞かなでありましょう。 講義を終えてすぐに八重洲のイス坐禅の会場に移動しました。 イス坐禅も最近は、 一、首と肩の調整 二、足の裏、足で踏む感覚 三、呼吸筋を調整 四、腰を立てる という四つにまとめて順番に行っているのですが、今回はまず足の裏をはじめに入念に調えました。 そして首肩、呼吸筋などは合わせて行いました。 今回は、ノビとユラスことでこれらを調えてみました。 のびる、のばすという動きをあれこれ行い、その合間合間に体をゆすってゆらすことを取り入れてみました。 のばすとゆらすを交互に行いながら身体をほぐして調えていったのでした。 皆さんと一緒に行ううちにだんだん自分の身体も調ってくるのが実感されます。 今回は有り難いことに新宿の月桂寺の熊谷老師もわざわざご参加くださっていました。 熊谷老師もイス坐禅がとても心地よく、疲れがすっかり取れたと仰ってくださいました。 イス坐禅の合間には、『臨済録』にある言葉を紹介しました。 「諸君、真の仏に形はなく、真の法に相はない。しかるに君たちはひたすらまぼろしのようなものについて、あれこれと思い描いている。 だから、たとえ求め得ても、そんなものは狐狸の変化のようなもので、断じて真の仏ではない。そんなのは外道の見かただ。」 という言葉です。 真実の仏は姿形ではありません。 実にいきいきとした命そのものです。 難しい昔の方の語録を読み解くのも大事ではありますが、イスの上でも身体をほぐしいきいきと坐っているのが、姿形のない真の仏そのものではないかと感じていました。 大事な語録というけれども、案外「明けてみたらば猫の糞かな」かもしれません。 こんな句をしみじみ思ったのでありました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1264回「含羞の人が厚顔無恥に」

          先日麟祥院で小川隆先生の講義を拝聴していました。 いつもは『宗門武庫』の講義ですが、前回と今回は、天平の両錯という公案についてです。 大乗寺の河野徹山老師が、先般の妙心寺歴住開堂の時に、この天平の両錯の公案を拈提されたことがきっかけであります。 私どもは、この公案を『碧巌録』で学んでいます。 『碧巌録』九十八則にある公案の本文を学んでみましょう。 末木文美士先生の『現代語訳 碧巌録』(岩波書店)にある現代語訳を引用します。 著語は省いて本文のみを引用します。 「天平和尚が行脚していた時、西院に参じた。 いつも「仏法が判ったなどということはもとより、先人の逸話を取り上げる者を探してもおらんぞ」と言っていた。 ある日、西院が遠くから見て、呼んで言った、「従漪君」。 天平は頭を挙げた。 西院は言った、「しくじったぞ」。 天平は二、三歩歩いた。 西院はまた言った、「しくじったぞ」。 天平は近寄った。 西院「いましがたのこの二つのしくじりは、私がしくじったのか、あなたがしくじったのか」。 天平「私がしくじりました」。 西院「しくじったぞ」。 天平は言葉につまった。 西院は言った、「まずはここで夏安居を過ごしたまえ。あなたとこの二つのしくじりを考えよう」。 天平はすぐさま出発した。 後、寺院の住持となって、皆に語った。 「わしはそのかみ行脚していた時、宿業の風に吹かれて思明長老(西院)のところへ行き、二連発でしくじったとやられ、更に夏安居を過ごすようにと留められ、ともに考えようといわれた。わしはその時にしくじったなどとはいわん。南方に向けて出発した時、既にしくじったと知っていたのだ」。」 という話なのであります。 この公案が、どのように提唱されているのか、朝比奈宗源老師の『碧巌録提唱』(山喜房仏書林)から参照してみます。 朝比奈老師は「我が発足して南方に向って去りし時、早く知んぬ錯と道ひ了ることをと。」というところを、 「南方に向うということには、故事があって、『華厳経入法界品』に善財童子が悟りを求め、南に向って行脚して、多くの善知識に参じ、最後に五十三人目に普賢菩薩のところへ行って本当の悟りを得て佛になる。その故事から、師を求めて行脚し、佛道修行をすることを南方に行脚するという。」 と解説されています。 そして「「我発足して南方に向って去りし時」 わしが行脚に出た時です。 「早く知んぬ錯と道ひ了ることをと」本当は、それが間違いであったと気付いた、こういうことです。 