【公式】臨済宗大本山 円覚寺

鎌倉にある臨済宗大本山円覚寺です。 YouTubeにてお届けしてます「毎日の管長日記と…

【公式】臨済宗大本山 円覚寺

鎌倉にある臨済宗大本山円覚寺です。 YouTubeにてお届けしてます「毎日の管長日記と呼吸瞑想」を中心に毎月の「日曜説教」、短い法話の「一口法話」などお伝えさせていただきます。 【公式ホームページ】https://www.engakuji.or.jp/

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第1207回「坐禅の呼吸」

朝比奈宗源老師が坐禅について語られた言葉に、 「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。 これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。 掘れば出ると思うから骨も折れる。 だから我々の修行もそれと同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。 そうしといて、井戸を掘るには井戸を掘る方法がある。 道具もいる。努力もいる。 坐禅も亦然りだ。やればキッと出来る。どうすればよいかということを考えねばならぬ。それには何時も言うように坐相に気を付けることだ。」 とあります。 仏心を具えていながら、そのことに気がついていないのが私たちです。 気がつく為にはどうしたらよいか、やはり坐禅がよろしいのです。 その坐禅をするにはまず姿勢を正すことから始まります。 朝比奈老師は 「姿勢をよくし、腰を立てて、息を静かに調えて、深く吸ったり、吐いたりして、丹田にグッと力を入れる修行をせねばいかん。 腰を立てないとどんなにしても力が入らん。」 と仰る通り、まず腰を立てることであります。 森信三先生は立腰と説かれました。 腰骨を立てることなのです。 それから更に朝比奈老師は、 「そうして色々考えたが、ワシの経験ではこの丹田に力を入れるとー臍の下二寸五分の所に力を入れねばいかんが、それも漫然と下腹に力を入れるというのではなく、臍の真正面というか、真下だな、真ん中だ。 それの二寸五分の辺に焦点を定めて、そこへ心を集中する。 そこで無字なら無字を拈提して坐る。」 と説かれています。 おへそから指の幅四本分下くらいのところです。 しかも体の表面ではなく内部です。 これが丹田です。 次に呼吸ですが、朝比奈老師は 「息はーよくこういう質問をする人があるから言うが、息は吸うときに力を入れるか、吐くときに力を入れるかとよく聞く人がある。 どうもこれも色々やってみたが、経験から言うと、吸うときは胸部に、つまり肺に息が入るのだから横隔膜が下に行くが、胸を広げるときだから、吐くとき鼻から静かに息を出しながら、こうして吐きながら静かに下腹に充たした方が、どうも良いようだ。 つまり何だな、上をふくらましたときグッと力を入れると、うっかりすると胃下垂というような病気になる。 だから吐く時ムーッと下腹に力を入れる。」 と説いておられます。 これは岡田虎二郎先生が説かれたのと通じるのであります。 岡田虎二郎先生は、その著『岡田式静坐法』の中で正しい呼吸として、 息を吐く時下腹部(臍下)に気を張り、自然に力のこもるようにと説かれています。 その結果息を吐く時下腹膨れ堅くなり、力満ちて張り切るようになるというのです。 吐く息は、緩くして長いのです。 吸う時は、空気が胸に満ちて、胸は自然に膨脹し、胸が膨れるとき臍下は軽微に収弛を見ると説いています。 呼気吸気のときに、重心は臍下に安定して気力が充実しているというのです。 吸う時に腹を膨らまし、吐く時に腹を収縮させるのとは違うというのです。 息を吐くときお腹をへこませずに、圧をお腹の外にかけるように意識してお腹周りを「固く」させるのが腹圧呼吸と言われますが、それに通じます。 朝比奈老師は、 「そうしてだんだん暫くやって、下腹に本当に力が入ったら呼吸には関係なくならねばいかん。 呼吸のことは、心配せんで、かすかに鼻から吸ったり吐いたりして、グッと公案に成り切っていく。 この成り切るなんていう言葉は禅にしかないかも知れぬ。 つまり外のああとかこうとか思う雑念を全部振り捨ててグッと行くのだ。」 と説かれていて、これは呼吸をも手放すことを言っています。 『長生きしたければ呼吸筋を鍛えなさい』という本で、医学博士の本間生夫先生は、次のように書かれています。 「人間の体の機能を正常に保つうえで、じつは二酸化炭素は酸素よりも重要な役割を果たしている面もあるのです。 ホメオスタシスのなかでも、特に重要なのが酸性・アルカリ性のバランスです。 人間の体はpH7.4の弱アルカリ性(pH 7、0が中性) で、 この数値をキープすることが、体調を正常に保つために非常に大切です。酸性に傾いても強いアルカリ性になっても、コンディションを崩しやすくなります。 このバランスを保つために、非常に重要な役割を果たしているのが二酸化炭素です。 血液中に二酸化炭素がたくさんあると体は酸性に傾き、その逆に少ない場合はアルカリ性になっていきます。」 と二酸化炭素の重要さを説いていて、そこから更に、 「二酸化炭素の調節システムは、この「無意識に行なわれる代謝性呼吸」のときのみに作動して、「意識して行なう随意呼吸」のときには作動しないメカニズムになっているのです。 ですから、深呼吸のような「意識して行なう呼吸」をずっと続けていると、二酸化炭素の調節システムが作動せず、かえって体内バランスを崩すことになってしまうわけです。 繰り返しますが、1、2回の深呼吸をたまに行なう分にはまったく問題ありません。 しかし、わたしたちの体をいつも通り一定に維持してくれているのは、あくまで「無意識に行なわれている呼吸」です。」 というように「無意識に行われている呼吸」の重要さを説いてくれています。 意識的に呼吸を調えて、調っていったならば、呼吸を手放して無意識の呼吸に任せるのがよろしいかと思っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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      第1206回「どうしたらいつもニコニコしていられるか」

      修行道場での入制大摂心では、坐禅もはじめてという修行僧もいるので、天台小止観に説かれている坐禅の心構えについて講義しています。 松居桃樓先生の『微笑む禅』は松居師が天台小止観を分かりやすく説かれたものです。 昭和五十三年四月から五十四年三月までNHKラジオで講話されたものがもとになっています。 私はまだ十三歳から十四歳にかけての頃でしたが、ラジオで勉強していたものです。 はじめに七仏通誡の偈を松居師は分かりやすく 一粒でも播くまい、ほほえめなくなる種は どんなに小さくても、大事に育てよう、ほほえみの芽は この二つさえ、絶え間なく実行してゆくならば、 人間が生まれながらに持っている、 いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむ心が輝きだす 人生で、一ばん大切なことのすべてが、この言葉の中に含まれている と説かれています。 そして更に、 「人間は、どうしたらニコニコになりきれるか? ひと口にいえば、「感情を波だたせないこと」と、「思考力を正しく働かせること」の二つきり。 なぜならば、よきにつけ、あしきにつけ、何かが気になってたまらないのは、あなたの感情が、波だっている証拠。 ああか、こうか、と迷うのは、思考力が正しく働いていないからだ。 感情が波だっていては、色めがねでしか、ものが見えず、思考力が正しく働いていないと、もののうわべしかわからない。 感情が波だっていなければ、どんなことにも動揺せず、思考力が正しく働いておれば、如何なる難問題も解決できる。 あなたが、感情をしずめ、思考力を正しく働かせることができたならば、自分もしあわせ、周囲の人々もしあわせ。何をやってもまちがいない。 以上のことからでも、わかるように、「感情を波だたせないこと」と、「思考力を正しく働かせること」は、いつでも、どこでも、なにものにも、ニコニコできる第一歩。理想的な人間になる最短距離。 人類平和の帰着点。人生最高の幸福をつかむ根本原理。あだおろそかにすべきでない。」 という言葉はとても説得力のあるものです。 その為に『天台小止観』には、はじめに二十五の方法が説かれているのです。 二十五のはじめの五つが五縁として説かれています。 それを松居師は分かりやすく、『死に勝つまでの三十日 天台小止観講話』のなかで、 一、いつもニコニコ 二、キモノとタベモノに対して感謝の心を 三、なるべく感情を波だたせないような生活の場を 四、今までのモノの考え方を白紙にかえそう 五、純粋な人間関係だけを と説かれているのです。 原文では 一、持戒清浄 二、衣食具足 三、閑居静処 四、息諸縁務 五、得善知識 という五つなのですが、実にわかりやすく訳されています。 「第一、いつもニコニコ」について、 「感情をしずめ、思考力を正しく働かせる練習の第一歩は、<いつもニコニコ>。」 しかし、そうはいっても人間はほほえめなくなる種を知らず知らずにまいてしまっています。 そこで松居師は、 「では、ほほえめなくなるタネをまいてしまったらどうするか? それには、まず、次にあげる十ヵ条を、頭のなかで、くりかえし、くりかえし反省すること。」 というのであります。 それではその十カ条をみてゆきます。 その概略を引用します。 「一、ほほえめなくなるタネは、どこから来るか? この世の生きとし生けるものが、何億万年の昔から、先祖代々、みんなが共通にもっている死の恐怖からのがれるためのモガキなのだ。だから、その死の恐怖を克服しなければ、自分ばかりか、全人類の、本当のほほえみは生まれてこない。 二、<ほほえめなくなるタネ>は、どこまでのびるか? 人間同士が、このまま〈ほほえめなくなるタネ〉をまきあっていたら、しまいには、全人類が破滅するような、恐ろしい闘争の渦巻きになってしまう。 三、人間にとって、なにが一番、危険なことか? 現在、自分自身がほほえめなかったり、ヒトをニコニコさせられないこと。なぜならこの世の生きとし生けるものの中で、人間だけができる 〈ほほえみ〉とは、死の恐怖を克服して、感情を波だたせず思考力を正しく働かせることができる状態にある時の表情なのだ。だから、もし、今、誰かが、ニコニコできないでいるとすれば、その人は、人間としての価値を失って、ただの動物に逆もどりしている証拠なのだ。 四、誰かが、現在、ニコニコしていないとしたら? 自分自身にせよ、他人にせよ、その感情の波だちを、少しでも早くしずめるように、あらゆる手段を講じよう。 五、今までの、まちがいを、どうやって発見するか? 過去にまいてしまった〈ほほえめなくなるタネ〉を思い出して、「なるほど、あんな場合でも、お互いにニコニコできる解決方法があったかも知れないなぁ」と考えなおすこと。 六、ほほえめなくなるタネはどうやって絶やすか? 今まで犯したアヤマチが、間違っていたとわかったら、それでいい。すんでしまったことは、いつまでもクヨクヨせずに、すっかり忘れて、「今から後は、どんな小さなひと粒でもほぼえめなくなるタネは、絶対にまくまい」と決心すること。 七、ほほえみの芽は、どうやって育てるか? 今から後は、自分自身がほほえんだり、ヒトをニコニコさせられる機会があったら、どんな小さなものでものがさずに、必ず実行しようと決心すること。 八、どうやって全人類をほほえませるか? できるだけ多くの、ニコニコの同志を作り、お互いに、ニコニコできる方法を工夫したり、励ましあうこと。<ほほえみ>は、あなた一人が、ニコニコ暮すだけでは意味がない。全世界の人間が、一人残らずニコニコできるようにならなければ、結局、自分自身のニコニコさえもできないのだ。 九、どうしたら、いつもニコニコできるのだろうか? あなたが、どうしてもほほえめないような破目に追い込まれたら、心の中で、「ほほえみたくても、ほほえめないで苦しんでいるのは、この世に自分一人ではない。過去、現在、未来にわたって、いたる所で、自分と同じ気持の人が、一生懸命ほほえもうと努力しているのだ」と、自分で自分を励ますこと。 十 <いつもニコニコ>に徹しきれると、どうなるか? 人間が、ビクビク、イライラ、クヨクヨするのは、自分とヒトの区別をして、「自分だけが生きのびよう」「幸福になろう」と欲張るからだ。 「自分と宇宙は一体だ」という気持になって、いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむくせをしっかりつければ、この世に不安も苦しみも存在しなくなり、いつの間にか、〈死の恐怖〉まで克服できる。そして、そういう心境になりきれることこそ、人生最大の幸福なのだ。」 と実に丁寧に説かれています。 『死に勝つまでの三十日 天台小止観講話』は『微笑む禅』よりももっと古く一九六六年に刊行された本です。 ほほえみにどうしたら徹することができるのか、これは容易なことではありません。 それでもやはり毎日いつでもどこでも微笑むことができるように努力したいものです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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        第1205回「仏心の中に」

