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「現成公案」メモ⑪


以下の節では、「衆生と悟り」の関係について語られる。

 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狹を辨取すべし。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。

人が悟りを得るというのは、水に月が宿るようなものである。月はぬれず、水も乱れない。

水と月(衆生と悟り)

「水」は衆生を表わし、「月」は悟り(菩提)を表わす。
衆生が菩提心をおこすことを発心(発菩提心)という。悟りの心は本来、衆生に備わっているから発心することができる。したがって、衆生と悟りが分かれていて、衆生が修行をすることで未来に悟りを得るのではない。衆生と悟りとは初めから一如である。つまり、水(衆生)には月の光(菩提心)がすでに宿っているのである。

ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。

広く大いなる光であっても、ほんのわずかな量の水に宿り、満月の光も満天の光も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。

仏の悟りである光明は広大であるが、どんな衆生にも内在し、平等にはたらいているということだろう。

さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。

仏の悟りが人を損なわないことは、月が水を穿たないようなものである。人が仏の悟りを妨げないことは、一滴の露が満天の月を妨げないようなものである。

仏の悟りと衆生は別々の存在ではないため、お互いが妨げ合うことはない。「罣礙せざる」とは無礙であり、相即相入の関係にあるということである。
華厳の法界縁起で言うなら、事(=水)と理(=月)は無礙であり、一如であるということである。

ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狹を辨取すべし。

深さということは高さを量る目安になるはずである。修行の時節の長い短いは、水の多い少ない(=修行の深まり)を点検し、そのことによって天月(悟り)の広い狭いをわきまえるべきである。

衆生に仏の悟りが宿っているといっても、発心し、修行しなければ現われてこない。修行の深さが悟りの高さを示すのだという。深さと高さは比例の関係にある。だから、ただ修行期間が長ければいいというわけではなく、あくまでその深さが大事だということだろう。

修行が深ければ深いだけ、仏の悟りの光が宿る水の量も多くなる。つまり、水が深まれば、それだけ悟りの光も高く輝くことになるということである。

けれども、浅いからダメということではない。一人の水がいくら深まっても、限界がある。それよりも、少しでも多くの人が自己の光明に気づき、磨いていくなら、それぞれの水は浅くても、光はそのぶんだけ広がっていく。むしろ衆生の「一滴の水」こそ・・が大事だと言っているように思う。

初心(ビギナーズ・マインド)

『辨道話』ではこう言っている。

「仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり

「一滴の水」(=初心の辨道)には「仏の光明」(=本証の全体)が宿っている。

初心(ビギナーズ・マインド)こそが禅の心であると言ったのは、鈴木俊隆老師であるが、水と月の比喩として主に道元禅師が語ろうとしたのも、そのことだろうと思われる。


鈴木老師の名著、藤田一照さんによる新訳が出ているらしいです↓


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