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★後生の一大事の解決03/阿部信幾先生2023.10.06【仏教・浄土真宗】


後生の一大事の解決03

後生の一大事という言葉は、最近の大説教ではあまり耳にすることが少なくなっている。これは残念なことだが、この言葉を最初に使い始めたのは親鸞聖人から200年後の蓮如上人である。《後生の一大事の解決》という言葉を使って、親鸞聖人の教えを広めたのだ。

簡単に言うと、後生の一大事とは死んだらどうなるかという問題である。これは人間にとって最大の問題であり、動物にはこの問題は存在しない。人間だけが死んだらどうなるかを考えるからだ。

この問題の解決を今回話したいと思う。

後生という言葉は、仏法を聞く時にはこの考え方を基本にして教えを聞かないと、何を言っているのかさっぱり分からないことになる。そこの掲示板に、「無明の夜を照らすのは灯火」という内容があるが、これは仏法の考え方そのものである。

現生、前生、後生という言葉がある。現生は今の生きているこの人生を指す。現世利益とは現世のご利益を指し、生まれる前は前世、死んだ後は後世と呼ばれる。

仏教は死んだ後を問題にしない。

テレビでは死後の世界があるかないかということをよく議論するが、仏教は死んだ後の世界を解かない。仏教は今の現世を重視するからだ。生まれ変わりの話をすると、あるかないかを問題にするが、仏教は今を重視する教えである。

この間に中間状態があり、これを中陰(中有)と言う。四十九日という期間があり、次に生まれていく場所が決まるまでの間である。七日ごとに決まり、七が七回繰り返されるとそれから先がないということになる。仏教は四十九日で必ずどこかに生まれ変わると教えている。

死んだ後に霊界があるという人もいるが、仏教は基本的にそういうことを言わない。
なぜなら、お釈迦様が生まれたインドには墓がない。インドにはキリスト教やイスラム教もあり、これらの宗教は基本的に火葬をしないが、インドの大部分を占めるヒンドゥー教徒は墓を持たない。彼らは生まれ変わりを信じており、死んだら川のそばで火葬し、そのまま川に流す。これがベナレスで最も有名である。

ベナレスには、火葬場がたくさんあると言われるが、実際にはベナレスという街自体が火葬場のようになっている。ベナレスはガンジス川のほとりにあり、そこで仮装されて川に流されることで、人々は次に天に生まれ変わると信じているからだ。そのため、最後はベナレスで死にたいという願いを持つ人が多く、お金持ちは財産を子供たちに譲り、自分はベナレスに来る。そして、ベナレスには「死を待つ家」がたくさんあり、予約でいっぱいでなかなか泊まれない。

そこでの生活は、集まった人同士で神を称えたり宗教的な話を聞いたりして、宗教的な生活を送りながら人生を終えるというものだ。インド人にとって、これが理想の最期だ。ドキュメンタリーで見た話だが、あるおじいさんがベナレスで死にたいと言い、おばあさんが一緒に世話をしに来た。しかし、おじいさんが先に亡くなり、おばあさんはその後30年以上生き続けたという話もある。
ベナレスには大小様々な火葬場があり、露天で焼いているため、ガンジス川のそばで人が焼かれる様子を目にすることができる。私も半日ほど見ていたことがあるが、人間が焼かれていく様子を見ることができる。

なぜ墓がないかというと、人々は生まれ変わると信じているからだ。
ヒンドゥー教では、魂がどこか別の世界に生まれ変わると考えられている。
天国は上にあり、地獄は下にあるという考え方だ。

これに対して仏教では、永遠に変わらない魂というものは存在せず、すべては無常であると悟ったのが釈迦の教えだ。

《諸行無常・諸法無我》

アートマン

「無我」というのは、自我がないという意味ではなく、「アートマン(真我)」という永遠に変わらないものが存在しないということを意味している。

アートマンはインドの言葉で「真実の自己」を指し、仏教以外の宗教では永遠に存在する自我を認めている。キリスト教やイスラム教では、人は肉体と魂で構成されており、死後、肉体は残るが魂は天国や地獄に行くと信じられている。したがって、臓器移植が盛んに行われるが、日本では仏教の影響で肉体と心を分けない考え方が根強く、臓器移植があまり普及していない。