        人は仏心の中に生まれ 仏心の中に生き 仏心の中に息を引き取る 朝比奈宗源老師の『仏心』の中にある言葉です。 仏心というと、仏の心ですから、それは私たちの中にあるように思います。 「仏心」とは、岩波書店の『仏教辞典』には、 「仏の心、大慈悲心をいう。 観無量寿経に「仏心とは大慈悲心是れなり」とある。 わが国では<ほとけごころ>と読んで、大慈悲心、卑近な言い方をすれば、優しい心を意味することがある。 また衆生の心にそなわる仏の心、すなわち仏性を意味することがあり、特に禅宗で重視される。ここから禅宗のことを<仏心宗>ともいう。」 と書かれています。 仏心は私たちの心に具わると説かれています。 仏性とも言うと書かれていますので、仏性とは何か学んでみます。 岩波書店の『仏教辞典』には、「衆生が本来有しているところの、仏の本性にして、かつまた仏となる可能性の意。 <覚性>とも訳される。 <性>と訳されるダーツという語は、置く場所、基盤、土台の意であるが、教義上<種族>(種姓)および<因>と同義とされる。」 「仏性は仏種姓(仏種)すなわち仏の家柄で、その家に生れたものが共通にもっている素性の意ともなる(その所有者が菩薩)。また、将来成長して仏となるべき胎児、(如来蔵)の意味ももつ。」 と解説されています。 もともとお釈迦様がお亡くなりになったあと、仏教では仏はお釈迦様一人で、その他は仏にはなれないという教えでした。 私たちが修行して到達するのは阿羅漢であって、仏ではなかったのです。 ところが大乗仏教になって仏になれると説かれるようになってきたのでした。 仏になれるというのは、仏になる要因が内在しているからだと説くようになったのでした。 それが「一切衆生悉有仏性」という『涅槃経』の言葉になったのです。 「衆生のうちなる如来・仏とは、煩悩にかくされて如来のはたらきはまだ現れていないが将来成長して如来となるべき胎児であり、如来の因、かつ如来と同じ本性であるという意」なのです。 そこで、「仏性」と名づけたのです。 『仏教辞典』には「具体的にはそれは、衆生に本来具わる自性清浄心と説明されるが、平易に言えば、凡夫・悪人といえども所有しているような仏心(慈悲心)と言ってよいであろう。 なお、仏性がすべての衆生に有るのか、一部それを有しない衆生(無性、無仏性)も存在するのかをめぐって、意見がわかれる(五性各別説)。」 と説かれています。 道元禅師の正法眼蔵には「仏性の巻」があります。 余語翠厳老師の『これ仏性なり 『正法眼蔵』仏性講話』には次のように説かれています。 「普通の考え方でいきますと、仏になる可能性があるというようなことを仏性というように言っておる人が多いわけです。 それならば、仏性というものがあって、いろいろ修養をしていく間にどんどんその能力が伸びて仏さまになるのだということで、理解だけはできるでしょう。 しかしそういうことではないのだ、というのです。 涅槃経というお経に一切衆生悉有仏性と書いてあります。 悉有はしっつと読みます。 悉く仏性有りというように読むのが普通ですが、そういうふうに読むと、今言ったような考え方になるわけです。 つまり仏性というものが私達の中にあって、 修養したりなんかしているとだんだんその能力が伸びていって、仏さまになるのだというように考えられます。」 という考え方があります。 しかし余語老師は、 「今朝もここの若い人達に話したのですが、雑草というものはないはずじゃということを言いますが、花を育てるために雑草を抜くということをやります。 人間の営みとしてそれをやるが、けれど雑草というものはあり得ないというのです。 勝手に人間が「これ雑草じゃ」と、「これはきれいだから花だ」と区別しているだけのことです。 そこに伸びている草はそこに伸びているだけで、それらの草はそんなこと関係ないわけです。 人間が勝手に区分けをしたのだということはわかるでしょう。 それが当を得ているかどうかは別問題として、人間が区分けをするから、清浄という問題が出てくるのです。 清浄も不清浄もそういうことでしょう。」 と説かれています。 綺麗だ、汚いだ、清らかだ、汚れているというのも人間が作りあげたものと言えます。 そして仏性とは清らかものと思い、煩悩とは汚れたものと思ってしまいます。 しかし余語老師は「人間の感覚をはぶいてしまえば、清浄とか不清浄とかいうことは成りたたないのです。 天地いっぱいの道理というものの中には人間のいう浄穢全部、すべて含まれているのです。 浄穢というのは人間がそういうだけのことで、あるものはただそのままあるのです。 そういうことを深く考えてみれば、花も雑草も同じだというわけです。 仏というものは清浄のものだと思っていて、人間臭味のあるところは清浄ではないような気がして、人間らしいところが全部なくならないと仏さまにならないように思うでしょう。」 と説かれます。 そして更に 「自分の体の中に仏性というひとかたまりのものがあって、それがだんだんと伸びていくという感覚になるわけです。 有という、あるということは所有するということですから、自分が仏性をもっておるということになります。 そうではなくて、仏性の中に己があるのだというのです。 天地の命の中の一分を生きておるというこの命は、仏性の中に自分があるのです。 関係が逆になります。」 「道元禅師という人は言葉の上でも天才であったようにみえます。 五年間、中国の生活をしてこられるわけですが、なかなか容易にできることではありません。 昔は洋行帰りの人の話の中にむこうの言葉がそのまま入ってくるということがあったが、あれがハイカラでね。 道元禅師もそれが癖になっていたのでしょう。文をまっすぐ読むのです。 悉有は仏性なりと読む。悉有というのはことごとくあるというのですから、一切の存在が仏性なのである、ということです。 清浄、不清浄と分けたものでなく、全部包んだものです。 それが仏性だというのです。」 と明解に説いてくださっています。 「悉有は仏性」とは実に大きな広い世界なのであります。 その中で私たちはひとときの夢を見ているようなものなのでしょう。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1204回「よい条件を調える」

          朝比奈宗源老師の『しっかりやれよ』という本には、こんな言葉があります。 「人は佛心のなかに生まれ、佛心のなかに住み、佛心のなかで息をひきとるのだ。 生まれる前も佛心、生きているあいだも佛心、死んだ後も佛心、その尊い佛心とは一秒時も離れない」 これは、朝比奈老師がよく仰せになっていた言葉です。 そして朝比奈老師は、 「ただ多くの人はそれに気がつかないのです。 悟るということは、新しいことを覚えることでなくて、前からわかりきっていたはずのことが、わからないでいて、それに気がついたことを悟るという。 忘れものをしたのを思い出したように これが悟りだと、お経にも書いてあります。」 と書かれています。 ここに「悟り」という言葉の意味がはっきり書かれています。 「佛心とわれわれとは、そういう関係なのです。 あなた方が間違っていたとしても、佛心のうえからいえば、ただその尊い佛心をそなえながら、佛心のなかで迷っているのです。 夢のなかで、ありもしないのに良いことに会ったと思って喜び、悪いことに会ったと真実に思って泣いたり悲しんだりするのと同じなのです。 いわば人間は手放しで救われている。 佛教は、これほど徹底した教えです。 だがこれが本当に、はっきり受け取られないと、夢がさめないと同じように、つまらんものだ、困ったものだという不安がたえない。 だから、佛教ではこの世のことを夢の世の中と云います。 いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす この世を夢とみて、その浅い夢に酔ってはならんぞというのが、いろは歌の意味であります。 佛教はこういうものであります。 坐禅をするということは、人はそういう尊い心のあることを信じて、心を静かに統一して、心が落着くところに落着けば、自然に雑念妄想は遠のいてしまう。 狭い心もだんだん広くなり、ザワザワしていた心も落着き、暗い心も明るくなり、カサカサしていた心もうるおいが出てくる。 これは佛心を具えている人間として当然なのです。」 と説いてくださっています。 更に「井戸を掘る。 こういう地面でも深く掘ってゆくと必ず水が出る。 わずか掘って出るところもあり、深く掘らねば出ないところもある。 が、水に近づけば、必ずそのへんの土がうるおってくる。 坐禅も同様です。 精出して坐禅すると、自然に佛心の徳がにじんだところへはいっていく。」 と説かれています。 「そうありたいと思ったら、そうなれるように条件を調えていかなくてはダメなのです。 心を落着けたい、心を広くもちたい、ゆったりとしたうるおいのある心境でいたい。 誰でもカサカサしたり、 コセコセしたり、 ザワザワしたりする心持ちはいやだ。いやだと思ってもクセのある人は、すぐそうなりやすい。 そこで坐禅に心がけて、繰り返し繰り返ししていると、自然に心がゆったりとしてくる。落着いてくる。 つまり条件をそうもっていくと、自然にそうなる。 落着くようにもってゆけば、落着く。」 というのです。 このように良い条件を調えるのが坐禅であります。 また坐禅をするのにも良い条件を調えることが必要であります。 『天台小止観』にはまず五縁といって、五つの条件を調えることが説かれています。 それは、 持戒清浄=戒律を保ち、正しい生活をする。   衣食具足=適度な衣食で心身を調える。   閑居静処=喧騒を離れ、静かで心が落ち着く環境を調える。 息諸縁務=世間のしがらみや情報過多の生活から離れる。   得善知識=よい師や仲間を得る。 の五つです。 有り難いことに、修行道場に修行に来た時点で、この五つは自然と調えられています。 そのうえで、五欲を制御し、五蓋という五つの心を覆う煩悩を取り除き、その上で「調五事」といって、五つを調えることが説かれています。 その五つとは、食事と睡眠と身体と呼吸と心です。 坐禅の説明では、身体と呼吸と心の三つを調えると説明されますが、その前に食事と睡眠を調えることが説かれているのです。 これは大事なことです。食事を調える、そして睡眠を調える、その上での坐禅なのです。 それから坐禅をするにも条件を調えないといけません。 坐禅は体と呼吸と心を調えることですが、まず体を調えます。 具体的には、坐相という坐禅の姿勢をとります。 坐禅は両方の脚を股の上に乗せるという独特な方法で坐ります。 これが、近年イスの暮らしが多いためなのか難しい場合が多くなりました。 無理に脚を股に上げさせると、膝や足首を痛めてしまうことがあります。 特に膝を壊すと、あとあとたいへんなことになります。 やはり股関節をほぐして、可動域を広げてからでないと、膝をねじってしまうことになってしまいます。 そこで私もいろいろと体のことを勉強してきましたので、新しく入ってきた修行僧には、膝などを痛めないように、脚が組めるように、その条件を調える方法を教えるようにしています。 ひとり一人骨格や体の癖が違いますので、それぞれに合わせて指導しないといけません。 各自お寺の大事な跡取りの方が多いので、体を痛めないように慎重に指導をしているのであります。 またこうした指導をすることによって、自分の学びにもなるものです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1203回「臨済禅師のこと」