これは、佛道の基本からいえば、お互いは本来佛です。 「衆生本来佛なり」ただ修行をしてなるほどそうだということを確認する、明らめる。 ですから少し軽薄な修行者は、ちょっとわかると、ああこれでいい、何だ、元から佛じゃないか、そんなに苦しんで修行なんかする必要はない。 本来佛なんだ、これでいいんだ、こういう見方をしてしまいます。」 と説かれているのです。 「少し軽薄な修行者」とは、この天平和尚のことを指しています。 実際に、『碧巌録』の頌では、雪竇禅師が、 「禅家の人々は、軽薄がお好き。 腹一杯になるまでとりくんでいても運用できず、 悲しく可笑しい天平の爺さん、 そのかみ行脚したのが残念だなどという。」 と詠われているのです。 朝比奈老師もここのところを提唱して、 「禪家流、輕薄を愛す、実にひどいことを言ったものです。 禅の宗風とは反対です、禅者たちは軽薄なことが好きだというのです、けれどもこれは人間誰でもの弱点ですよ。 少しわかればもう全部わかったようになって自惚れる。 この天平がそれです。 「常に云ふ、云ふこと勿れ佛法を会すと、この拳話の人を求むるにまたなし」お前たちは佛法がわかったなどというな、第一、わしの話のわかる奴はいないじゃないか、こう自惚れていた。そんなのを軽薄というのです。 空見識です。西院に二つの錯を下されたら手も足も出ない。」 と説かれています。 天平和尚のことを「いわゆる「一枚悟り」といっている。 ただ、「衆生本来佛」といっただけで、まだまだ本当の働きは出て来ないのです。 そこで雪竇はまたうたって、悲しむに堪へたり笑ふに堪へたり天平老。 天平老従漪、情けないやらおかしいやら、一人で少しばかり禅の匂いを嗅いで、佛法はもうすっかり手に入ったなどと自惚れて、さっぱり働きも何もありはしない。」というのであります。 こういう提唱は圜悟禅師の評唱などを忠実に読まれての説であります。 しかし、小川先生のご研究によれば、これは『碧巌録』でそのように説かれるようになったのであって、もともと『景徳伝灯録』では表現が違っているのです。 もともとは、「南方に向けて出発した時」とは言っていないのです。 西院思明長老から一夏留まってこの二つのしくじりについて商量しようと言われながらも、それを振り切って行脚したことがしくじりだったと後悔しているというのです。 臨済禅師の逸話も紹介してくださいました。 岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の訳を紹介します。 「夏安居の半ばに、師は黄檗山に上った。黄檗和尚がお経を読んでいるのを見て、「私はあなたこそはと思っていましたが、なんだ黒豆食い(お経読み)の老和尚だったんですか」と言った。 数日いて、下山の挨拶をすると、黄檗は言った、「そなたは安居の規則を破って夏の途中にやって来て、まだ安居も済まないうちに帰るのか。」 師「私はちょっと和尚にお目にかかりに来ただけです。」 黄檗はそこで棒で打って追い出した。 師は数里行ったところで「はてな、待てよ」と思い、引っ返して安居を黄檗のもとで終えた。」 という話です。 この時の臨済のように、師の言葉に従って一夏を勤めればよかったと率直な悔恨であると読むべきだと小川先生は解説されていました。 それが、本来仏であるのに、そもそも行脚にでたことが間違いだったと晩年になってもうそぶく自了の漢、軽薄なうぬぼれた禅僧として説かれてしまうようになったというのであります。 天平が軽薄な禅僧となされていることは、朝比奈老師の提唱にもある通りなのです。 簡単にまとめましたが、小川先生の詳細なご研究は、『続・語録のことば』(禅文化研究所)や『語録の思想史』(岩波書店)に論じられいます。 朝比奈老師は「「佛道は山に登るが如く、いよいよ登ればいよいよ高く、海に入るが如く、いよいよ入ればいよいよ深し」という。 何の道でもちょっとやればちょっとわかる、それだけで済むと思ったら違う。いよいよ入ればいよいよ深しという子細がある。」と説かれていますが、人は本来仏だといって安易に受けとめていいものではないことを強調するために、率直に悔恨の思いを述べた含羞の僧が、一枚悟りの厚顔無恥な僧とされてしまったのでした。 なにも天平和尚を貶めるためではなく、本来仏などと容易に受けとめて安住してはならぬことを知らしめるためだったのであります。 禅語録の深い読み方を学んだのでありました。 しかし、天平和尚はやはり気の毒であります。 悲しむに堪えたり天平老、雪竇老によって軽薄呼ばわりされるとはと言いたいところであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1264回「含羞の人が厚顔無恥に」

