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小説 | ならわし (⑨最終話)

夢を見ていた。
母を求めて泣いている、幼い頃の私がいた。
愛されたくて泣いていたのか、暗い夜にひとりでいることが耐えられなかったのか。泣いている理由は、今は思い出せない。

子供の頃、夜になると、家を飛び出したい衝動に駆られた。玄関のドアの取手を回しても、少し高いところにわざわざ設置された、ふたつ目の鍵には届かなくて、私は、どこへも行けなかった。
私がどうやって一日一日、寂しい夜を乗り越えているのか、母から尋ねられたことは、一度もない。それなのに、私を外に出さないということに関しては、徹底しているように感じた。
私は母を恨んではいない。だけど、どうしようもなく、足先の冷える夜に、雨粒が窓を叩く夜に、一緒にいて欲しかっただけだ。

あおいちゃーん。どうちたでちゅか?おなかちゅいたでちゅねえ。ちょっと待ってくだちゃいよ。ばぁばが今、ミルクちゅくってくれていまちゅからねー」
リビングから、しきりに娘に話しかける夫の声がする。
私が寝ている部屋のカーテンは、外の光を柔らかく通して、今が休日の昼前であることを優しく教えてくれる。
私は、全身を沈み込ませていたベッドから、できるだけゆっくりと体を起こした。

ひんやりとした短い廊下を進んでリビングに近づき、ドアを開ける。射し込んできた眩しい光に、再び目を瞑ってしまいそうになる。
「ああ、優里さん。まだいいのに」
義母が明るい声でそう言った。キッチンでミルクの用意をしてくれている。
「お義母さん、もう来てくれてたんですね。ありがとうございます」
「寝不足でしょう?本当に、まだ寝ていてもいいのよ」
私は、もう大丈夫です、と言いながら、夫の方に目をやる。夫はおくるみにくるんだ我が子を抱いて、愛しそうに顔を寄せ、体を揺らしている。
「今ね、うちの人が優里さんの昼ごはんのお弁当、買ってくるわよ」
「えっ。お義父さんがわざわざ?」
「暇なのよ。それに、自分もなにか役に立ちたいのよ。あなたと孫のために」
義母が優しく笑った。

夫は義母からミルクを受け取ると、何度も何度も、自分の皮膚のあちこちに哺乳瓶を押し当てて温度を確認した後、ようやく娘の口に含ませた。
私と義母はダイニングテーブルの椅子に向かい合って腰掛け、ソファで娘を抱いて座る夫の姿を見守っていた。
「まったく、別人よ」
義母が小さな声で言った。「そう思わない?」
私は、夫の背中を見ながら、義母の言葉に頷いた。
「別人です。本当に、穏やかになりました。顔つきも、声も、動きも、何もかも変わった気がします」
「あなたのおかげ」
義母はいつの間にか大まじめな顔で私を見ていた。
「あなたのおかげなのよ、優里さん。あなたが、我が家の習わしを受け入れてくれたから」
私は数秒、義母と見つめあった後、ぶぶっと吹き出した。義母もこらえきれずに笑っている。
「なかなか人には言えないけど、面白かったでしょう?色んな意味で」
「そうですね。人には言えないですけど」

私と義母は、互いに話したいことがたくさんあった。
あの瞬間の力の入れ加減や、ちょっといたずらに引っ張ったときのこと。下から半裸のパートナーを見上げる景色についてなど。
「もう少し落ち着いたら、うちにいらっしゃいね。もちろん、あなたと、葵ちゃんだけで」
「はい。お義母さん」

夫が、何やら歌を歌っている。今まで聞いたこともなかったが、童謡をシャンソンにアレンジしたような歌だ。
「なんだか独特ですね」
「あれね、うちの人も歌ってたわ。もしかしたらこれは、睾丸を引っ張られた後遺症のようなものなのかもしれないわね」
私は義母の冗談に腹を抱えて笑った。
寂しかった私に、面白い家族が出来た。

今となっては、私はあの日、本当に夫と二人で子供を生んだ気さえしている。夫の震える内腿や、恐怖と痛みに耐える表情は、まるでその時の自分を、鏡で見ているような錯覚をした。
今でもふと、あの日、夫から垂れ下がっていた紐を握る感触を思い出す。あの紐はもしかすると、今ある幸せへの手綱たづなだったのかもしれない。

この家の習わしを受け入れる決心をした日から、私は幸せを自ら掴み取る覚悟を持ったようだ。
どこへも逃げられず、抱きしめて貰えず泣いていた昔の、可哀想な私ではなく、幸せの手網を自らの意思で掴んだ今の私は、自分の心を満たすことができている。

ミルクを飲んで小さなげっぷをした娘に笑顔を向ける夫を見て、私も自然と笑顔になった。
私の幸せはここにある。
あの日、痛みに耐えて握り続けた手網を、私は今も握っていて、これからも、決して離すことはない。




[完]


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