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第1407回「良かれと思っても」
この頃はよく褒めて伸ばすということが言われます。 たしかに褒められると頑張ろうという気になるものです。 私たちの修行の世界では、褒めるということはほとんどありませんでした。 私の場合、先代の管長にお仕えしてきて、三十年来褒められた記憶はありません。 いつもお叱りを受けるか、お小言を頂戴するかでありました。 おそばで毎日のお料理をお作りしていた頃もありましたが、おいしいとか、よく出来ているというようなことを仰ることはありませんでした。 手間暇をかけて作ったものには、こんなことをする暇があれば、もっと他にやることがあるだろうとか、仰ったものでした。 もうお亡くなりになると、そんなお小言のひとつひとつが懐かしく有り難く思うものです。 それでも長年お仕えしていると、お料理にもお小言を仰せになりながらも、その表情や仕草でおいしいと思ってくださっていることが分かるものです。 それでこちらはじゅうぶんに満足したものでした。 そんな修行をしていると、おそばにいて、言葉にせずとも伝わるものがあると分かってくるのであります。 先代の管長は実際に畑で麦踏みなどをなさっていた経験がありました。 そこで修行僧の指導は麦を踏むのと同じだ、踏めば踏むほどよくなるのだという理論でありました。 もう「麦踏み」も今は伝わらないかもしれません。 「麦踏み」は 「麦の伸び過ぎを押さえ、根張りをよくするため、早春、麦の芽を足で踏むこと」と『広辞苑』に解説されています。 麦は踏んでこそよくみのるものなのです。 しかし、この頃はこの「麦踏み」理論は通じません。 やはりところどころで褒めてあげないと難しいものです。 私は、よく出来たお料理の時は、よく出来ましたねと褒めますし、おいしいと、おいしいですと言ってあげるようにしています。 その方がやりがいがあると思うのです。 しかしただ褒めればいいというわけでもありません。 たとえば「褒め殺し」という言葉もあります。 こちらも『広辞苑』に載っています。 ①ほめて、その者を駄目にすること。 「贔屓が役者を褒め殺しにする」という用例があります。 それから ②誉め言葉を連ねつつ相手を責めること。 という解説があります。 この頃は更に褒めることもハラスメントになるという「ほめはら」なる言葉もあると聞きました。 なかなか褒めることも難しいものだと思うことがありました。 滋賀県在住の高校教師の方から毎月「虹天」という冊子を送っていただいています。 これを毎月読むのが楽しみなのであります。 今月号にもある高校三年生の方の話が心に残りました。 そして深く考えさせられました。 「すべての経験はこれからの幸せのために」という題で書かれた文章でした。 その高校三年生の女性の担任となったときの話です。 その生徒は高校二年まで成績オール「5」で超優秀だったそうです。 そして努力家で、部活も熱心だったのでした。 先生はその女生徒のことを「いわゆる超ストイックで完璧主義な生徒」と表現されています。 この生徒自身、自分には才能がないので、人並みに努力してもダメ、最近は毎日四時間の睡眠だというのです。 それが5月の連休明けから、その生徒は咳が止まらなくなったそうなのです。 毎晩明け方まで寝られなくなり、学校も休むようになりました。 内科の診察では問題はないということです。 そこで大きな病院の精神科にも通うようになったのでした。 とうとう歩くことさえ満足にできず杖をつきながらお母さんと一緒に登校するようにまでなってしまったのでした。 だんだんとそのお母様も衰弱されてきました。 それが七月の頃、変化がみられました。 これまで目指していた大学の受験をあきらめて、将来やりたいことにつながる別の大学を面接で9月に受けるというのです。 夏休みに部活動を引退してからは気持ちが楽になったのか咳が止まったというのです。 これはよい結果になりました。 ただお母様がこんなことを仰ったというのです。 「私は昔から、あの子ががんばって何かできたときにはよく褒めてあげました。 でも、『もっとやれば、こんなこともできるかも知れないね』と、さらに上を目指させるような言葉も言っていたように思います。 何かに挑戦する場面でも、『どうする?やってみる?」と聴きながらも、ついついやらせる方向に誘導していました」というのです。 お母様が、自分のことを責めていらっしゃるのです。 お母様にはなんの悪気もありません。 褒めてあげていたのです。 でも「もっとやれば」という気持ちが彼女を苦しめることにつながっていたのかもしれません。 その先生は「やはり、がんばれって言い過ぎたり、期待しすぎるのはよくないかもしれませんね・・・」なんて言ったりしたら、お母様はいたたまれない気持ちになると察しました。 そこでそのお母様に伝えた言葉が、 「すべての経験は、その人のこれからの幸せのために必要だからこそ、天が与えてくれたんだ」と思ってみるのはいかがでしょうということでした。 素晴らしい話だと感動したのです。 それと同時に深く考えさせられました。 これは誰も悪くないのです。 お母様も子供にとって良かれと思っています。 お子さんも一所懸命に頑張る子だったのです。 でもそれが自分を追い詰めることになっていたのです。 そこで私は仏教で説く「四無量心」を思いました。 岩波書店の『仏教辞典』には 「四つのはかりしれない利他(りた)の心」とあります。 更に具体的に 「慈、悲、喜、捨の四つをいい、これらの心を無量におこして、無量の人々を悟りに導くこと。 <慈>とは生けるものに楽を与えること、 <悲>とは苦を抜くこと、 <喜>とは他者の楽をねたまないこと、 <捨>とは好き嫌いによって差別しないことである。 これを修する者は大梵天界に生れるので<四梵住>ともいう。」と解説されています。 慈は相手に何かしてあげることです。 悲は共に苦しみ悲しむ心です。 喜は、相手の幸福を共に喜ぶ心です。 最後の「捨」が難しいのです。 『仏教辞典』に「捨」は「無関心、心の平静、心が平等で苦楽に傾かないこと」と解説されています。 「平静」である、相手に対する平静で落ち着いた心でいることです。 ただありのままを認めるといってもよろしいかと思います。 褒めることもなければ、悲しむこともないのです。 それでは何もしないのかというと、これが相手にとっては救いになるのです。 この女生徒の話からはいろんなことを学びます。 私たちは、良かれと思っていてもそれが人を苦しめることにもなると知っておくべきです。 「若し善根を作せば有相に住し、還って輪廻生死の因と成る」という言葉があります。 良いことをしても、また、良かれと思っても、それがかえってよしあしの姿にとらわれてしまい、迷い苦しみの原因ともなるということです。 常に自分自身の心を平静に保つようにすることが大事なのであります。 道ばたのお地蔵さんは、ただ黙って私たちのことを見守ってくれています。 よいとも悪いとも言いません。 ただ見守ってくれる、そんなお地蔵さんの心が「捨」なのだと思います。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1406回「死を恐れる心から」
花園大学の講義で、今回は三人の禅僧を取り上げて学びました。 鈴木正三と、盤珪禅師と白隠禅師であります。 この三人に共通しているところは、幼少より死について深く考えていたということです。 鈴木正三は、四歳の時に同年の子供の死に会い、長く死についての疑問が続くようになったのです。 十七歳で『宝物集』(仏教説話集)を読み、雪山童子の話を知って感動します。 真実を求めるためには自らの身命をも惜しまぬ気持ちを起こしたのでした。 盤珪禅師は二、三歳の頃より、死ぬということが嫌いで、泣いた時でも人が死んだまねをしてみせるか、人の死んだことを言って聞かせると泣き止んだというのです。 白隠禅師は、五歳の時、ひとりで海に出かけて、そこに浮かんでいる雲を眺めて世の無常を感じて大声で泣いてしまったというのです。 それから白隠禅師は十一歳の時に、母に連れられて昌源寺にお参りに行き、伊豆窪金(雲金)の日厳上人が、地獄の説相を説くのを聴かれました。 上人の弁舌は実に巧みで、熱鉄や釜の上で身を焼き苦しめられる焦熱地獄や、身が裂けて真っ赤になる紅蓮地獄の苦しみを目の前に見えるかのように話しました。 まだ少年だった白隠禅師は、これを聞いて身の毛のよだつ思いがしました。 そして心に思いました、 「自分は常日頃、好んで小動物を殺してしまうなど、乱暴をして来た。 だからきっと地獄に堕ちて永遠に苦しみを受けるだろう。 もはや逃れようはない」と。 全身が戦栗して、何をしていても心が穏やかではなくなりました。 そこで地獄から逃れるにはどうしたらよいか、母に聞くと、天神様を拝むとよいと教わって一心に天神様を拝んだのでした。 死を恐れる心は無常を覩る心であり菩提心に通じます。 菩提心とはこの無常を観る心なのであります。 この心がもとになって道を求めます。 そしてそれぞれに死の問題を解決してゆかれました。 盤珪禅師は、不生の仏心に気がつかれました。 不生の仏心とは、生じることもなく滅することもないものです。 何も生じていないのですから、滅する道理もないのです。 「禅師の曰、仏心は不生にして霊明なものに極りました、不生なる仏心、仏心は不生にして一切事がととのひまするわひの」と説かれています。 仏心というのは生じたものではないのです。 誰かによって生じたものではありません、 また、何らかの条件によって作り出されたものではないのです。 だから条件によって滅することもありません。 不生不滅の素晴らしいものです。 仏心は不生、その仏心で全ては調うのだと気がつかれました。 白隠禅師は、二十四歳の時に高田の英巌寺で坐禅していて悟りを開いたのでした。 「ある夜、お霊屋で坐禅して、恍惚としているうちに明け方になった。そのとき、遠くの寺の鐘の音が聞こえて来た。 かすかな音が耳に入ったとき、たちまち根塵が徹底的に剥げ落ちた。 さながら耳元で大きな鐘を撃ったようである。ここにおいて、豁然として大悟して、大声で叫んだ、 「わっはっはっ。岩頭和尚はまめ息災であったわやい。岩頭和尚はまめ息災であったわやい」と。」 という体験をなされたのです。 賊に襲われて亡くなったと聞いて失望落胆していたのですが、その岩頭和尚は死んではいない、まめ息災だと気づいたのでした。 そしてそれぞれの祖師は、その死ぬことのない仏心を人々に説いてゆかれたのです。 大学で講義をした翌日は、円覚寺で致知出版社の後継者育成塾の講義でありました。 これはそれぞれの会社の後継者となる方のための研修会であります。 毎年担当しているものです。 今回は、木に学ぶと題して講義をする準備をしていました。 ただその始めに花園大学で廣瀬順子さんに出会った話をしました。 楽しむということの大切さをお話しました。 何にしても楽しんで学ぶことは大事であります。 もっとも楽をしようというのではありません。 廣瀬さんの柔道の練習にしても、パラリンピックの金メダルを目指して練習するのですから、楽なはずはありません。 過酷にみえる練習でもその中に喜びや楽しみを見いだしてゆくのです。 少しでも何か自分に変化があると楽しいものです。 些細なことでも出来なかったことが出来るようになるのを見つけると楽しいものです。 そのように楽しみを見つけてゆく心が大事です。 そのあと天台小止観をもとに心を調える方法を学びました。 呼吸を調えるところを紹介します。 「息がととのうのに、四つの有り様がある。 一は風の有り様であり、二は喘の有り様であり、三は気の有り様であり、四は息の有り様である。 最初の「風・喘・気」の三つは、息がととのわない有り様であり、最後の一つの「息」は、息がととのう有り様である。 「風」の有り様は、どのようなことであるのか。 それは、坐禅の最中、鼻から出入りする呼吸に、声が立つのを感知することである。 「喘」の有り様は、どのようなことであるのか。 それは、坐禅の最中、呼吸に声は立たないが、出入息が詰まって滞るのが、喘の有り様である。 「気」の有り様は、どのようなことであるのか。 それは、坐禅の最中、声も立たないし、息が滞ることもないが、出入息が細やかでないのが、気の有り様であると呼んでいる。 「息」の有り様は、声も立たず、滞ることもなく、粗くもなく、出息も入息もあるのでもなく、ないのでもなく長く続き、身体を確り保ち、穏やかで、心に深い喜びを抱くことである。 これが息の有り様である。 「風」の状態を続ければ心は乱れ、「喘」の状態を続ければ心は滞り、「気」の状態を続ければ心は疲れるが、「息」の状態を続ければ心は安定する。 またつぎに、坐禅の最中に、呼吸が日常生活の風・喘・気の三つの有り様であれば、心はととのわない。 その状態で、心を働かせる者があれば、風・喘・気の三つの呼吸の有り様は、思いともなり悩みともなる。 従って、心もまた、集中し安定することは難しい。 もし心をととのえようと願うならば、三つの方法によらなければならない。 一は、心を下に置いて安定することである。 二は、身体をゆったりとすることである。 三は、大気が毛穴に満ちわたり、毛穴を出入りして通い、妨げることがないと思うことである。 この思う心が細やかなものであれば、息はあるかなしかの微かなものとなる。 このように息がととのえば、諸々の思いや悩みが生じる余地はない。修行者の心は一点に集中し、安定し易くなるものである。」 という呼吸を調える方法です。 こちらは山喜房仏書林の『天台小止観の訳注研究』からの引用です。 これもまず自分の呼吸は荒い呼吸なのか、なめらかなのか観察することです。 観察しているとだんだんと静かに調ってくるものです。 祖師方は死を恐れる心から道を求めて、こういう地道な修行を通して、あるときの縁にふれて生じることも滅することもない仏心に目覚められたのであります。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1405回「楽しみ、その中にあり」