ヒンドゥー教では、魂が宇宙の真実と同じである(我は神なり)と悟ることが教えの核心である。アートマン(私の真実)とブラフマン(宇宙の真実)が一つであると悟るのがヒンドゥー教の悟りだ。

これに対し、仏教はアートマンの存在を否定する点が他の宗教と大きく異なる。アートマンとは、存在しないとされる魂の概念。仏教では「アートマン」という言葉が否定されている。

アミターバ

インドでは、「ア」は否定語、「アミダ」は「ミタ」を否定している言葉。
「ミタ」はメーターのこと。はかるとを意味し、アミタとはすなわちはかれないことを指す。これを日本語で「無量寿」と訳した。アートマンを否定すると「ア・アートマン」となるが、発音上は「アナートマン」となり、中国では「無我」と訳された。

阿弥陀如来の正式な名前は「アミターユス」と「アミターバー」である。「アーユス」は「いのち(寿)」を、「アバー」は「ひかり(光)」を意味する。したがって、阿弥陀如来の名前は「無量寿・無量光」ということになる。なぜそのような名前が付けられたかというと、阿弥陀如来の寿命は計り知れないため、時間に縛られずに今も確実に存在している。そして、その救いの光は何も遮ることができないほど無限であり、どんな場所にいても私たちを見守ってくれている。つまり、阿弥陀如来という名前は「いつでもどこでも」私たちのそばにいる仏さまという意味を持っている。

https://hukyoshikai.chion-in.or.jp/houwa/monthly/2203/

無我とは、我がないという意味ではない。
私の中に、永遠不変の魂というものが存在しないことを意味する。
では、私はなんでここに存在しているのか。
お釈迦様は、「あなたは他者との関係で存在している」と説いた。
あなたがいるから私がいる、私がいるからあなたがいる。
あなたと私の関係において「我」というものが存在しているということ。


縁起:independent of each other

人間は他者との関係の中で存在し、お互いに依存して成立する。
これを「縁起」と呼ぶ。
縁起とは、お互いがお互いに成立の根拠を持たない。

(阿部先生が)英語で縁起を説明する際、友人のアメリカ人哲学者が*ハイデガーの言葉を引用し、「independ on each other」と説明した。インディペンデンスデーは独立記念日を意味し、independent of each otherは「お互いがお互いを根拠として成立すること」を示す。

*注:ハイデガーが"independent of each other"という縁起の概念について直接言及しているわけではない。彼の哲学は主に存在論や現象学に焦点を当てており、仏教の教えについて詳しく議論することはなかった。しかし、ハイデガーの思索と仏教哲学には、存在の相互依存や本質の探求という共通点がある。例えば、ハイデガーの「存在と時間(Sein und Zeit)」では、人間の存在を他者や世界との関係の中で理解しようとする試みが見られる。この点で、彼の考え方は仏教の縁起の考え方と共鳴する部分があると言えるかもしれないが、直接的に縁起について言及したわけではない。

生まれ変わりとは

仏教では、どこかに生まれ変わる世界があるとは説かない。
この現実が変わると考える。
今日という現実は昨日までの私が作り、今日生きていることが明日を作る。
このように、自分がやった行いによって世界が変わる。
これが生まれ変わりである。
昨日の私はもう生まれ変わっている。過去の行いが現在の状況に影響を与えることを示している。断続的に続いている。

刹那滅

仏教には「刹那滅」という概念がある。「刹那」というのは非常に短い時間のことで、生じては消滅し、生じては消滅するという現生を指す。それをずっと繰り返している。そうでないと、みんな赤ちゃんのままでここにいることになる。しかし実際には、生まれてから何十年も変わり続けている。それが刹那滅だ。