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          第1263回「尊敬する人をもつ」

          道元禅師は、西暦一二一三年四月九日、数え年十四歳の時に比叡山の座主公円僧正について剃髪し、出家得度されました。 比叡山では天台教学を中心に学ばれましたが、経文にある「本来本法性・天然自性身」という文言に大きな疑問をいだかれます。 「本来本法性、天然自性身」とは、平たくいうと生きとし生けるものは皆本来仏だという教えであります。 道元禅師様はこの言葉に疑問を感じました。 「人間が本来仏様だというのならば、なぜ、多くの祖師方は血のにじみ出るような修行をする必要があったのだろうか」 という問題です。 そのへんの消息を余語翠厳老師の『従容録』には、第六十九則のところに説かれています。引用させてもらいます。 「ところで、道元禅師が比叡山で修行をしておられる時に、疑問を生じたわけです。 それは、本来本法性、天然自性身という言葉で伝えられていますが、簡単に言うと、人間は本来仏であるというにもかかわらず、どうして修行せねばならないか、ということです。 そういう疑問を持って、叡山のいろいろな師匠たちに尋ね歩いても満足な答えをもらうわけにいかなかったが、三井寺の公胤僧正という人を訪ねてこの問いをした。」 とあって、この僧正の薦めで建仁寺の栄西禅師のもとを訪ねます。 そこで「建仁寺へ行って「本来仏であるのに、なぜ修行しなければならんのか」という同じ質問をして、その時にもらった答が、これだったのです。 「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却って有ることを知る」という、これが栄西さんの答です。 それをどういうふうに受け取られたかは書いてないのですが、この答をもらって道元さんは禅門に鞍替えをされるわけです。」 と書かれています。 一二一四年に建仁寺に行って栄西禅師のもとで修行されました。 栄西禅師は、一二一五年にお亡くなりになっていますので、わずかの期間でありました。 栄西禅師がお亡くなりになった後は、明全和尚に参じておられます。 短い期間ではありましたが、栄西禅師のことは道元禅師のお心にはとても印象深く残っていたようであります。 『正法眼蔵随聞記』には栄西禅師のことがしばしば出ています。 『正法眼蔵随聞記』二には、 「宋国の寺院などでは、すべて雑談をすることがないのだから、いうまでもないことだ。 わが国でも、近時、建仁寺の僧正、栄西禅師が御在世のときには、全く、かりそめにも、その様なみだらな話しは誰もしなかったものだ。 僧正がお亡なりになって後も、僧正の直弟子たちが、わずかでも存命の間は、一切そのようなことはなかった。 最近、七、八年以来、 いまどきの若い僧たちの間で、しばしば行われているのだ。もってのほかの有りさまである」(講談社学術文庫 山崎正一訳) などと語っておられます。 栄西禅師の頃は厳格に修行されていたことがよく伝わります。 またこんな逸話も残されています。 『正法眼蔵随聞記』一にあります、栄西禅師の話であります。 「仏道をおさめた人の心くばりは、常人とは違っていることがある。 すでに亡くなられた建仁寺の僧正、栄西禅師(一一四一 ~ 一二一五)が、まだ在世のときのことだが、寺の食料がつきて、一同みな絶食となったことがある。 そうしたある時、たまたま一人の施主が僧正を招待し、絹一疋を布施した。 僧正は悦び、みずから手にして懐に入れ、人にも持たせず、大切に寺に持ちかえり、知事の僧に与え、「明朝の食事(浄粥=おかゆ)の費用に当てるがよい」といった。 ところが、ある俗人のところから、「まことにお恥ずかしい事情がありまして、絹二、三疋入用となりました。 少しでも御座いましたら、頂戴致したく存じます」という旨の願い出があった。 僧正は直ぐに先の絹を知事から取りかえして、与えてしまった。 そのとき、この知事の僧も、ほかの僧たちもみな、僧正のなされ様を、思いがけぬ事に思い、いぶかしく思った。 