妙心寺で行われた円福寺老師の開堂に参列した明くる日は、花園大学の授業でありました。 京都に行くには往復の時間がかかりますので、妙心寺の儀式に私の授業を合わせるようにしました。 その日は、朝から行事が続く日となりました。 午前9時に禅文化研究所に行って、YouTubeの撮影をしました。 十月は、禅文化研究所では六十周年の記念事業があったので、撮影が出来なかったのでした。 久しぶりの撮影となりました。 まずは墨蹟紹介の動画を撮りました。 この墨蹟紹介、ただいま禅文化研究所所蔵の墨蹟について、その読み方、意味内容、そして書いた人物がどんな人なのかを解説している動画であります。 ご覧くださる方はあまり多くないのですが、墨蹟に興味のある方にとっては、良いことだろうと思って、なんとか頑張って継続しています。 書と画とを交互に紹介していますが、今回は、書であります。 円覚寺の中興大用国師の一行書を紹介しました。 これは数ある大用国師の書の中でも逸品といってよい墨蹟であります。 大用国師のご生涯も解説しました。 それから、研究所のYouTubeでは、書籍紹介を行ってきましたが、今回から新シリーズとして、「山田無文老師の『般若心経』に学ぶ」と題して動画を撮影しました。 これはこれから続いてゆきます。 般若心経をみなさんと一緒に学んでゆこうという企画であります。 禅文化研究所発行の山田無文老師の『般若心経』という本があります。 これをもとにして、般若心経について解説してゆきます。 般若心経の一節をとりあげて、それに対する無文老師の言葉を紹介し、それに私が言葉を添えるというものです。 今回は、経題の「摩訶般若波羅蜜多心経」を解説しました。 これから本文に入ってゆきます。 みなさんと一緒に般若心経を学んで参ります。 そうして十時前に大学の総長室に入りました。 その日はいつもの二時限目の授業を担当することになっていました。 「禅とこころ」という授業です。 月に一回で講義をしています。 今期は、「禅僧の逸話に学ぶ」と題して講義しています。 第一回は達磨大師の逸話を紹介しました。 二回目は唐代禅僧の逸話に学ぶでした。 三回目は、宋代の禅僧の逸話に学ぶでありました。 四回目は、鎌倉時代から室町時代にかけての禅僧の逸話に学びました。 そして今回は江戸時代の禅僧の逸話に学ぶです。 江戸時代で誰を取り上げようかとずいぶん悩みましたが、鈴木正三と盤珪禅師と白隠禅師とを取り上げました。 この三人の禅僧の逸話を紹介しながら、禅について学んでみたのでした。 一般のみなさんも熱心に聴講してくださり有り難いことであります。 いつもならそこでお昼休みなのですが、今回はお昼休みにも仕事が入りました。 これがなんとも有り難いお仕事でした。 花園大学の卒業生で、今回バリのパラリンピック女子柔道で金メダルを取られた廣瀬順子さんとの対談でありました。 大学の卒業生でパラリンピック金メダルとは素晴らしいものです。 授業の前に、担当の方と打ち合わせをして、授業を終えてすぐに、控え室で廣瀬さんにお目にかかりました。 ご主人もご一緒に来てくださっていました。 控え室でお目にかかって一番感じたのは、笑顔の素敵な明るい方だということでした。 お昼休みを利用して凱旋セレモニーを行ったのでした。 花園学園の理事長から、花園学園スポーツ栄誉賞・目録を贈呈し、花園大学からは学長が花園大学スポーツ賞・目録を贈呈しました。 そして同窓会からは副会長が特別賞・目録を贈呈しました。 そのあと廣瀬さんと私とで二十分ほど対談させてもらいました。 対談は、今までかなりの数を行ってきていますが、毎回緊張するものです。 特に公開で、時間が決められていると、その時間内に終えないといけませんので、どのように進行して最後にもってゆくか、ハラハラします。 司会はなく、私が聞き役となって話を進めました。 まずは柔道を始めたきっかけからうかがいました。 柔道が題材になっている少女漫画の主人公に憧れて、小学校五年生の時に始められたのでした。 そして中学校、高校も柔道部に所属していたそうなのです。 インターハイにも出場なされたのでした。 高校卒業と同時に柔道はひと区切りとしていたそうです。 最初は広島の大学に入学していたらしいのですが、一回生のときに病気になり、中退せざるを得なくなったそうです。 もう大学に行くことは無理かなと思っていたのですが、リハビリセンターにいた職員さんが、花園大学の卒業生で、花園大学では目の不自由な方も支援してくれるという話を聴いて、花園大学に行こうと決められたのでした。 先生や職員、そして良い仲間にめぐり合えたと語ってくださいました。 大学としてはとてもうれしいことであります。 しかし、花園大学には柔道部はありません。 大学三年生の時に視覚障害者柔道をはじめ、近所の道場で練習されていました。 大学卒業後に柔道を仕事として就職をすることになり、それからパラリンピック出場を目指すようになったのでした。 そうしてリオのパラリンピックでは銅メダルを受賞し、東京では五位入賞、そして今回のパリでは金メダルを取られたのでした。 パラリンピック女子柔道金メダルは日本初だというのです。 学生へのメッセージをお願いしたところ、あきらめずに頑張ることの大切さを、心を込めて話してくれました。 頑張ったら頑張っただけの意味があると語ってくれました。 最後に私から廣瀬さんにお祝いの色紙を差し上げました。 かねてから楽しむという言葉が入ったのがいいと言われていましたので、論語から「楽しみ、其の中に在り」という言葉を書いて謹呈しました。 論語に「粗末な飯をたべて水を飲み、うでをまげてそれを枕にする。楽しみはやはりそこにもあるものだ。」という言葉があります。 そこから取ったのでした。 廣瀬さんは、柔道では笑ってはいけないと教えられていたそうなのです。 しかし今のご主人と出会われてから柔道を楽しむように変わったのだと仰っていました。 同じく視覚障害者柔道をなさっているご主人との出会いは、廣瀬さんにとってとても大きかったのだと思います。 笑ってもいい、楽しくやったのだというのです。 これは素晴らしいことだと思いました。 素敵な笑顔は楽しんでおられるからだと分かりました。 それで素晴らしい成績をおさめられたのです。 そのお昼のセレモニーを終えて、そのまま禅文化研究所に行って運営委員会を行っていました。 鎌倉に帰ったのは夜遅くなっていましたが、素晴らしい方と対談できると、疲れも残らないものです。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1404回「法縁の有り難」
十一月三日は文化の日、もとは明治節といって明治天皇のお誕生日だったそうです。 戦後は文化の日として、「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」となったのでした。 この日は晴れになる確率が高いとも言われています。 この文化の日の前後に円覚寺では宝物風入れと、舎利殿の特別拝観を行っています。 宝物は、近年、数を限定して公開するようにしています。 国宝舎利殿はふだんお参りできませんので、この日には、多くの皆様がお参りくださっています。 また最近はこの時期に、功徳林坐禅と法話の会も開催しています。 私が法話を担当した二日は、大雨でありました。 しかし、明くる文化の日には、すっかりよい天気になったのでした。 三日の日に京都に入り、四日は妙心寺の儀式に参列していました。 京都の八幡市にある円福寺僧堂の師家政道徳門老師が、妙心寺で歴住開堂という大きな儀式をなさって、それにお招きいただいたのでした。 歴住開堂というのは、妙心寺派には二十ほどの僧堂、修行道場があり、その老師が、妙心寺の第何世住持という、妙心寺の世代に入る儀式なのです。 その日、妙心寺に第何世として就任して、はじめて妙心寺の法堂に登ってお説法をなさるのです。 はじめてお説法なさることを「開堂」といいます。 当日いただいた小冊子には次のように解説されていました。 「中国では南宋以降 清朝にいたるまで、人々の尊崇を集めた禅僧たちは、いわゆる五山十刹などの大寺院に「住持」として入りました。 こうして禅院の住持として、はじめて寺院に入ることを「入院(じゅえん)」といい、新命住持は仏祖ならびに開山禅師からの宗旨を継承して、法堂において仏法を説きました。 これを「開堂」といいます。 この儀式が日本に伝来し、変容しながらも今日の禅宗各派に伝わっています。 妙心寺における「歴住開堂式」とは、師家分上の禅僧が「歴住職」という法階を得て、古例に倣い 法堂にて最初の説法を行う儀式です。」 と書かれています。 今年の四月に愛媛の大乗寺の老師が、この歴住開堂をなさって私も参列させてもらいました。 今回の政道老師は、妙心寺の第七百十一世にご就任なされたのでした。 思い返せば、この私も二〇〇三年に円覚寺で歴住開堂の儀式を行いました。 そこで円覚寺第二百十八世に就任させてもらったのでした。 もうあれから二十一年も経つのであります。 三日の晩には、政道老師を囲んで前日の祝宴が行われました。 有り難いことに私が祝辞を述べさせてもらったのでした。 政道老師のことを、私がただいまの老師方の中で、もっともご尊敬申し上げる老師でありますと申し上げました。 そして近年いろいろとご指導いただいますと言って、開堂の無事円成と仏法の益々の興隆を祈念申し上げました。 当日も、政道老師のお人柄を表すかのような爽やかな秋の日となりました。 妙心寺伝統の儀式が粛々と進みます。 もともと堂々たる体躯の老師ですが、まさに威風堂々たるお姿でありました。 政道老師のことを知ったのは、二〇一八年に発行された季刊『禅文化』二四七号に、「『坐禅儀』を読む」という文章を拝読してからでした。 この文章に私は深く感銘を受けました。 政道老師は一九七三年のお生まれですので、私より九歳お若いのです。 二〇〇九年に円福寺の老師になられていますので、まだ三十六歳で老師になられています。 老師方が集まる時に、お姿だけをお見受けしていました。 私と同じく三十代で師家となられていますので、親近感は抱いていました。 ただこの禅文化の「『坐禅儀』を読む」を拝読して是非ともこの老師にお目にかかってみたいと思ったのでした。 ただいまこの「『坐禅儀』を読む」は、禅文化研究所発行の『新・坐禅のすすめ』で読むことができます。 とりわけ、呼吸については、これも『新・坐禅のすすめ』に、次のように書かれています。 「まずはゆっくり息を吸います。 吸いながら、頭のてっぺんが天からひもで引っ張られるイメージで、背筋を伸ばしていきます。 同時に自然にへその下(丹田)に気がみなぎるのを意識します。今度は息を吐いていきます。 吐きながら上半身が緩んでいくのを感じ、息が出て行くのを見届けます。息の出入にともなう身体の変化に心を置きながら、しばらくの間、自然な順腹式呼吸(普通の腹式呼吸)を続けます。 身体と心が「呼吸を介して」一つになっていることを確認します。 呼吸が落ち着いてきたら、さらに今度はスケールの大きな坐禅をすることを心がけます。 息を吸う時は天地の恵みを頂くように吸い、息を吐く時は自分が天地の隅々に溶け込んでいくように吐いていく。 自己と天地が「呼吸を介して」 つながっていることを意識します。」 と丁寧に解説してくださっています。 更に 「……数息観、特に随息観は「出入の息に任せる」というところがポイントですから、この時点で「呼吸を調えよう」とか「大きく吸おう」とか「長く吐こう」等、呼吸に対して計らうことを一切やめてしまいます。 そうすると実際の呼吸には、長短、粗細、深浅、実に様々なものが存在することに気付きます。 そういった次から次へとやって来ては去って行く「千姿万態の呼吸」に対して心を開いて、「一息」また「一息」と丁寧に観察していきます。呼吸に身と心を任せてしまうのがポイントです。」 と書かれています。 私などは意識的に丹田に気を集め、長く吐くことに心を用いていましたので、この解説は新鮮でした。 これは一度教わりたいと思ったのでした。 それから更に『新・坐禅のすすめ』には、 「坐禅の間に歩行禅を取り入れることで、実際に「動静間なく」正念を相続する感覚を学んでいきます。 歩行禅にも色々な方法がありますが、一つの方法として「呼吸に心を置いたまま、その出入に合わせてゆっくり一歩一歩足を進めていく」方法があります。 すなわち吸う息に合わせて足を上げ、吐く息に合わせて足を降ろしていきます。 これは臨済宗の「速く歩く経行」は勿論、曹洞宗の「一息半歩の経行」と比べても、取り組む感覚が少し違います。 日々歩行禅を修習することで、実際に作務など「動中の工夫」のための下地を作ることができます。」 と書かれていて、私はこの「歩行禅」とはどんなものかとても興味をもって円福寺まで教わりに行ったのでした。 また政道老師に円覚寺にお越しいただいて歩行禅をご指導いただいたこともあります。 そんなご縁があって、このたび老師の晴れの儀式にお招きいただいたのでした。 法縁の有り難さをしみじみと思います。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1403回「愚を守る」
