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「現成公案」メモ⑦

修証において、自己が先手となるのを「迷」といい、万法が先手となるのを「悟」という。どちらも仏法における修証であり、一如である。

 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
 身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かゞみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。」

仏法から見た万法とは「仏のいのち」そのものである。

「迷」という自己(主体)における弁道が熟しきり、「仏のいのち」である万法に証され、自己が「仏のいのち」そのものとなってしまうことを「大悟」といい、それが「諸仏」である。そのとき自己は完全に消え失せている(「瞿曇眼睛を打失する時、雪裏の梅花只一枝なり」)。

その「悟」をわすれ、目覚めた自己となって、さらに主体的に修行に没入していくことを「悟に大迷なるは衆生なり」と言っている。だから、ここでの衆生は「迷える凡夫」のことではない。大修行底の人(=鉄漢)のことである。

つまり、目覚めた自己(主体)をさらに運んで「仏のいのち」である万法を修証する、それが本当の意味での「自己をはこびて万法を修証する」ことだと思われる。

「大迷」は「大悟」と対になっている言葉である。だから、ただの迷いのことではない。『正法眼蔵』「大悟」巻では「大迷」を”却迷”と言っている(「大悟底人却迷時如何」)。大悟底の人は却って迷う、つまり悟りをわすれて修行(迷)に転じるのである。そして自己をわすれ、また万法(仏のいのち)に証されていくのである。

仏法における修証とは、「自己」⇆「万法」「迷」⇆「悟」「諸仏」⇆「衆生」という無限の往還である。
それぞれは同じ〈いのち〉の表と裏であり、その相互運動が仏道である。

このように、不思量底である〈いのち〉をどこまでも無窮に参究するのが道元禅師の言う仏道である。

「諸仏」(大悟)と「衆生」(大迷)とは表裏一体である。だから、仏道における運動を「諸仏」という面から見るなら「さらに悟上に得悟する漢あり」となり、「衆生」という面から見るなら「迷中又迷の漢あり」となる。

当然、ここでの「漢」はただの「人」のことではない。鉄漢の「漢」である。

したがって、「迷中又迷」とは、ただ迷いに迷いを重ねるというネガティヴな意味ではなく、修行によって自己がますます本当の自己(主体)へと深化していくことをいう。

「迷」とは自己をならうことであり、「悟」とは自己をわすれることである。その両面が仏道をならうことである。

「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。」

諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己が完全に消え去っているわけだから、自己は諸仏であると認識することはない。それでも、というか、だからというべきか、どこまでも仏というものを修行によって実証していく、それが行仏であり、証仏である。ここでの「仏」とはどこかに鎮座している仏さまではなく、あくまで修行のなかで現成する自己の本性、つまり仏性である。

「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かゞみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。」

これは「渓声山色」巻でも取り上げられている見色・聞声のことで、蘇東坡の偈や、霊雲桃花、香厳撃竹などが有名である。
万法が、渓声、山花の色、竹の音となって自己を証した悟りの例である。

万法に証されるまさにそのときは、全身心(自己)が山花となり、渓声となり、撃竹となっているため、自己(主体)は消えている。したがって、いくらそれを自己の親密な体験としてあとから理解したとしても、その瞬間は、鏡にものが映り、水面に月が映るときのような、同時的なものとしては認識できない。「一方を証するときは一方はくらし」である。

つまり大円鏡智などの言葉によって、鏡のごとくすべてを映し出す透明な意識状態、みたいなものを想像して、そういうものを悟りだと勘違いするなということだろう。


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