第1292回「憐れみと慈悲」

七月の日曜説教の午後からは、一般の方々の布薩の会を催していました。

毎回大勢の方がご参加くださいます。

リピーターの方がほとんどなのですが、毎回初めての方もいらっしゃるので、そもそも布薩とは何かということからお話しています。

戒を受けて、その戒が守られているかどうかを反省するのが布薩であります。

それではそもそも戒とは何かということから話をしました。

漢字としての「戒」という文字には、

動詞として「いましめる。用心する。緊張して備える。気を張って用心させる。」

という意味や、「あやまちをしないよう、今後に気をつけさせる。さとす。」という意味もあり、また名詞として「いましめ。いつも、気をつけて避けるべき事柄」という意味もあります。

また仏教語として「仏道にはいった者が、生活を引き締めるおきて」という意味もあります。

私は梵語のシーラという言葉の意味を鑑みて「良き習慣」と言うようにしています。

戒は、良き習慣を身につけることなのです。

岩波書店の『仏教辞典』にも「仏教の修行者は、在家も出家もすべて戒に基づいて修行をする。

戒定慧の三学といって、戒の実行があってはじめて、禅定と悟りの智慧とが得られる。戒の自発的決心が修行の根本である。」

と解説されています。

坐禅の修行の土台となるものでもあります。

三聚浄戒は、大乗仏教の一番根本の教えであります。

三聚浄戒とは、第一摂律儀戒(しょうりつぎかい)、第二摂善法戒(しょうぜんぽうかい)第三摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)の三つです。

難しい言葉ですが、松原泰道先生は、三聚浄戒を分かりやすく

「小さいことでも少しでも悪い事は避け、よいことをし、人にはよくしてあげよう」と説かれていました。

三聚浄戒などは、まさしく禁止事項ではなく、良い習慣そのものです。

仏道というのは、このことに尽きるといっていいでしょう。

それから悪い事を避ける、実際の悪い行いとして、十善戒には十の事柄が示されているのです。

それから今回は、三帰依についても少し詳しく話をしました。

そうして礼拝の説明に入りました。

礼拝の前に、少し準備体操もしましたので、布薩の開始が少し遅くなってしまいました。

最後に質問の時に、青年が質問されました。

だいたい、こういう催しに二十代の方が出ているのは珍しいものです。

お見受けしたところ、二十代の学生さんかなと思いました。

布薩の説明で慈悲についても話をしましたので、憐れみと慈悲との違いについて聞かれました。

とてもよい質問でした。

「あわれむ」という言葉は、『広辞苑』には、

「①賞美する。愛する。

②ふびんがる。同情する。

③慈悲の心をかける。めぐむ。」

という意味があります。

憐れに思うとか、気の毒に思うという、少し慈悲とは異なるのであります。

もっともはじめに憐れに気の毒に思うところから慈悲の心が湧くことはあります。

憐れむというのは、どうしてもやはり自分とその人のことを比べて、かわいそうだからという気持ちがあると察します。

お釈迦様の慈悲もまた、憐れみからはじまっているところがあります。

お釈迦様が悟りを開いて、説法せずにおこうかと思っていたところ、梵天がお釈迦様にお説法してくださいとお願いしたのでした。

それに対してお釈迦様は

「梵天王の勧請を知りて、衆生に対する哀憐の心を生じ、覚者の眼をもって、世間を眺めたもうた。

そこには、塵垢多い者もあり、塵垢少ない者もあった。

利根の者もあり、鈍根の者もあった。善き相の者もあり、悪しき相の者もあった。教えやすき者もあり、教えがたき者もあった。

その中のある者は、来世と罪過の怖れを知っていることも見られた」

と思われたのでした。

かくして哀憐の心をもって人々をご覧になって法を説こうと決意されたのでした。

しかし、哀憐だけではじゅうぶんとはいえないのであります。

そこに空の教えがあるのです。

「慈悲と空とは、実質的には同じです。哲学面から見ると空ですが、実践面からいうと慈悲になります。

われとなんじが相対しているとき、そこに隔てがあるかぎり、われとなんじの対立はいつまでも残っています。

けれど、その根底にある空の境地に立って自分の身を相手の立場に置いて考えるようにすると、そこから、ほんとうの意味の愛が成立します。

それを仏教では「慈悲」とよんでいます。

「慈悲」ということを、仏典ではまれに「愛」ということばで表現している場合もありますが、愛の純粋化されたものが慈悲である、ということがいえます。

世俗の愛は、いろいろな要素がまといついています。

純粋の愛というものは、不純物がありません。

われわれが空の境地を体得すると、よい行いがおのずから現れでてきます。」

というのは、「現代語訳 大乗仏典1『般若経典』中村元」にある言葉です。

もう少し堀下げてみますと、相国寺の僧堂で長年坐禅された片岡仁志先生は、『禅と教育』の中で次のように説かれています。

「絶対無の自覚というものが、有のもとです。

絶対無になってみると、すべてのものがおのれと見えます。

すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えないということです。

これは、ただの同情だとか感情移入だとかいうような心理的な作用とはまた違います。

感情移入というような心理学的な説明の仕方もあるでしょうけれども、その事柄それ自体は、そういう説明よりもっともとになるものです。

感情移入をする前に、われわれのこの絶対無の体験からみれば、ものと我とは本質的に繋がっているのです。

その繋がりが、実際は愛というものの根本です。

われわれの前に現われるものをすべて我として見るということは、すべてを愛することです。

自分が自分を愛するがごとく、自分以外のものが自分と同じように見えるということです。

他人が自分に見えて、自分を見るのにまた他人と同じように見える。

絶対公平に自他を見るということ、それが智慧であると同時にまた愛なのです。

そういう智即愛というのでないと、本当の愛にはなりません。

そうでないと、どうしても、好き嫌い、感覚的な好悪の情というものが愛を支配するようになってしまう。

そういう感覚的な好悪や好き嫌いというものも働くでしょうが、それが根本になってはいけません。

感覚的な好き嫌いとか、主観的な好悪の情とかを超えて、ただ人を愛する、つまり人類一如の愛というふうなものがあります。」

と説かれているのです。

憐れみというとやはり感情移入であると思われます。

これもまた大事なことでありますが、それだけでは疲弊してしまったり、また相手にとって重荷になってしまうこともあるものです。

そこでやはり坐禅修行して空を体験して自他一如の世界からはたらくのであります。

質問してくださった青年とは布薩のあと、少しお話させてもらいました。

その日はお母様とご一緒に参加してくださったのでした。

都内の大学に通われているそうです。

こういう前途有望な青年が、お寺で布薩を体験してくださるとは有り難いことであります。

何か将来に希望を感じる一日となりました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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