後になって、僧正の方から皆の者にいわれるに、「みんなは、私のしたことを、間違っていると思うかもしれない。 だが、私の思うには、お前たち皆の者はそれぞれ仏道に志があって、ここに集まっているのだ。 一日、何も食べないで、飢死したところで、差しつかえはないのだ。 俗世間にある者が、差し当って必要なものがなくて困っている。 その苦しみを助けたならば、お前たち各々のためにも、一日なにも食べないで、それで人の苦しみをなくしてやるのは、はるかに利益たちまさっているであろう」と。 仏道に達した人の深い考えは、およそこのようである。」 という話であります。 これもまた有り難いお話であります。 道元禅師にとっての栄西禅師は、尊敬する理想の僧のように描かれています。 森信三先生は「尊敬する人がいなくなった時、その人の進歩は止まる。尊敬する対象が年とともにはっきりするようでなければ、真の大成は期しがたい」と仰せになっています。 尊敬する人物は、歴史上の人物でもよろしいかと思います。 そして、できれば歴史上の人物だけでなく、現実に接する人の中に見出すことができれば、より一層目指す道がはっきりするものであります。 尊敬する人を持って、その人のことを思っているだけでも、良い方向へと進んでゆくものであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1263回「尊敬する人をもつ」

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          第1262回「「多子無し」あれこれ」

          臨済録について四月から麟祥院で講義をしています。 講義にあたっては、あれこれと調べ直しています。 臨済禅師が、黄檗禅師のもとで修行していて三年、問答にもゆかずにひたむきに修行していました。 そんな様子を見た修行僧の頭が、黄檗禅師のところに問答にゆくようにうながされます。 何を聞いていいのか分かりませんという臨済禅師に、仏法の根本議とはどのようなものですかと聞くといいと教えました。 言われた通りに、黄檗禅師のもとに行って尋ねようとしましたが、その質問も終わらないうちに棒で打たれてしまいました。 禅師のお部屋からもどってきた臨済禅師に、修行僧の頭がどうだったかと聞くと、事の次第を有り体に答えました。 もう一度質問に行きなさいと言われてもう一度黄檗禅師のところに行って尋ねますが、やはり質問も終わらないうちに棒で打たれてしまいました。 お部屋から戻ってきた臨済禅師に、もう一度行くようにと修行僧の頭が勧めました。 しかし、三度も同じことでした。 若き日の臨済禅師は、修行僧の頭の方に「忝くもお心に掛けていただき、黄檗禅師のもとに質問させてもらいましたが、三度問うて三度打たれました。 残念ながら因縁が熟さないために、その奥義を悟ることができません。 しばらくお暇をいただきます。」と言いました。 それでは黄檗禅師のところにご挨拶してから行くようにと伝えました。 そう伝えておいて修行僧の頭は、先回りして黄檗禅師のところに行き、「先ほど質問に来た若者はなかなかみどころがあります。 もし暇乞いに来ましたら、どうかよろしくお導き下さい。 将来きっと鍛え上げて一株の大樹となり、天下の人びとのために涼しい木陰を作るでありましょう。」と言いました。 黄檗禅師は、臨済禅師に、 「高安灘頭の大愚のところへ行くがよい」と伝えました。 大愚禅師のことについては詳しいことは分かっていません。 『祖堂集』では、黄檗禅師と共に馬祖のもとで修行していた仲間となっています。 馬祖の弟子の帰宗禅師の法を嗣いだとも伝えられています。 大愚禅師のもとに来た臨済禅師は、「どこから来たか。」と問われ、「黄檗禅師のところから参りました。」と答えます。 「黄檗はどんな教え方をしておられるか。」と問われて、 「私は、三たび仏法の根本義を問うて三たび打たれました。いったい私に落ち度があったのでしょうか。」と正直に伝えました。 すると大愚禅師は 「黄檗は、それほど老婆のような心遣いでお前のためにくたくたになるほど計らってくれているのに、その上わしのところまでやって来て、落ち度があったかどうかなどと聞くのか。」 そう言われて臨済禅師は言下に大悟して言いました。 「ああ、黄檗の仏法は端的だったのだ。」