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AYA (短編小説・中編)


「アヤ。君はいつからここにいる?」
出会った頃は知る必要もないと思っていた、アヤという人物への興味は日に日に増していく。現実世界と同じように過ぎていく時の中で、アヤだけと過ごすこの異様な世界に於いては、彼女のことを知ることは重要だと思うようになった。それはまるで、自分を知ることのように。
「さあ。気付いたらここにいた。ある日、突然ね」
アヤは、なにかの建設予定地であったであろう更地の、ところどころ隆起した土を踏みながら私の前を歩いていく。彼女は落ち着いた二十代後半にも見えるし、四十代かそこらの熟しつつある女の魅力をも備える、不思議な女性だ。
「貴方の他に何人来たかな」
彼女は灰色の曇り空を見上げた。
「忘れてしまうくらい、たくさんの人がやってきたわね。皆男よ」
私はアヤに追いつき、後ろから彼女の腰のくびれに手を回した。
「どういうわけか皆、男なの」
私より背の低いアヤは、見ていた空から私の顔へ視点を移し、少し背伸びをするように私の顎にキスをした。
「その男たちは、どこへ?」
私はこの質問をするべきか悩んだが、多くの男達のように、今が私の番であるなら聞くしかないと腹をくくった。
「崖の下よ」
アヤの声が私の耳をくすぐって、私は密かにつばを飲み込んだ。
「君が、突き落としたのか」
アヤの顔を見ることが怖かった。アヤは腰に回していた私の手をほどくと、私の正面に立った。
「皆、自分で崖の下に向かって飛んでしまうのよ。私を遺して」
アヤは悲しそうだった。
「貴方は、私を飛ばせてくれるかしら」
アヤには似合わないような切ない笑顔を見せる。
アヤの言葉が頭の中を巡る。この地で過ごす最後には、なにか不吉な結末が待っているらしい。

珍しく夜中に目を覚ました。家族写真を撮った日の夜から、私と妻は別々の部屋で寝ることになった。
妻は息子の夜泣きで私に気を遣うことに疲れたと言った。気を遣われる必要などないと主張したが「これはあなたの問題でもあり、私の問題だ」と言われてしまった。
暗い廊下を進んで、妻と息子の眠る部屋のドアをそっと開ける。
窓の明かりで浮かび上がる、二人が寝ている布団の膨らみを見て、なぜだかとても安堵した。
妻と息子に触れたかった。
しばらく立ち尽くしていると、妻が寝返りをうった。こちらに顔を向けて私を見ているようだった。
「びっくりした。どうしたの?」
妻が声を控えめに私に尋ねた。
「トイレに行くついでに、見に来ただけだよ」
私は音を立てないように部屋の中に入った。
ベッドの手前に横たわる妻の顔の近くにしゃがみこんで妻を見つめた。
「なあに」
妻が優しい声を出した。私は妻の頭を撫でた。
「よく寝ているね」
妻の隣に眠る息子から、小さな寝息が聞こえる。
「今夜はまだ一度も泣いていないの。だんだんこうして泣かなくなるものなのかもね」
妻は息子に布団をそっとかけ直す。
二人を交互に見て、愛しい気持ちが抑えられなくなった私は、妻に顔を寄せ、キスをした。おやすみの軽いキスをするはずが、久しぶりに妻の唇の柔らかさを感じ、つい長く続けてしまった。息継ぎをしながら、次第に濃さを増した妻への口づけは、私の体を熱くしていく。
突然、妻に胸を押されて我に返った。
「あなた、変よ」
妻の声は低く、どこか怒気を含んでいた。
「……毎晩どこかに寄ってるの?」
妻の意外な問いかけに私はたじろぐ。毎晩仕事の帰りは遅く、妻の負担にならないよう食事を外で済ますことが不満なのだろうか。
「夕飯をとってすぐに帰宅しているつもりだけど。買ってきて食べた方が良かったかな」
なるべく妻の機嫌を損ねないように言葉を選ぶ。
「あなたは……そんな強引なキスをする人じゃなかったから」
妻は再び私に背を向けてしまった。
私はしばらく妻を見下ろして、かける言葉を探したが、何を言っても裏目にでる気がして、また静かに部屋を出た。
その後、私は眠らなかった。
私は夢の中の異世界に長く居すぎたのかもしれない。異世界の女とその場限りの欲を満たすつもりが、毎晩アヤを求めるうちに、妻と自分の関係を超えてしまったのかもしれないと気づいて怖くなった。
アヤと過ごす時間は現実逃避の延長で、実害はないと思っていたのは浅はかだったのかもしれない。たった今、妻と息子に感じた温かく湧き上がる愛しさを前に、私は異世界と自分を切り離す決意をした。



(続く)


#短編小説
#中編






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