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掌編小説 | 赤い欲望 | シロクマ文芸部

 赤い傘を二人仲良くさして帰った日、あなたたちは幸せでしたか、と書かれていた。
 渡された名刺の裏に、手書きで書かれたその一文を読んだ瞬間、わたしの頭の中には、ある日の光景が鮮やかに蘇った。
 驚いたわたしを、目の前の美しい女性は楽しそうに眺めていた。

「梓さん……」



 初めて彼から誘いを受けた日に、まさか土砂降りの雨になるとは予想もしていませんでした。
 今ではゲリラ豪雨というのでしょうか。当時は珍しいことだったように思います。

 あの日、昇降口で待っていてくれた彼は、土砂降りの雨を眺めて、「今日はやめておこうか」と言いました。

 その日は、彼の家で映画鑑賞をする約束をしていたのです。ちょうど互いに興味を持っていた監督の作品で……今となっては、名前も忘れてしまいました。なにしろわたしは〝にわかファン〟でしたから。

 憧れの彼の家へ、ましてや、彼のご両親が不在の宅へお邪魔するとなれば、なかなか平常心ではいられません。彼の方でも、少し浮ついているような様子がありました。
 例えば、ちらちらとわたしを見るその視線がいつもよりなまめかしかったり、普段はあまり見かけない、髪をかきあげる仕草など、どことなく甘美なものを感じました。

 わたしはといえば、この日のために、母親に頼み新調した淡いパステルブルーの下着を身につけ、腹部にはお気に入りの香水を香らせていました。
 正直申し上げて、この日はわたしにとって運命の日でした。
 初めて自分以外の人間に、全てをゆるして身を捧げる覚悟をしていたのです。

 雨は好きではありません。しかし、この日の雨は二人にとって、ちょうどいい障壁になっていました。
 彼もわたしも傘を持っていませんでした。そこへ貴女が通りかかったのでした。そうでしたよね、梓さん。

 貴女の腕に下げられた傘を見て、わたしはその燃えるような赤に吸い寄せられてしまいました。まさにその色は、求め合う彼とわたしの下心を表したような色でした。

「その傘を貸してくださらない?」とわたしは言いました。恐らく、前後に何も付け加えず、理由も言わなかったと思います。
 あの時のわたしは、どんな表情をしていましたか。貴女の目に、わたしは酷く淫らに映っていたでしょうね。

 貴女は無言でわたしに傘を差し出してくれました。こんなに都合のいいことが起こるなんてと、わたしの胸は高鳴り、余計に興奮したのを覚えています。

 わたしは彼を誘い、ひとつの傘を二人でさして雨の中へ飛び出しました。
 女性用の傘はそれほど大きくなく、初めは遠慮がちだったわたしたちも、しっかりと体を寄せ合い、小走りに彼の家へと向かいました。

 決して後ろを振り返ることはありませんでした。
 そのときのわたしは、貴女の気持ちなど一ミリも考えていなかったことを、正直に告白します。

 わたしはあの日、貴女のおかげで彼と結ばれました。彼とひとつになる時には、貴女の鮮やかな赤い傘を思いました。貴女のことではなく、貴女の赤い傘のことです。情熱的な赤色をまぶたの裏に感じながら、同時に彼を受け入れることで、わたしはついに絶頂へ達しました。

 つまり、彼とわたしと貴女の傘で、ひとつになることに成功したのです。

 それはとても貴重な体験でした。そしてそれが、わたしの密かな〝かたより〟の始まりになるなど、思いもよらないことでした。

 そのときから、わたしは赤いものの魔力にすっかり取り憑かれてしまったのです。
 部屋中を赤いもので埋め、赤に溺れて、赤を求める度に、少しずつ自分が壊れていったように思います。

 貴女と再会したとき、貴女は素敵な赤いブラジャーを身につけていましたね。もちろん、そのときは貴女が、あの日傘を貸してくれた少女だったとは気が付きませんでした。

 そもそも学生時代、わたしは貴女を知りませんでした。赤い傘を持って立っていた貴女のことを。
 たまたまそこに貴女がいて、魅力的な赤い傘を持っていた、ただそれだけで声をかけたのですから。

 梓さんと初めてお仕事でご一緒した時は驚きました。様々な小道具の経験はあれど、赤い傘が用意されることは、これまで一度もなかったからです。

 わたしは動揺していました。貴女が鮮やかな赤い傘を開いてパフォーマンスを始めた時には、すっかり魅了されてしまって、演者としての心得が全て抜け落ちてしまう程に我を忘れました。
 その日梓さんとわたしは、最高の絡み・・で客をもてなしたと絶賛されましたね。お恥ずかしながら、あれは演技でもなんでもなく、ただ、貴女と赤い傘を求めたわたしの情熱が露呈したのだと思います。

 今更になりますが、梓さん。遠い昔、貴女の傘を奪い、貴女の男と寝たわたしを恨んでいますか。
 それとも、今では赤に狂い、貴女にひれ伏す哀れな女を、嗤ってくださいますか。
 どちらにしても、わたしは幸せです。

 赤い傘はいいですね。
 どんなものより、わたしに深い快楽を与えてくれます。
 
 だから梓さんにお願いです。もう遠慮は要りません。
 濡れているわたしに、親切に傘を挿してくださる必要はありません。もっと激しく、憎しみを込めて突き刺してくださって構わないのです。たとえ赤に染まり息絶えたとしても、それはわたしの悦びなのです。





#シロクマ文芸部
#なんのはなしですか
#賑やかし帯

いつきさんなんのはなしですか帯をお借りしました。ありがとうございます°・*:.。.☆


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