という話であります。 「ああ、黄檗の仏法は端的だったのだ。」というところの原文が「元来黄檗の仏法多子無し」であります。 「ああ、黄檗の仏法は端的だったのだ。」というのは岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳です。 朝比奈宗源老師の『臨済録』では、 「なんだ!黄檗の仏法なんてそんなたあいもないものだったのか。」となっています。 「たあいない」とは「たわいない」ともいい、『広辞苑』には、 「①とりとめもない。思慮がない。「実にたわいないことを言う」 ②正体ない。「酔ってたわいなく眠る」 ③張合いがない。てごたえがない。「たわいない勝負だった」」 という解説があります。 山田無文老師の『臨済録』には 「なアーんだ、黄檗の仏法とは、たったそれだけのことだったか。」と説かれています。 大森曹玄老師の『臨済録講話』には、 「黄檗の禅って、どんなドえらいことかと思ったら、ナーンだ、こんなものだったのか。明けてみたらば猫の糞かなというところである。」と説かれています。 柳田聖山先生の『臨済録』(中公文庫)には 「なんだ、黄檗ともあろうに、仏法には何のわけもなかった。」と訳されて「註」には、「夾雑物がない、簡単、単純なことで、価値的な意はない。」とあります。 同じく柳田聖山先生の仏典講座30『臨済録』には、 「なんだ、かれの佛法は造作ないんだな。」と訳され、 「従来の解釈は、黄檗の佛法もたいしたものでない、という臨済の師に超える気概をいったものと見ているが、無多子という語は、価値的な意ではなく、むしろ佛教そのものの端的さ、もしくは自明的であることをいったもの。」 と註釈されています。 衣川賢治先生の『臨済録訳注』には 「ああ!なんと黄檗の佛法はただひとつだったのだ!」と訳され、 「「多子」は多いことをいう口語。「無多子」は「多子」の否定で、一つである意(無ではない)。」 と註釈されています。 古い註釈書などを調べてみると、 無許多也 そこばくもないと云う義 別なることもない也 如龍得水 似虎靠山 などと註釈されています。 『臨済録贅辨』には、 「元来黄檗の仏法は何の造作もない者じゃと叫んだ。 無多子は多きこと無しの意。」とあります。 『諸録俗語解』に多子無しの意味は、 「大なことはない」 「仰山なことはない」と云う意と解説されています。 小川隆先生の『臨済録のことば』(講談社学術文庫)には 「元来、黄檗の仏法、多子無し! なんだ、黄檗の仏法には、なんの事も無かったのか。 黄檗の教えは、謎解きも種明かしも必要ない、そのものずばりのものだったのだ! 「元来~」は口語で「なんだ~だったのか」という、発見と納得の語気を表す。 現代中国語の「原来~」にあたる言葉で、「元来」がもともとの表記だったのが、「元(モンゴル)が来る」という連想を嫌って、明代以後「原来」と書かれるようになったという。 「多子」は「多事」ともいう。 多くのこと、ではなく、余計なこと。 それが無いのがつまり「無事」」であると解説されていて、 更に「くだくだしき道理も意味づけも無い、「即心是仏」という事実の端的な提示、それが黄檗の仏法だったのである」 と明確に説いてくださっています。 そして「入矢「禅語つれづれ」参照」とありますので、入矢義高先生の『求道と悦楽』を参照してみますと、 「さて問題は「多子無し」である。これも俗語なのであるが、従来これは「なんの造作もない」とか、「大したことはない」(岩波文庫旧版)とか、「たあいない」(同上新版)などと解釈されてきた。 某師の『臨済録新講』 でも、右の一句を「黄檗の禅って、どんなえらいことかと思ったら、ナーンだ、こんなものだったのか」と釈し、さらに「明けてみたらば猫の糞かなというところである」という解説までついている。みな誤りである。」 「つまり「多子無し」とはここでは「特別変ったしさいがない」「普通のもの以上の何か違ったものがない」ことである。「多子」の「多」とは、文字通りには、「必要以上・普通以上の余計なもの」という意。」 「「多子無し」という言葉じたいには、もともと価値判断は含まれていないのであり、したがって「たいしたことはない」とか、「たあいない」とかいった評価や批判にはなりようはないのである。」 と説かれているものです。 