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無我について【仏教の基礎知識01】

インドでは本来の自己としてアートマンという概念を解く。
仏教は無我と言い、アートマンの存在を否定する。
西洋哲学的な感覚ではアートマンの存在を否定するということは「存在しない」という解釈になる。しかし、仏教がアートマンの存在を否定するという意味は、アートマンが存在しないと言っているわけではない


インドの哲学のアートマン解釈

かの有名な『バガヴァッド・ギーター』のなかでは、武士族(クシャトリヤ)の王子アルジュナが、親族が相別れて戦争になった状態に苦しみ、親族を殺すような行為はしたくないと深く悩みますが、この悩みを救ったのがクリシュナ神でした。
すなわち、クリシュナ神は、剣が殺すことのできるのは肉体だけであって、本当の個人存在であるアートマンは剣によって殺すことのできない永遠不滅の魂なのだから、恐れず武士の努めを果たせ、と勇気づけるのです。

「クリシュナ(神)よ、私は勝利を望まない。……彼らが私を殺しても、私は彼らを殺したくない。……親族を殺して、どうして幸せになれよう……。」

「賢者は死者についても生者についても嘆かぬものだ。私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも……。また我々すべて、これから先、存在しなくなることもない。主体(個我)はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る。賢者はここにおいて迷うことはない。」

「この不滅のものを滅ぼすことは誰にもできない。彼は殺さず、殺されもしない。彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。
身体が殺されても、彼は殺されることがない。彼が不滅、常住、不生、不変であると知る人は、誰をして殺せ、誰を殺すか。人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。」

[上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫(p28~p37)]

仏教のアートマン解釈

「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりません。」

[マッジマニカーヤ 中部経典22]

仏教の立場では、魂が永遠不滅であると説く教えは、ただの信仰に過ぎず、心の慰めにしかならないとされる。アートマンと呼ばれる魂の存在は確認できないため、ただ信じているだけだとされる。これは、キリスト教やイスラム教の戦士たちが聖戦の名のもとに戦い、死後に天国に行けると信じているのと同じである。彼らがどんなに天国を信じて聖戦と言って戦って死んでも、それは無意味な信仰であり、真実ではない。仏教的観点からそのような教えは馬鹿げているとされる。

ブッダは、ある特定の種類の(形而上学的)質問に対しては沈黙したと仏典は記しています。このことを「無記」あるいは「無拾置」といいます。
初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。……アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。

[中村元『仏教語辞典』「無我」p1316]

ブッダはアートマンが存在しないとは言っていない。このような質問に関しては返答を与えなかったということだ。ここが非常に重要なポイントだ。
ブッダは無用な形而上学的な議論、例えば宇宙が有限であるか無限であるか、死後も魂が存在するのかしないのかといった議論は無意味だと考えていた。苦しみから逃れるためには苦しみの本質を認識することが重要であり、宇宙の有限性や無限性、宇宙の寿命、将来の消滅時期といった問題は全く意味がないという立場だ。

仏教的立場から見ると、今現在直面している最も重要な問題に取り組むことが必要である。形而上学的な問題について弟子が議論に陥ることを避けさせ、より重要な教えを伝えるため、ブッダは返答を与えなかったのだろう。

「一切」とは

みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。

[サンユッタニカーヤ 33.1.3]

ブッダの言う「一切」とは、五感によって認識される世界であって、宇宙全体のような抽象的形而上学的概念は入っていない。あくまでも五感によって捉えられるもので、その瞬間瞬間の認識でしかないということ。
つまり、一切とは、見て触れられるもの、感じられるもの、心で認識できるもの、それらだけを対象にした非常に限定的なものである。
ブッダは、これらについて「無常」である、不滅のものではない、必ず滅びると言っているだけで、形而上学的なものについては一切触れていない。

「アッギヴェッサーナよ、これをどのように思うか。
人間の肉体(色)は恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」

「アッギヴェッサーナよ、それではこれをどのように思うか。
感覚(受)や思考(想)や意志(行)や意識(識)[などの人間の心の部分]は、恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」

[マッジマニカーヤ 35:20]

ここでの「色」は物質的世界を指しているわけではなく、あくまで人間の肉体を指している。ここではその点に注意が必要である。仏教が後に拡大解釈されると、物質的存在全てを「色」と呼ぶようになるが、ここではあくまで人間の肉体を意味している。

仏教の世界観では、無常なるものは苦であるというが、
実際には無常なるものが必ずしも苦であるとは限らない。
無常に対する認識、受け止め方は人によって違うからだ。
この世は無常であるという点は正しいが、「無常は苦」という点は真理といえない。