愚を守ると書いて「守愚」という言葉があります。 諸橋轍次先生の大漢和辞典には、 「かしこぶらないこと」という意味が書かれていて、 「愚を守って世途の険しきを学ばず、事無くして始めて春日の長きを知る」という用例があります。 「愚」ということは、一般にはよい意味で使われないものですが、老荘思想においては愚というのはすぐれた徳として説かれるようになっています。 谷崎潤一郎氏はその小説『刺青』の冒頭に、「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」と書かれています。 『史記』老子・韓非列伝に、老子と孔子の問答があります。 岩波文庫の『史記列伝一』から現代語訳を引用します。 「孔子は周の都へおもむき、礼について老子に質問せんとした。 老子は言った、「きみが言っている人たちは、その骨といっしょに朽ちてしまった。 ただそのことばだけが存在する。 それに君子は時を得ればそれに乗り、時を得なければ、転蓬のごとくさすらう。 『良れた商人は品物を深くしまいこみ何もないように見え、君子は盛んな徳があっても、容貌は愚者に似る』とわたしは聞いた。 きみの高慢と欲望、ようすぶることと多すぎる志をのぞくことだ。 そんなことはどれもきみの身にとっては無益だ。 わたしがきみに教えられることは、それくらいのものだ」。」 というところに、君子は盛徳有って容貌愚なるが如しという言葉が出てきます。 また『老子』にも愚について説かれているところがあります。 第二十の「学を絶てば憂い無し」と説かれているところです。 講談社学術文庫の『老子 全訳註』にある現代語訳を引用しましょう。 「第二十章 〔およそ学問さえ捨ててしまえば、我々の抱く悩みは全てなくなる〕。 学問によって教えられる、ハイという返辞とコラという怒鳴り声とは、そもそもどれほどの違いがあろうか。美しいものと醜いものとは、一体、どれほどの隔たりがあろうか。 だから、学問の教えるものは全て捨てて構わないのだけれども、ただ人々の〔畏れる〕ものだけは、わたしも 〔畏れないわけにはいか〕ない。 〔道というものはぼんやりとしていて、人間にとって把えることの極めて難しい実在だ〕。 道を知ろうとしない大衆は浮き浮きとして楽しく生きている。 彼らは、あたかも大ご馳走の饗宴に臨むかのようであり、また春、高台に登ってあたりを見晴るかすかのようでもある。 しかし、わたしはつくねんとしてまだこの世に姿を現わす前の状態にいる。 あたかも〔まだ笑うことを知らない赤ん坊〕のようでもあり、またぐったりと疲れはてて〔帰るところのない者〕のようでもある。 〔大衆は〕 誰しもみなあり余る財貨を持っているけれども、わたしだけは貧乏だ。 わたしは愚か者の心の持ち主、のろのろと間が抜けている。 道を知ろうとしない世間の〔人々は、はきはきと知恵がよくまわるのに引き替え、わたしだけは〕 どんよりと暗くよどんで〔いるかのようだ〕。 世間の人々はてきぱきと敏腕を振るうのに対して、わたしだけはもたもたしている。 この道はおぼろげで果てしなく〔海〕のように拡がっており、ぼうっとどこまでも伸びて止まるところがないかのようである。 〔大衆は誰しもみな世わたりの方便を持っているが、わたしだけは頑迷固陋〕でその上わたしはただ一人、他の人々とは異なって、万物をはぐくみ育てる乳母にも譬られるこの道を大切にしたいと思う。」 というところがあります。 「我は愚人の心なり」と説かれています。 『荘子』にも 「大衆はこつこつと勤めるけれども、聖人はぼんやりと愚かである。 永遠の時間の中の出来事をこき雑ぜて、ひたすら世界を純粋さへと高めていき、万物を全て然りと言って斉同化して、万物を尽く是と見なして包みこむ。」 という一節があります。 愚公山を移すという言葉はよく知られています。 『列子』にある話です。 『広辞苑』には「北山の愚公が、齢90歳にして、通行に不便な山を他に移そうと箕で土を運び始めたので、天帝が感心してこの山を他へ移した、という寓話。たゆまぬ努力を続ければ、いつかは大きな事業もなしとげ得ることのたとえ。」と解説されています。 北山の愚公という九十近い老人がいました。 南が山でふさがっているので、その山を平らにしようと言い出したのでした。 息子と孫とで山を崩しにかかりました。 それを河曲の智叟が笑うのです。 「なんと馬鹿げたことを。老い先短いお前さんにゃ、山のかけらひとつ崩せまい。 ましてあの大きな山の土や石をどうするつもりだ」 それに対して愚公は 「わたしが死んでも子どもがいる。子どもが孫を生む。孫がまた子どもを生む。 子どもにまた子どもができる。その子どもに孫ができる。こうして子孫代々うけついで絶えることがない。だが山はいま以上高くならない。平らにできないことがあるものか」 と言ったのです。 「智叟は返すことばがなかった。山の神はこのやりとりを聞いて、愚公がとことんやりぬくのではないかと、そら恐ろしくなって天帝に訴えた。 すると天帝は愚公の熱意に打たれ、夸峨(かが)氏のふたりの子どもに命じて、ふたつの山を背おい、ひとつを朔東に、ひとつを雍南に置かせた。 これ以後、冀州から南、漢水にいたるまで小さな丘さえなくなった。」 という話です。 訳文は『中国の思想6 老子・列子』(徳間書店)から引用しました。 愚の偉大なる徳であることが示されています。 崔瑗(字は子玉。78~143)は『座右銘』で 「愚を守るは聖の臧(よみ)する所なり」 愚直を守ることこそ聖人の奨励することと説かれたのです。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1402回「愚は真にちかい」
十一月一日の釈宗演老師のご命日には、東慶寺様で法要と法話を務めさせてもらいました。 先にお墓参りして、それから法話に臨みました。 その日は実に穏やかな秋の日で、控え室にたたずんでいると、静寂の中に身を安んじている思いでありました。 法話はやはり今回東慶寺様で初めて宗演老師のご命日に合わせて開山忌法要が行われるようになりましたので、宗演老師について話をしました。 一通りのご生涯をお話して、今回私は『宗演禅話』の中にある「愚波羅蜜」について話をしました。 六波羅蜜というのはよく説かれています。 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つです。 波羅蜜は彼岸に到ると訳されたりしますが、言葉としての意味は完成です。 『広辞苑』には、 「仏と成ることを目指す菩薩の修行項目。 原義は完成・熟達・通暁の意であるが、現実界(生死輪廻)の此岸から理想界(涅槃)の彼岸に到達すると解釈して、到彼岸・度彼岸・度と漢訳する。特に大乗仏教で菩薩の修行法として強調される。」 と丁寧に解説されています。 六波羅蜜なら分かりますが、愚波羅蜜とは珍しい言葉です。 宗演老師はこの「愚波羅蜜」こそ、暗闇を照らす灯火であり、迷いの世界を超える車だというのです。 宗演老師は、特にこの愚のまた愚なる者を愛すると仰せになっています。 そのあとに、 「今の世、所謂政治家なる者が、政治を以て国家を害するは愚にあらずして却て智にあり。 所謂、教育家なる者が、教育を以て人の子を賊するは、拙にあらずして翻て巧にあり、 所謂宗教家なる者が、宗教を以て社会を毒するは、鈍にあらずして、反て利にあり」と説かれています。 政治家が国をだめにしてしまうのは、愚かさにあるのではなく、むしろ賢さだというのです。 教育家が子供の素晴らしい素質を奪ってしまうのでは、拙いからではなく、むしろ巧みであるからだというのです。 宗教家が社会を乱すのは、愚鈍だからではなく、賢いからだというのです。 「智と巧と利とは、偽に近し。 偽に近き者は、其の真を距る頗る遠し。」と宗演老師は説かれます。 「愚と拙と鈍とは、真に親かし」というのです。 『禅林句集』にも「其の知や及ぶべし、其の愚や及ぶべからず」 という言葉があります。 もとは『論語』にある言葉です。 岩波文庫の金谷治先生の訳によれば、 「先生が言われた、 「甯武子(ねいぶし)は国に道のあるときには智者で、国に道のないときは愚かであった。 その智者ぶりはまねできるが、その愚かぶりはまねできない」 ということです。 明治書院の『新釈漢文大系 論語』には、 「甯武子。姓は寧、名は兪、武は諡である。 衛の成公の大夫として仕えた。 朱子は衛の文公と成公に仕えたといっている(集注)が、毛奇齢が考証したように、成公元年には彼の父の荘子がまだ大夫であったから、周制は父が上卿であって、その子が国事を執ることを許さないから、武子は文公に仕えたことはあるまい。 武子の名が初めて左伝に見えるのは僖公二十八年の条で、時に衛の成公三年である。 成公は暗愚であったために、時の覇者たる晋の文公の怒りを買って国外に亡命したり、裁判をうけたり、暗殺されようとしたりして、国の難は続いた。 武子は成公を輔けてこれらの患を切りぬけて衛公の地位を復した。 」 「有道と無道」については、 「成公の治世は三十六年間であるが、武子の仕えた期間の中で、道の行われた時と、道の行われなかった時をいう。」と解説されています。 「愚には及ばざるなり」については、 「国歩艱難の時に当たって、一身の危急不利を顧みず、愚者の如くにして責任を果すことには及び難い。 責任を逃れて愚者の如く振る舞うのではない」 と書かれています。 宇野哲人先生の『論語』にある解説によると、 「甯武子は衛の大夫ですが、文公の御世にあって邦なかなか盛んであったのですが、甯武子は何事も特別なことはいたしておりません。 ところが、その後成公の御世になってから非常に国が乱れました時に、武子は非常にその間に骨を折りまして、そして随分困難なことがあったがとうとううまくまとめてしまった。 そういう困難な時はわざわざそうさわがなくても、そうっとしておけばその方が得であるのに、人はそういう面倒な時にはさわらぬ神にたたりなしでいるのが普通であるのに、甯武子は人におかしな男だといわれながらも一所懸命やった。 まことに愚というべきでしょう。 ですからその知は誰でもできるが、あの愚は到底普通の人にはできないことである。」 ということであります。 愚直というと『広辞苑』には「正直すぎて気のきかないこと。馬鹿正直」と書かれていますが、良い意味もあります。 「愚を守るは聖の臧(よみ)する所なり。」という言葉もあります。 これは良い意味での愚です。 愚直を守ることこそ聖人の奨励することという意味であります。 まさに宗演老師がおすすめになる愚なのであります。 「さかしら」という言葉があります。 「かしこそうにふるまうこと。利口ぶること」です。 これは真実から遠ざかります。 「愚波羅蜜」と説かれた宗演老師のお心を思ったのでした。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1401回「死は怖くない」