20年も会わなければ、再会した時に「変わらないね」と言われることもあるが、腹の中では「この人、随分歳をとったな」と思うこともある。これは刹那滅が続いているからだ。仏教では、そういったことを色々な例えで説明する。滝も同じだ。滝は一見一本の流れに見えるが、実際には水滴が絶え間なく落ちている。その姿を遠くから見ると一本の布のように見える。

私たちの人生も同じだ。変わらずにずっと続いているように見えるが、実際には瞬間瞬間で刹那滅している。昨日が終わったから今日が始まり、今日が終わると明日が始まる。このサイクルで考えると、人生が終わったら次の世界が始まる。どんな世界が始まるかというと、生まれてから今日までどう生きてきたかによって決まる。これをお釈迦様は説いている。だから、自分の行いが次の世界を作る。

唯識学

仏教には「唯識」という学問があり、面白いことを言っている。科学は、人間の目で見て耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体で触れていることを重視するが、仏教ではそれを「眼耳鼻舌身意げんにびぜつしんい」と呼び、心で受け止めているから世界が成立していると説く。多くの人は、ひとつの世界があってその中に自分たちがいると考えるが、それは間違いだ。自分が見ている世界、聞いている世界、感じている世界、味わっている世界、触れている世界を受け止めているのが世界だ。

あなたが見ている世界と私が見ている世界が同じであることを証明できない。私があなたにならない限り、あなたの世界は分からない。
だから、世界というのは、世界があってそこに私がいるのではなく、私が生きていることを世界と呼んでいる。
それが私の行いによって変わり続けている。
これが終わると次があり、それが終わるとまた次がある。
これが終わりなく続くのだ。

流転輪廻

お釈迦様は「終わりがない」と言った。
この考えは、始まりがないということで、仏教では「無始よりこの方」と呼ぶ。始まりがなく終わりがないというのはどういうことか。
今が終わると次があり、次が終わるとまた次がある。
終わりがあるということはどこかで切れているが、そうではない。
終わらないということは、これがぐるぐる回っているということだ。
これを仏教では「流転輪廻」と言う。まるで川が流れるように、輪っかのようにぐるぐると繰り返している。

輪っかは、ある時は下にあったものが上に行き、上にあったものが下に行く。この下と上は、生まれ死にを繰り返しているうちに良い行いの結果が良い世界に生まれることを指す。良い世界を「天国」と呼ぶ。仏教では、天国は自分の行いによって作る世界で、どこかに天国があるわけではない。地獄も同じで、自分が地獄を作る。

天国がどういう行いによって作られるかというと、人を天国にする人が天国に行くのだ。周りの人を天国に楽しませる人が天国に行く。一方で、周りに地獄を味わわせている人が地獄に行く。つまり、人は行いによって天国にも地獄にも行く。

仏教では天には寿命がある。なぜなら、天は功徳の結果として生まれるからだ。
人間にも寿命がある。なぜ寿命があるのか。ある人は不平等だと言う。あの人は100歳まで生きるが、私は50歳で亡くならなければならない。神様は不平等だと。しかし、神様が決めているわけではなく、自分の行いが寿命を決めているのだ。つまり、生まれる前の功徳によって寿命が決まっているのだと。善導大師が言っている。

定命じょうみょうという考え方では、生まれる時に寿命が決まっている。
人間に生まれるということも、生まれる前の行いによって決まっている。
全ての現生には原因があり、結果がある。今ここに存在していることには必ず原因がある。私が今ここに生きているのは、生まれる前に人間に生まれるための行いをしたからだ。生まれてからの行いではなく、生まれる前の行いが原因で人間に生まれたのだ。