          先日は修行道場の雨安居開講でありました。 今制からまた『臨済録』を読んでまいります。 また初心に帰って、馬防の序文から読み始めました。 臨済禅師については分からないことが多いのです。 その生涯のあらましについては、『臨済録』の塔記に書かれています。 岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の訳文を読んでみます。 「師、諱は義玄、曹州南華(山東省)の出身で、俗姓は邢氏であった。幼い時から衆にすぐれ、成人して後は孝行者として知られた。 出家して具足戒を受けると、経論講釈の塾に在籍して、綿密に戒律の研究をし、また広く経論を学んだが、にわかに歎じて言った、「こういう学問はみな世間の人びとを救う処方箋でしかない、教外別伝の本義ではない」と。 すぐ禅僧の衣に着替えて行脚に出かけ、まず黄檗禅師に参じ、次に大愚和尚の指導を受けた。 その時の出会いや問答は行録に詳しい。 黄檗の印可を受けてから、河北に赴き、鎮州城東南隅の滹沱河のほとりに臨む小さな寺の住持となった。 その寺を臨済と呼んだのは、この場所がらからである。」 というものです。 「行録に詳しい」という内容は以下のようなものです。 臨済禅師は、はじめ黄檗禅師の会下に在って、行業純一に修行していました。 この「純一」なることこそ修行の一番の要であります。 修行僧の頭にあたる首座が、臨済禅師のことをご覧になって、 「これは若僧だけれども、皆と違って見込みがありそうだ」と思いました。 そこで、ここに来て何年になるのかと問いました。 臨済禅師は「はい三年になります」と答えます。 首座は「今までに老師のところに参禅にいったのか」と聞きました。 臨済禅師は「今まで参禅にうかがったことはありません、いったい何を聞いたらいいのか分かりません」と言いました。 こういう所が純一なのです。 何を聞いたらいいか分からないという、純粋に思いを暖めていたのであります。 すると首座は「いったいどうして老師のところに行って、仏法のギリギリの教えは何ですか」と聞かないのかと言いました。 すると臨済禅師は言われたとおりに老師の所にいって質問しようとすると、その質問が終わらないうちに黄檗禅師に打たれてしまいました。 臨済禅師がすごすご帰ってきましたので、首座がどうだったかと聞きますと「私が質問する声も終わらないうちに打たれました、どうしてだかさっぱり分かりません」と言いました。 首座はもう一遍行ってこいと言いました。 また行くとまた黄檗禅師に打たれてしまいました。 臨済禅師が言うには「幸いにもお示しをいただいて参禅させていただきましたが、こんな有様でなんのことやらさっぱり分かりません。 今まで過去世の障りがあって老師の深いお心が計りかねます。 これではここにいてもしかたありませんからお暇しようと存じます」と。 将来臨済禅師と称される程のお方であっても修行時代はこんな時があったのです。 現代社会で、「仏法とはどういうものでございましょうか」と聞かれて、いきなり棒で叩いたら大変な騒ぎになるでしょう。 これは「仏法というのはあなた自身のことではないか、それに気がつかずに何を聞いているのか」ということを一番端的に示す方法だったのです。 火の神が火を求めるという譬話があります。 火の神が火をくださいと言ってきたら「あなたが火なのだから、他に求める必要はないでしょう」と言うしかありません。 大事なのは、「仏法の一番明確な教えは、今あなたがそこに生きていることだ、あなたが現に今そうやって質問していることだ、そうして聞いているあなた自身がすばらしい仏法の現れなのだ」と気づかせるということなのです。 最初は、臨済禅師もそれがわからなかったのです。 そして黄檗禅師の指示に従って大愚和尚のところにゆくと、大愚和尚がそのわけを説明してくれました。 「なんと黄檗は親切だなあ。あなたに対してそんなに親切にしてくれたのか」と言ったのです。 それまでいろんな学問研究をしたけれどわかっていない臨済禅師に対して、さらに言葉で示したならば、もっと迷ってしまうかもしれません。 臨済禅師にしてみれば、知識や言葉はもう十分過ぎるぐらい学んでいるのです。 そこで必要なのは言葉ではなかったのです。 「あなたが一番明らかにしなければならないのは、自分自身が仏であるということだ。そこに気がついたらどうだ」という気持ちで、黄檗禅師はあえて打ったのであります。 これが最も端的な方法だったのです。 そんな臨済禅師の話をして雨安居を開講したのでした。 この春に入門した修行僧にとっては、こんな問答を読んでもまだまだ何の事やら分からないと思います。 だんだんと修行するうちにはっきりとしてくるものです。 『臨済録』で開講しましたものの、いきなり『臨済録』ではやはり難しいので、まずは坐禅の基礎から学んでゆこうと思っています。 早いもので、こうした開講を務めるようになってもう二十五年になりました。 はじめの頃は随分と緊張していたものですが、この頃はなんということなく行うことができるようになったものです。 慣れというのは、良い一面もありますが、恐ろしい一面もあります。 慣れることは大事ですが、慣れてもいけないと言い聞かせながらの開講でありました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1203回「臨済禅師のこと」

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          第1202回「担板漢」

          四月十七日は、円覚寺の古川尭道老師のご命日でありました。 老師の頂相をかけてお経をあげました。 堯道老師は「毒狼窟」という室号をお持ちでいらっしゃいましたが、その頂相を拝見しても、眼光鋭くいかにも「毒狼」という名の通りだといつも思います。 老師の略歴は、『円覚寺史』にあります。 明治五年十二月八日島根縣簸川郡に生る。 十三歳春慈雲寺(後松江の圓成寺住)石倉主鞭に得度、松江萬壽寺大航、井山寶福寺九峯、圓覺洪嶽、松島瑞巌寺南天棒鄧州、瑞龍禪外、虎溪毒湛等に歴參、洪嶽に嗣法す。 普應寺、東慶寺、關興寺、浄智寺に住職、大正五年六月圓覺僧堂師家、大正九年一月より昭和五年五月まで管長、六年六月渡米東漸禪窟師家、七年一月歸國、久保山天池庵住職、十年六月―十五年六月再び管長、爾來藏六庵退隱、昭和卅六年四月十七日示寂、骨清窟に塔す。壽九十一。嗣法別峰宗源。自歷畫傳『擔板漢』」とあります。 最期のご様子について朝比奈宗源老師は『獅子吼』の中で次のように書かれています。 「戦時からずっと山内蔵六庵に閑栖していられた毒狼窟・古川堯道老師は、昭和三十六年四月十七日、忽爾として遷化された。 あえて忽爾としてというのは、老師は数え年九十歳になられ、旧冬以来いくらか衰えは見えたが、その気力はさかんであり、周囲にある者はみなまだ当分は大丈夫であろうと思っていた。 現に御遷化の前日十六日の日曜には、いつもの如く居士数氏のために提唱をされた。 もっともその折も居士の一人がこたつにやすまれたままで結構ですというと、「ねていて提唱ができるか」と一喝され、起きて袈裟をかけて提唱されたそうで、はたの者にはいたいたしかったらしいが、あのご気性ではそうしなくては気がすまなかったらしい。 そのあとはやはり疲労されたと見え軽いけいれんをおこされたが治まり、その夜も平常とかわらず、明くる十七日午後零時半頃、急に変化が起こり、直に医師をむかえいろいろ手当を加えたが効が見えず、四時十分には遂に示寂された。 全くあっという間であった。 臨終に立会って下すった野坂三枝博士も、こんな楽な臨終は今まで見たことがないといっておられたが、最初に注射をした時、顔をしかめられただけで、あとは一切苦悩の影を示されなかった。 また何も言おうともされず、 平生の老師の通り、すらっと逝ってしまわれた。 私には忽爾として逝かれたという感じが深い。」 と書かれています。 先代の管長足立大進老師も修行時代には、まだ蔵六庵にいらっしゃって、僧堂が四九日にお風呂を沸かすと、まず堯道老師のところに行ってお声をかけて、お風呂にはいってもらっていたと仰っていました。 鬚をはやした老師が杖をつきながら、手拭いを持ってお風呂に入りに来られたそのお姿が印象深いと仰っていました。 朝比奈老師が「老師の人となりは米寿のお祝いに出版された、老師の自伝『担板漢』に記されている通り、誠に典型的な禅僧であった。 明治大正の間でも最も古風な面をもった人で、宗演老師は極めて進歩的積極的な方であったのに対し、老師は全くその反対な人であったが、お互いにその長所を認めあい尊敬されあっていた。」 と書かれています。 何に於いても進歩的な釈宗演老師に対して古風な老師だったとうかがっています。 足立老師は、そんな尭道老師のことをご尊敬されていたようで、お亡くなりになる時にも堯道老師がお召しになっていた法衣をつけて入棺するようにと言い残されていました。 私は老師のご遺体に尭道老師の法衣を着せながら、改めて老師は尭道老師を慕っておられたことを思ったのでした。 堯道老師は明治二十五年に円覚寺の僧堂に来ています。 その年の春に宗演老師が師家となったのでした。宗演老師はまだ三十二才、尭道老師は二十歳でありました。 堯道老師の『擔板漢』によると「此の時圓覺僧堂は極めて枯淡にて、朝は割麦一升に米三合の一人前一合づつの粥に萬年漬とて大根の葉をしほ漬に成たるものにて、昼は割麥一升に米三合づつの飯一人前三合づつ汁は醤油槽で製造の味噌に時々の野菜を汁の實になし、晩は朝の通りの粥で、それに大衆が満衆になれば不足で困難、そこで横濱や諸方に合米と云ふものを願った。」 という枯淡な暮らしだったのであります。 麦一升に米三合ですから、麦飯といってもほとんど麦だったようです。 朝比奈老師の『しっかりやれよ』という本には、こんな堯道老師とのやりとりが載っています。 朝比奈老師が、修行僧の頭となっていて、堯道老師に、 「ご飯は麦半分米半分、こりゃ祖師の命日かなんかでなきゃ食べさせなかった食事です、味噌汁もたっぷり、おこうこもこしらえ、味噌もしこむというように準備しておいて、堯道老師に、 「人間並の食事を食べさせてやって下さい」 と願ったんです。ところが老師は、 「そんな贅沢はいかん」 こう言う、」 そこで朝比奈老師は修行僧の中でも役位という古参の者たちで何日もかけて老師を説得したという話があります。 朝比奈老師は堯道老師の頂相に「「楞伽窟中、金を抛ち鉄に換え、大担板漢、林下の傑と稱す。」と讃を書かれていますが、「担板漢」とあだ名されていました。 「担板漢」というのは、入矢義高先生の『禅語辞典』には、 「板を横に肩にかついだ男。自分がかついでいる(抱えこんでいる) 物や理念に左右されて行動する人聞を罵って言う。つまりワン・パターンの教条主義者。」という解説があります。 また『禅学大辞典』には「一方向きの人。一を知って二を知らない者のたとえ。」とあります。 朝比奈老師は「融通の利かない人を担板漢という。板を背負った男っていう意味です。板を背負っているから、馬車馬みたいに脇や後ろは見えない」と解説されています。 そう言われるほどに一筋に生きた方なのであります。 堯道老師のご命日に老師の遺徳を偲んだのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1201回「死をみつめて – お医者さんたちに講演 –」

          先日の日曜説教のあとは、上京して都内のホテルで、日本臨床内科医会の会合で講演をさせてもらってきました。 この一月からは第二日曜日の日曜説教の午後から、一般の方々の布薩の会を催していますが、四月は第二日曜の午後に都内の講演が入っていて無理だったのでした。 そこで、第四日曜日の午後に布薩の会を開催します。 講演したのは、第41回日本臨床内科医総合学術集会という会であります。 一般社団法人 日本臨床内科医会と神奈川県内科医学会との共催であります。 ですからお医者さん達の集まりなのであります。 まずはじめに「アウェー」の話をしました。 よくスポーツの記事などで、「アウェー」という言葉をみかけますが、どういう意味なのかと思っていましたが、実に今の私が「アウェー」なのだと分かりましたと申し上げました。 まさしくその通り、お医者さんたちばかりの集まりに、私が一人法衣姿で現れるのですから、「アウェー」であります。 皆さんもいまこの場に異物が混入してきたという思いではないかと察しますと申し上げたのでした。 こんな体験をしたのが、もう今から八年前であります。 二〇一六年に日本肺癌学会学術集会で、「仏教の死生観について」と題して講演したことがありました。 横浜のホテルで行われた大きな学会でした。 そこで死について講演したのでした。 それがよかったのかどうか、明くる年には世界肺癌学会でお話させてもらったのでした。 お医者さんばかりの会に招かれ、まさ「アウェー」を実感したことでした。 世界肺癌学会で講演する際にあらかじめ講演要旨を提出するように言われて書いた原稿が残っていますので、どんな話をしたのかを紹介します。 「人は誰しも死を逃れることはできない。それにも拘わらず、人は死を見つめようとはしていない。できれば死を忘れて暮らしたいと思っている。実に死は、現代社会においても忌み嫌われていると言えよう。  一般に、死は「喪失」であると思われている。たしかに健康な肉体も、人生において与えられた時間も、社会における存在意義も、さまざまな体験も、手に入れたものすべて、貯めたお金や家、家族、友人や恋人、地位名誉などを「喪失」してしまう。  また生命を一日でも長く生かすことを考える医療において、死は「敗北」と認識されている。しかし、もしも死が「喪失」や「敗北」でしかないとしたならば、人生は「喪失」と「敗北」に向かって確実に進んでゆく空しいものとなるであろう。  「愚かな人間は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んでしまい、悩み、恥じ、嫌悪している。じつは自分もまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪する。このようなことは自分にはふさわしくないであろう」。  このように考えて、死の苦しみの原因を求め、死の恐怖や苦しみから如何に逃れることができるか、その道を求めたのが、紀元前五世紀にインドに生まれた、ゴータマ・ブッダであった。  ブッダの教えは、インドから中国に伝わり、中国においては「禅」という道に発展していった。「禅」の教えは、今日においても広く世界で求められている。  「禅」においては、「死」を見つめることを大切に説いている。死を問いとして、それに応えるに足る生き方を学んでいると言ってよい。それは決して死後の世界の探求ではない。あくまでも死を見つめて、積極的に生の意味を見いだすことを目指している。  現代においても、ともすれば忌避されがちな「死」について、古来の「禅」の教えを参照しつつ、「死」をどう受け止めて生きるかを学んでみたい。」 というものであります。 そんなところから少しずつ、お医者さんたちの集まりでお話することがあるようになりました。 先日の会でも申し上げたのですが、今はまさに「アウェー」ですが、これからももっとお医者さんたちと宗教者とが親和性を持って、「アウェー」ではなくなる日がくることを望んでいますと申し上げました。 二〇二二年の三月には神奈川県内科医学会集談会でもお話させてもらいました。 これはある医師が、私が出版した『仏心のひとしずく』を読んで、思うところあったらしく、話をして欲しいと頼まれたのでした。 『仏心のひとしずく』は二〇一八年に出版されたもので、私が毎月の日曜説教のために準備した原稿がもとになっている本であります。 その神奈川県内科医学会の講演がご縁となって、今回の臨床内科医会での講演となったのでした。 神奈川県内科医学会の金森会長から御依頼をいただいたのでした。 今回もお招きいただいて、ホテルの控え室で、金森会長をしばしお話させてもらいました。 二〇二二年の神奈川県内科医学会の話のことに触れられて、会長からあの時の話がよかったと言ってくださいました。 そこで私は先生、その時の話をあまり変わらないのですがいいですかと申し上げました。 医学の世界は日進月歩、いやそれ以上に早いのかも知れません。 数年も経てばもう古い情報となるのでしょう。 常に新しく学び続けなければならないのだと金森会長も仰っていました。 まさにそういう世界でありましょう。 しかし、私どもの世界にそんな早さの進歩はないのです。 根本的なことはお釈迦様以来変わることはないのです。 科学や技術は発達しても、人の心は変わらないのだと話し合っていたのでした。 アウェーで臨んだ会でしたが、私の講演の始まりに金森会長が、現場の内科医としては死に立ち会うことが多い、医学では死を学ぶことは滅多にないけれども死の問題を避けることはできない、死について宗教者とも対話を重ねるべきだとお話くださったので、「アウェー」の度合いは下がったのでした。 お医者さんたちの集まりなので、皆さんとても熱心に聴いてくださいました。 その日は朝からいろんな先生方の発表が続いていると聞いていました。 ですから私は今回敢えて、パワーポイント資料や紙の資料などは一切用意しませんでした。 少しでも目を休めてもらおうと思ったのでした。 語りだけ、一時間お話をさせてもらいました。 朝比奈宗源老師の 「私どもは仏心という広い心の海に浮かぶ泡のようなもので、私どもが生まれたからといって仏心の海水が一滴ふえるのでも、死んだからといって、仏心の海水が一滴へるのでもないのです。」 「私どもも仏心の一滴であって、一滴ずつの水をはなれて大海がないように、私どものほかに仏心があるのではありません。 私どもの幻のように果敢なく見える生命も、ただちに仏心の永劫不変の大生命なのであります。」 という言葉を紹介して、最後に柳宗悦の句を紹介して終わりました。 「吉野山 ころびても亦 花の中」 吉野山というのは桜の名所で、どこもかしこも見渡すかぎり一面の桜です。 桜の中にいればたとえどこでころんでも桜の中なのであります。 やがてどこで倒れても、どんな死に方を迎えようと、それはみな私ども仏教でいえば仏心の只中、御仏の掌の中に抱かれているのであります。 とお話したのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1200回「一大事」