柳田先生が示されたように、臨済禅師が悟りを開いて、師の黄檗禅師に超える気概をいったものと解釈すると、それは読み込みが過ぎるでしょう。 ただ私としては、ここのところ、臨済禅師ご自身が、仏法とは実に高い理想の境地のように思いこんでいたのが、気がついてみれば、実にそんなものはどこにもない、ただこれこれだという意味で、たあいもないと言ったとすれば、旧来の解釈もあながち逸れてはいないようにも感じます。 「多子無し」の一語ですが、実に「多子無し」どころか、いろいろとたくさん、あれこれあるものなのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1261回「初めて日本に伝わった禅」

          『禅学大辞典』で「禅宗」という項目を調べてみると、日本の禅の伝来について次のように書かれています。 「日本における禅の流伝は、伝説によれば、孝徳天皇白雉四年(六五三)に入唐した元興寺道昭が慧可の法孫慧満から禅法を伝え、元興寺東南隅に禅院を建てたのを初伝とし、次いで天平八年(七三六)普寂の門人道璿が来朝して北宗禅を伝え、延暦二一年(八〇二)最澄が入唐して傭然から牛頭禅を受け、嵯峨天皇の橘(檀林)皇后の招請で、馬祖下、斉安の法嗣、義空が来朝して南宗禅を伝えた。 また承安元年(一一七一)叡山の覚阿が入宋して、瞎堂慧遠から心印を受けたと伝えられる。 以上の五伝はその法系が栄えなかった。 次いで三宝寺の大日能忍は、自ら修した禅法の得悟を、入宋させた練中・勝辨の二弟子に託して、育王山の拙庵徳光に呈示させ、その印可証明を受けた。 彼等の帰朝後、能忍は日本達磨宗の旗織(きし)を掲げ、盛んに禅を鼓吹した。 道元禅師の弟子となった懐弊・義介・義演等は、初め達磨宗の禅風を受けていた。 本格的な禅が日本に伝えられたのは、文治三年(一一八七)に入宋して虚庵懐敞から黄竜一派を伝えた明庵栄西に始まる。」 と書かれていますように、初めて禅を伝えたとされる方が道昭であります。 道昭について『仏教辞典』には 629(舒明1)ー700(文武4) 「法相宗の僧。 河内国(大阪府)丹比郡船連(ふねのむらじ)の出身。 653年(白雉4)入唐、玄奘三蔵に師事して法相教学を学び(一説には摂論教学)、660年(斉明6)頃帰朝、法興寺(飛鳥寺(あすかでら)・元興寺(がんごうじ))の一隅に禅院を建てて住し、日本法相教学初伝(南寺伝)となった。」 と書かれていて、禅を伝えたことに言及されていません。 またこの道昭は日本で初めて火葬にされた僧でもあります。 道璿については『仏教辞典』には、 「702(中国長安2)ー760(天平宝字4) 一説に757年没。 中国、許州(河南省)衛氏の出身。 定賓(じょうひん)から戒律、普寂から北宗禅を受学。 戒師招請のため入唐していた普照、栄叡の要請に応じて736年(天平8)来朝。 伝戒師として大安寺西唐院に住し、東大寺大仏開眼会には呪願師(じゅがんし)を勤めた。 晩年病を得て吉野の比蘇寺(ひそでら)に退き没。 没時には律師。道は華厳・天台にも通じ、これらの教学は弟子行表(ぎょうひょう)(724ー797)を通じて最澄に影響を与えた。」 と記されています。 普寂という方は五祖弘忍の法を嗣いだ神秀のお弟子であります。 最澄については、『興禅護国論』の中に次の記述があります。 『日本禅語録1 栄西』から古田紹欽先生の現代語訳を参照します。 「伝教大師の譜の文に次のようにいっている。「謹んで自分が受けた得度の公の許状を見るに、そこに師主は奈良の左京の大安寺伝燈法師位行表である、引文。 その行表の祖の道璿和上が、大唐国より持って来て写し伝えた達磨大師の教えを説いたものが、比叡山の宝蔵にある。 延暦の歳の末に自分は大唐国に到り、師について教えを受け、さらに達磨大師の禅の教えを師から付授された。 それは大唐国の貞元二十年十月十三日のことであり、天台山禅林寺(今の大慈寺)の翛然からである。 翛然はインドから大唐国にいたる代々の祖師に伝わった法脈を受け継ぎ、また達磨大師の禅の教え、すなわち牛頭禅の法門を授かって伝えていたのであるが、その翛然から禅法をちょうだいして帰国したのであり、それは比叡山に安置し行なっているところである」と。」 と書かれています。 翛然という方については、諸説ありますが、牛頭禅の系統だと書かれています。 牛頭禅とは、牛頭法融(ごずほうゆう)(594ー657)を祖とする中国禅宗であります。 