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差別は、他者の合理性に侵入することなのかも

先日noteで、中学校時代不登校の子の家に訪問していたことや、みんなから避けられている同僚に積極的に雑談しようとしていた私の態度が、偽善で差別だったのではと自分に対しモヤモヤ思っていることを書きました。

今日こちらのVoicyを聞いて、私の態度は、他者の合理性への侵入だったのかもしれない。と気付かされました。

たとえば前回の記事のエピソード

1つめ
不登校になってしまった友達の家に声をかけに行ったこと。

これは、不登校=残念なことと決めつけ、その判断をもとに友達にアプローチしようとしていたのだけれど‥
→不登校についてどう思っていたのか、そしてどうしたいのかは、友達にしか分からない

2つめ
同僚に距離を取られていた人に積極的に雑談しに行っていたこと。

周りから話しかけられないことを勝手に哀れに感じ、アプローチしていたけど‥
→そもそも、周りから話しかけられないことをその人がどう思っていたのかは分からない。もしかして、煩わしさがなく清々してたかも!?

3つめ
職場にいたちょっと融通の効かない人を、自分たちの仕事のやり方に合わせようとしていた上司に「得意を活かしたほうがいい」と進言したこと。

→仕事ぶり(融通が効かないなど)をこちら側から判断し、そもそも当人がどんな働き方をしたいのか分からないはずなのに、「得意を活かす」働き方を強要しようとしている

全部に共通するのは、こちら側から判斷してアプローチしようとしていたこと。

けど、相手には相手の世界がある。
それは、こちら側から見える景色と全然違うものかもしれない。

その前提に立っていなかったことこそ、他者の気持ちの疎外=他者の合理性への侵入だったんだろうなあと、じわじわ反省しました。

人に勝手にアドバイスする、決めつけて話す、話を聞きながら勝手に想像する、気づいたらやってしまいがちなこれらも、他者の合理性への侵入だよな‥と恥ずかしくなりました🤮

そしてこの記事にコメントくださった、eccoさんの「他者の靴を履く」もじわじわ滲みてきています。

判断でも理解でもなく、他者の靴を履く。
人それぞれがさみしいので、気になったらアプローチしたくなりそうですが、前提として判断しないこと!まっさらな気持ちでその人の隣に立ってみる。

判断してはいなかったか?日頃の生活でチェックしていきたいです。

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