アートマンは永遠不滅で恒常のものであるため、無常なものがアートマンであることはない。したがって、肉体も心もアートマンとはいえない。
ここで述べられているのは、心も肉体もはアートマンではないという点に尽きる。

色受想行識

ここで、「肉体(色)、感覚(受)、思考(想)、意志(行)、意識(識)」などいわれているものは「五蘊(スカンダ)」といって、初期の時代から仏教では人間存在を構成している要素と考えられていたものです。
すなわち、すべての存在はさまざまな原因や条件や要素に依存して成立しているという縁起の考え方から生まれた仏教の人間観です。
ブッダは人間存在を成立させている要素の一つ一つを取り上げて、そのどれも、無常であり、苦であり、変異するものであるから、そのどれも、永遠不変の存在と信じられているアートマンではありえない、と主張したのです。

宮本啓一氏による「色受想行識」の解釈

色……肉体 ⇒ 色かたち
受……感覚 ⇒ 感受作用
想……思考イメージ化識別作用(言語化・概念化する以前に識別・区分する/言語論でいる分節化のような作用)
行……意志 ⇒ 想起作用(記憶から言葉を取り出して照合する作用)
識……意識識別作用判断作用

仏教では、ブッダはそれぞれのものが無常であると説く一方で、それを超えた存在については沈黙している。具体的には、人間の体を構成する要素や、自性、アートマン(自己)については議論しない。なぜなら、自性すらも言及しないブッダが、さらに捉えにくいアートマンについて議論するはずがないからだ。

アナートマン(非我)

しばしば、アナートマンは「無我」ではなく「非我」と翻訳すべきであるという主張が仏教学者によってなされるときがありますが、まさにそのとおりで、人間存在を成立させている一つ一つが、これも非我であり、あれも非我である、という主張がなされているわけです。
つまり、ここでも、形而上学的問題については断定的判断を下さないというブッダの態度が貫かれていることが分かります。

もし、自己や世界をあるがままに観察し、「これはわれに属するものではない、これはわれではない、これはわれのアートマンではない」と知るならば、自己や世界に関する誤った見方を捨てることができるであろう。
[マッジマニカーヤ 8:3]

こうして、人間の経験や観察範囲を超えた形而上学的神秘的問題としてのアートマン問題に関しては、ブッダは沈黙しましたが、人間の経験や観察できる範囲内における人間存在に関しては、そのすべてが無常であるために、アートマンではない(非我である)、と主張しました。

「車の一つ一つの部品は車ではない。よって車は存在しない」と言う仏教の詭弁がある。これは、少し哲学的な響きを持つ興味深い論点だ。しかし、この詭弁を通じて仏教が何を伝えたいのかを深く掘り下げてみると、面白い洞察が見えてくる。

まず、仏陀は自性、すなわち本質的な自己やアートマンについて議論しなかった。ブッダの教えは、観察できる全てのものが「非我」であるという点に集中していた。これはヴェーダの賢者の教えと驚くほど一致している。
仏陀のアプローチは、サマーディに入り解脱するための方法論であり、彼は観察できないアートマンについては何も語らなかった。この点で、仏教徒がアートマンそのものが存在しないと誤解しているのは、大きな問題と言えるだろう。

仏典サンユッタ・ニカーヤには、仏陀の正しい見解が記されている。アナートマン、つまり「無我」ではなく「非我」という概念は、その核心にある。ヴェーダの賢者たちの言葉と酷似する仏陀の言葉は、見る者と見られるものの関係を明確にしている。見られるものを全て捨て、最後に残るのが見る者、すなわちアートマンである。

仏教徒が陥りがちな大いなる過ちは、仏陀が解脱の方法論を教えたにもかかわらず、自己や世界についての議論を避けた点を見落とすことだ。仏陀は、観察できないアートマンや自性、そして世界についての議論は無意味だと考えていた。

つまり、仏陀にとっての正しい見解とは、観察できる全てのものは非我であり、解脱のための方法論を実践することに尽きる。彼の教えの本質は、哲学的な議論を超え、実際の修行と体験に基づくものであった。観察できないアートマンや世界についての議論は無駄であり、仏陀はそのような議論に時間を費やさなかった。

この観点から見ると、「車の一つ一つの部品は車ではない。よって車は存在しない」という詭弁も、実は深い哲学的な洞察を含んでいることがわかる。車の部品が集まって初めて車が存在するように、我々の存在もまた、観察できる要素の集まりに過ぎない。仏陀の教えは、このような視点を通じて、我々が解脱の道を見つける手助けをしているのである。