牛頭の名称は、法融所住の弘覚寺が江蘇省牛頭山に存したことに由来します。 それから、檀林皇后によってまねかれた義空という僧もいました。 義空は、馬祖の弟子である塩官斉安禅師のお弟子であります。 馬祖系の禅を伝えています。 義空は檀林寺の開山となったと『禅学大辞典』には書かれていますが、数年で中国に帰ってしまいました。 檀林皇后は、義空に参じて、 「唐土の 山のあなたに 立つ雲は ここに焚く火の 煙なりけり」という和歌を残されています。 それから先日紹介した覚阿という僧がいて禅を伝え、更に大日房能忍がいたのでした。 結局『禅学大辞典』にある通り、 「本格的な禅が日本に伝えられたのは、文治三年(一一八七)に入宋して虚庵懐敞から黄竜一派を伝えた明庵栄西に始まる。」ということになるのです。 『興禅護国論』に「鏡に垢あれば色像現ぜず、垢除けばすなわち現ずるがごとく、衆生もまたしかり。心未だ垢を離れざれば法身現ぜす、垢離るればすなわち現ず。(『興禅護国論』第七)」という言葉があります。 『日本の禅語録1 栄西』には、 「もし鏡に汚れが付いていれば映像は現れませんが、その汚れを取り除けば現れます。私たち衆生も同様です。 衆生の心に垢という煩悩がまとわりついていては、仏の本身は現れませんが、その垢を取り除けば、 はっきりと現れます。」と訳されています。 この教えなどは、即心是仏を標榜しながらも北宗の禅であります。 やはり戒や禅定など実際の修行を重んじられたからこそ、日本において禅が受け容れられていったのではないかと思っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1260回「まっすぐに立つ」

          先日、呼吸法アドバイザーの椎名由紀先生にお越しいただいて講習を受けていました。 毎回テーマを決めて下さるのですが、今回は「姿勢」でした。 「姿勢」ほど大事なものはありません。 「姿勢」を『広辞苑』で調べてみると、二つの意味があります。 ①は「からだの構え」です。 「正しい姿勢」「不動の姿勢」「姿勢を崩す」という用例があります。 それから②に「事に当たる態度」という意味があります。 「政治姿勢」「前向きの姿勢で検討する」という用例があります。 この①のからだの構えと、②の事にあたる態度は通じています。 からだの構えができていないと、事にあたる態度もできません。 お互いの人生は、いろんな事にあたる連続であります。 どんなことにあたるにもやはりからだの構えは重要であります。 私もイス坐禅の研究などを通じて、呼吸を調えるには姿勢が大事だとつくづく感じています。 逆に姿勢さえ調えば、呼吸は自然と調ってくるものです。 それだけに姿勢は簡単なようで難しいものです。 今回はじめにしゃがむ姿勢をとりました。 しゃがむというのが、できない人もいるのであります。 かつては和式のトイレが当たり前でしたので、誰でもできたものです。 このしゃがむという姿勢がまた良いのです。 どうよいのかは、椎名先生と私の共著である『ZEN呼吸 「健康」は白隠さんから』に書かれていますので、引用します。 「和式便所の効用」として書かれています。 これは「上半身の力が最もゆるみやすい」もので、「和式便所」のスタイルです。 椎名先生は 「この姿勢を取ると、足腰がしっかりと使われ、上半身が脱力します。 しゃがむことによって太腿が大腸を押し、上半身はゆるんでいるので自然と腹式呼吸ができて、横隔膜が下がることでも大腸を動かします。 つまり、この姿勢を取るだけで腸の蠕動運動が自動的に行われるため、どうしたって便秘は解消します。 さらに、この姿勢は下半身をしっかりと使う姿勢なので、寝たきり防止のための足腰強化トレーニングとしても有効です! できない人は要注意!!」 と書いてくれています。 しゃがんで踵がつかないのは、ふくらはぎと足の裏が原因だと教えてくださいました。 立つ姿勢は難しいものです。 よい姿勢になると、どうなるか椎名先生は『ZEN呼吸』に 「頭頂、耳の付け根、肩峰(肩の付け根)、大転子(大腿骨付け根の曲がった突起部位で、もも横から触れられる骨)が一直線に並び、大地と垂直になっています。 これが、重力に逆らわない自然な姿勢です。 上半身は脱力してゆるみ、下半身はドッシリとします。 