「死ぬなんて寝てる続き、怖くなんかない」九十二歳になるカトリックシスターは、こともなげのそう仰いました。 同じような言葉でも、それを口にする人によって、受け止め方は大きく異なります。 シスターが、透き透るような笑顔で言われると、ほんとうにそのように思って、心が休まるものです。 そんな体験をしました。 私などもこの頃は死生観について、死をどう受け止めるか、講演したりしています。 一時間や一時間半もかけて、死をどう受け止めるか話をしますが、こんな簡単なひとことですませることができるものなのです。 東京湯島の麟祥院で、村上信夫さんが開催されている次世代継承塾に鈴木秀子先生が登壇されるというので、是非とも拝聴しなければと思って出かけてきたのでした。 その日は、早朝から種々の行事が続き、講演も務め、そのあとも海外からのお客さまをご接待していて、かなり疲れていましたが、思い切って出かけて拝聴しました。 鈴木秀子先生と村上信夫さんのやりとりを九十分拝聴しましたが、アッという間のことでした。 その日の疲れがすべて抜け落ちて、満ち足りた思いで帰ることができました。 次世代継承塾はもう32回も続いています。 なんと第一回には私がお招きいただいたのでした。 どうして私が第一回なのかと不思議に思ったのでしたが、有り難いご縁でした。 その後、回を追うごとに著名な素晴らしい先生方が登壇なされて、32回に到っています。 鈴木先生のお話が素晴らしいのはいうまでもないのですが、毎回村上さんが聞き役になっての絶妙なやりとりにまた感動するのです。 今回も村上さんが、最近鈴木先生が夢中になっている話題から入りました。 なんと「ショーヘイ」の話なのです。 大谷翔平選手を熱心に応援されているというのです。 鈴木先生は野球のことなど全くご存じなかったらしいのですが、最近栗山英樹さんとご縁ができて、栗山さんの『信じ切る力』を読んでから、大谷翔平選手のことを応援なされているというのです。 よく野球のことをご理解なさっていて、今や熱心な「ショーヘイ」ファンになっておられるのです。 鈴木先生が「ショーヘイが」と仰ると、まるで自分の孫のことを語っておられるようなのです。 こういうところもお元気の秘訣かなと思いました。 それから村上さんが最近カードでお金を下ろそうとした話をなされました。 一度におろせる限度額が変わっていたことを知らずにいらっしゃったらしく、そこでうまくおろせないので、銀行の係の方を読んで聞いたらしいのです。 ところがお忙しかったせいなのか、村上さんに対しての対応の仕方があまりよろしくなかったとのことなのです。 さすがの村上さんも「カチン」と来たというのです。 こんな「カチン」と来るようなことでいいのですかと鈴木先生に尋ねておられました。 鈴木先生は、だめよと否定することはなく、そうやってカチンと来るから世の中はよくなるのよと優しく仰っていました。 その後始まる話は、すべて肯定して受け入れるということで一貫していました。 そう言われると村上さんの表情も穏やかになられます。 そのあと鈴木先生は、もし私が銀行の者だったらと前置きして、まず村上さんのお話をよく聞いて、困っているのですねと、その困っている人の身になりますと仰います。 それだけで相手が変わってくるというのです。 そこでこちらの対応の仕方もよくなかったこと、もっと限度額が変わったことをしっかりお伝えすべきだったことをお詫びして、これからは、もし多額のお引き下ろしのときは、あらかじめお電話くださいなどと申し上げますと静かに語ってくださいました。 鈴木先生が毎日毎日お祈りをされているのですが、その内容についてもお話くださっていました。 まず第一は神の賛美です。 それから二番目には、当たり前のことへの感謝だそうです。 息が出来ること、健康で一日暮らせたこと、当たり前のことに感謝することを説かれました。 そして誰か病気したり、苦しんでいる人の幸せをお祈りされるそうなのです。 祈りは感謝なのだと教えてくださいました。 死ぬ迄一ミリでも成長し続けるということを繰り返し説いてくださいました。 自分の中で老の学校を作って、自分で自分を教育するというのです。 子供を教えるのと同じように自分を教えるというのです。 少しでも一ミリでも成長するようにと教えてくださいました。 昨晩長年一緒にいたシスターが亡くなったことをお話くださいました。 もう百歳を超えておられたそうなのです。 中国の方らしく十六歳で修道院にはいって、はたらくシスターとして、いつも黙々と、掃除をしながら、今ここを通った人が幸せでありますようにと祈り、お皿を洗っては、この食事をした人が幸せでありますようにと祈り続けられたというのです。 祈りはいつも自分を今ここに連れ戻してくれるのだと鈴木先生は仰せになっていました。 いつも人の為に祈ってご生涯を終えられたそのシスターは、とても穏やかなお顔で最期を迎えておられたそうなのです。 死は人生を全うし、永年の安らぎに入るので、祝福するのだと教えてくださいました。 そしてどんな人でも、亡くなる直前までは苦しみであっても最後は安らかによい気持ちになって息を引き取るのだと仰っていました。 死ぬ瞬間には至福の世界に入るというのです。 だから鈴木先生は「死ぬなんて寝てる続き、怖くなんかない」と語るのでした。 村上さんは鈴木先生の『機嫌よくいればだいたいのことはうまくゆく』という新しい本の話題に触れられました。 不機嫌でいるだけで周りには悪い影響を与えます。 これを鈴木先生は不機嫌のハラスメントで、フキハラだと仰っていました。 不機嫌な人がどうしたらよくなるようにできるのかと問う村上さんに、鈴木先生は、人を変える力はないと静かに語られます。 長年教育の現場にいらっしゃった鈴木先生はいつも人を変えようとしていたと、思っておられたそうです。 しかし、今はそんなことはできない、人を変えるなどおこがましいことだと仰います。 どんな人でも良いところは五十パーンセント、悪いところも五十パーセントだというのです。 私たちは、その良いところだけを見ては良い人だと思い、悪いところだけを見て悪いと思っています。 しかし、その両方をありのまま受け入れるのであって、人は変わりっこありませんと仰せになっていました。 九十分でたくさんことを学びました。 終わりになって、鈴木先生が会場に私がいることを紹介してくださり、なんと私も皆様の前でひとことご挨拶をさせてもらいました。 一心にメモをとっていると、ノートに20頁もの言葉を書いていました。 鈴木先生の温かい愛のある言葉をたくさんいただいて、すっかり日中の疲れもとれてしまいました。 自分自身が至福の世界に入ったような感じなのです。 その存在と、その言葉で人を癒やし、人を変えることができるお力を感じました。 すぐれた人には、できる限り会っておくことが大事だと改めて思いました。 終わって帰ろうとするとスタッフの方が、鈴木先生が写真を撮りたいと仰っていますと声を掛けてくださり、なんと写真も撮ってもらったのでした。 最後の最後まで鈴木先生の温かいお心に触れて、有り難い学びでありました。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1400回「季刊『禅文化』274号」
季刊『禅文化』274号がでました。 今回もとても充実した内容ですので、皆様にご紹介します。 特集は「弔いを考える」というテーマです。 それに第152回花園大学創立記念 特別対談として、栗山英樹さんと私との対談が載っています。 それからグラビアは、「建長寺・円覚寺の寺宝~宝物風入」というものです。 それに新連載として、妙心寺派管長や全日本仏教会会長、花園大学学長並びに総長を歴任された河野太通老師の聞き書きが始まりました。 「叢林を語る」は大徳寺僧堂で、令和四年に僧堂師家に就任された宇野高顕老師が語ってくださっています。 他に連載は、安永祖道老師の誌上提唱『碧巌録』です。 残念ながら、今回河野徹山老師の連載はお休みとなっています。 佐々木奘堂さんは「禅における心身について」、いのちのバネについてその2であります。 漢詩講座や瑩山禅師と良寛さんの口語についての文章もあります。 圧巻は、やはり特集です。 まず巻頭インタビューで、「弔いを考える」として佐々木道一老師が熱く語ってくださっています。 佐々木老師は、大分県の万寿寺の老師で、禅文化研究所の理事長もお勤めいただいた老師です。 私も今ご尊敬申し上げる老師のお一人であります。 この頃は、このような特集を組む編集会議にも関わっていますので、巻頭には是非とも佐々木老師のインタビューをとお願いしたのでした。 特集では 現代日本における死と葬儀 山田慎也先生 日本の葬送儀礼と死者祭祀 八木透先生 宋代禅宗における葬送儀礼 小早川浩大先生と 論文が続き、 そして「令和の弔い①」として 愛知県江南市の永正寺様の「現代における弔いの課題と工夫 永正寺の葬儀改革とその想い」として中村建岳和尚が書いてくださっています。 とても熱心な思いが伝わってきます。 それから「令和の弔い②」として 長野県松本市の神宮寺様の「神宮寺におけるお葬式の取り組み」として谷川東顕和尚が書いてくださっています。 谷川さんも、私が推薦したのでした。 巻頭インタビューから少し紹介します。 はじめに「まず、老大師は葬儀とはどういうものとお考えになられていますか。」 という問いに対して佐々木老師は、 「もちろん、亡くなった方を弔う儀式です。 一方、そこに集まってくる人は死んでいないんですよ。 ですから、生きている人に「人間は生きていて、みんないずれは死を迎えますよ」ということを悟らせる場なんですね、葬儀というのは。 ―お別れだけが目的ではないと。 はい。集まった人達に、「生老病死」の「死」というものをその場で厳粛に知らしめる儀式なんですよ。 ですから命の転生というのかな、生き続けるんです。 しかし、我々は普段、死を意識して生きていないじゃないですか。 どういう死に方をしたいのか、どういう生き方が理想なのかということを考えたら、自分の生き方が変わるし、周りへの対応の仕方も変わってくるはずです。」 と語ってくださっています。 「七、八十歳になって初めて体が動かなくなって病気が多くなってくる。 そういうことでようやく死というものを意識してくるんですが、本当に死を意識して生きたら、生き方が変わるはずです。 小さい頃から人間は「生まれ」て、「歳を取るんだよ」「病気になるんだよ」「死ぬんだよ」と、四つの苦、「四苦」というものを教育した方がいいと思います。 それが、お寺さんの仕事のはずなんです。」 とも仰せになっています。 神宮寺の谷川和尚の言葉も少し紹介します。 「「どのようなお葬式にしたいですか」。 筆者がお葬式の打ち合わせの初めに遺族に尋ねる質問だ。 故人の遺志を尊重したい、身近な家族で見送りたいなどの返答がほとんどだが、そのためにはどうしたいかと質問を重ねていく。 そんな話し合いの上で、お葬式の形を決めていく。 そんな思いに沿ったお葬式を執り行うために、お寺として、僧侶としてできることは何でもやる。 結果お葬式が遺された人たちにとって大切な時間になると考えている。」 というのです。 これが谷川さんの基本姿勢です。 決してこちらから押しつけるのではなく、「どうしたいですか」から始まるのです。 谷川さんは「神宮寺先住職の高橋通方和尚はお葬式の改革に も意欲的に取り組んできた。 わたしはそんな神宮寺のお葬式を目の当たりにし衝撃を受けた。 「葬式坊主」とは一般的に否定的な意味で使われる言葉だが、わたしは故人に真摯に向き合い、遺族の想いを汲みとれる「葬式坊主」になりたいと願い、こうして先住職の跡を継いでいる。」 と語ってくださっています。 最後の言葉も感動します。 「筆者はお葬式が大切な人を亡くした方の力になると信じているし、僧侶ができることもたくさんある。 そして、お葬式がお寺にとって大切な布教の場だと確信している。 実際に、お葬式に参列した方から「菩提寺がないので神宮寺でお葬式をしてほしい」という声も届く。 なんとなく仏式のお葬式をしていた人たちにも、お葬式の意義はきっと伝わると思う。」 と書いてくださっています。 谷川さんのお気持ちが良く伝わってきます。 安永老師の誌上提唱『碧巌録』はいつも楽しみに拝読しています。 老師の御提唱をこうして誌面で学べるのは有り難い限りです。 老師の該博な知識と、長年の御修行の体験談が織り込まれているので、読み応えのあるものです。 今回も次の言葉が印象に残りました。 「室内というものは、まず古則公案と自分が一つにならないといけない。 自分と公案というものがじっくりと一つになって、そこに自分の見解というものを得たならば初めてやってくるものであって、完全に覚えもできずに室内に入ってきたって何の所得もない。 そう急ぐものではなく、次の公案は「これ」と言われたら、その公案を正確に間違いなく自分の腑に落ちるように、じっくり自分と公案が一つになって、そうして「これ」というものを持ってくる。 師匠が言うものは何か、何が公案なのかをちゃんと確かめて、そしてそこに自分の見処を看て持ってくる、 そういう手筈を踏まないと、一回一回の参禅そのものが無駄になってしまう。」 というお言葉です。 これは公案の修行をする者にとって肝に銘ずべき大事な心構えであります。 佐々木奘堂さんは、九十二歳になるという、奘堂さんのお母さんの起き上がる姿に感動したという話が書かれています。 奘堂さんが実家に帰って庭の草刈りをしていて、お母さんはその実家で休んでおられました。 普段のお住まいのベッドからは一人で起き上がれるそうなのですが、実家にはベッドがなく布団からは起き上がれないこともあるというのです。 ところが近所のおばさんが訪ねてきたので、奘堂さんが声を掛けると、お母さんが起き上がったのでした。 その起き上がる姿を見て、奘堂さんは「きれいだな」と思ったそうなのです。 それはまさに「生命の弾機(ばね)」が、発露した姿だと思ったというのです。 奘堂さんは「寝ている姿勢から「ただ起き上がる」際に、自ずと足が先に上がり、その反動(全身のバネのはたらき)で上半身が起き上がります。 この動きを「生命のバネ」の働きが貫いています。 この生命のバネは、特定の宗教や宗派や、特定の技法などを超越した次元の「生命のはたらき」です。 この生命のバネ(はたらき)は、胎児の頃や、○歳児の赤ちゃんでは完全にはたらいていますし、九十代の老人でも完全に発揮できる可能性に充ちています。」 と説いてくださっています。 腰を立てる正身端座の極意を説いてくださっています。 かくして今回の季刊『禅文化』も読みどころ満載であります。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1399回「僧堂の修行」
