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「現成公案」メモ①

『正法眼蔵』の「現成公案」巻について、あくまで個人的なメモです。


「現成公案」巻は『正法眼蔵』の巻頭に位置するもので、ある意味、『正法眼蔵』のエッセンスを凝縮したような面がある。同時に、俗弟子に向けて書かれたものであるためか、難しい仏教用語や語録からの引用が少なく、かな表記も多い。だから一見、読みやすいように思えるけれど、そのぶん意味を取り違えてしまう危険性も多いように思う。

巻名について

「現成公案」という巻名について。
「現成」という言葉は「現前成就」の略語で、あるがまま(如是)の事実ということ。
「公案」は”問い”であり、仏教における”問い”とは自己について以外にはない。「みづからをしらん事をもとむるは、いけるもののさだまれる心なり」(「唯仏与仏」巻)。なので、そこで問われているのは抽象的な真理というものではない。

「現成公案」とは〈今、ここ〉の事実に自己についての問いがすべて現れているということ、もっと言うならば、〈今、ここ〉の事実がすべて自己のようすだということになる。〈今、ここ〉とは自己のようすのことだから、そこから何人たりとも出ることはできない。死んでも出ることはできない。生も死も、どちらの世界も、〈今、ここ〉つまり「現成公案」の世界である。

『法華経』(即是道場)

『法華経』の「如来神力品 第二十一」に以下の言葉がある(道元禅師が臨終前に壁に書いていたものであり、宮沢賢治が「手帳」に記していたものとしても有名)。

「当に知るべし 是の処は即ち是れ道場なり。諸仏ここに於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏ここに於て法輪を転じ、諸仏ここに於て般涅槃したもう。」

「是の処」とは自己の現成する〈今、ここ〉のことであり、それがすなわち「道場」(仏のさとりの場)であるということ(この「処」と「道」とは「現成公案」巻のなかで後々出てくるフレーズなので重要)。

「是の処」はもちろん法華経(自己の真相)を修行するところ、という意味。なので、ただの自我が生きている世界(=世法)のことではなく、本来の自己が生きている世界(=仏法)のことを言う。

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