人間に生まれるためには五つの功徳を保たないといけない。(御文章)
これは仏教の五戒を保った功徳に基づいている。
五戒とは、殺さない、嘘をつかない、盗まない、浮気をしない、酒を飲まないというものだ。インドでは酒を飲む人は悪い人とされている。
暑い気候のため、南インドではヤシの酒を飲むことが一般的だが、北インドはイスラム教徒が多く、酒を飲まない。酒は他の四つの戒を破ることになるからだ。酒を飲むことで、殺さない、嘘をつかない、盗まない、浮気をしないという戒を破ってしまうから。
殺さない、というのは基本的に人を殺さないということ。なぜなら漁師は魚を殺さないと生きていけないのだから。

修行者の食べ物は、精進料理ではない。なぜなら、托鉢では残り物をもらうわけだから。
お釈迦様は「自分の目の前でこれから殺すものは食べてはいけない」と言っている。
つまり、自分のためにこれから殺すという行為は避けるべきだ。
しかし、既に用意されたものは食べても良いとされている。
五戒のうち、特に重要なのは人を殺さないことである。
人間同士が殺し合うと、人間に生まれることができなくなる。
《人身受け難し、今已に受く》

後半

(32:41)

後生の一大事の解決、つまり後生が助かるということは、ここが(後生)お浄土になるということ。後生が助かるというのは、ここが仏様の悟りの世界になるということ。
つまり、この度の迷いの命は終わるということだ。だから、生まれてから今日までやったことはどうなるのかというと、次を引かない。
生まれてから今日までの行いの結果が本来は昨日が今日を作るように、今日が明日を作るように、今まで生まれてから今日までの生きたことがここを作るはずなのに、信心を頂いた人はここが仏様の世界になるという話だ。

この話は、今までずっと生きてきた人生が終わる、もう生まれないということを意味する。この言い方をすると、寂しいと感じる人もいるだろう。説教で言われるように、またお浄土で会えるという話。しかし、これだけなら天国もあまり変わらない。また天国で会おうねという人もいる。タレントがコンビで漫才をしていたら、先に亡くなった人に向けて「もうちょっと待っててね、もうすぐ行くからその時またやろう」ということもある。そんな自由な時代なのか。死んでいく世界が同じなのか。この話からすると、死んでいく世界は違う。行いが違うのだから。

面白い質問をした人がいた。お釈迦様に「非常に仲の良い夫婦で、来世でも夫婦に生まれたいと思うのですが、来世でも夫婦に生まれる道がありますか」と聞いた。
その答えは、信心を一つにしなさいというもの。
信心が一つでなければ、来世でも一つには生まれない。行いを一つにしなさい、同じ行いを二人でやれば来世でも夫婦になれる。ここでやったことが次を作るという話だ。

来世でどうやって仏になるのかと聞く場合には、やはりここで何をするかという話になる。しかし、浄土真宗はここで仏様と出会うということ。
仏様と出会うということは、信心を頂くということ。
仏様は見えないが、どうやって出会うのかと言うと、仏様が私たちの世界に届いてそれを知らせる。
目に見えない仏様が形を取ってあなたの世界に届くと誓っている。

このことが、重誓偈じゅうせいげで示されている。
重誓偈は私たちが勤める最も短いお経で、無量寿経の一部。
短いけれども非常に重要な内容で、お釈迦様が法蔵菩薩が全てのものを救うという願いを起こしたことを説いている。悪いものも救うために、全てのものを仏にするという。
ここで問題となるのは、五逆罪という恐ろしいことをやった者と仏法を誹謗する者は除くと書いてあることだ。
全てのものを仏にすると言いながら、除かれる者がいるのではないかという疑問がある。そこで、親鸞聖人は「除くと書いてあることによって全てのものが救われる」という意味だと説いている。除くと書いてあることで全てが救われるという意味だという。

なかなか信心が頂けない、信心が頂けないって悩んでいる人が結構いるんです。この人は、だから、阿弥陀様の光明を疑っているんだよね。阿弥陀様がもう私に信心を頂かせよう頂かせようと働いているのに、それを無視しているから、自分が信心を頂きたい頂きたいとなるんです。