          先日は、東京湯島の麟祥院開創四百年慶讚法要の記念法話に招かれて行ってきました。 湯島の麟祥院は、いつも勉強会でお世話になっています。 徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺です。 麟祥院の創建は、一六二四年(寛永元年)です。 春日局の隠棲所として創建されました。 今年でちょうど四百年になるのです。 野州宇都宮の興禅寺の渭川和尚が開山となっています。 京都の妙心寺にも麟祥院がありますが、こちらも1634年(寛永11年)に徳川家光により春日局の菩提寺として建立されたものです 峨山慈棹禅師(一七二七~一七九七)もまた、白隠禅師に参じて後、この麟祥院に十年ほど住されていました。 隱山禅師(一七五一~一八一四)が峨山禅師に参禅されたのもこの麟祥院でした。 隱山禅師は、越前のお生まれで、幼少にして出家され、十六歳で禅の修行に志し、十九歳で横浜の永田にある東輝庵の月船禅師に参禅されようとされました。 ところが、月船禅師のところに大勢の修行僧が集まっていて、これ以上道場に収容できないということで、まだ二十歳にも満たない隱山禅師は、入門を拒まれ、しばらく学問をするように諭されます。 はるばる山を越え川を渡って行脚してやってきて、はいそうですかと帰るわけにはゆきません。七日坐り通して頼みます。 涙を流して懇願して、最後には血の涙になったといいます。 そんな真剣な様子を見るに見かねて、ようやく月船禅師に取り次いでくれて入門できたのでした。 月船禅師のもとで修行を重ねて「仏語祖語、通明せざるなし」という自信を得られました。 しばらく美濃のお寺に住まわれていたのですが、月船禅師がお亡くなりになって、峨山禅師が後を継がれて白隠禅師の禅を大いに挙揚されているということを耳にして、月船禅師の会下でもあった峨山禅師にもう一度参禅しようとされました。 ちょうど峨山禅師が、江戸湯島の麟祥院におられて、そこで参禅されたのです。 『近世禅林僧宝伝』には当時麟祥院で峨山禅師が『碧巌録』を提唱されて、六百名あまりが聴いていたというのです。 隱山禅師ははじめて峨山禅師にお目にかかると、峨山禅師は手を出して、「どうして手というのか」と問い詰められました。 即答できないでいると、更に峨山禅師は足を差し出して、「なぜ足というのか」と問いました。 隱山禅師は春日局の御廟にこもって修行されたのでした。 朝のお粥とお昼のご飯をいただく以外は御廟を出ずに修行されて、とうとう悟りを開かれ、峨山禅師からも認められたのです。 隱山禅師三十九歳の時であります。 一八八七年(明治二〇年)には井上円了が、この寺の一棟を借りて哲学館(東洋大学の前身)を創立しています。 そこで境内には「東洋大学発祥之地」の碑(一九八七年(昭和六二年)建立)があります。 またその頃は臨済宗の学校も設けられていたことがありました。 明治八年(一八七五)年には臨済宗東京十山総黌という臨済宗の学校が開かれて、そこに今北洪川老師が招かれていたのでした。 その年には更に円覚寺の住持にもご就任なされていますが、その当時は麟祥院にいらっしゃって、円覚寺には通っておられたようです。 ただしこの十山総黌は長くは続かなく、洪川老師は明治十年円覚寺にお移りになったのでした。 昭和になって、飯田欓隠老師が麟祥院で提唱もなさっています。 朝比奈宗源老師や河野宗寛老師もここで禅会をひらかれていました。 近世の臨済禅においては由緒ある修行の場であります。 そんなお寺の開創四百年記念の法話を務めるのですから、栄誉なことですが、たいへんなことでもあります。 演題を「一大事」としましたのは、私にとって、そんな由緒ある麟祥院で法話をするのは、「一大事だ」と思ったからであります。 一大事は『広辞苑』には「①容易ならぬできごと。重大な事態・事件。」 という意味があって「太平記」から「正成不肖の身としてこの一大事を」。「お家の一大事」という用例があります。 それからもう一つ「②仏がこの世に出現する目的である一切衆生を救済すること。」と解説されています。 生死の一大事とも申します。 生と死の問題について話をしたのでした。 朝比奈宗源老師は旧版の『仏心』の中で、 「生き死にのことが、人生にとって大問題であることは、どの宗教でもいっていることで、ことに佛教はこの問題解決が主なる目的とされるだけに、昔からやかましくいう。 生死事大、無常迅速とは、耳にタコができるほどきかされるところだ。 また事実そのとおり人命は露よりもろい。 死がひとたび到来したら、英雄も豪傑も、富豪も権力者も、すべてその権威を失い、ただ一片の物質と化し去るのだ。 その死の来かたも、もうお迎いがきてくれてもよいのにと、この世にあきがくるような緩慢にくる例は稀で、多くは人間の意表をついて来る。」 と説かれているように、いつ死が訪れるかは分かりません。 江戸時代の戯作者大田南畝が「今までは 人のことだと 思ふたに  俺が死ぬとは こいつはたまらん」と詠っていますが、お互いもいつか、この歌の通りの思いをするのであります。 そこで、古の禅僧は、あらかじめ元気なうちに生死の問題に取り組めと仰っているのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1199回「タンポポに学ぶ」

          先日は、愛媛県砥部町から、坂村真民先生のご息女西澤真美子様ご夫婦がお越しくださいました。 ご主人が西澤孝一坂村真民記念館館長でいらっしゃいます。 久しぶりにお目にかかることができたのですが、お変わりなくお元気そうで何よりでした。 よく企画展をするのに、いろんな展示会をご覧になるために上京なさって、その折に寄ってくださることがありました。 今回もなにかお仕事かと思ってうかがいました。 もっともお仕事と言えばお仕事なのですが、なんとタンポポの写真を撮るためだというのです。 坂村真民記念館の企画展で坂村真民とタンポポというテーマで開催されようとお考えで、そのポスターにするのにタンポポの写真を撮っているのだということです。 タンポポなら、どこにでも咲いていそうだと思いますが、タンポポを撮るためにわざわざ旅をなさるというのは、とても素晴らしいと思いました。 ご夫婦でタンポポの写真を撮っておられるという、そのお姿に平和を感じます。 西澤真美子さんが、父である真民先生のご様子を語ってくださいました。 真民先生は、どこにいってもタンポポがあると、その場にしゃがんで、それそれはおよろこびになるのだそうです。 それもタンポポの花が咲くたびによろこばれるので、真美子さんも、そんなによろこばなくてもと思うほどだったというのです。 しかし、真美子さんは、そういうタンポポの花に会うたびに喜び、感動する心が詩を生み出していくのかと仰っていました。 これは深い話だと思いました。 私などは、タンポポが咲いていても、毎回そこまでよろこび感動するというほどではありません。 ああタンポポだ、真民先生のお花だと思って、ほんの少し足を止めるくらいであります。 これでは詩ができないのであります。 真民先生は、花を愛されたのですが、とりわけ野の花を大事にされていました。  野の花 わたしが愛するのは 野の花 黙って咲き 黙って散ってゆく 野の花 という詩は真民先生の優しいお心と、野の花のように生きようとする強い願いが込められています。 私が編集した『坂村真民詩集百選』にも花の詩を二十編選んでいます。 そのはじめには、  清貧 花が咲き 鳥が鳴く それだけでも どんなにこの世は 楽しいことか お金をもうける 欲を捨て せめて晩年でもいい 二度とない人生を 心平らかに 生きてゆこう 清貧に生きた 聖フランシスコのように という詩を掲げています。 この詩の冒頭の 花が咲き 鳥が鳴く それだけでも どんなにこの世は 楽しいことか この言葉にも真民先生の世界を感じることができます。 道の辺に花がさき、鳥が鳴いている、それだけ楽しいのです、それだけで幸せなのです、それだけで十分感動できるのです。 そんな心を持っていたいものです。 タンポポで一番知られているのはやはり「タンポポ魂」の詩です。  タンポポ魂 踏みにじられても 食いちぎられても 死にもしない 枯れもしない その根強さ そしてつねに 太陽に向かって咲く その明るさ わたしはそれを わたしの魂とする この詩を読むと、みずから「モッコス」男と呼ばれた真民先生の力強さを感じます。 モッコスというのは真民先生のお生れになった熊本の方言です。 一こくもの、一てつもの、反抗者、がんこものなどの意を含んだ言葉です。 土性骨というような力強いものを感じるのです。 もっこすの唄という詩を紹介しましょう。  もっこすの唄 十一をかしらに 乳飲み子をいれて 五人遣され たいていの女なら しょげこむところを 母の立ちあがりは 見事だった 七十二年の生涯は 立派だった 母こそもっこすの 代表者だと いばって言うことができる そしてその血を受けて 育ったわたしだ 痩せてはいるが 貧乏してはいるが ちょっとやそっとで へたばりはせぬ 鉄敷(かなしき)のように 叩かれ通しでも そうやすやすと よわねは吐かぬ 肥後の根性者(こんじょうもん)の こころ意気見せろ これがタンポポの根強さなのだと思います。 タンポポを詠った詩はたくさんあります。 いくつか紹介しましょう。  本当の愛 本当の愛は タンポポの根のように強く タンポポの花のように美しい そして タンポポの種のように四方に 幸せの輪を広げてゆく この詩はタンポポに学ぶものを、根と花と種の三つに分けています。 この三つから学ぶものをもう少し具体的に詠っているのが、「タンポポのように」という詩です。 こちらも紹介しましょう。 タンポポのように わたしはタンポポの根のように 強くなりたいと思いました タンポポは 踏みにじられても 食いちぎられても 泣きごとや弱音や ぐちは言いません 却ってぐんぐん根を 大地におろしてゆくのです わたしはタンポポのように 明るく生きたいと思いました 太陽の光をいっぱい吸い取って 道べに咲いている この野草の花をじっと見ていると どんな辛いことがあっても どんな苦しいことがあっても リンリンとした勇気が 体のなかに満ち溢れてくるのです わたしはタンポポの種のように どんな遠い処へも飛んでいって その花言葉のように 幸せをまき散らしたいのです この花の心をわたしの願いとして 一筋に生きてゆきたいのです このように一途に咲く野の花から学ぶのであります。 何を学ぶかということは、この詩を読むとはっきりします。  花は歎かず わたしは 今を生きる姿を 花に見る 花の命は短くて など歎かず 今を生きる 花の姿を 賛美する ああ 咲くもよし 散るもよし 花は歎かず 今を生きる この詩は、全詩集の中では「今に生きる」となっていますが、真民先生のご生前に出版された講談社+α新書『花ひらく心ひらく道ひらく』には「今を生きる」となっています。 恐らく真民先生のご意向で変えられたのだと察します。 そこで私も真民詩集百選を編集したときには「今を生きる」にしたのでした。 最後に「自分の花」を紹介します。  自分の花 真実の自己を見出すために わたしは坐を続けてきた 自分の花を咲かせるために わたしは詩を作ってきた しんみんよしっかりしろと 鞭打ち励まし人生を送ってきた 天才でない者は努力するほかに道はない タンポポを愛し朴を愛するのも その根強さとその悠揚さとを 身につけたいからである 坐も生死 詩も生死である ああこの一度ぎりの露命の中に咲く花よ どんなに小さい花でもよい わたしはわたしの花を咲かせたい この頃は私のこのYouTubeラジオで真民先生の詩を知ったといって、坂村真民記念館を訪ねてくれる人もいらっしゃるとのことでした。 私のこんな拙い話もタンポポの種のようにいろんなところに広がっていってくれているのだと有り難く思いました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1199回「タンポポに学ぶ」