先だって曹洞宗総合研究センター様に招かれて僧堂の修行について講演させてもらいました。 要点をまとめると、南嶽禅師と馬祖禅師の問答から、修行というのは特定の姿形にとらわれるものではないことがまず分かります。 では何が大事かというと、心です。 その心は見たり聞いたり歩いたり、動いたりして活動している心です。 その心こそが仏なのです。 心が仏でありますから、外に仏を求める必要はありません。 そしてその心は、体の中に収まっているようなものではなく、心の中で私たちは寝たり起きたり活動しています。 それ故に私たちの活動のすべては仏の営みになるのです。 その教えを黄檗禅師も受け継いで、一切の人は全体まるごと仏であると説かれました。 臨済禅師もまた「仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよい」と説かれたのでした。 しかし、ただなにもしないでそのままでいれば良いというのではありません。 臨済禅師もお若い頃から何も分からず真っ暗闇の中をさ迷いながら苦労されたのでした。 苦労の末に、ある時ハタと気がついたのです。 臨済禅師は、戒律をもとにした暮らしをしながら、坐禅をし、経典を読んで学んで、そして土を耕し作務をなさっていました。 この戒律に則った暮らしと、坐禅、看経、作務が、修行なのです。 それに、宋代になって禅の修行として看話禅が工夫されました。 「特定の「公案」に全意識を集中することで意識を臨界点まで追いつめ、そこで意識の爆発をおこして劇的な「大悟」の体験を得させようとする」(『語録の思想史』より)方法です。 そんな禅が日本に伝わりました。 そこで、本来仏だから何もしないでいいというのではなく、栄西禅師は戒を重視され、厳しい修行を行うようになりました。 戒に則った暮らしを清規といいます。 厳格な清規のもとに、坐禅し看経し作務をして、その中で公案を工夫するというのが禅の修行となっていったのです。 更に鈴木正三は、お百姓さんが一鍬一鍬振り下ろすごとに南無阿弥陀仏となってゆけば、その農業が仏道だと説かれたように、日常の畑仕事や掃除や庭木の剪定など、ひたすら一心に打ち込んで行えば、みな仏道になるのです。 そこで、作務に打ち込んで修行するという今の修行道場の暮らしになってきています。 そうかといって、本来仏であるから、決して厳しい修行によって何か特別なものになるのだという思いを抱いてはならないので、盤珪禅師が眠っている僧を叩くのを戒めたように、仏になろうとするより仏のままでいる方が造作がないという教えも忘れてはならないのです。 そのような内容となります。 この基本をしっかりおさえておけば、現実の様々な問題に柔軟に対応することができると思っているのであります。 私の講演のあとに曹洞宗の新井一光先生が発表なされていました。 そのなかで、睡眠と早起きについての考察がありました。 明治の終わり頃に、『僧堂教育改良論』という論説が発表なされていたそうなのです。 その中に「形式にのみに止って宗門の発達せざるは、其一大原因たるものは早起に失し、徒らに身心を疲労し、太切なる昼間に於て、正しく業務を執ること能はざるのには非ざる乎と察せらる」 ということが書かれています。 睡眠も大事なことで、無駄な時間では決してないと論じています。 修行したり仕事をするのと同じことなのだというのです。 早起きにも一定の程度があって、度を超えた早起きは「乱起暴起」だというのです。 寝る時には、徹底してよく眠り、昼間はしっかり眼を覚ましてはたらき、修行に励んでゆくのだというのです。 そこで早起きも午前四時が昔からのよい時間だというのであります。 確かに『正法眼蔵随聞記』には、次の記述があります。 講談社学術文庫の山崎正一先生の現代語訳を参照します。 「私が大宋国の天童山景徳禅寺にいたころ、如浄老師が住持であられたときだが、夜は十一時まで坐禅し、明けがたは午前二時半から三時には起きて、坐禅したものだ。住持の如浄禅師も、みなの者と共に僧堂の中で、坐禅されたものだ。それは一夜も、欠かされたことがない。 その間、僧たちは多く居眠りした。如浄禅師は、その間をまわってゆき、居眠りしている僧をみると拳骨でなぐったり、あるいは、はいている履をぬいで、それで打ち恥ずかしめ、眠りをさまして、はげましたものだ。」 と書かれています。 別のところには「亡くなった私の師匠天童如浄和尚が住持の折のことだが、僧堂でみなみな坐禅しているとき、居ねむりをしている者がいると、浄和尚は自分の履で打ちすえ、ののしり叱ったが、僧たちは、みな打たれることを喜び、有難がったものだ。」とも書かれています。 厳しい苛烈な修行であったことが察せられます。 私などもこのような修行に憧れて努力してきたつもりですが、残念ながら大半は居眠りばかりしていたと今は慚愧の思いであります。 自ら求道心をもってこのような古人の行履にならって行おうというのはいいのですが、これを無理に強要するのは難しいと思います。 明治の終わり頃にも、もう少し合理的に考えたらどうかという論説もあったことは興味深く思いました。 昔から、僧堂の修行はどうあるべきか、いろいろ考え、論じられて今日に到るのです。 肝心なところは守りながら、柔軟に対応することが大事かと思っています。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1398回「僧堂修行について」
曹洞宗の総合研究センターというところから、学術大会の講演を頼まれました。 近現代教団研究部門研究会で、僧堂教育の現在と未来というテーマで講演を依頼されたのでした。 そこで「僧堂修行について思うこと」と題して講演してきました。 このような学術大会に招かれるとはまことに恐縮でありました。 昨今、曹洞宗でも臨済宗でも僧堂の問題は大きな課題となっています。 そこで、最近私が円覚寺の僧堂でいろいろ試みていることが、曹洞宗の方のお耳にも入ったようで、講演を頼まれた次第なのです。 学術大会ですので、講演では僧堂修行の一番の根本について話をしました。 そしてその根本をおさえた上で、今日取り組んでいることをお話しました。 同じ禅宗でも私たちは馬祖から臨済へと伝わった禅の教えです。 曹洞宗は、青原禅師石頭禅師から洞山禅師へと伝わった禅の教えです。 とりわけ今日の曹洞宗は道元禅師の教えを信奉しておられます。 同じ禅とは言え、違いもあります。 そのことをお断りした上で私が学んでいる臨済の教えをお話しました。 まずは馬祖禅師と南嶽禅師の甎を磨く話をしました。 甎をいくら磨いても鏡にはならないように、いくら形だけの坐禅をしても仏にもならないという話です。 坐禅という形だけを守っているのでは、仏を殺してしまうことになるという話です。 そこで、では何が大切かというと、心だということになります。 心といってもその定義は難しいのですが、馬祖禅師や臨済禅師は、今こうして話を聞いているもの、しゃべっているもの、歩いているもの、それが心であり、仏であると説かれました。 馬祖禅師は、心こそ仏であると明示されました。 心こそ仏でありますから、仏道は何もことさらに求めるものではないのです。 もし修行して何か得るものがあるというなら、得るものは失われるものであります。 ただ汚れを受けないことが大事です。 汚れとは何かというと、ことさらに聖なる価値を外に求めて修行することです。 煩悩を斥けて悟りと求めようとすることです。 ただありのままの心がそのまま道なのです。 これが平常心是れ道という教えであります。 そしてその心は体の中に小さくおさまっているようなものではなく、むしろ心の中で私たちは活動しているのです。 私たちのあらゆる営みは、みな心のはたらきであり、仏の営みだということになるのです。 これが場祖禅師の教えの基本であります。 黄檗禅師もその教えを受け継がれています。 一切の人は全体まるごとが仏だと説かれました。 更に臨済禅師は、 「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。」(岩波文庫『臨済録』50~51頁)と説かれたのでした。 しかし、そうかといってただ何もしないでありのままでいいというのではありません。 臨済禅師も「仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ」と仰せになりながら、同時に「諸君、出家者はともかく修行が肝要である。」とも仰っています。 まだなにも分からない頃には、真っ暗な中をさまよっていたというのです。 そこから「わしなども当初は戒律の研究をし、また経論を勉学したが、後に、これらは世間の病気を治す薬か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっぺんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。その後、大善知識に逢って、始めて真正の悟りを得、かくて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。これは母から生まれたままで会得したのではない。体究練磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。(岩波文庫『臨済録』96~97頁) という経験をなさったのです。 唐代の禅の修行をみてみると、戒律を学んで戒に則った暮らしが基盤にあって、その上で坐禅し看経し作務をしていたと言えます。 これは今日の僧堂にも受け継がれています。 「体究練磨して、一朝に自ら省す」という体験をどうしたら私たちも出来るのかということで、宋の時代になってくると、公案というものを用いて、あえて修行僧を迷わせて暗闇の中をさまよわせて、その結果気づかせるという修行方法を確立してゆきました。 これが看話禅という手法であります。 あえて解釈の不能な言葉を与えて、苦しませるのであります。 苦しませておいてハッと気づかせるというものです。 その言葉を「真っ赤に焼けた鉄のかたまりを吞み込んだようなもので、吐き出そうにも吐き出すことができない。 それまでの誤った認識を根絶やしにし、ただ『無字』となってその状態を保てば、いずれ内と外が一つになるだろう。 そうすれば唖の者が夢を見たようなもので、自分だけがわかっていて、他人に伝えることはできない。 突然気がついたならば、天を驚かし地を動かすだろう。」 という『無門関』の言葉を示しました。 日本に伝わった臨済禅は、そんな看話禅でありました。 栄西禅師の『興禅護国論』に、 達磨宗の教えとして 「我われは、菩提を得ているのだから、煩悩などは存在しない。 だから、戒律は必要ではないし、修行などすることもない。 ただ寝転がっていればよいのである」と書かれています。 しかし栄西禅師は、「この人は、禅の真の教えにとって悪影響を及ぼす以外、何ものでもありません。」と否定されています。 栄西禅師はとりわけ戒律を重んじられました。 戒律をもとにした暮らしは、禅では清規といって規律正しい僧堂の暮らしとなってゆきます。 