第1284回「らっぱ仏法」

「らっぱ仏法」という言葉が鈴木正三の書物の中に出てきます。

『驢鞍橋』の巻上九十七に

「一日示曰、我平生果し眼に成、八幡と云てねぢまわし、じりじりと懸る機に成て居る。 我法はげにと出家には移り難かるべし。 只武士に移るべき也。其故は、 我少しも殊勝気なし。

只常住ねぢまわして居る機一つを用ひ得る計り也、我法はらつは仏法と也。」

というもので、『日本の禅語録十四 正三』にある古田紹欽先生の現代語訳では、

「ある日、こう言われた。

「私は平生、果たし眼になり、南無八幡と唱えて心のねじをかけ、じりじりと敵におそいかかる時の心がまえになっておる。

それで私の仏法は、ほんとうに出家の方には移りにくいであろう。

ただ武士に移るであろう。

そのわけは、私にはすこしも神妙らしさがない。

ただいつもねじをまわしておる心がまえ一つを用い得るだけである。

私の仏法はらっぱ仏法だわい。」」

となっています。

「らっぱ」とは何か、『広辞苑』には、

「①「すっぱ(透波)」①に同じ。

②あらくれ者。無頼漢。」

とあります。

「すっぱ」と同じだというので、「すっぱ」を調べてみると、

「すっぱ

「戦国大名が野武士・強盗などの中から召し出して、間諜または軍隊の先導などを勤めさせたもの。乱波(らっぱ)。間者。忍びの者。」

と解説されています。

一説には、密かに活動するものを「透波(すっぱ)」、騒がしく動静が整わないものを「乱波(らっぱ)」とも言われます。

また関東では「乱波」、甲斐以西では「透波」という地理的な使い分けがあるという説もあるようです。

「らっぱ仏法」について、『日本の禅語録十四 正三』の註釈には、

「あらくれ仏法。

「関東らっぱ」というように関東の荒武者を呼んだから。

『驢鞍橋』上・百十四に「了庵和尚も、法は関東らつはに移るべしと云給と聞く、是好見様也」とある。」

と解説があります。

そこで『驢鞍橋』巻上の百十四を参照してみましょう。

こちらは、中公クラシックス『鈴木正三 鈴木正三著作集Ⅱ』にある加藤みち子さんの訳を引用します。

「百十四

壬辰(みずのえたつ)(承応元・一六五二)十月六日、夜話に言われた。「フクワン者(おおざっぱな者)は、ブンマケテ(おおざっぱなので)この世に苦しむことが少ない。

これは仏法を受ける器である。

了庵和尚(慧明、一三三七~一四一一)も、仏法は関東のラッハ(俠気のある剛健なもの)に移るだろうと言いなさったと聞く。

これは良い見方である。

しかしながら、フクワン(おおざっぱ)ばかりで確りとした機(気)一つが無ければ、修行は成就しにくい。

その理由は、この世が粗相なほど、修行も粗相であり、うかうかと過ごしてしまい、落ち付いて修行することが無いからである。」

時に或る者が言う。

「誠に某長老のように粗相な人は修行が成就し難い。」師が言われた。

「中々、ぶちまけて可笑しい人である。取り留めることの成就する性質ではない。
あれは何もかも打ち捨て打ち捨てなされ、と捨修行を教えるのがよい。」」

というものです。

これは『驢鞍橋』の冒頭に、

「 師匠がある日こう言われた。

「近年、仏法に勇猛堅固の大威勢があるということを言わなくなった。

ただ、柔和になり、殊勝になり、無欲になり、人はよくなったが、怨霊となるほどの気質をつくり出す人がいない。

皆、勇猛心を修行によって奮いおこし、仏法の怨霊とならねばならぬ」と」とように、ただお人好しのようになっていることを嫌っているのであります。

仏道修行には、こういう勇猛果敢な精神も必要なのです。

鈴木正三がまだ出家する前に書かれた『盲安杖』という書物があります。

そこには、次の十の項目について仏道が説かれています。

「一、生まれかわり死にかわりして絶えることのない迷いの世界を、よく知って、その中に涅槃という悟りの楽しみの世界があるということ。

二、自分をよく反省して、自己をよく知るべきこと。

三、ものごとにおいて、つねに他人の心になりかわってみること。

四、誠があって、忠義と孝行に励むべきこと。

五、自分の身の程をよく見分けて、それぞれの性分を知るべきこと。

六、執着する所を離れて、かえって得るところがあること。

七、自己を忘れ無我になって、しかも自己をよく守るべきこと。

八、立ちあがって、必ずその独りを慎むべきこと。

九、妄念をほろぼして、本分の心を育つべきこと。

一〇、利己的な小さな利益を捨てて、衆生を救うような大衆のための大きな利益を得るようにつとむべきこと。

一が「生死を知りて楽しみ有ること」なのですが、そこには、

「すべてはかないことである、どんな親しい者も、うとい者も、先に死んで死というものがあることを教え示しているが、これを余所ごとだと思って空しく過ごしてしまう。

どんな人でも一人としてこの世に残りとどまるかどうか、どんなことでも、しばらくとどまっているものがあるかどうか、みな夢幻のはかない世の中であることが、眼に見え、耳にいっぱい聞こえるではないか。

まさに知るべし、元来無常の世であることを。

もし明らかに無常の世であることを知ったならば、如何なるさわりがあるであろうか。

夢の中で見たものに執着して、それを自分のものであるかのように楽しんでいるこの身は一体何ものなるぞ。

地・水・火・風の四つの元素が、仮に和合して肉体をつくっているだけで、決して自分のものではない。

四大というこの四つの元素に執着する時は、この四大が私をまどわしてしまう。

かさねがさね四大にまどわさるることなく、究明してみよ。

一箇の我というものがあるが、これもまた我ではない。

それは四大を離れていながら四大に属し、四大に連なりながら四大を自由に用いるのである。

古人も言っているではないか、「物あり、それは天地に先立ってある。しかし、それは形がなく、本来しずまりかえって静かである。

しかしまた、それがすべてのものの主人公となってはたらき、春夏秋冬をめぐって凋むことがない」と。」

と説かれています。

これなどは仏教の無常、無我の道理をよく説かれています。

しかし、常であると願い、我に執着する心がとても強いので、やはり勇猛果敢な心で修行しないと負けてしまうのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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