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          第1198回「若者に禅を語る」

          先日は花園大学の授業に行ってきました。 私が勤める総長という役職は、名誉職なので、授業までやらないといけないことはないのです。 ただ私の前任の河野太通老師が、毎月一度講義をなされていたとうかがったので、今まで前期三回、後期三回、禅とこころという講義を行ってきました。 コロナ禍の前までは、公開講座でもあったので、大勢の方がお集まりになっていたのでした。 コロナ禍の間は、ずいぶん苦労しました。 オンラインで行ったり、人数を制限して行ったりしてきました。 今までのように公開講座としたいところですが、今度は集まり過ぎても困るとか、あらかじめ参加者の人数が分からないと支度が難しいとか、いろんなことを考えて、今は申し込み制になっています。 禅とこころは毎週行われる授業ですが、そのなかで私の講座の三回と、佐々木閑先生の講義と、玄侑宗久先生の講義に、関守研吾和尚の授業とが公開されることになっています。 まだまだ募集人員に達しないという事でしたので、ご関心のある方は聴いていただけると幸いであります。 今年は、その禅とこころの授業に加えて、基礎禅学の第一回目に講義をするようにとの依頼でした。 基礎禅学というのは、花園大学に入った学生はみんな受講する授業であります。 全生徒に建学の精神である禅を学んでもらうというものなのです。 授業が始まって第一回目の基礎禅学に出講したのでした。 今回は、この春入学した日本史学科と社会福祉学科の学生さんたちに講義をしたのでした。 授業が始まって間もない時期なので、なんともまだ初々しい感じがしています。 大講義室を使いましたので、私も初めての場所であります。 仏教学科の学生はいませんので、どんな話をすればいいのか、あれこれ考えました。 あまり専門的なことを言っても通じないと思って、大学の校舎の名前を説明するところから話を始めました。 話の始めには、やはり禅を学ぶことは、どんな分野の学問を学ぶにせよ、意味があることだと申し上げました。 日本の文化に、禅は大きな影響を与えています。 日本の歴史にも禅や仏教は密接に関わっています。 また世界からも禅は注目されていることも申し上げました。 その前の日にアメリカのウパヤ禅センターの方々がお見えになって話し合ったことなども紹介しました。 まず少しでも禅に興味をもっておいて欲しいと思ったのでした。 それから大学のキャンパスマップを示して校舎の名前から、話をしました。 大学の校舎の名前は、真人館、栽松館、蔭凉館、返照館、惺惺館、無聖館、自適館、楽道館、などなど禅語がもとになっています。 まず正門を入ってすぐ左手にあるのが、「真人館」といいます。 食堂があり、体育館もあります。 真人館の真人は、『臨済録』にある言葉から来ています。 「赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。」 という言葉です。 入矢義高先生の訳では、 「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている」というのであります。 無位の真人という素晴らしい自己に目覚めるのが臨済の教えなのです。 蔭凉館というのは、修行時代の臨済禅師のことを先輩の僧が、この修行僧は将来きっと大木のような人物となって、多くの人のために木陰を作ってあげることが出来るだろうと言った言葉に基づいています。 みんなここで学んで将来大木のような人物となって欲しいという願いなのですと話しました。 栽松館というのは、私もいつも仕事をするところです。 内部には六十の研究室をはじめ各学科課程の共同研究室、資料室、事務室セクションが並び、いわば大学の中枢とも言われるところです。 松を栽えるというのは、黄檗禅師が、すでに木の茂る裏山に新たに松を植えている臨済禅師をみて、その理由を尋ねたことにちなんでいます。 臨済禅師の答えは、「ひとつには美観、ふたつには後輩の手本」と答えました。 桜が咲くと大勢の人が花見に出かけますが、いつも変わらぬ松の翠が注目されることは少ないのです。 しかし、この変わらぬ翠を保つところに素晴らしさがあることを話したのでした。 それからその日の授業が行われたのが返照館でした。 この建物は創立150周年事業の一環で建替えられた校舎であります。 「1階と2階にはそれぞれ大教室があり、講義だけでなく講演会などのイベントにも利用可能。その他中教室、小教室含め16部屋を擁しています。1階の小教室は、廊下側が全面ガラス張りとなっており、教室内は前後にホワイトボードとプロジェクタを設置しているため通常の講義以外にアクティブラーニングやグループワークにも利用しやすい仕様となっています。」 というものです。 私の講義もその大講義室で行われました。 プロジェクタも具わっていますので、心地よく講義ができました。 大学のホームページには、 「返照館という名前の由来は、建学精神の本質ともいえる臨済録の「回光返照」からとられたもので、「外に向かってキョロキョロと探すな。自分の光で自分を照らせ」という臨済の言葉が息づいています。」 と解説されています。 この返照という言葉について深く考察してみました。 臨済録には「回光返照」という言葉として使われています。 「回光返照」とは、入矢先生の『禅語辞典』には 「自らの内なる知慧の光で自らを照明すること。」と解説されています。 「返照」はというと、「夕日の照り返しをいうのが普通であるが、禅では自己に内在する本然の光を外へ輝き出させる意に用いる。」と解説されています。 「君たちが自らの光を内に差し向けて、もう外に求めることをせず、自己の身心はそのまま祖仏と同じであると知って、即座に無事大安楽になる」 と臨済禅師は語っているのです。 そこで自らを照らすことについて、私の絵本『パンダはどこにいる』の話をしたのでした。 やはり文字だけでは学生さん達も退屈してしまいますが、絵本の画を画像で映すと興味を持ってくれます。 「惺々館」というのは、昔瑞巌師彦禅師が毎日自分自身「主人公」と呼んで、自分で「はい」と返事をして更に、「惺々著」(しっかり目が覚めているか)と自問し、自ら「はい!」と答えていたことにちなんだ名前です。 無聖館は図書館のある校舎であります。 達磨大師の「廓然無聖」という言葉からきています。 「からりとしていて聖性すらない」という意味であります。 禅は聖なるものにひれ伏すという教えではなく、むしろ聖なるものを否定することによって、あらゆる存在が聖なるものだと気がつくことを説くのです。 楽道館という名前は唐代の禅僧に伝わった『楽道歌』が元になっています。 学問、芸術、スポーツなどそれぞれ道を好きになり、更に楽しんでほしいという思いが込められています。 新入生というと十八才か十九才であります。 そんな若者たちに、禅の話がどれほど通じたであろうかと思いますが、自分なりに精いっぱいの話をさせてもらったのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1198回「若者に禅を語る」

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          第1197回「バカバカしい事を楽しむ」

          先日は、アメリカのウパヤ禅センターからハリファックス老師ご一行がお越しくださいました。 二十数名の方々でいらっしゃいました。 うかがったところによると、その前の日に日本に着いたところらしく、都内で泊まって、朝ホテルを出て円覚寺にお越しくださったのでした。 ハリファックス老師は、八十才を越えていらっしゃるのですが、とてもお元気であります。 今回のご一行の中には、棚橋一晃さんがいらっしゃいました。 棚橋先生のお名前は、ティク・ナット・ハン師の本を日本語訳されていたりしますので、存じ上げていました。 お目にかかるのは初めてです。 うかがうと、もう九十才になられるのです。 とても矍鑠としていて、なんと私の話す日本語を英語に訳してくださっていたのでした。 ハリファックス老師をはじめあちらの方々が英語で話す言葉を、木蔵君子さんが日本語にしてくださっていました。 バスで予定より早く到着されましたが、総門までお迎えに行きました。 久しぶりにお目にかかるハリファックス老師、明るくお元気です。 山門や、仏殿、そして選仏場をそれぞれご案内しました。 私の話を棚橋先生が英訳してくださいます。 仏殿の中では、ハリファックス老師は丁寧に五体投地の三拝を捧げられました。 それから宗務本所にあがって、お茶を召し上がってもらい、暫時休息してから、舎利殿開山堂をご案内しました。 私は挨拶をするのに、自分で書いた文章を英語のできる方に英訳してもらって、下手な英語で歓迎の挨拶をしました。 どれほど通じたか分かりませんが、下手でも一所懸命にやれば心が通じるものだと思って行ってみたのでした。 舎利殿については、教学部長の蓮沼直應先生が、ご説明くださいました。 舎利殿でもハリファックス老師は恭しく五体投地の礼拝をなさっていました。 今北洪川老師のお墓がございますので、そこにもお詣りしてもらいました。 それから開山無学祖元禅師のお墓が山に登ったところにありますので、お若い方には登ってお詣りしてもらいました。 開山堂は中にはあがれませんので、階段の下から拝んでもらいました。 そして禅堂をご案内して、ハリファックス老師のご要望で、特別に毎日修行僧たちと禅問答をしている部屋をご覧いただきました。 修行僧達が礼拝する場所のござが擦り切れていて、そんなところに関心があるようでした。 そうして、信徒開館に戻ってお昼のお弁当をいただいて、それから質疑応答のディスカッションを行いました。 いろんな質問がございました。 今世界では、地球環境の問題、ビジネスの問題、政治の問題などさまざまな問題がありますが、どのように対処しようと考えるかという難しい質問がはじめにありました。 地球環境といっても自己と別物ではなく、自分自身のことだととらえていますので、自分を調えることだと答えしました。 修行僧達を無心の境地に導くのに何を心がけているかと聞かれました。 無心の境地に導こうなどと思った時点で無心ではありません。 こちらが無心であることだけなのです。 修行僧の指導などはまさにそうなのです。 何か特に導こうなどと思うとうまくゆきません。 それよりこちらが常に無心でいることなのです。 医療者は仏教から何を学ぶのかという質問がありました。 医療に携わっている方からの質問でしたので、それはこちらからうかがいたいところですと申し上げました。 ちょうどお昼のお弁当をいただいた後だったので、私は、先ほどのお弁当でもご飯から何を吸収し、おかずから何を吸収するか、全く考えなくても、ちゃんといろんなおかずやご飯の中から、身体に必要なものを身体は自ずと吸収し、必要でないものは排出しています。 そのようにただ無心に出会った教えを学んでいれば必要なことは身体で吸収してゆくと思いますと答えたのでした。 死にゆく人と共にあるときに、どんなことを説くのかという質問がありました。 今回来日された方々は、死にゆく人を看取るお仕事をなさっている方が多いようでした。 死にゆく方に、何かを説いて聞かせようなどと思わないことですと申し上げました。 手を握ることができれば手を握ってあげて、ただ呼吸を合わせて息をするだけだと申し上げました。 そうしているうちに何か心の底から湧いてきたら、それを言えばいいのでしょうと申し上げました。 質問されたのは、多くの方の死に立ち会ってこられた方だそうです。 その方に逆にうかがうと、聞くことはもっと多く、話すことはもっと少なくと仰っていました。 じっと耳を傾けることが大事なのです。 エンゲイジドブディズムについても聞かれました。 エンゲイジドブディズムとは、仏教徒が社会問題についても深く関わることを言います。 この社会に参加していない人間はいないと私は申し上げました。 たとえ山の中で一人畑を耕していても、この社会に参加していることになります。 それから公案についてもとても興味があるようでいろんな質問を受けて答えていました。 公案を用いて禅問答をするのに、よく老師と呼ばれる方は修行僧が部屋に入ってくるだけで出来ているかどうか分かるものだと聞いていました。 修行を始めた頃はそんなことがあるのかなと思っていましたが実際に自分が行うようになるとまさにそんな想いを強くします。 長く坐禅していると、自分と外との境界線が曖昧になってきます。 この部屋いっぱい、いや外の廊下まで自分自身となってゆきます。 そこに誰かが入ってくると反応するものです。 こちらはただ無心に坐っているだけなのです。 曹洞宗と臨済宗との修行の違い、通じるところは何かと聞かれました。 よく問題にされるところです。 その方はアメリカの曹洞宗で指導的な立場にあるらしく、私は、曹洞宗の方が臨済はどんなのかなどと考える必要はないと申し上げました。 自分のいる場所をただひたすら深く掘り下げてゆくと、必ず他と相通じるところに出るはずだと伝えました。 曹洞宗なら曹洞宗の只管打坐を脇目も振らずにただ掘り下げてゆけば、必ず臨済の禅にも通じるようになると申し上げました。 公案の修行を終えた老師は、どんな修行をするのかと聞かれましたので、公案は終わってはいないと答えました。 生きとし生ける者の苦しみをどうしたらいいのかというのが最も大きな公案です。 永遠に終わらない、解決しない公案と言ってもよいでしょう。 それをひたすら抱き続けて坐っているのです。 いろんな質疑応答があった後、最後に私から質問させてもらいました。 ハリファックス老師も棚橋先生もとてもお元気そうにみえて、長くお元気でいらっしゃる秘訣はありますかと問うたのでした。 これは是非うかがいたいところです。 棚橋先生は、まず少食をあげられていました。 現代人はやはり栄養過多になってしまう場合が多いようです。 それから二つ目は時間さえあれば、身体を動かしているというのです。 そして三つ目は、早く歩くことでした。 早く歩くというのは、文字の通りです。 マインドフルネスではゆっくり歩きます。 それが早く歩くようになって身体もよくなったと言いました。 ゆっくり歩くのもいいことですが、早く歩くのもいいのです。 どちらかにとらわれるとよくありません。 ハリファックス老師も元気な秘訣を三つ教えてくださいました。 一つは深い自然環境の中にいることだそうです。 ハリファックス老師がふだん暮らしていらっしゃるの山の中の禅堂は、電気も水道もないそうです。 水道もないので、雨水をためて暮らしているとのことでした。 そんな自然の中にいることだというのです。 二つ目は、全くのひとりぼっちでいることだと仰っていました。 とても社交的に見える老師ですが、一人でいることも大事にされているのだと分かりました。 三つ目に感動しました。 バカげたことをすることだというのです。 バカバカしいことを楽しむというのでした。 あまり深刻に考えすぎない方がいいのだと仰っていました。 とても楽しく拝聴しましたが、禅センターの方がハリファックス老師がお元気なのは、菩薩戒をたもち、この世の苦しみを取り除くために懸命に生きておられるからだと話してくださいました。 その通りだと思いました。 今後のアメリカの禅について問われたので、日本の禅も中国の禅から随分変化して発展したことを申し上げました。 今の日本の禅というと、枯山水の庭とかわびさびの茶道などを関連づけて思いますが、これらは中国にはなく日本独自の禅として発展したものです。 アメリカの禅も日本とは違う新たなものを作り上げてくださいと申し上げて懇談も終わったのでした。 久しぶりにハリファックス老師にお目にかかって元気をいただいたのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1197回「バカバカしい事を楽しむ」