土台となっている下半身に、上半身はふわりと乗っているだけ、また頭部も、脊椎のトップに紙風船のように優しく乗っているだけ、どこにも負担をかけず、重力に従うだけの柱のような姿勢で、コリや痛みもありません。」 と説かれています。 こういう姿勢を作りたいものです。 今回、くるぶし、大転子、肋骨の下、肩の付け根にシールを貼って、橫からお互いに見てもらうようにしました。 なかなか一直線にゆかないものです。 どこかにゆがみがあるものです。 肋骨が後に傾くことが多いようです。 そうすると身体のあちこちに負荷がかかってしまいます。 頭が前へ出ているため、首や肩がこってしまいます。 肋骨が後ろに傾いていることにより、内臓を潰してしまっています。 そして後傾している肋骨をなんとか支えようと、太腿の前の筋肉にも負担がかかり、前腿がパンパンに張ってしまっています。 腰もつらそうになります。 椎名先生は「姿勢が悪いということは、身体の一部分に負荷がかかるわけではありません。どこか、ではなく、全体の、大元のバランスを崩してしまうのです。」 と説かれています。 「また呼吸の観点から見ても、首が傾いていることによって気管が閉塞し肺も圧迫され、これでは深い呼吸はできません。常に身体にストレスがかかり、わざわざ自分の身体を傷めつけているようなものなのです。」 ということになってしまいます。 ではどうしたらよい姿勢になるのか、今回も丁寧に指導してもらいました。 『ZEN呼吸』にあるまっすぐ立つ方法を椎名先生の文章から引用させてもらいます。 「まずは、両足を腰幅(肩幅ではありません!)に開いて、両足の人差し指が平行になるように立ちます。 足の向きが外側に開きがちな人が多いですが、人差し指は体の向きに対して垂直にします。」とあります。 これをすると、なにか内股になったような気がするのですが、この足が土台となるのです。 そして「次に、膝をしっかりと曲げ、足裏全体をべたりと大地に着けます。 この時、膝が内側に入らないよう、膝頭の向きにも注意しましょう。 そこから頭頂を天に向かって引き上げ、膝がピンと張る手前でストップ。 常に膝は軽く緩んで、足裏全体に体重がのっている状態をキープします。」 というようにします。 それから仙骨を立てるのです。 椎名先生の手順では、 まず「仙骨に手を当てます。 やはり中指の指先が仙骨の下部に当たるように、掌をぺたりと仙骨に沿わせます。」 それから「その状態で、お尻だけをプリッとヒップアップ(出っ尻に)させます。 わざと骨盤を前傾させるのですが、この時、上半身や膝は一緒に動かないで、骨盤だけが動くように気をつけましょう。」 というようにして仙骨を調えてゆきます。 その状態にしておいて更に「鼻から静かに息を吐きながら、中指の指先(仙骨下部)を、テコのようにゆっくりと前に押し入れ、仙骨を立てます。 自然と下腹部(臍下)が締まったのを確認したら、仙骨に当てていた手をほどきます。」 ということなのです。 たったこれだけなのですが、新しく入った修行僧には難しい者もいました。 なかなか骨盤が固まって動かないことも多いようです。 それから 「次に、肋骨を真っ直ぐに立てます。 みぞおちに軽く指先を当て、あえて胸を張ります。 肋骨が後傾しているこの状態を、 わかりやすいように、正面や斜め前からも見てみましょう。 自分は「胃が出ている」と思っている方が多いですが、胃は勝手に出てきたりしません! それは、肋骨下部を自分で前に突き出し、胸を張り過ぎている、それだけのことなのです。 そこから、息を静かに鼻から吐きながら、ゆっくりとみぞおちを押し下げていきます。 上腹部がソフトに締まり、また肩回りや腕の付け根が楽になるのも感じられるでしょう。 すぐにはわからないという人も、何度もやっていくうちに次第にわかってきます。」 ということなのです。 私もいくら気をつけていても肋骨が後ろに傾くようで毎回治してもらっています。 そのあと竹を使って肩や背中、お尻股関節などをしっかりほぐして、仰向けになってストレッチを教わりました。 そうして体をほぐしてもう一度立つと、自然とまっすぐ立てるように感じました。 まっすぐに立つことは難しいと毎回学ぶのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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