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「現成公案」メモ⑨

 人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
 人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすゝむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。」

人がはじめて法(ダルマ)を求めるとき、法は求める対象になっているため、法そのものからかえって離れてしまっている。法(ダルマ)とは自己の真理のことだから、自己を先に立てて法を求めれば、当然、法と分離してしまう。

『学道用心集』では「法我を転じ、我法を転ずるなり」(法が自己を転じ、自己が法を転ずるのだ)と言っている。

ここでは主客が逆転している。つまり、まず法のほうが主体となって自己を証し、そのあとに・・・・自己が法を証していくのだという。

これは「自己をはこびて~」「万法すすみて~」と同じ構造である。

「法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。」

だから、法(ダルマ)が自分に正しく・・・伝わるときは、すみやかに本来の自己(本分人)になっている。それには、法を正しく知っている師(=正師)に教えを請わなければならない。

「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる。」

人が舟に乗って進んでいくとき、目をめぐらして岸を見れば、自分は動いてなくて、岸が移動しているかのような錯覚を覚える。

人が発心をし、仏の教えである仏法という「舟」に乗って、修行に励もうとする。が、正しいやり方ではなく、自分の目をめぐらす、つまり古い自己のままに、その目で対象としての万法(=岸)をいくら参究しようとしても、自分という固定された自我の錯覚が取れることはない。

「目をしたしく舟につくれば、ふねのすゝむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。」

逆に、対象ではなく、目を親しく舟自身(自己)に向けるならば、舟のほうが進んでいたのだということを知る(「知る」とは頭の理解ではない)。

「目を親しく舟のほうに向ける」というのは、回向返照のこと、つまり坐禅によって古い自己をわすれ、本来の自己に立ち返ることをいう。それが法が自己を転ずるということである。

そうすれば、舟(自己)が万法とひとつになって進んでいる(生きている)ということが、頭の理解ではなく腹落ちするということである。つまり万法に証されるのである。

しかし、本来の自己に帰らず、自我意識によって身心を妄りに思いめぐらし、万法を理解しようとするならば、自分の「心」というものが我(実体)として常住するものだという考えに陥る。

外道の教えと仏法

世界は無常であり、身体も無常であるから、どちらも滅びてしまうが、自分の心(本性)は霊魂や霊我のようなかたちで永遠に生き続けるのだという考えは外道の教え(=仏教以外の教え)である。

この考えだと、自己と世界、心と身は分離されている。その分離を前提に、自己と心を結び付け、世界と身体を切り離し、前者(自己・心)を常住、後者(世界・身体)を無常としてしまう。こういう考えを道元禅師は「心常相滅の邪見」(『辨道話』)と言い、仏教と混同することを戒めている。

そもそも、こうした二元性(自と他、心と身、性と相)をつくり出しているのが自我意識である。だから、霊魂や霊我、もしくは真我(アートマン)や「ハイヤーセルフ」など、何と呼んでもいいが、分離の意識に基づいて考えられた概念はどれも自我の投影にすぎない。

ただし、それらを否定しているのではなく、それらが身体や世界と分離した実体我として想定されてしまった場合、その分離の意識こそ・・・・・・・・・が無明であり、迷いの根本原因である、ということである(※個人的には、本当の意味での真我〈アートマン〉は分離の意識ではない本来の自己という捉え方なので、仏教と対立しないと思っている)。

「もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。」

坐禅によって身心を調えて、本来の自己(箇の不思量底)に帰すれば、法(ダルマ)としての存在である万法には「我」という実体などないという道理は明白である。

坐禅は身心脱落である。「脱落」とは無我(空)であるということである。すなわち、身心は万法と一如であり、自己は万法そのものである。「我」として他から分離できるものはどこにもない。


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