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          第1196回「健康とは」

          「花発いて風雨多く、人生別離足る」という一句があります。 「君に勸む金屈巵 滿酌辭するをもちいず 花發いて風雨多く 人生別離足る」 という五言絶句であります。 晩唐の詩人、于武陵(うぶりょう)の『勸酒(さけをすすむ)』という題の詩です。 井伏鱒二の翻訳が世に知られています。(訳詩集『厄除け詩集』)。 コノサカズキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトへモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ 花に嵐のたとえもあるというように、花の季節は風雨も多いのです。 まるで台風かと思うような嵐の日があったかと思えば、その翌日はよいお天気になりました。 空は見事に晴れ渡り、円覚寺からも富士山が綺麗に見えました。 そんな晴天の日に、円覚寺の幼稚園の入園式が行われました。 少子化の影響は避けるべくもなく、年々園児の数は減りますものの、お寺の幼稚園に預けてくださるのは有り難いことであります。 幼稚園の入園式ではまだ泣いているお子さんもいます。 そんな園児の姿を見ながら、どうか明るく元気に育って欲しいと願わざるを得ないのであります。 幼稚園のある伝宗庵から富士山がよく見えました。 まだ桜の花も残っていて富士山も見えて、入園児たちを祝福しているかのような一日でした。 修行道場にも何名もの新しい修行僧が入ってきています。 これもまた有り難いことであります。 三月の末頃から修行道場の玄関で、大きな声で「たのみましょー」と声をかけるのが聞こえてきます。 少し離れたところにいても響いてくるものです。 ああ今年もまた新しい修行僧が来たのだと思います。 それから玄関で二日間頭をさげて入門をお願いするというのが修行道場の決まりなのであります。 そんな姿を見ると、こちらも自ずと気が引き締まります。 人生別離足るというように、新しい人が入ってくるのと、出て行くのとは同じなのであります。 春に巣立ってゆく修行僧もまたおります。 お見送りして、またお迎えするという季節でもあります。 『華厳経』には「初発心時便成正覚」という有名な言葉があります。 道を求めようと初めて心を発した時に、もう悟りは成就されているという意味であります。 道場に入門して「たのみましょー」と声をかけたときの初心ほど尊いものはありません。 善財童子が訪れた善知識に、医師の弥伽という方がいます。 善財童子が、この上ない悟りを求める心を起こしたと聞いて、深く礼拝し、敬いを捧げるという場面があります。 そして、この上ない悟りを求める心を起こしたということ自体が、一切諸仏の系譜を保持することになるのだと説かれています。 真実なる道を求めて歩む者は、その道を歩もうという心の清らかな光で、菩薩の道を明るく照らしてゆくと書かれています。 道を求めようという心こそが、仏の道へと導いてくれるのであります。 入園式が終わってそのままとある会社の新入社員の研修会が円覚寺で開かれていて、そこで新入社員のみなさんに話をしました。 今年は、坂村真民先生の詩を紹介しながら話をしていました。 午後からは、椎名由紀先生にお越しいただいて呼吸法の講座でありました。 私もみんなと共に受講させてもらっています。 今回はほとんど姿勢の講座となりました。 はじめに椎名先生が、今日のテーマは「健康」だと仰いました。 「健康」とは何か、あまり深く考えたことがありません。 健康とは何かと聞かれて何と答えるだろうか考えていました。 幸福とは何かというのと同じようなものかなと思っていました。 幸福とは何か、幸福ということも意識しない時が幸福のように思います。 幸福はそれを得ようと目指すものというよりも授かるものだと思っています。 健康も健康を意識しない時が健康なのではないかと思ったりしていました。 そして健康の為に何かをしようというよりも、一所懸命に勤め励んでいて、自ずと授かるのが健康かなと思ったりしていたのでした。 修行僧達に、健康とは何か椎名先生が聞かれていました。 聞いているといろんな答えがありました。 「肌が綺麗なこと」という答えがありました。 たしかに健康な人は肌がきれいでしょう。 「姿勢がいいこと」という答えもありました。 これもたしかに姿勢のいい人は健康のように思いますし、健康な人は姿勢もよいように感じます。 「特に心配事がない」という答えもありました。 「元気なこと」「笑顔でいること」などという答えもありました。 『広辞苑』に「健康」とは、 「身体に悪いところがなく心身がすこやかなこと。達者。丈夫。壮健。また、病気の有無に関する、体の状態。」と解説されています。 健康科学大学の平尾真智子先生のご研究によれば,「健康」という言葉を文献で始めて使用されたのが白隠禅師だそうです。 中国においても使われてはなかった言葉だそうです。 一七五一年に上梓された白隠禅師の『於仁安佐美』で一番はじめに用いられ、そこに三回使われているそうです。 それから一七五七年の『夜船閑話』にも用いられています。 白隠禅師は、十の著作に合計十六箇所「健康」という言葉を用いられているそうであります。 これが文献に於いて「健康」という言葉が出るはじめだそうなのです。 実に「健康」という言葉を初めて用いたのが白隠禅師なのであります。 それが明治時代になって、福沢諭吉が『文明論之概略』などで「健康」の語を使用して、「健康」が常用語として浸透していったのではないかと言われています。 椎名先生は、人間は自然な状態であれば元気でいきいきしているし、身体全体が元気だと心もいきいきすると説いてくださり、そこから姿勢の講座となりました。 ともあれ、この春幼稚園に入ったお子さん達も新入社員のみなさんも修行道場に新しく入った修行僧達も、聞いてくださっている皆々様も、まずは健康でありますようにと願うばかりなのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1195回「生きているだけで意味がある」

