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最優先を自分にすると物事がうまく回るお話

まずは雑談から

私は、ヘルスケア関連資格を二つ持っています。一つは、救急救命士で、もう一つは看護師です。看護婦(当時)として、その母校や勤務していた病院は都内でした。今は、制度的にどうなっているのでしょうか。私の勤務先は、当時は第三次救急病院という括りで、ホットラインというのを通して、救急隊から要請があると、救急の患者さんを請け負うという流れで業務を行なっていました。

ICUとERでの勤務だったので、大体到着する患者さんは、呼吸停止寸前か停止、心臓も停止寸前、意識は、あっても定かでないか、普通で昏睡、とにかく命を取り留めるのに全力をかけてチームで取り組む。人工呼吸を装着するための気管内挿管や静脈注射用の血管ルート確保、心電計装着、AEDって今は言うのでしょうか、カウンターショックと言って、心停止した患者さんへの電気ショックを行ったり、心臓マッサージなどが普通にある日常でした。ERでは、救急車から患者さんを引き継ぐのに救急隊や警察の方とのやり取りもルチンで、その勢いで、救命士の資格ができた翌年に、救命士の資格を取ってしまった。試験会場は、そういえば、ご近所さまくらいの駒澤大学でした。

当時ICUで一番多い傷病は、AMI (急性心筋梗塞)SAH(クモ膜化出血) 交通外傷、 開胸Ope直後の超急性期、薬物中毒、と言ったところだったでしょうか。所属の大学&病院在籍時は、「救急法」(災害救助法、家庭看護法、水上安全法、雪上安全法などなど)を義務で途切れなく学んでいた(学ばされていた)ように記憶しています。

看護師時代の履歴書みたいになってしまいましたが、、乳幼児教室をしていた頃は、救急法を継続的にキャッチアップしていましたし、講師たちにもその受講を義務化していました。生徒さんたちに声をかけて、幼児の救急法ツアーにグループで参加したりもしていました。

他者を救助するときの大前提

で、長くなりまして恐縮です。本題なのですが、緊急時、災害時に、他者救助を行うときの大前提を言いたかったのです。メルマガやFacebookで過去つぶやいたかもしれないのですが。救助を行う時って、100%それができないと、救助できない大前提があります。何だと思いますか? 

それは、人を助ける時って、

自分が安全であること

がどうしても必要です。自分の身が安全で初めて、人を助けられるということです。当たり前といえば、当たり前なのですが、災害や急病などの非常時の救助では、わかっていても、これが常時だと、ついつい私たちは、その原則を忘れてしまうのではないか、そしてそれ故に、苦しんだり不安な思いをより大きくしているのではないかと思うのです。

他者を優先しすぎていませんか?

看護師さんとか、お医者さんとか、助産師さんとか、医療関係者の方々、そして、教育関係者もそうかもしれない、さらに、母(母性)は、子供のために、父は、家族のために(古い時代の人かもしれませんが。。)、また起業したての事業家とか、、、あとは、素直でNaiveな感性の鋭い方々などに多いでしょうか。

しばしば、自分の置き去りをやっちゃっていませんか?

自分の声を聞かずして、他人のために尽くしてしまう。つくしすぎちゃう。。

子育てで言うならば、妙にイライラしてしまったり、うっかり子供を叩いてしまったり、嫌味を言ってしまったり、キーッと感情が切れてしまったり。そう言う時ってほぼ「自分を大切にしていない」んですよね。自分の中のインナーちゃんが泣き叫んでるんですよね。今、最優先で大切にするのは、周囲でなくて、あなた自身よ、私よって。

今では、あちこちで言われていると思うのですが、「自分を大切にしよう」って、私もよく耳にしてきました。でも、どうやって大切にするかわかりますか?私的には、自分を蔑ろにしている自覚はなかったのですが、結果後回ししちゃってたな、って振り返るし、じゃあ、大切にって、どうするの?って、「自分の大切の仕方」がさっぱりわからなかったです。

自分を優先にすると子育てでも互いの自立を促す良循環に

だけど、ラッキーでした。私は、自分との対話を続けるチャンスを得られ、今でもそうしていて、そして、それが良循環を生み始めている。それで、本当に実感できるようになってきたのですよね、本当に自分を大切にしていると、自然に周りも大切に結果されている。

相手のことばかり考えて、相手優先していると、物事って本当にうまく回らないなって。一見協力しあってるようで、支え合っているようで、美しく見えるのですが、実は、それが、互いの自立を阻んでしまっていたりして。よくあるんですよね。夫婦にしても親子にしても仲間にしても。

本当の優しさは、愛を持って、突き放すことなのかもしれません。と言うか、愛を持って自分に集中することで、そうなるということなのかもしれません。なぜなら、期待できないことで、相手も自立するパワーを得ることができる。

母としても随分そう感じていて、だから、随分と家庭でも我が子自身やその父親が自分ですることが増えてきました。私はただ自分のことに集中するようにしていただけ。今子供が大きくなってきているので、そうなんでしょ、と言われるかもしれませんが、振り返れば、もっと小さい頃からそれができたはずだよね、と確信しちゃうのです。故に、自分に親子共依存の気があったなーと振り返れるようになり、親子共依存の記事も書いてしまったのです。

もっと自分!自分を大切にするのがすべてのスタート!

自分を生きよう。
自分を楽しもう。
自分を信じよう。
自分を発見しよう。
自分を深めよう。
自分を旅しよう。

「自分」が全てのスタート。自分を大切にできたら、すべてが上手く回りだす。もうやめよう。自分不在で人のために生きるの。

自分を大切にしたら、自己中って思われちゃうから、、、って思うかもしれませんが、本当に自分を大切にできたら、そうならないことを理解するでしょう。(後ほど、これについては、説明させてください。)

「自分に集中する」
「自分を謳歌する」
「自分へ注目を与えること」
「自分と繋がること」
「自分を慈しむこと」
「自分を啓く」
「自分大好き」皮肉に使うことない?「自分大好き」いいじゃない?

自分を枕詞にした、自分との向き合い方の表現、書き出したら、止まらない。自分、いいね!ですよ。

「MYお札」のお経を唱えたのが良かった理由

そういえば、子供の頃、親も毎日精一杯で大変だったのでしょうね、随分、意味不明なことで、親から、八つ当たり?!的に怒られたものです。今の私なら、その時の親の葛藤もわかるつもりです。ですが、当時は、子供なりに、「自分は悪くないのに」を感じていたのです。何で怒られるの?って。でも、親に反発できない。で、小学校低学年くらいまでの私は、理不尽に怒られると、「MYお札」を作って、それを握りしめて、お坊さんのように、そこに書いた文言をお経のように繰り返し唱えていました。

「お母さんには、お母さんの生き方がある」
「私には私の生き方がある」

って。不思議なことに、この念仏を唱えるとどんな腹立たしさ、悲しさ、悔しさも超えられたんです。

「自分の」を考えていたら、こんなことを思い出したのですけど、これって、今思えば、母と自分に「境界線」を作る作業だったのではないかなって。母は、母、私は、私って。他者との境界線を理解するって、これ、自分を大切にする作業につながりますね。

何だか、中途半端ですが、そして、もっと説明が必要なエッセイになってしまったかもしれません。追々、系統建てで、補足シェアできるようにします。

これに懲りず、今後ともよろしくお付き合いいただけると嬉しいです。




貴方の愛のエナジーを有難う💖