規律正しく坐禅を主とした修行が日本の禅になっていったのです。 それが鎌倉の武士などに受け入れられたのでした。 更に江戸時代の鈴木正三の言葉を紹介しました。 お百姓さんたちに農業が仏道だと説いたのでした。 一鍬一鍬南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と耕作すれば悟りに至ると説かれました。 作務をするにも、一鍬一鍬「無」「無」となりきって修行するのであります。 公案の修行と、馬祖禅師のあらゆる営みが仏のはたらきだというのが相まって、あらゆる行いに全身全霊を打ち込んでゆけば、それこそ「随処に主となれば立處皆真なり」というようになったのです。 これが今日の僧堂の修行なのであります。 しかし、いかなる営みをしていようと仏の現れであることを見失ってはいけません。 修行したから特別なものになると思ってもいけません。 そこで盤珪禅師の言葉を示しました。 眠る僧がいて、それを叩く僧がいると、眠った僧ではなくて、叩いた方の僧を叱ったという話です。 眠れば仏心で眠り、覚めたら仏心で覚めるだけのことで、仏心が別のものになるということはないというのです。 これは馬祖禅師の教えを忠実に再現しています。 いかなる営みも仏の現れなのです。 このことを忘れてはなりません。 今回私に講演を頼まれたのも、この頃警策を使わないということが、曹洞宗の和尚様のお耳にも入ったからだそうなのです。 最後には、鈴木大拙先生の 「禅者の言葉に「教壊」と云ふがある。これは、教育で却つて人間が損はれるの義である。物知り顔になつて、その実、内面の空虚なものの多く出るのは、誠に教育の弊であると謂はなくてはならぬ。(『鈴木大拙全集十巻』P227)」 という言葉を示しました。 教えるというよりも、一緒になって学んでいるのですと伝えたのでした。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1397回「白隠禅師と地獄」
白隠禅師のことは、『広辞苑』に、 「江戸中期の臨済宗の僧。名は慧鶴(えかく)、号は鵠林。駿河の人。若くして各地で修行、京都妙心寺第一座となった後も諸国を遍歴教化、駿河の松蔭寺などを復興したほか多くの信者を集め、臨済宗中興の祖と称された。気魄ある禅画をよくした。諡号(しごう)は神機独妙禅師・正宗国師。著「荊叢毒蘂」「息耕録」「槐安国語」「遠羅天釜(おらでがま)」「夜船閑話」など。(1685~1768)」 と解説されています。 東海道の原宿のお生まれです。 五歳のときの逸話があります。 ひとりで海に出かけて、そこに浮かんでいる雲を眺めて世の無常を感じて大声で泣いてしまったというのです。 こういう無常観は高僧方に共通している点であると思います。 ただし、一般には病気のために死にかけたとか、親と早くに死に別れたというような体験が原点にある場合が多いのです。 ところが、白隠禅師はなんというわけでもなく、海辺で雲の浮かんで消えていく様子を見ていて無常を感じたというのです。 世間の無常のさまを観じて、しばしば泣くことがあったというのですから、実に感受性が強かったのでした。 お寺に行くことが好きだったようで、七歳の頃に、お寺で法華経提婆品の講義を聴いて、それを覚えて帰り、年寄りたちにその通りに話して聞かせたところ、一人の老婆が感激して涙を流したといいます。 そんな白隠禅師ですが、十一歳のときに、お寺で地獄の話を聞きました。 その様子を禅文化研究所発行の『白隠禅師年譜』から芳澤勝弘先生の現代語訳を参照しましょう。 「ある日、母に連れられて昌源寺に行った。 そこで伊豆窪金(雲金)の日厳上人が『摩訶止観』を講じられ、その中で地獄の説相を説くのを聴いた (原本によれば『摩訶止観』の中に地獄を説く一段があるように解されるが、そうではない。 『壁生草』では「日蓮上人御書」を講じたとある。 講義の合間に地獄の諸相を話したということであろう。) 上人の弁舌は実に巧みで、(熱鉄や釜の上で身を焼き苦しめられる) 焦熱地獄や(身が裂けて真っ赤になる)紅蓮地獄の苦しみを目の前に見えるかのように話した。 岩次郎はこれを聞いて身の毛がよだった。 (岩次郎は白隠禅師の幼い頃の名であります。筆者注) そして心に思った、「自分は常日頃、好んで(小動物を)殺害するなど、乱暴をほしいままにして来た。 だからきっと地獄に堕ちて永遠に苦しみを受けるだろう。 もはや逃れようはない」と。 全身が戦栗して、何をしていても心が穏やかではなかった。 またある日、母と一緒に風呂に入った。 母は熱い湯が好きだったので、下女に薪を加えて追い焚きをさせた。 風呂釜はしきりに鳴り出し、釜には炎が燃え盛っている。 熱気がシュンシュンと肌を衝いて、乱れ矢を受けるようである。 岩次郎はたちまち、あの地獄のことを思い出して、大声で泣き出した。 何事があったのかと皆が集まってきて、あれこれとなだめたけれども泣き止まない。 しばらく泣き続けて、泣きつかれたころを見計らって、母がなでながら言った、「おまえは何を怖がってこんなに泣くのかい。 男の子がわけも言わずに、こんなに泣くものではありません」。 岩次郎は涙をおさえて言った、 「地獄の苦しみが恐ろしいのです。 身の置きようもありません。 今、母上と一緒に風呂に入っておってさえ、こんなに恐ろしいのに、たった一人で暗闇に燃える地獄に堕ちるとは。どうやってそれを免れたらいいのでしょう」。 母が言われた、「おまえが恐怖から逃れることができる、いい方法があります」。 「ありますか」。 「ありますとも」。 岩次郎は「あれば、それでいいです」と言って、また子供たちと走り回り、叫びまわって遊んだ。」 というのであります。 その後母から天神様を拝むように教わり熱心に天神様を信仰しました。 更に観音経を覚えて毎日唱えていました。 そんなある日、村の祭りにでかけて鍋冠り日親の話を聞きます。 日親上人というのは、『広辞苑』に 「室町時代の日蓮宗の僧。上総の人。 京都に出て折伏教化を行い、本法寺を開く。 1439年(永享11)「立正治国論」を著して捕らえられ、種々の拷問を受ける。鍋冠日親と通称。」 と解説されています。 幕府に捉えられ役人に問い詰められました。 「法華の行者にはいかなる霊験があるか」。 日親上人は、「法華の行者は火に入っても焼けず、水に入っても溺れず」と答えます。 役人は真っ赤に焼けた鉄鍋を頭にかぶらせたのでした。 日親上人は一心に法華の題目を念じて立っていました。 この話を聞いた白隠禅師は、一心に観音経を唱えて焼けた火箸を股につけてみたのでした。 もちろんやけどをしてしまいます。 そこで白隠禅師は、やはり出家して道を求めるしかないと心に決めたのでした。 このように地獄を恐れる心が白隠禅師の求道の始まりとなりました。 柳田聖山先生は「地獄に気づいた人は少ない。しかし真に地獄を脱した人は更に少ない。まして他のために地獄に下った人は稀である」と仰っていますが、白隠禅師はまさに地獄の恐ろしさに早くから気がついた方でした。 そして後に大悟して、地獄の苦しみから逃れることができました。 しかし、決してそれでよしとするのではなく、更に地獄に苦しむ人々を救おうと地獄に降りてゆかれたご生涯なのでした。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1396回「ダイバダッタの話」
提婆達多という方がいました。 『広辞苑』には 「釈尊のいとこで、斛飯王の子。」 とあります。 この斛飯王がお釈迦様のお父様である浄飯王の弟なのです。 更に「阿難の兄弟。 出家して釈尊の弟子となり、後に背いて師に危害を加えようとしたが失敗し、死後無間地獄に堕ちたという。 厳格な戒律の護持を主張したとも言われる。」 と書かれています。 岩波書店の『仏教辞典』には、 「斛飯王(こくぼんのう)の子で、阿難の兄とも、釈尊のいとことも言われる。 釈尊に従って出家をするが、釈尊を妬んでことごとく敵対し、三逆罪(出仏身血・殺阿羅漢・破和合僧)を犯したとされる。 ただし法華経の中では、ブッダの善き友人(善知識)として登場する。 律蔵には自ら五種の法を定めて衆徒を率いたことが述べられ、かれの衆徒が後世までも存続していたことは、<提婆の徒>として七世紀の玄奘が伝えている。」 と書かれています。 あるときお釈迦様が教えを説いているとき、提婆達多が 「あなたは年をとられました。 あなたは安楽にお過しください。私が僧たちを統率します」 と言ったのでした。 お釈迦様は、提婆達多に、そのようなことを言ってはいけないと厳しくたしなめました。 提婆達多は、あろうことか、マガダ国の阿闍世王をそそのかして、王位を継がせ、お釈迦様を殺害して自分が教団の主となろうとしたのでした。 権力にあこがれていた阿闍世王は、提婆達多の教えによって、様々な陰謀をめぐらし、ついに父を幽閉し殺害してしまいました。 マガダ国の王となった阿闍世王に提婆達多は、お釈迦様を殺害するように話をしました。 阿闍世王の命で、刺客が送られ、山上から大石を落しました。 しかし、お釈迦様は神々に護られて石を避けることができましたが、その石の破片が足の指に当たって出血されたのでした。 更にナーラギリという凶暴な大象を放ってお釈迦様を殺そうとしたのでしたが、そんな象もお釈迦様に近づくと、鼻をたれて恭順の意をあらわしたのでした。 華色比丘尼という方は、提婆達多が岩を落としてお釈迦様を傷つけて血を出させた時にこれを非難して、提婆達多に殺されたというのです。 提婆達多が教団を分裂させたのは、次の五つのことを主張したことによります。 その五つとは、 生涯林住すべきとすること 常に乞食すべきであって、 食を受けてはならないこと 糞掃衣を着るべきであって、衣をもらってはならないこと 常に樹下に住すべきであって、 屋内に住してはならないこと 魚肉を食べてはならないこと なのでした。 もっとも仏教には四依の教えがありました。 四依とは 「出家修行者が修行生活の依り所とすべきもので、 托鉢によって得た食物で暮らすこと、 糞掃衣を着ること、 住まいとして樹下の坐臥所で暮らすこと、 陳棄薬(ちんきやく)のみを用いること。 というのです。 陳棄薬というのは、牛の尿から作った安価な薬と言われます。 しかし、お釈迦様は、 山林に住んでもいいし、村に住んでもよいとしました。 また乞食して暮らしていいし、食を供養してもらうことも許されました。 糞掃衣を着てもいいし、衣の供養を受けてもいいとしました。 樹下坐することを許していますが、それに固執することもありませんでした。 また殺されるところを見ていないし、自分に供するために殺したと聞いていないし、自分に供するために殺したと知らないのならばお肉をいただいてもよいとしたのでした。 かくして提婆達多は、五逆罪のうちの三つを犯したのでした。 五逆罪とは 1)殺母(せつも)(母を殺す)、 2)殺父(せっぷ)(父を殺す)、 3)殺阿羅漢(せつあらかん)(聖者を殺す)、 4)出仏身血(しゅつぶっしんけつ)(仏身を傷つけ出血させる)、 5)破和合僧(はわごうそう)(教団を破壊する)の五つを言います。 提婆達多は、殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の三つを犯して無間地獄に落ちたのでした。 最期も悲惨でした。 提婆達多は自分の十本の爪に毒を塗り、お釈迦様に近づく機会を狙いました。 しかしその機会はなかなかおとずれず、自ら進んで祇園精舎に行きました。 そしてお釈迦様に襲いかかっのですが、かえって自分の手指を損傷してそこから毒が入り、遂にこの地において悲惨な最後を遂げました。 その命の終わる時に、提婆達多の立っている大地は一瞬にしてずるずると大きな穴があき、彼の姿はみるみるうちに地獄の底に堕ちていったというのです。 後に七世紀にインドを訪れた玄奘三蔵は、提婆達多が生きながら地獄に堕していった穴がインドに残っていたことを『大唐西域記』に書かれているそうです。 また後世まで提婆達多派の教団が存在していたことも記されているとのことです。 しかし、そんな大悪人の提婆達多ですが、法華経提婆達多品においては、阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされています。 そして、無量劫の後、天王如来となるという成仏が約束されるのです。 こういうところも大乗仏教の素晴らしいところです。 提婆達多の主張したことはとても厳しい内容です。 それに心引かれる者もいたのです。 しかし、お釈迦様は初めて説法されたときに、 「修行者らよ。 出家者が実践してはならない二つの極端がある。 その二つとはなにであるか? 一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行ないであり、高尚ならず、ためにならぬものである。 他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。 真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。」 と説かれています。 両極端に走らないのがお釈迦様の教えの特徴なのです。 提婆達多の話からいろんなことを学べます。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1395回「釈宗演老師を思う」