          先日は、円覚寺で、近藤瞳さんの地球を生きるワークショップを開催しました。 今回で三回目であります。 僧堂の雲水達と、普段僧堂にご縁の深い数名の方も参加してくれました。 遠く、松本市から神宮寺の谷川和尚もお越しくださいました。 「地球46億年を感じる旅」というものです。 前の二回とも、円覚寺周辺の山を近藤瞳さんと一緒に歩きながら、地球四十六億年の歴史を辿る旅をするのです。 四十六億年を約4.6kmの距離にみたてて歩くのです。 これは近藤瞳さんが、2016年、イギリスのシューマッハカレッジで体験したディープタイムウォークをベースにして、近藤さん独自の体験談・哲学・心理学などなど、あらゆる視野を投入して創作されたものです。 この学びを通じて、「今生きることが、自分が存在することが、どれだけ奇跡に溢れているのか」を実体験してゆくのです。 前の二回は、円覚寺の裏山をゆっくりとはだしで歩くことができました。 二回とも感動したものでした。 今回も楽しみにしていたのですが、なんと当日は強い雨となってしまいました。 雨天でもなんとかできないかと思ったのですが、今の時代でありますので、室内での研修となりました。 室内とは寂しいな、どんなものになるのか、少々不安に思ったのでしたが、雨の日には雨の日の良さがあって、すばらしい会になったのでした。 円覚寺の大方丈に集まってそこから近藤さんのお話が始まりました。 はじめに三時間かけて四十六億年を歩くのです。 室内だけにゆっくりと歩いたのでした。 一歩が五十万年に相当するのであります。 地球カレンダーというのがありますが、四十六億年を一年に見立てて説明してくださいます。 まず一月一日、地球誕生です。 私たちも生まれたときの姿と今とずいぶん違っているように、地球も生まれたときは今とは全く異なっていました。 ただいま地球の平均気温は十五度らしいのですが、地球は隕石がぶつかってできたので六千度を超える熱さだったということです。 自転も今二十四時間で一回回りますが、当時は五~六時間で一周していたそうです。 それから二酸化炭素、アンモニア、硫黄などとても臭かったというのです。 熱い、早い、臭いという地球だったのでした。 四十六億年経って、気温が十五度になり、自転が二十四時間になり、臭いもなくなったのでした。 一月十二日、四十五億年前に、月と地球が分かれました。 そもそも一つだったのが、大きな隕石があたって破壊されて月ができたのでした。 今も毎年月は3,8センチ地球から遠ざかっているそうなのです。 もともとはもっと近くにあったのでした。 破壊と再生を繰り返してゆくのが地球の歴史なのです。 満天の星空といいますが、私達が見上げる夜空の星は、宇宙を百とすると、どれくらいが見えているのかと近藤さんは質問されました。 なんと私たちに見えているのは3%だけしかないそうなのです。 97%は見えていないのです。 これは人間の意識にも通じて、顕在意識は3%、潜在意識は97%ということです。 二月九日、地球ができて五億年経つと、水ができました。 地球が水の惑星と言われますが、太陽と地球との絶妙な距離が関わっています。 水星のように太陽に近いと、水はすべて蒸発してしまいます。 金星でも四百度もあるので、水は気体になってしまいます。 逆に火星だと氷しかできないそうです。 ですからこの地球に水があるのは素晴らしいのです。 だから今日の雨もすばらしいのですと近藤さんは仰いました。 そうしてそこから雨の中を外に出て歩きました。 幸いにというか、良いお天気なら大勢の拝観で賑わうのですが、強い雨と風で境内には誰もいないような状況でしたので、雨の中をはだしで歩きました。 はだしで歩くのがいいのです。 これも今回の感動でした。 はだしになると足元に注意がゆきます。 それから、普段足袋をはいて草履で歩いていると、水たまりを避けるのですが、はだしになると水たまりに入りたくなるものです。 春のあたたかい水たまりは心地よいものです。 雨の中をゆっくり歩いて、仏殿、弁天堂、そして山門とまわり、更に仏殿でお話を拝聴しました。 この雨の中の歩みがとてもよかったのでした。 三十八億年前の二月二十五日、水が出来て、次に最初の生命が誕生しました。 海の中の微生物だそうです。 二十七億年前の五月三十一日、酸素ができました。 酸素のおかげで身体が大きくなることができます。 しかし、酸素は、有害でもあります。 海の中のバクテリアが進化して、シアノバクテリアが酸素を作りました。 しかし、酸素の為に死ぬものもあるのです。 自分たちが作り出したもので自分たちが死ぬこともあります。 そこで近藤さんは、プラスティックの問題に触れました。 プラスティックは便利なので作りすぎてしまいました。 それが今のマイクロプラスティックの問題です。 マイクロプラスティックをプランクトンが食べて、それを魚が食べて、その魚を人間が食べますので、一年でクレジットカード一枚分のマイクロプラスティックを身体に取り入れていることになるという説もあるそうです。 しかし生物は毒であった酸素を取り入れて生きるように、長い進化のうちには、プラスティックもやがて栄養にしてゆくことになるのではと近藤さんは仰っていたのが印象に残りました。 毒と栄養は紙一重なのです。 そんな話を雨の中うかがいながら、歩いていました。 山門の下で話を聴いていた時には、近藤さんのこれまでの歩みを話してくださっていました。 二十四才から二十七才まではアルバイト、ひたすらお金を稼いでいたそうです。 それが二十七才の時に東日本大震災があり、大きく考えが変わったのでした。 同じ年の人が震災で亡くなって、自分も死ぬかもと思ったのでした。 どういう人生を歩むのかを真剣に考えるようになって、シューマッハカレッジのサティシュ・クマール先生に会うのでした。 愛とは何か、近藤さんは真剣に考えたといいます。 いたり得た結論はサティシュのと同じでした。 愛とはすべてというのです。 大地は、毒の草も野菜もすべて区別なく育てます。 存在していることが愛だと仰っていました。 人はそこにいるだけで、愛なのだというのです。 なぜなら呼吸しているだけで、二酸化炭素を出して植物の為になっているのです。 人はそこにいるだけで意味があると仰っていました。 これこそが究極の愛であります。 二十四億年前の六月二十四日、氷河期がおきました。 二十一億年前の七月十日、真核生物ができました。 これによって原核生物から百万倍も大きくなり、多様性を生み出しました。 十一億年前にあたる九月二十七日、多細胞生物が生まれました。 1㎜くらいのミジンコが生まれたのでした。 多細胞生物というのは、今眼で見える生物のすべてです。 六億年前にあたる十一月十四日、オゾン層が形成されました。 厚さはわずか三ミリです。 この薄いオゾン層によって有毒な紫外線を遮ってくれるようになり、身体が大きくなりました。 五億年前にあたる十一月二十日、生物が多様化して魚類が現われました。 初めはなまこのようなものだそうです。 四億二千万年前、十一月二十八日頃、魚類から両生類に別れて陸にあがるようになりました。 海から陸にあがるのは、地球から火星にゆくほどたいへんなものとのことです。 前にうかがったつわりの話は印象的であります。 受精卵が胎内に宿って、受精卵が魚類から両生類になって陸にあがるときの苦しみがつわりになって現れるというのです。 三億年前の十二月三日昆虫が現れました。 その頃の虫は大きかったそうで、ムカデも一メートルもあったというのです。 大木もできて、シダ植物ですが、五十メートルくらいになったそうです。 木が倒れて土になりました。 水の中では、泥炭になり石炭になりました。 二億五千年前の十二月十三日、恐竜の時代になりました。 最古の哺乳類はネズミのような小さいものだっだそうです。 恐竜に襲われないように、夜行性になったというのです。 十二月二十五日、六千六百万年前に隕石があたり、火山が噴火したりして生物の75%が死にました。 恐竜も滅んだのでした。 十二月二十六日に鳥類が出て、十二月二十七日あたりから哺乳類が繁栄しました。 一年の残りわずか四日でようやく哺乳類がでてきたのです。 四百万年前、十二月三十一日午後四時になって、ようやくアウストラロピテクスが現われました。 今の人、ホモサピエンスは午後十一時四十分頃なのだそうです。 午後十一時五十八分五十二秒から農耕牧畜が始まったそうです。 五十九分三十秒になって宗教が始まりました。 二千五百年から二千年前で、お釈迦様やイエスキリストが出た頃です。 二百年前の五十九分五十八秒で産業革命が起りました。 地球カレンダーではたった二秒でこれだけの産業を発達させたのです。 コンクリート、プラスティックなどはこの二秒で出来たのです。 最後に近藤さんは三つのことを伝えてくださいました。 一つは、人は奇跡で生きていることです。 自分はここにいるだけですごいことなのだというのです。 二番目は自分のペースで生きることです。 今日は雨の中をはだしで歩いた、あのはだしのペースで歩いて欲しいと仰っていました。 そんな自分のペースで生きると直観がさえるのだというのです。 三番目はすべてのものはひとつだということです。 もとをたどれば電子や陽子中性子のはたらきにしか過ぎません。 この地球に生きている生命のみなもとはみな同じなのです。 近藤さんは三十九才だそうですが、百三十八億年プラス三十九才なのだと仰っていました。 午後からは最近の近藤さんの旅の話を楽しくうかがいました。 最後にみんなで感想を述べて終わりましたが、進化の過程がこんなにゆっくりなのに、なぜせかせか生きてしまうのかという修行僧の言葉が印象に残りました。 大いに反省させられます。 それから最後に近藤さんが嫌なことがあった時に、気持ちを切り替えるには言葉の力を用いるといいのだと教えてくださいました。 近藤さんにとってその言葉は「ありがとうございます」です。 「ありがとう」はあることが難しい、奇跡だということです。 「ございます」は今ここにあることです。 「ありがとうございます」で今ここに奇跡があるということになります。 この言葉を口にして今日のことを思い出して欲しいと仰ってくださり、みんなで「ありがとうございます」と言って終わったのでした。 今回は雨の中でしたが、生きているだけで意味があることを実感できた素晴らしい会となりました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1195回「生きているだけで意味がある」

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          第1194回「口は禍の門」

          先代の管長、足立大進老師は、よく「黙」の一字を揮毫しておられました。 そして「黙」と書いて、そのあとに、「説了也」と書いておられました。 黙っていて、それですべて説き終わっているということです。 私が、僧堂の師家の代参という役を仰せつかった時にも「黙」の一字を書いてくださいました。 そのあとには、『維摩経』の 「善哉善哉乃至無有文字語言是眞入不二法門」 と書いてくれました。 文殊菩薩の問いに対して維摩居士が何も言わなかったのでしたが、その一黙が、素晴らしい、素晴らしいと讃えた言葉です。 なんの文字言語もないのが、真の不二の法門に入るということだと讃えたのです。 『広辞苑』にも 「言わぬは言うに勝る」という言葉があります。 「多弁より黙っている方が、思いは通じること。 また沈黙を守る方が安全であること。」 という解説があります。 黙っている方がいいということを表すのに、「口は禍の門」という言葉もあります。 こちらもちゃんと『広辞苑』に載っています。 「(馮道、舌詩)「口は是れ禍の門、舌は是れ身を斬るの刀なり」という出典が示されています。 そして「うっかり吐いた言葉から禍を招くことがあるから、言葉を慎むべきである、という戒め。」と解説されています。 舌は身を斬る刀とは、手厳しい戒めです。 『ブッダのことば』にも 「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。 愚かな者は、悪口を言って、その斧によって自分を切り裂くのである」と書かれているのに通じます。 やはり古今の聖人は皆口を慎まれたのであります。 五祖法演禅師の語録に、こんな問答があります。 僧が「如何なるか是れ佛」と五祖禅師に質問しました。 「仏とはどんなものですか」ということです。 すると五祖禅師は「口は是れ禍門」と答えました。 「口は禍のもと」、ごちゃごちゃ言うなということでしょう。 白隠禅師の註釈には、尋常の答えならば上透霄漢下徹黄泉と言うところが、これは五祖下の風采と書かれています。 普通なら仏とは問われると、上ははるかな大空にまで達していて、下は奈落の底まで突き抜けているとでも答えるというのです。 それを「口は是れ禍門」と答えられたのは、五祖禅師ならではということです。 『大方便佛報恩經卷第三』にある言葉が、註釈に書かれています。 「佛阿難に告げたまわく。人の世間に生ずるや禍は口從り生ず。 當に口を護るべし。猛火よりも甚し。 猛火熾然として能く一世を燒く。 惡口熾然として無數世を燒く。 猛火熾然として世間財を燒く。 惡口熾然として七聖財を燒く。 是の故に阿難。一切衆生の禍は口より出ず。口舌は身を鑿くの斧にして身を滅ぼすの禍なり。」 という言葉です。 恐ろしい火はすべてを焼き尽くしますが、それは一代限りです。 しかし悪口の罪は、一代限りではなく、累世に及ぶというのです。 火は世間の素晴らしい宝を焼いてしまいます。 口の禍は七つの聖い財を焼いてしまうというのです。 七つの聖財というのは「一に信、二に精進、三に戒、四に慚愧、五に聞、六に思、七に定慧」の七つであります。 先日は、麟祥院で小川隆先生の勉強会がおこなれました。 思えばもう九年も続けています。 これで十年目になるのです。 先月までは竹村牧男先生の華厳五教章のご講義もありました。 先月で終わり、今回は私が臨済録を担当することになりました。 もともとは小川先生が『臨済録』をご講義してくださっていたのですが、コロナ禍から小川先生の講義は『宗門武庫』の講義となりました。 『臨済録』をという和尚様方からの要望もございますので、私が担当することになったのです。 もっともこれは和尚様方だけの勉強会なのでごく少人数の会なのです。 半分以上は、円覚寺の修行僧たちで、それでどうにか会場に人がいるかのように見せかけているのです。 それでもお越しくださる和尚様は熱心な方々なので、有り難いことです。 四月は龍雲寺の細川晋輔さんもお越しくださっていました。 小川先生は、今回の『宗門武庫』を解説なさるのに、「歇後語」ということを説明してくださいました。 これは文字通り、後の言葉を欠いていることを言います。 中国のことわざを示してくださいました。 日本語に訳すと「孔子様の引っ越し」というと、それは下の句が「本ばっかり」になるのだそうです。 ただし、この本を表わす「書」という字と「輸送」の「輸」の字は、中国語では同じ音で、負けるという意味があります。 そこで本ばっかりと負けてばっかりという意味にかけるというのです。 ですから、この頃はどんな調子ですかと聞かれて、「孔子様の引っ越しだ」と答えると、それは「もう負けてばかり」という意味になるということでした。 こういう事が分かっていないととんでもない間違いを犯してしまうという話でした。 そこで毛沢東の「和尚打傘」という話を教えてくださいました。 エドガー・スノーに毛沢東は自分のことを「和尚打傘」と形容したそうです。 これは坊さんだから髪がない(無髪)、そして傘を差しているから、天が見えないということですが、かけことばで、「髪」と「法」は、中国語でほぼ同音なので「無髪無天」は「無法無天」をいい、それは「法律も無視、天理(道徳)も無視すること、即ち「無茶苦茶やりたい放題」を言っているのだそうです。 ところがそのことが理解できずに、通訳は「私は傘をさした坊さんです」と誤訳してしまったのでした。 それをスノーが「私は破れ傘を手に歩む孤独な修道僧」の意味だと解釈してしまったというのです。 この誤解が広まって、世界の人々は「ああ、毛沢東と言えば、新中国の帝王のような人だが、その心のなかをのぞけば、無人の枯野を一人とぼとぼと歩む行脚僧のように孤独なのだ」と理解したという話でした。 1976年9月に毛沢東が死んだとき、朝日新聞の「天声人語」(1976年9月11日)には、 「晩年の(毛沢東)主席がスノー氏に『自分は破れがさを片手に歩む孤独な修道僧にすぎない』ともらした言葉は、この不世出の革命家の内面を知る上で実に印象的だ。」と記しているのだそうです。 毛沢東が亡くなったときに新聞に大きく報道されていたのは私も覚えていますが、天声人語まで存じ上げませんでした。 まだ十歳くらいでした。 そんな誤解があるのだ、気をつけないといけないと思って聞いていると、自分自身が誤解していたことが分かりゾッとしたのでした。 小川先生は、更に歇後語の例として五祖禅師の言葉をあげられました。 それが、 僧問う。如何なるか是れ仏。 師云く、肥は口従り入る。 という問答です。 仏とはどのようなものかと問われて、肥満は口から入ると答えたのです。 私が見ていた註釈書には「お前さんそんなに肥えたのは大飯を食うからぞ。」と書かれています。 私も単にそのように講義をした覚えがあります。 しかし、これが歇後語で「病從口入、禍從口出」ということだというのです。 「病は口より入り、禍は口より出づ」というのは『広辞苑』にも掲載されています。 『太平御覧』にあって「病気は飲食物から起こり、災難は言語を慎まないことから起こる。軽率な発言を戒めた言葉」なのです。 伝えたい大事なことは、「禍は口より出づ」の方なのです。 そうでないと、五祖禅師が、この問答のあとに徳山禅師の話をしていることにつながりません。 徳山和尚がある晩、今夜はもう問答しない、なにか質問する者があれば三十棒をくらわすぞと言ったのです。 まさにこれはもう余計なことを言うなと言いたいのです。 五祖録の講義をしたのは、もう二十年も前になりますが、こんな間違いをしていたことを、小川先生のご講義を聴いて分かったのでした。 よくも無知のまましゃべっていたものだと反省しました。 まさに口は禍の門なのでした。 そんなことに気がついて、そのあと臨済録を講義するのは実に気が引けたのでした。 それでもこうして勉強会をするおかげで気がついたのだと小川先生には改めて感謝であります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1194回「口は禍の門」

