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「現成公案」メモ③


 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
 しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。

一文目は「諸法~」であり、ここでは「万法~」となっている。「諸法」は仏法から見た自己という肯定面を示していたが、ここでは自己の面は消えている(裏に回っている)。よって、すべてがひっくり返っている。

「われにあらざる時節」とは、無我(無自性)という意味もあるが、ここでの「われ」は「我」(実体)という意味だけでなく、主体(自己)の意味も込められている。つまり主体(自己)の面が消えると純粋な客体(万法)の面だけになる。

ふつうは主体と客体は分かれていて、両者は対立して存在しているように思われている。これが自我の錯覚であり、世法の論理である。だが、仏法から見たとき、自己(主体)と万法(客体)は表裏一体(一如)である

表裏一体ならば、どちらかが現れれば、どちらかは隠れる(昼と夜のように)。両者(自己と万法)が同時に両並びになるということは不可能である(昼と夜が同時には現れないように)。それでいて一如である。

だから自我が二元的に対象として眺めている事物は「万法」ではない。そして対象を眺めていると思っている自我は「自己」ではない。

一心一切法、一切法一心

万法は一切法ともいう。「いはゆる正伝しきたれる心といふは、一心一切法、一切法一心なり。」(「即心是仏」巻)

一切法(万法)は一心である。一心とは完全な一箇の存在だということである。無自性ということは個別性の面が消えているので、そこにはまったく分離の余地がない。よって〈ひとつ〉なのである。現代スピリチュアルふうに言うならば、ワンネスという言葉になる。

ただ「一心」だとか「ワンネス」だとか言葉にしたとたんに、そういうものが対象物のような実体としてあるように思われてしまうおそれがある。これは自己(主体)を裏返した世界(客体)のことなので、ある意味では自己そのものでもあるし、ある意味では、まったくの非自己である。自己が消えていることが一心(ワンネス)であり、同時にそれが本当の自己でもある。

不是(空即空)

南泉禅師は「不是心、不是仏、不是物」と言っている。

この「不是」はただの否定ではなく、絶対の否定である。絶対の否定ということは裏を返せば絶対の肯定である。つまり「不是」という〈なにものか〉が心でもあり、仏でもあり、万物(衆生)でもあるということである。

「心でもあり、仏でもあり、万物(衆生)でもある」という「~ある」は如是という絶対の肯定面である。だが、それを支える裏面を言おうとすると、「不是」という否定の言葉を用いるしか表現のしようがない。

これが「万法ともにわれにあらざる時節」である。

したがって、それは「まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」と「~なし」という否定の言葉で語られるしかない。

『般若心経』で言うならば、諸法空相(不生不滅)である。
空相からすれば、すべての事象は「無」である。「空」(不是)の面のときは「色」(如是)の面は隠れているため、ただ「空」のみ。「空即空」である。

しかし、それが同時に「諸法の仏法なる時節」、つまり自己の面(五蘊)と表裏一体である。

絶対の肯定面(如是・諸法実相)は絶対の否定面(不是・諸法空相)によって成り立ち、逆もまたしかりである。一如である。


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