本日は十一月一日、釈宗演老師のご命日であります。 宗演老師のお墓は、東慶寺様にありますので、私は修行僧の頃からご命日にお墓参りを続けてきました。 これひとえに宗演老師をお慕い申し上げるからであります。 本日は、有り難いことにその東慶寺様で、宗演老師のご命日の法要が営まれます。 その法要の導師と法話を務めさせていただきます。 なんと有り難いご縁であります。 修行僧の頃は、こっそりお墓にお参りしてお経をあげるのみで、東慶寺様の中に入ることなど夢にも思いませんでした。 それが今になって東慶寺様で法要を務め、法話までさせてもらえるとは、感慨無量であります。 現在の東慶寺のご住職は、大変熱心な方で、宗演老師のご命日に開山さまと宗演老師の両方の法要を執り行い、さらに法話会を設けて皆で学ぼうと企画してくださいました。 宗演老師については、禅文化研究所発行の『明治の禅匠』には、朝比奈宗源老師と井上禅定和尚とお二人が書いてくださっています。 この『明治の禅匠』に一人の人物について二人が執筆して掲載されているのは宗演老師のみです。 井上禅定和尚は、その冒頭にこう書かれています。 「朝日ジャーナル編の『明治百年を築いた日本の思想家』 六十七人中に、仏教者としては釈宗演、暁烏敏、鈴木大拙の三人のみ。 『広辞苑』に明治以後の禅僧では宗演と天田愚庵のみ、愚庵は万葉風歌人としてとりあげられているもので、禅僧としては宗演のみとなる。 この二例によって宗演の特異性が知られる。」 というのであります。 『広辞苑』にはどう書かれているかというと、 「臨済宗の僧。号は洪岳。福井県の人。妙心寺の越渓、円覚寺の今北洪川(1816~1892)などに就いて参禅、近代的な禅の確立に努めた。 円覚寺・建長寺管長、京都臨済宗大学長。(1859~1919)」と記されています。 「近代的な禅の確立に努めた」とあるように、古い体制を打破し、近代にふさわしい活躍された禅僧でありました。 お生まれになったのは、安政六年であります。 それは、あたかも安政の大獄の最中でありました。 徳川幕府が終わりを告げ、明治新政府が開かれようとする激動の時代に産まれたのです。 福井県高浜に生を享けられた宗演老師は、その遠戚に妙心寺の僧堂を開単された越渓老師がおられ、その縁によって越渓老師の弟子として得度されました。 幼少から京都の妙心寺で修行を始められたのです。 後に宗演老師は「児童研究者に云わせたら甚だ教育の当を得ぬとか何とか云うかも知れぬ」と述懐されているように、まだ幼い頃から、禅堂生活をたたき込まれたのでした。 その後更に建仁寺両足院において千葉俊崖老師について修行されました。 この時に後の建仁寺の管長となられた竹田黙雷老師と親しくなられています。 二十歳の頃に鎌倉の円覚寺に掛錫し、今北洪川老師について修行を始められました。 洪川老師は越渓老師と同じく儀山善来禅師の門下であります。 俊発怜悧な宗演老師は、なんと在錫わずか五年ほどで伝統の公案修行を仕上げられ、二十五歳には大事了畢されました。 既に今北洪川老師から、将来の円覚寺を託されるようになられたのです。 これだけでも、禅僧一代の修行としては相当なものなのですが、宗演老師は単に伝統の修行だけでは満足されませんでした。 二十七歳で、慶應義塾に入って、英語など新しい学問を学ばれました。 今北洪川老師も慶應に行くことには猛反対されているように、当時としては既に常識を打破した行動でありました。 そこで福沢諭吉先生とも親交が深まりました。 慶應で英語を学び、当時の最先端の知識に触れた宗演老師は、更にセイロンに行って仏教の原典を学ぼうとされました。 このセイロン行きも、福沢諭吉先生の勧めがあったのです。 今の時代とは違って、この時代にセイロンに行って学ぶことは、まさしく命がけでありました。 二年ほど学ばれて宗演老師は、日本に帰ってしばらくは横浜永田の宝林寺で教化活動をされていました。 しかし、明治二十五年に今北洪川老師が亡くなり、宗演老師はわずか三十四歳で円覚寺の管長になられました。 その翌年、シカゴで万国宗教会議が催されました。 この会議は十七日間にも及び、多くの方が参加された大会議でありました。 日本の仏教界にも参加の依頼があったのでしたが、当時の仏教界は廃仏のあおりを受けて疲弊してしまって、キリスト教の国に行っても仏教の主張は理解されがたく、却ってキリスト教に呑みこまれてしまうと考え、出席には積極的ではなかったのでした。 しかし、そのような中であるからこそ、出るべきだと考えたのが宗演老師でした。 宗演老師をはじめ四名の僧侶がシカゴの宗教会議に出席されました。 この演説が、アメリカに仏教が伝えられる嚆矢となりました。 この時のご縁によって、後に鈴木大拙先生が渡米して東洋の古典を翻訳されるようになったのです。 帰国してからも、宗演老師は円覚寺の管長師家を勤めながら、全国の教化に廻られました。 一時期、建長寺の管長も兼任することにもなったのですが、明治三十六年に建長寺円覚寺両山の管長を辞して東慶寺に移られました。 そして二度目の渡米をなされました。 ラッセル夫人の援助もあって、引き続きヨーロッパを巡錫され、インドの仏跡を巡拝して帰国されたのでした。 大正三年五十五歳の時に臨済宗大学長と花園学院長に就任されています。 臨済宗大学は今の花園大学であります。 大正五年、円覚寺派管長に再任されることとなりました。 この時に、法嗣である古川尭道老師を僧堂の師家に任じて、自らは管長職のみを受けられました。 大正六年には大学の学長を辞されています。 宗演老師は、その智の博さに於いても、その慈悲の深さに於いても、その意志の強さに於いても、群を抜いておられ禅僧でした。 宗演老師には、人間的な魅力にあふれ、欠点を見つけるのが難しいほどの人物でした。 ただ唯一欠けていたとすれば、お体が丈夫でなかったことではなかいことかと思います。 大正八年の六月頃から、体調を崩されて講演法話など休講なされるようになり、招請を断るようになられました。 療養につとめられたものの、薬石功無く、十一月一日に御遷化なされました。 世寿六十一、法臘五十でありました。 本日法要を務める私は、奇しくも宗演老師がお亡くなりになったのと同じ歳なのであります。 万感の思いをこめて法要と法話を務めさせていただきます。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1394回「来たれ、修行僧よ」
具足戒という言葉があります。 『広辞苑』には、 「〔仏〕比丘・比丘尼の守るべき規則。 部派によりその数は異なるが、比丘に250戒、比丘尼に348戒が代表的。」と解説されています。 岩波書店の『仏教辞典』には、 「比丘(びく)・比丘尼(びくに)、すなわち正式に出家した男女が、僧伽という集団内で守るべき戒律の学処を総称したもの」 と解説されています。 更に「諸部派で規定された学処の条数(戒律の数)は異なり、南方上座部(じょうざぶ)では比丘は227条、比丘尼は311条を数え、 東アジアの漢訳文化圏では『四分律(しぶんりつ)』に従い、それぞれ250条、348条とされた。」 とあります。 もともとはというと、善来具足戒というものがはじめでした。 それは、お釈迦様がはじめ悟りを開かれて、サールナートで五人の修行者に法を説いて示された時のことでした。 中村元先生の『ゴータマ・ブッダ上』(春秋社)に 「『さて尊者コンダンニャは、すでに真理を見、真理を得、真理を知り、真理に没入し、疑いを超え、惑いを去り、確信を得て、師の教えのうちにあって、他の人にたよることのない境地にあったので、世尊にこのようにいった、 「尊い方よ。 わたしは世尊のもとで出家したく存じます。 わたしは完全な戒律を受けたく存じます」 と。 世尊はいった、「来たれ、修行僧よ。真理はよく説かれた。 正しく苦しみを終滅させるために、清らかな行ないを行なえ」 と。 これがかの尊者の受戒であった。」 という箇所があります。 後には、舎利子が出家を希望する五〇〇人を連れてきた時も 「善来、比丘。梵行を修すべし」と言われたのでした。 「善来具足戒」というのは、お釈迦様もとで出家し具足戒を受けたいと願う者に対して、お釈迦様が自ら「来なさい。自分のもとで梵行を修せよ」と許されるものでありました。 この具足戒によって比丘となったのです。 それから後に、「三帰依」が説かれるようになりました。 私は仏・法・僧に帰依しますと三度唱えて言い表すのです。 漢文では「帰依仏、帰依法、帰依僧」といいます。 これは出家や在家の戒を受ける際の基本的条件でもありますので、<三帰戒>ともいうのです。 更に在家の人には、「五戒」が説かれました。 五戒は在俗信者の保つべき五つの戒即ち習慣であります。 不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪婬(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)の五つです。 原始仏教時代にすでに成立しており、他の宗教とも共通した普遍性をもつと言われます。 それに三つを加えると八斎戒となります。 これは五戒に加えて、 装身具をつけず歌舞を見ないこと 高くて広いベッドに寝ないこと、 昼をすぎて食事をしないこと、 の三つが加わります。 より出家生活に近い内容を持っています。 これを布薩の日などには、在家の信者も保つようにするのです。 それから出家した比丘には、二百五十もの戒が説かれるようになりました。 数が多くなった反動なのか、大乗仏教では、少ない条文の戒が説かれるようになりました。、 『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』には「三聚浄戒」が説かれています。 摂律儀戒(しょうりつぎかい)・摂善法戒(しょうぜんぼうかい)・摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)の三つです。 悪いことをしない、善を行う、衆生を渡すの三つなのです。 日本における授戒は、鑑真和上によって七五四年(天平勝宝六)四月に東大寺大仏殿の前の戒壇でなされたのが最初です。 鑑真和上は、聖武上皇・光明太后らには、僧俗に通じる菩薩戒を授戒したようです。 また、僧侶には『四分律』に基づいて二百五十の具足戒を授けていました。 しかし、そのような戒を授ける戒壇は小乗の戒壇とし、比叡山延暦寺に梵網経に説く大乗菩薩戒を授ける大乗戒壇の樹立をめざしたのが伝教大師最澄でありました。 伝教大師は、『梵網経』によって十重禁戒四十八軽戒でよいとしたのでした。 しかしこの大乗戒壇が公認されたのは八二二年(弘仁一三)六月、伝教大師がお亡くなりになった後一週間してのことでした。 道元禅師は、三帰依戒と、三聚浄戒と十重禁戒でよいとして十六条戒を説かれました。 また十善戒というのもあって、江戸期の慈雲尊者はこの十善戒を説かれています。 さらには「一心戒」というのもあります。 こちらは「衆生の根底にある絶対的な一心にもとづく戒」であります。 自性清浄心に基づいています。 本来きよらかな心があれば戒はおのずと保たれていくという立場です。 善来具足戒は、お釈迦様に「来たれ、修行僧よ、ともに修行しよう」と言われて、お釈迦様のもとで修行しようという心があれば、それで十分戒は保たれるというものです。 それから三帰依戒、五戒、八斎戒、更には二百五十の戒へと増えていったのでした。 その反動か、また十重禁戒、十善戒、四十八軽戒と少なくなっていって、一心戒にまでなっていったのでした。 そんな戒の変遷を修行僧達に話をして、それぞれに、自分にとってふさわしいのはどの戒だと思うか聞いてみました。 なんと、多くの修行僧は、善来具足戒でいいという答えでした。 中には道元禅師の十六条戒がいいという者もいましたし、五戒がいいという者もいました。 一心戒がいいというのも数名いました。 善来や一心戒という端的なものが好まれるのかと思いました。 ただ一つだけというのは、端的でいいのですが、気をつけないと堕落してしまう恐れもあるものです。 修行道場の布薩では、三帰依、三聚浄戒、十善戒に十重禁戒を唱えています。 お釈迦様はお亡くなりになる前に、「是れを以て当に知るべし。戒は第一安穏功徳の所住処たるを」と仰せになっています。 戒を持つことは、安楽なのであります。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1393回「一日勉強」