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          第1193回「空だからこそ」

          大乗仏教は、「西暦紀元前後からインドに広がった仏教の新たな理念形成、変革の運動」だと『仏教辞典』には解説されています。 そのいろんな特徴のある中で「空」という思想があげられます。 空であるからこそ、大きく発展したといってもよろしいかと思っています。 空であることを、昨日は、プラムヴィレッジのブラザー・ファップ・ユン師の言葉で説明しました。 「empty of a separate self entity」という言葉です。 空とは、分離された自己自身というものがないという意味です。 ティク・ナット・ハン師の『般若心経』の本には、「インタービーング」という言葉が書かれています。 ティク・ナット・ハン師がよく用いられた話が書かれています。 「もしあなたが詩人ならば、この一枚の紙に雲が浮かんでいるのをはっきりと見ることでしょう。 雲がなければ、雨はない。雨がなければ、木は育たない。 木がなければ、紙は作れない。 雲は、紙が存在するために欠かせないのです。 もしここに雲がなければ、一枚の紙もここにはない。 ゆえに、雲と紙はかかわり合って存在していると言うことができます。 」 というのです。 こういう関わり合いを「インタービーイング(interbeing 相互存在)」というのです。 インタービーングの洞察は、空の教えをよりはっきり理解するのに役立つとティク・ナット・ハン師は語っています。 般若心経では、観自在菩薩が深い般若波羅蜜を実践して、存在する五つの構成要素が空であると見抜いたと説かれています。 しかし、いったい何が空なのかが問題なのです。 コップが空っぽということはそこに水がないということなのです。 何が空なのかが問題なのであって、ティク・ナット・ハン師は、 「『何が空なのですか?』という私たちの問いに対する菩薩の答えはこうでした。 『独立した実体はない』」 と説かれています。 そしてこんな喩えが書かれています。 「あるところに王がいて、楽師の奏でる十六弦のシタールの演奏を聴き、心の底から感動しました。 その音楽にたいそう感銘を受けた王は、その音がいったいどこから来ているのかを知りたくなりました。 楽師がそのシタールを王に献上して退去すると、王はその楽器を細かく切り刻むように従者に命令しました。 けれども、どれほどがんばってもあの美しい音色の元になる、あの音楽の本体を見つけることはできませんでした。」 という喩え話であります。 満開の桜の花を見ると美しいものです。 でもあの綺麗な桜の花の色が、どこにあるのか、木を割って探してみても見つからないのです。 ティク・ナット・ハン師は更に 「観自在菩薩は自らの五蘊を深く観ることによって、この王と同じように、独立した実体はないことを発見したのです。 たとえどんなにすばらしいものでも、それを深く観ていくと、他から分離した実体と呼べるようなものはないことがわかります。 私たちには、五蘊の中に何か一定の変わらないものがあると信じる傾向があります。 しかし、五蘊は絶え間なく流れていて、生じては大きくなり、やがて消えてなくなっていきます。」 というのです。 私たちは「かたくなに、五蘊には不変で独立した実体がある、自分は一人の人間という他から分離した存在だと信じ続けています。 ブッダは、そのような実体 (我)は存在しない、と説かれました。 あの王が試してみたように、五蘊を分解してその中に実体を探そうとしても、見つけることはできないのです。」 というのが空の教えであります。 先日は、満開の桜を眺めながら、岐阜県揖斐川町の大興寺様の法話会に招かれて行ってきました。 日帰りで少々たいへんでしたが、沿線の桜を眺めながら、有り難いことでした。 桜の花は、木を割ってみても見つかりませんが、この春の日差し、大地の恵み、雨や風、あらゆるものが相互に関わりあって見事に咲いているのです。 インタービーングなのです。 大興寺様の法話会は、先代のご住職の頃からとても盛んに行われています。 清水寺の大西良慶和上や、浄土真宗の金子大栄先生、臨済宗では山田無文老師や松原泰道先生、という錚々たる方が法話をなさっていた会であります。 今も清水寺の森清範和上や曹洞宗の青山俊董老師や、臨済宗の玄侑宗久先生などがお見えになっているのです。 そんなところに私が参るのですから、なんとも恐れ多いことです。 控え室の床の間には椎尾弁匡僧正の「夢」という書がかけられていました。 ご住職にうかがうと、椎尾弁匡僧正もまたお見えになっていたそうなのです。 今回の法話は降誕会の前の日ということもあって、お釈迦様の話をしました。 お生れになった時のことから、悟りを開かれ法を説かれた御一生を語りました。 そしてお釈迦様の四諦の教えが、今四弘誓願文として受け継がれていることを話ました。 四諦のはじめが苦諦です。 この世は苦しみであるという真理です。 その苦しみが、はじめは個人の苦しみであったのが、大乗仏教の空の教えによって、みんながつながりあっているのですから、私個人の苦ではなく、みんなの苦しみを救おうと発展したのでした。 生きとし生ける者の苦しみを救ってゆこうという願いに発展したのでした。 これは空であるからこその発展であります。 私もこの世界も分離して考えることはできません。 この世の苦しみを救いたいという願いになったのです。 そしてその苦しみのもとはというと、各自の自我意識、わがまま、欲望なのです。 これを減らすにはどうしたらいいか、教えを学ばないといけません。 そうしてみんなが安らかに幸せに暮らせる世の中を実現してゆこうというのが四弘誓願文なのです。 四諦の教えが、大乗仏教の空の教えによって四弘誓願文として発展して禅の世界に受け継がれているという話をしたのでした。 空なればこその発展したのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1193回「空だからこそ」

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          第1192回「「空」を感じるには」

          先日お世話になったプラムヴィレッジのブラザー・ファップ・ユン師から書をいただきました。 emptyと大きく書いています。 そのあとに、of a separate self  entity と書かれていました。 空とは、分離された自己自身というものがないという意味です。 島田啓介さんからいただいたティク・ナット・ハン師の『大地に触れる瞑想』には、こんな言葉があります。 「すべては無常であり、分離した個という実体はないことを理解します。」 という言葉です。 まさにこれが「空」ということです。 更にティク・ナット・ハン師は、 「あなたと、父なる太陽と、すべてのブッダ、菩薩は、同じ本質をもちます。 究極の次元では、あなたの寿命、父やすべての存在、葉っぱや花のつぼみなどはことごとく永遠であり、生と死、存在と非存在を超えていることがわかります。」 と説かれています。 また『大地に触れる瞑想』には、食事についても説かれています。 「食事に手を合わせるとき、私は呼吸に気づきながら心と体をひとつに合わせます。 その純粋な気持ちと気づきによって、私は食卓の上の、器の中の食べ物を見つめ、五つの深く見つめる瞑想 (五観)を行います。 1.この食べ物は、宇宙全体、地球、空、数え切れないほどの生き物たち、多くの努力と愛ある働きによってもたらされた恵みです。」 というように五つの言葉が書かれています、 そのあと、 「茶碗の中のご飯を見つめると、それは大地や空からの贈り物だということがはっきりとわかります。 その中には田んぼや野菜畑、太陽の光、雨、堆肥、そして農家の人びとの多くの働きが見えます。 美しい金色の麦畑、麦刈りをする人たち、 脱穀する人、パンを焼く人たちも見えます。 大地に豆が蒔かれ、成長してサヤができていくのも見えます。 リンゴ園、梅園、トマト畑、それらの果樹を世話する人たちも。 ハチやチョウが花から花へと飛びかい、 花粉を集めハチミツを作り、それを私はいただきます。 今この手にあるリンゴや梅、しょうゆに浸す野菜のゆでた一枚の葉っぱを作るために、宇宙の元素の一つひとつが働いています。私の心は感謝と幸福で一杯になります。」 と説かれています。 一椀のご飯をいただくにしても「空」を感じることができます。 また、「空」の世界を体感するために、禅の修行では「無になれ」と教えるのであります。 何が「無」になるのかというと、それは我執が無になるのです。 森信三先生は『不尽聖典』の中で次のように言っています。  宗教とは、第一に「我執」という枠が外れること。  第二には、現実の世界そのものがハッキリと見えるようになること。  第三には、この二度とない人生を、力強く生きる原動力となること。  真の宗教には、少なくともこうしたものが無くてはならぬでしょう。 この我執というのは「我に対する執着、自分さえよければという気持ち、わがまま」のことです。 我執があるから、私たちはこの現実の世界を自分の都合のよいようにしか見ないのです。 しかし、それではこの二度とない人生を力強く生きることはできないのです。 争い、競い合って終わってしまうのです。 まさに仏陀が説かれたように、 勝つ者 怨みを招かん  他に敗れたる者 くるしみて臥す  されど 勝敗の二つを棄てて  こころ安静なる人は  起居(おきふし)ともに  さいわいなり(『法句経』201、友松円諦訳) なのです。 何が無になるかというと、わがままなものの見方、考え方が無になるのです。 分離され、隔絶された自己という実体が無になるのです。 無になることによって現実の世界そのものがハッキリと見えるようになり、この二度とない人生を力強く生きる原動力となっていくのです。 一遍に空を体感し理解することはなかなか難しいものですから、まずは「諸行無常」ということを観察してゆくのです。 すべてのものは移ろいゆく。 毎日毎日、刻々と変わっていくのです。 私たちは、本当は変わらないものが欲しいんです。 今年も去年と同じようにやっていると安心です。 今までのように同じことができないと不安になります。 でも、すべてのものは一瞬一瞬移ろいでいくのです。 これが真理であります。 そこに常住不変のものはないのです。 それからもう一つ、お釈迦様が説かれた真理は「諸法無我」です。 無我というのは独立して存在しているものではないということです。 孤立して、それだけで存在しているものは何一つないとお釈迦様は説かれました。 我々にしても、両親のお陰で命をいただいたのですし、世間の皆さんのお陰で今、生かされているのです。 私はたくさんの方々のお陰で生かされています。 自分だけで存在しているのだという思い込みを否定するのです。 そうすることで「涅槃寂静」という心境を得ることができます。 これは「己れなき者にやすらいあり」ということです。 「己れなき」というところが、分離された自己という実体がないことなのです。 それは本当の安らぎです。 私たちは刻々に移り変わって生かされています。 そして、自分ひとりで生きているのではなく、皆さんのお陰で、多くのものの関係性の中で生かされています。 自分の命というものは、自分だけに大事なものではなく、多くのものの命の関わり合いの中にある大切な命であるから、自分も皆のために尽くそう」ということになります。 つまり、無になることが力強く生きる大きな原動力となっていくのです。 空を体感することで、現実が分離された物ではなく、お互いに関わりあっているとはっきり見えて、力強く生きる原動力ともなるのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1192回「「空」を感じるには」

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