仏教が誤解されている内容

仏典『サンユッタ・ニカーヤ』に、カッチャーナ長老との対話がある。尊い方(仏陀)と正しい見解について語られている。誤った見方をあるがままに観察すれば、自己や世界に関する誤った見方を捨てることができる。
正しい見解とは、自己や世界に対する誤った見方を捨てることから始まる。仏陀はカッチャーナに対し、この世の人々は「有」と「無」の二つに囚われていると語った。

仏陀の見解とは、この世界に対して有や無という見解を持たないことである。我にアートマンが存在しないと固執することはなく(仏教徒はアートマンは存在しないと固執しているが)仏陀はその見解を否定することはない。仏陀は一切はあるという説と、一切はないという説の両極端を受け入れず、中道によって教えを解く。仏陀の立場は、この世界は有でもなく無でもない。また、アートマンも存在するとも存在しないとも言わない。

インド哲学者がアートマンを存在すると言った場合、仏陀はそれを否定する。アートマンが存在するという見解を否定し、存在しないという見解も否定する。仏陀の正しい見解とは、観察できないものについて明確な見解を持たないことである。

したがって、仏教がアートマンが存在しないと固執するのは仏陀の教えではない。仏陀はそういう立場を取ったということだけであり、どれが正しいかを言っているわけではない。

仏陀の教えでは、正しい見解を持つことが重要である。正しい見解とは、真実をあるがままに観察し、偏った見方や固定観念を捨てることである。これにより、自己や世界に対する誤った見方を克服することができる。

仏陀が教える中道とは、極端な見解を避け、バランスの取れた視点を持つことである。例えば、「一切は有である」という見解も、「一切は無である」という見解も、どちらも極端なものであり、仏陀はそれを否定する。中道とは、この両極端を避け、真実をあるがままに観察することを意味する。

五蘊非我説

仏陀は、アートマンが存在すると言うことも、存在しない(無我)と言うことも、どちらも愚かな見解として退けた。そして、アートマンの存在に関する質問には答えず、沈黙を守った。この態度の背景にある仏陀の真意や意図を、別の観点から考察する。

ブッダは、心身を五つの要素に分け、そのいずれも常住の自己ではない(非我)と説いた。これを五蘊非我説という。
ゴータマ・ブッダは、日常的な会話には「自己」ということばをふつうに用いているが、自己をめぐる形而上学的な質問には、沈黙をもって対応した
ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからしばらくすると、心身のいずれも自己ではないならば、そもそも自己なるものはないのだとする、きわめて形而上学的な無我説が誕生することになった
ここから、自己を認めない、複雑怪奇な無我説に、仏教徒自身が苦労することになる。なぜなら、自己がなければ、自業自得はありえず、因果応報もありえないことになる。輪廻が説明できなくなる。 (p115-116)

[「インド哲学 7つの難問」宮元啓一著 講談社選書メチエ]

宇宙のあらゆる生きものを支配し、またそれらに内在している最高の統一体をどのように考えたらよいか、という問題は、宗教的要求にとっても、思弁的悟性にとっても、明白であり、インドでは特に明白であったのだが、仏陀はこれについて沈黙を守った。
仏陀は、そういう最高の神的なもの、または霊的なものを言いあらわす概念をその説明形式からはぶいた。他の諸派で積極的な最高概念を用いるところを、仏陀はいわば空白として残しておいた。この空白は、仏教のもっとも深い本質にもとづくものであるが、これが多くの誤解を生ずる原因となった。(p155-157)

最高の神的なもの、または霊的なものをも、仏陀はあからさまに否定はしなかった。それを否定することも、それを積極的に肯定することと同じく、仏陀の意志ではなかった。他の宗教ではかの最高の神的=霊的なものについてさまざまに説かれるが、それは仏陀にあっては──沈黙なのであった。
仏陀は言う「弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、構成力から発生したのではないもの、が存在する。もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、構成力から発生したものを認識することができないであろう」(p157-158)

[「仏教(上)」ヘルマン・ベック/岩波文庫]


