第1285回「鉄饅頭」

五祖法演禅師の語録に

「一箇の鉄酸饀を咬破す。直に得たり、百味具足することを」

という言葉があります。

「鐵酸饀」とは、『禅語辞典』には。

「酸饀は僧侶が食べる精進のマントウ。
それが鉄製だというのは、全く歯が立たぬ、取りつくしまもないものの喩え。」

と解説されています。

夢窓国師がこの鉄饅頭について説かれています。

講談社学術文庫『夢中問答』にある、川瀬一馬先生の訳文を参照します。

「圜悟禅師も言われた。

よい生まれつきの人は、必ずしも古人の言句・公案などを見る必要はないと。

これでよく判ることだが、公案を与えるというのも、決して宗師の本意ではないのだ。

たとい情をかけて、一くだりの公案を与えたとしても、それは仏の名号を唱えて、往生極楽を求め、陀羅尼を誦し経を読んで、功徳を求めるのと同じではない。

そのわけは、宗師が弟子たちに公案を与えることは、極楽浄土に往生するためでもなく、成仏得道を求めるためでもない。

それは世間の変わったことでもなく、仏法の道理でもない、すべて人間の情識(とらわれた考え)の届かないところである。

それ故に、公案と名づけたのだ。

これを鉄の饅頭に譬えている。

ただ情識という舌のとどかないところに向かって、咬んで咬んで咬みまくれば、きっと咬み破る時節があるであろう。

その時初めて、この鉄の饅頭は、世間の種々な味わいでもなく、世間出世の妙法の滋味や義理を読み取る味わいでもないということがわかるであろう。」

というものであります。

全く歯の立たない鉄の饅頭を咬んで咬んで咬み破るというのであります。

七月の前半は、修行道場で摂心という修行の期間でありました。

修行僧達は、文字通り、この鉄の饅頭を与えられます。

この春修行道場に入門した者も一様にこの鉄の饅頭に取り組みます。

大慧禅師は、富枢密に与えた手紙に、

「ただ妄想顚倒の心、思量分別の心、生を好み死を悪む心、知見解会の心、静をねがい動をいとう心を、一度におさえつけ、そのおさえつけるところについて、話頭を参究なさい。

(たとえば) ある僧が趙州に、「狗子にも仏性があるのでしょうか」とたずねる。趙州は、「無い」とこたえる。

この「無」の一字こそ、いろんなねじけた知覚をくじく武器です。

(この「無」を悟るのに)有無の意識をおこしてはいけません。

理窟の意識をおこしてはいけません。

意根によって思量し臆度してはいけません。

眉をあげ目をまばたくところにじっとしていてはいけません。

言句の上でその場しのぎをしてはいけません。

無事そのものの中にとどまってはいけません。

挙示されたことについて早合点をしてはいけません。

文字にとらわれて証拠がためをしてはいけません。

ただ朝から晩まで行住坐臥の中で、いつも工夫し、いつも気を引き立てなさい。

「狗子にも仏性があるのでしょうか。」「無い」(と言った工合に。)

日常(の暮し)から離れないで、ためしにこんな風に工夫をしてみなさい。

ひと月はおろか十日のうちにはじきに分るでしょう。

一郡千里四方にわたる公務も、何らさまたげになりません。

古人は、「わしの胸中ははつらつとした祖師の意だから、拘束するものは何もない」と言いました。

(こうしたわけで)もし日常を離れて別にめあてがあるなら、波を離れて水を求め、器を離れて金を求めるようなもの。

求めれば求めるほど遠ざかることとなります。」

と説かれています。

現代語訳は、筑摩書房『禅の語録17 大慧書』にある荒木見悟先生の訳文であります。

このような無字の公案を今も変わらず行っています。

暑い中ですが、暑いという思いも忘れて、ただ無の一字になりきって坐るのであります。

これを鉄饅頭に喩えたのです。

大慧禅師が「この「無」の一字こそ、いろんなねじけた知覚をくじく武器」だと仰せになっていますように、今まで学校で習って蓄えてきた知識などを砕いてしまうのであります。

これがなかなか容易ではありません。

私たちの心には比べるという癖がついてしまっています。

暑いときと涼しい時を比べるから暑いのが苦痛になるものです。

そこでやはり強い心が必要となるのです。

鈴木正三が『万民徳用』の中で、

「凡夫というのは、幻や化生の偽りを本当だと思い込み、姿形に執着して私心を作り出す。

そして貪欲・瞋恚・愚痴の念から始めて、あらゆる煩悩を起こしながら本心を失う。

散乱の心の止む時が無く、念が次々と起こるに従ってその念に負け、心を壊して身を苦しめる。

又、浮心が無く、闇に沈んだまま虚しく月日を過ごし、自分に迷って漂い、物に出会って執着するのを凡夫心と名付ける。

だから、本来の心の異名を知るべきである。

金剛のように堅固な正体といい、堅固な法身という。

この心は、物事に関わらず、恐れず、驚かず、憂えず、退かず、動かず、変化せずに、一切の物事の主人と成る。

このように心を通じ徹して用いることが出来る人を、大丈夫の漢(大いなる優れて丈夫である漢)、鉄心肝(心や肝が鉄のように強い人)といい、達道の人ともいう。

この人は諸々の念に碍げられる事はなく、万事を使うことができ、大いに自在である。

そうであるから、仏道修行の人は、まず、勇猛の心が無くては修行が成就できない。

怯み弱い心では仏道に入ることもできない。

固く守り強く修行しなければ、かの煩悩に従わされて苦しみ患いを受けることになる。

つまり、堅固な心をもって万事に勝つのを道人と言い、姿形に執着する念によって、万事に負けて苦悩する人を凡夫と言う。」

と説かれているのであります。

現代語訳は中公クラシックス『鈴木正三 鈴木正三著作集Ⅰ』にある加藤みち子先生のものです。

私もどうにか若い者につられて汗を流しながら坐禅をしているのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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