先日は、円覚寺本山で戒名についての講座と、ハラスメントについての講座がございました。 おかげさまで一日勉強させてもらいました。 戒名については私が講師を務めて九十分講義と質疑応答を行いました。 若手の和尚さんたちと、修行道場の修行僧達とで50名ほどの受講でありました。 そもそも戒名とはなにかまず『広辞苑』で調べると、 「戒名」は、 「〔仏〕受戒の際に与えられる名。 本来生前に与えられるものであるが、平安末期から死者に対して与えられるようになった。 浄土真宗では戒を受けないので法名という。」 と書かれています。 仏教徒としての名前をいただくのです。 岩波書店の『仏教辞典』には精しく書かれています。 「もと、受戒した者に与えられた名。 この意味の戒名は<法名><法号>と同義。 法名は、中国・日本を通じてみられるように、仏教に帰依入信した者に授けられた。 したがって、浄土真宗や日蓮宗などのように通例の戒の授受を行わなくとも、戒名=法名を授けているし、戒名は出家・在家の区別なく与えられた。 戒名には2字の名が多かったが、出家の場合には、戒名=僧尼名のほかに諱(いみな)や房号・道号・字(あざな)などをもっている。」 と書かれています。 禅宗では出家すると諱をつけてもらい、更に和尚になると道号を授かります。 更に『仏教辞典』には、 「戒名=法名はもとより生前入信したときに与えられたが、在家の男女が死後、僧から<法名>を与えられることが行われるようになり、これをも<戒名>とよんだ。 この種の戒名は、日本では中世末期ごろからみられ、近世の檀家(だんか)制度のもとで一般的となり、戒名といえば、この死後授与の法名を指すようになり、むしろ法名・法号は出家の戒名を意味するようになった。 さらに戒名の下に、男性には居士(こじ)・禅定門(ぜんじょうもん)・信男(しんなん)・信士(しんじ)、 女性には大姉(だいし)・禅定尼・信女、子供には童子・童女などの号をつけ、戒名の上に院号・院殿号などを冠することも行われ、現代に至っている。 ただし真宗では、<釈>(男性)、<釈尼>(女性)の字を2字の法名に冠するのを通例とする。」 と解説されています。 ここにある通りもとは生前に仏教徒として入信したときに与えられていました。 それが臨終になって授戒することも行われるようになったのです。 日本では淳和天皇がそのはじめだとされています 淳和天皇は、西暦七八六年のお生まれで、八四〇年にお亡くなりになっています。 在位は、八二三年から八三三年までです。 承和七年(八四〇)臨終に出家されたのでした。 平安時代には、皇族や貴族のあいだでは、死に瀕して在家のままで戒を授かり出家となったのでした。 そののち、死後に在宅のままで剃髪して戒を授け出家とするようになっていったのでした。 円覚寺の開基である北条時宗公もまた、臨終に仏光国師戒師のもとで出家なされています。 落髪の法語などが佛光録に残されています。 戒名には、居士や大師という号がつきます。 「居士」というと、『仏教辞典』には、 もとはサンスクリットの「グリハパティ」で 「<家の主人>の意であるが、特に商工業に従事する資産者階級(ヴァイシヤ、吠舎(べいしゃ))を意味した。 経典などに出るこの語を中国では<居士>と訳した。 また(優婆塞(うばそく)と音写。 男性の在家(ざいけ)信者)の訳語としても用いられる場合がある。」 と書かれていて、 そして「今日では、特に禅を修行する在家の者によく用いる。 なお、男子の法名の下につけられ、<大姉>の対であるが、中国の禅録には、女居士の例もあった。」 というのであります。 『祖庭事苑』には、居士と呼ばれるための四つ徳が書かれています。 一には仕宦(官)を求めず。役人ではないことです。 二には寡欲にして徳を蘊(つ)む。欲をもとめず功徳にはげむことです。 三には財に居して大いに富む。財力のあることです。 四には道を守ってみずから悟る。仏道に精進し悟りを開くことです。 今でも実際に参禅修行して老師から居士号を与えられることもあります。 臨終に出家した淳和天皇というと散骨されたことでも知られています。 山田無文老師は『碧巌録提唱』の中で第十八則慧忠国師無縫塔の公案で、 「老衲が死んだら形見に残すものは何もない。 春は花、夏はホトトギス、秋は紅葉葉、皆咸く老衲の形見だからよく見てくれ。 良寛さんはそう詠われたそうだが、この全宇宙がそのまま墓だ。 全宇宙がそのまま老衲なのだから、老衲が死んだら全世界がそのまま墓だ。その墓の中には一切衆生ことごとく平等に暮らしている。 それは皆老衲だ。 特別に佛だの凡夫だのという差別はいらん。北極の果てから南極の果てまでぶち抜いている。」 と提唱されています。 また 「わしが死んでも墓などいらん。全宇宙がわしの墓で、その中に生きているものは皆わしだ。永遠にわしは生きておる。そこに慧忠国師の無縫塔があるはずであろう」と仰せになっています。 そのあとで、 「淳和天皇は遺言に「オレが死んだら墓を建てる必要はない。焼いて粉にして風の吹く日にまいてくれ。」と言われた。 昔の人は正直なものだ。 大原野の山の上で天皇を火葬にして粉にして、風の吹く日にまいたということである。 だから淳和天皇の陵は山全体が陵である。 山どころではない宇宙全体が墓だ。」 と提唱されています。 後に幕末の陵墓修復の際、小塩山山頂付近に大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)と称する陵墓が築かれたといいます。 戒名について、あれこれと講義をして、皆さんから熱心な質問もいただきました。 そのあとは弁護士の先生をお招きしてハラスメントの講義を受けました。 ハラスメントの「ハラス」とは、「苦しめる、 悩ませる」ことで、 ハラスメントで「困らせること、 苦しめること、悩ませること」の意味だそうです。 パワーハラスメント セクシャルハラスメント マタニティーハラスメント パタニティ・ハラスメント ケアハラスメント モラルハラスメント カスタマーハラスメント などなどいろいろあることを学びました。 また 「修行であれば何でも許される?」かとして、 「たとえば、修行僧は自ら修行がしたくて修行に来ているのであって、 お寺はそれを許可しているに過ぎず、修行が嫌になったら辞めれば良いのだから、修行はパワハラにあたらないという考え」を持っているかもしれませんが、 そうはいかないということでした。 「何をやっても良いという話にはなりません」のであって、 「修行関係であれ雇用関係であれ、一旦は社会的な関係を持った以上、優位な立場の者(会社、 上司、 お寺)は、弱い立場の者 (労働者、部下、修行僧) に思いやりや敬意をもって対応するという心構えが必要である」と学びました。 今の時代、修行道場であってもいろいろと配慮しないといけません。 いろいろと学ぶ一日でありました。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1392回「相手の視線」
先日は甲野陽紀先生にお越しいただいて、講座を行ってもらいました。 まずは間の話から始まりました。 たとえば、相手と竹の棒を持って、相手を押そうとします。 こちらが、相手を押そうと思って押しても相手に抵抗されて、なかなか押せるものではありません。 こちらが自分の腕を伸ばそうと思って押しても相手はなかなか動きません。 ところが、間にもっている竹に注意を向けて、その竹を向こうに動かすようにすると、なんといとも簡単に相手を押せるのであります。 実際にやってみるとその通りになるのです。 相手を押そうと思って押すのは、相手に注意がいきます。 自分の腕を伸ばそうというのは、自分に注意がむきます。 竹を動かそうというのは自分と相手との間にある「間」に注意を向けているのです。 それで大きく変わるのです。 それから鏡を使うワークを行いました。 お互いに片手を握り合って相手を引こうとします。 相手は引かれないように頑張ります。 なかなか引けないものです。 ところが、間に鏡を置いて、その鏡を見ながら引くといとも簡単に引くことができるのです。 その鏡には、自分と相手とが映っていないとうまくゆかないのです。 なんとも不思議としか言いようがありません。 相手しか映っていないと、引くことができなくなるのです。 それから他者の視点を学びました。 私たちが甲野先生の講義を聴いている時には、黒板と甲野先生が眼に入っています。 甲野先生の視線には、黒板は映っていません。 畳に坐っている私たちが映っているだけです。 イスに坐った人を起たせるワークを二人で行いました。 抱えて持ち上げようとすると、出来なくはないのですが、かなり重いものです。 ところが、相手の視線をあげるようにしてみると、軽く立ち上げることができるのです。 なんとも不思議なものでした。 寝ている人を起こすのも同じでした。 相手の肩に片手を回して起こそうとします。 これもかなり重いものです。 ところが相手の視線、景色を動かそうとするのです。 仰向けに寝ていると天井が見えています。 起きてくると目の前になるふすまが見えてきます。 その景色を思って抱えると、いとも簡単に起こせるのであります。 この相手の視線になってみるというのが不思議でありました。 またこれは何かとても大事なことだと感じました。 その次の日の僧堂の講座で、私は臨済録の話をしました。 岩波文庫の『臨済録』から入矢義高先生の現代語訳を参照します。 「ある日、師は河北府へ行った。 そこで知事の王常侍が説法を請うた。 師が演壇に登ると、麻谷が進み出て問うた、 「千手千眼の観音菩薩の眼は、一体どれが正面の眼ですか。」 師「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが正面の眼か、さあ、すぐ言ってみよ。」 すると麻谷は師を演壇から引きずり下ろし、麻谷が代わって坐った。 師はその前に進み出て、「ご機嫌よろしゅう」と挨拶した。 麻谷はもたついた。 師は麻谷を演壇から引きずり下ろし、自分が代わって坐った。 すると麻谷はさっと出て行った。そこで師はさっと座を下りた。」 というものです。 教えを説く側と受ける側とがお互いに入れ替わるというのです。 これも視線が変わるのであります。 教えを説く側の視線が分かってくると何か変化が起きてくるものです。 また教えを聞く側の視線が分かってくるとこれも変化があるでしょう。 こういうことを学ぶのは、結局自分と他者との関わりを学ぶのであります。 以前に坪崎美佐緒さんや清水喜子さんに、相手を理解すると相手が変わるということを学びましたが、相手の視線になって見てみることに通じます。 聞く方も話す側の視点になってみる、話す方も聞く側の視点になってみる、どちらも大事であります。 山田無文老師は、『臨済録』の中で 「社会も世界もそうだ。 いつでも相手の立場になってやれる境界がないというと、円滑にはいかん。 自分の立場ばかり固執しておるようでは、世の中、円満にはいかん。 いつでも相手の立場に代わってやれる。 社長はいつでも社員の立場になれる。 社員はいつでも社長の立場になれる。 主人はいつでも奥さんの立場になれる。 奥さんはいつでも主人の立場がよう分かる。 そうお互いが理解できれば、社会生活は円満に行くのである。 天龍寺の説教師がよう言うておった。 説教に行ったら、婆さんが前におって、一生懸命居眠りしよるから、 「婆さん、婆さん、わしが一生懸命しゃべっておるのに、おまえさん居眠りばかりしておるが、話というものはそう生易しいものではないぞ。一ぺん話す身になってみなされ」こう言うたら、婆さんが、 「説教師さん、そう言いなさるけど、一ぺん下に降りて聞いて見なはれ。あんたの話なぞまともに聞いておれますかいな」 と言いよったということじゃ。 お互い、いつでも相手の立場になれる自由というものを一つつかんでおかんといかん。」 と提唱されています。 こちらの身になってみろと相手に言うのは、自分の立場を強調しているだけで、ちっとも相手の視線になっていないのです。 これは気をつけないといけないところです。 視線が変わると世界も変わるものです。 そして相手の視線になって見ることが相手を理解する一歩でもあります。 慈悲とは相手の理解でもあります。 甲野先生の講座は楽しく学びながら、いろいろ深く考えさせられます。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