ラマナ・マハルシ

弟子:神の探求は、遥かな昔からずっと続けられてきました。究極の言葉は語られたでしょうか?
マハリシ:(しばらくの間、沈黙)
弟子:(当惑して)シュリ・バガヴァンの沈黙を、お答えと考えるべきでしょうか?
マハリシ:そうだ。マウナ(沈黙)はイシュワラ・スヴァルーパ(神の自己)である。
弟子:仏陀は、神に関するそのような質問を無視したと言われています。
マハリシ:そして、それゆえに彼はシュンニャ・ヴァーディン(虚無主義者)と呼ばれた。事実仏陀は、神その他についての学問的な論議よりも、求道者に、今ここにある至福を指し示すことの方にかかわっていた。(p154)
***
弟子:自己実現の後にも世界は知覚されるのでしょうか?
マハリシ:なぜあなたは、世界のことだとか自己実現の後に起こることについて、想い悩むのか。まず自己を実現せよ。眠っている間は世界の知覚はないが、それによってあなたの探求に何か得るものがあるだろうか。反対に、今は世界を知覚しているが、それで何か失うものがあるだろうか。世界を知覚するかしないかということは、ジュニャーニにとってもアジュニャーニにとってもまったく重要な問題ではない。(p162)
***
話すことと考えることを超えた状態がマウナである。講義は、何時間かの間そこにいる人々を楽しませるが、その人たちを進歩させはしない。沈黙はつかの間のものではなく、永遠のものであり、全人類に利益をもたらす……、沈黙は雄弁を意味する。口による講義は、沈黙によるものほど雄弁ではない。
***
質問:自己は存在であり意識であるにもかかわらず、それを存在とも非存在とも異なるものと述べ、感覚あるものとも無感覚のものとも異なっていると述べるのは、どういうわけなのでしょうか?
マハリシ:自己は存在でありながらすべてを包含するものなので、その実在および非在の二元性を含む質問を受け入れる余地がない。それゆえに実在とも非在とも異なるものと言われている。同様に、それは意識ではあるけれども、それ自身は知るべきものは何もなく、知らしめる何ものものないので、感覚するものともしないものとも異なっていると言われている。

[「ラマナ・マハリシの教え」 ラマナ・マハリシ/めるくまーる]

世俗の真理は、合理的な言語表現が可能な世界であり、我々が日常的に認識し、理解し、そして話し合うことのできる現実世界でのみ通用する。一方、究極の真理言語表現が不可能な世界の領域にある。仏陀の沈黙は、この究極の真理を示すためのものである。
賢者が重要でない質問に対して取り合わないのは、究極の真理に触れようとする試みが、言語の限界を超えるからだ。例えば、仏陀の沈黙は単なる無言ではなく、話すことや考えることを超えた状態、「マウナ」を表している。

仏陀の沈黙

仏陀が沈黙で示したアートマンは、言葉で表現することができない。それは、彼が沈黙を通じて示したかった究極の真理だ。
悟りを開いた者にとって、宇宙は「私の体」に等しい。これは、究極の真理を体現しているからこその見解だ。
バラモン教では自己(アートマン)を絶対的な存在とするが、仏陀はその自己すらも言語では語り得ないものとし、沈黙をもってその本質を示した。仏教徒もまた、言語の限界を認識し、自己について語ることに慎重である。

インドの「正統派」であるバラモン教が、通俗的な自我観念を否定しながらも、自我(ātman)を肯定的に説いたのに対し、「異端派」である仏教は無我(サンスクリット語 an-ātman、パーリ語 an-attā)という術語をつくって積極的にそれを否定した
二つの思想は、一見、正面から対立するようにみえる。しかし、バラモン教のアートマン説をよくみれば、両者は、見かけほどには対立していないことがわかる。なぜなら、バラモン教も、通俗的な自我観念をしりぞける点で、無我説といえるからである。したがって、an-ātmanは「無我」と訳すよりは「非我」と訳すべきである、と。
これは、仏教徒はバラモン教徒と同じ思想を異なる言葉で語った、という考えである。わたしはこの考えに反対したい。わたしの考えでは、仏教徒はバラモン教の思想と異なる思想を提起したのである。たとえ「真の自我」であろうと、自我を説かないという立場を示したのである。この思想を論じるためには、無我という訳語を使うほうがよい。(p26)
***
一般にひとは合理に反するものを十把ひとからげにしてしまうが、実はそこに「不合理」と「非合理」の区別を見なければならない。ここで「不合理」とは「理性以下」、「非合理」とは「理性以上」の謂いである。
「非合理性は理性を前提しながらそれを超越する。禅が理性で捉えられないというとき、禅の非合理性を主張しているのである」(『講座禅』第一巻/筑摩書房
「世俗の真理」~合合理/不合理
「究極の真理」~非合理(超合理)

(p125-126)

[『空と無我』定方晟(さだからあきら)/講談社現代新書]

私たちの言語体系では、常、無常、存在、非存在といった言葉が示す領域を明確に区分している。しかし、非顕現なる究極の真理はこれらの言葉では語り得ない。言語が相対的であるという事実を認識することは、究極の真理に一歩近づくことを意味する。沈黙が永遠のものであり、全人類に利益をもたらすという見解も、ここに根ざしている。仏陀の沈黙を理解することで、我々は言語の限界を超えた真理に触れることができる。


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