阿弥陀様の光明の働きによって私が信心を頂くんですよ。
じゃあ、私は聴聞しなくて何もしなくていいんですかっていうけど、何もしない人が聴聞、信心を頂くことはありません。
聴聞する、聴聞のところに信心があるんです。だから、仏法を聞くということを抜きにして信心を頂くっていう話は存在しません。

だけど、聞いても聞いてもなかなか、なぜ信心を頂けないんでしょうねと言ったら、それは私の側に問題がある。
阿弥陀様を跳ねつけててきた歴史が長い人ほどやっぱりそれが長いんだね。
だから、とにかくお聴聞が大事なんです。
間違いなくお聴聞していれば、間違いなく信心を頂けますから。
だから、信心を頂けない人はどうすればいいんですかというと、お聴聞すればいいんです。
暇があったら聞こうなんていう聞きぶりじゃダメです。

仏様は私をお浄土に生まれさせるということは、私の死の問題は解決しましたと。これさえ解決してないようじゃ浄土真宗を聞いても意味がないですよ。
浄土真宗ってここが浄土になるって話してるんですからね。ということは臨終の時に悟りを開くという話です。つまり、我々は臨終の時に悟りを開くのです。
お釈迦様と同じ悟りが私の身の上に訪れるのだ。
だからそれをお浄土に生まれると表現するのです。

天国に生まれるのとお浄土に生まれるのは全然違います。
天国はさっき言った迷いの世界の一つです。だから、天国に生まれても徳がなくなったら天国をさよならするのです。

天人五衰

うん、三島由紀夫が書いた「豊饒の海」という小説の最後は「天人五衰」という、三島さんという人は、あの人はある意味ナルシストですね。自分をものすごく愛した人です。で、自分がどんどん年取って、衰えていく姿を見たくなかった。それがどうも、ああいうちょっと考えられないような驚くような行動に至った原因だろうと今言われていますね。要するに、自分の年取る姿を見たくない。なぜかというと、仏教を見ると天に生まれた人は最初のうちは美しいわけだ。だから、みんな人が寄ってくるのです。それが天の寿命がだんだん尽きてくると、だんだん花の飾りがしおれてきて、体から嫌な匂いが出てきて、そして人が寄りつかなくなる。これを「天人五衰」と言って、天人、神々にも五つの衰えが出るというのです。
だから天に生まれたからと言っても、寿命が尽きることがあるわけだ。それを恐れたんですね。あの三島さんという人は。だからそういう話になってるんですね。
だから天っていうのは、天国っていうのはいつか寿命がつきます。
でもこうやってね、言えばここでお浄土に生まれていくんだと分かりました。
これは分かった。でもじゃあ、ここまでどうやって生きていったらいいのかって考えてませんね。

お浄土に生まれることは分かったと。じゃあ、それまでどうやって生きていったらいいのかと聞く人がいるわけですね。
聞く人がいるから答える坊さんもいるんですよ。
じゃあこうやって生きていきましょう、こうやって、と生き方を説くお坊さんがいます。

浄土真宗がなぜ生き方を説かないか。

浄土真宗は生き方を説かないです。
なぜかというと、生き方を説かれても、こいつが間に合わない。
それは午後にそのお話をいたしますね。だから、ここでは要するに生まれて死ぬまででしょ。この間を「生」と言ってますよね。これ間違いなんです。
死がここ(後生)にあるんじゃないんです。ここに(現生・現世)あるんだよ。分かりますか。
生きてるっていうところにあるんです。
明日はまだ来てない。明日来るか来ないかわかんないでしょ。
だから、死が未来にあるって死が将来にあるって考え方は完全に間違いです。

