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AYA (短編小説・前編)

「本当の貴方は今、夢の中なのでしょう?」
私の隣に横たわる裸の女は半身を起こし、長い髪をかきあげる。女は汗ばんだ体にまとわりついていた髪を、肩より後ろへ送りながら私に尋ねた。
「あぁ、多分ね」
私はまだ息が上がっているのに、女は涼しい顔だ。夢の中でも私の体力の無さは変わらない。ここは私の理想が反映される世界ではなく、限りなく現実に近い。
「ここが貴方の夢の中なら、貴方は一体いつ寝ているのよ」
女はくすくすと笑う。
笑う女の乳房が重たそうに揺れるのを見て、妻のすっきりとした体を思った。

現実の世界で、私の眠りは余程深いのだろう。女といるこの世界はとてもはっきりとしている。この部屋の匂いも、この部屋の湿度も、生々しく体に纏ったまま現実に戻ってしまいそうだ。
隣にいる女が、私の髪をすくうように優しく頭を撫でてくる。
女の指は細い。その指先が私の頭皮に触れるたび、ひんやりとする。
「風邪をひくぞ」
裸の女にそう言って目を閉じると、私の意識は段々と遠のいていった。

目が覚めると、リビングから息子の泣き声が聞こえた。ばたばたと走り回る足音は妻だ。お腹を空かせた息子にミルクを用意しているのだろう。
私は、やや時間をかけて体を起こして、よろよろと妻と息子のいるリビングへ向かった。
リビングの入口に立つ。ほとんど明かりのない部屋で、妻は息子を抱き上げ、哺乳瓶を息子の口に当てたところで、私の存在に気づいた。
「あら、寝ていて良かったのに」
いつになく穏やかな声だ。
以前妻は、息子の泣き声に反応せずに眠り続ける私に不満をぶつけてきたが、今日は寝ていてもいいと言う。
妻の気持ちの変動に気を取られることなく、私は妻に声をかけた。
「夜中にお疲れ様。いつもありがとう」
私からの労いと感謝の言葉を無言で受け取る妻は、手元のぼんやりした明かりに照らされ、影になったその表情は見えない。それでも、機嫌が良いことはわかった。
「あなた、さっき寝言を言ってた」
妻はなぜだか笑っているようだ。
「寝言?あぁ、疲れているのかもしれない。どんなことを言っていた?」
私が尋ねると、妻は意味ありげに笑い、ミルクを飲む息子の方に顔を向けて言った。
「『綾、愛してるよ』って」
妻の言葉に、私は『アヤ』と名乗る、妻とは別の女を思った。

夢を見るようになった。
息子が生まれてからだ。
現実世界が、妻と息子と暮らす世界のことを言うのなら、私が『夢』だと認識しているこの世界をなんと呼ぶのだろう。
子供の頃見ていた夢とは明らかに違う。夢から目覚めても全てをはっきりと覚えている。この世界では、全ての感覚が普段と変わらず機能したまま、現実と同じように時が過ぎる。
それなのにここでは、私の他に女が一人いるだけだ。

出会って何度目かに私は女に訊いた。
「君の名前は」
女は、壁紙の剥がれた部分を指で触りながら「アヤ」と言った。
私は苦い思いで作り笑顔を浮かべた。
「それは私の妻の名前だよ」
女はソファーに寝転んでいたが、起き上がると私の目を見て
「私もアヤなの」と言った。

現実世界で私は久しく妻を抱いていなかった。そんな私は、夜、妻の隣に横になり目を閉じて夢の世界に入ると、貪るようにアヤを抱いた。
「貴方はよっぽど満たされていないのね」
アヤの言葉に私は無言になる。決して満たされていないわけではない。待望の息子が生まれ、幸せな毎日を送っているのだ。しかし、妻は育児に忙しい。妻の貴重な睡眠時間を削ってまで妻を求めることはしたくなかった。
「私からは一度も誘っていない」
アヤは言う。
「全部、貴方から求めてきたのよ」

息子が生後六ヶ月になったのを記念して、写真館で家族写真を撮ろうと言い出したのは妻だった。
出来上がった写真は、わざとらしく幸せをアピールするような加工をされていて、正直これを知り合いにばらまかれるのは気が重かった。
「大地、可愛く撮れているわ」
妻が目を細めて私に写真を見せてくる。私は写真を改めて覗き込み、自分と妻が、出会った頃よりだいぶ様変わりしたことをしみじみと確認した。
「君は母親になって随分逞しくなった。というのは体力だとか、精神的にという意味で」
私のこの何気ない言葉に、妻は無表情になり首を傾げた。
「母親になったからといって特別な能力が備わったわけじゃないの。むしろ、今までと何ら変わらないか、劣った状態で育児をしているのよ。私が24時間ケアしないと死んでしまうような命がすぐ隣にいるのだもの」
私は妻の機嫌を完全に損ねてしまったと思ったが、もう遅かった。
「母親だから子供に対して特別なことをできるわけじゃない。あなたにもできることはたくさんあるのよ」
私は何も言わない。妻が不満を吐き出すことが一番重要だと判断したからだ。
「あなたが子供に対してほとんどやれることがないと思っているのなら、これからはもっと私のサポートをして」

その夜、私は今までにないくらいに激しくアヤを求めた。
私に対する妻の言葉はもっともなようだ。しかし、そういった妻の言葉は私の居場所を一つずつ潰していくようで、もはや家庭に心安らぐ場所などないとさえ思えた。
「今日は随分と乱暴じゃない」
アヤはにやついた笑いを浮かべた。私はここに来てまで言葉で責められることが嫌で、強引にアヤの唇を奪った。

「そんなに現実が嫌なら、ここに残れば良いのよ」
私の衝動が落ち着いた頃、アヤは私から体を離すとゆっくりとした口調で言った。
「どうやってそんなことができる?」
私が、寝ているベッドの天井を見上げながら言うと、アヤは窓の外を指さした。
「このさきに崖がある。貴方にもいつだか、見せたでしょう?」
私はどこまでも続く平原の先にあった唐突な崖を思い出した。
「あぁ、物騒な崖だった」
「あの崖で答えを出すことができる」
アヤはそう言って私に優しい笑顔を向け、私の鎖骨に唇をそっと押し当てた。



(続く)


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