死は今ここにあるんです。
なぜかというと生きているのは今ここだね。
これ一番分かりやすい例えがロウソクですよ。ロウソクは火がつかないと消えない。当たり前のことだよね。ということは、火つけたらこのロウソクに消えるという問題が起きたんでしょう。
ってことは、消えるという問題は火がついてるところにあるんだよ。
だから、火がついてるところって今ここじゃん。今ここにしか死の問題はないんです。明日じゃないんだよ。

生死一如

生が始まりで死がね、人生の一番未来にあるんじゃなくて、生まれたということのところに「生死」というんだ。

仏法では生と死を分けないんです。「生死一如」って言うんです。「生死一如」ってどういう意味かと言ったら、一如の言い方はいろいろあるけど、この場合の一如は紙の裏表なんだ。だから、表があるから裏があるんだよ。表だけあって裏のない紙はないですね。
で、今生きてるっていうのは今で、死ぬってのは明日の話だってことになるとね、紙の表が今ここにあって裏が未来にあるって話。これおかしいやね。

紙の裏表だから生きてるっていうところに死というものがくっついてるんですよ。
裏表でってことになったら現実ってのはどうなってるかと言ったら、生まれてから死ぬまでの間じゃなくて「生死」という世界をずーっと生きてるじゃない。

これを「生死の苦海ほとりなし」っていうんです。

親鸞聖人が「生死の苦海ほとりなし。ひさしくしづめるわれらをば、弥陀弘誓みだぐぜいのふねのみぞ、のせてかならずわたしける」」

ってことは、これがずっと続いていく「生死の世界」から、この死が解決されたということは同時にこれも解決されてるんです。

ということは、どうやって生きたらいいかってね、これまだ自分が主体なんだ。どうやって生きていったらいいんですか。
任せる、憑むっていうのは、仏様が主体になるってことです。
受け持ちが、受け持ちが人生の気持ちが変わるんです。

だから仏様がいない人というのは、自分がどう生きてどう進むべきかを考えて、自力で幸せになろうとする人のことだ。我が身をたのみ、我が経験を頼み、我が力をたのみにする。今までそうして生きてきた。しかし、仏様になる道に出会ったかというと、そうではない。自分の計らいで仏になる道はどこにもない。その結果、迷い続けてきた。

五つの戒めを保ったことにより、人間に生まれたという話をした。
だが、五つの戒めを保たせたものがいると考えるとどうなるか。

私はタバコをやめてから、もう16年、20年近くになる。やめた理由は、ある医者が私にタバコをやめさせてくれたからだ。医者は私が声を出せなくなると予見し、肺のCTを撮ることを勧めた。CTには黒い点が映り、肺の細胞が死んでいることがわかった。それを見た私はタバコをやめる決心をした。禁煙治療を受け、2ヶ月で禁煙に成功した。

タバコをやめたのは自分だが、医者の願いがなければ未だにタバコを吸い続けていたかもしれない。つまり、願いというものが働いた結果である。私が五つの戒めを保ったことも、誰かの願いによって人間に生まれたとしたらどうなるか。

2500年前にお釈迦様が現れ、教えを説いてくださった。この長い歴史の中で、私たちはまだお釈迦様の教えを聞ける世界に生まれた。ここ築地本願寺で生まれ育ち、現在75歳になる私が、こうして皆さんの前で話をしている。これはまさに仏様の願いによって導かれた結果だ。

御本尊とは、「我に任せよ、後生を助くる」という仏様の呼び声である。この呼び声に応じて、仏様にお任せする者となる。迷いの命はここで終わり、迷いの世界に二度と生まれなくなる。この度で迷いの命は終わり、お悟りの世界が訪れる。

せっかく人間に生まれたのに、仏様の教えを聞かずに過ごすのは虚しいことだ。蓮如上人は、「虚しく過ぎた」と言った。仏様の教えを聞かずに人生を過ごすのは無意味である。しかし、仏様の教えを聞くことができれば、私たちが仏様にならせていただくことができる。


後生の一大事の解決シリーズ一覧



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