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自己と世界/宮元啓一先生【仏教をより深く理解するための予備知識】

インド哲学の世界に足を踏み入れると、「自己と世界」というテーマが非常に重要な位置を占めていることに気づく。特に、ウパニシャッドの哲学はこのテーマに深く根ざしている。ウパニシャッドにおけるアートマン(自己)は、個々の存在を超越した普遍的な自己として理解され、解脱という究極の目標に向かう重要な概念となっている。
しかし、仏教に目を向けると、そこでは無我(アナートマン)が説かれている。これは、自己というものが固定的な存在ではなく、変化し続ける現象の一部であるという考え方だ。したがって、仏教の理解には、まずアートマンの概念をしっかりと把握しておくことが重要となる。
そこで、このテーマについて詳しく論じられている宮元啓一氏のWebサイト「自己と世界~インド哲学の視点より」(現在閉鎖)から、引用し論じてみたい。

ウパニシャッドのアートマンは、一見すると仏教の無我とは対極にあるように思えるが、実際にはどちらも自己と世界の関係性を深く考察した結果生まれたものである。アートマンが永遠不変の自己を示す一方で、仏教はその反対に、自己が固定的でないことを強調する。この対比を理解することで、インド哲学の奥深さとその多様性に気づくことができる。
インド哲学の広大な世界を探求する中で、自己と世界の関係性を理解することは、まさにその核心に触れることに他ならない。宮元氏の論文は、その手引きとして非常に有用であり、ウパニシャッドのアートマンから仏教の無我まで、広範な視点で自己の本質を考える助けとなるだろう。


アートマンとプルシャ

一、はじめに
本稿で「自己」というのは、サンスクリット語の「アートマンAtman」あるいは「プルシャpuruXa」の訳語であり、英訳ならばselfに相当するものである。本稿では、インド哲学における自己論を意識しつつ、自己をめぐる西洋的な錯綜した議論を、素朴ながらも少しく批判的に整理することから始め、その上で改めて自己と世界との関係をいかなるものと考えるのが合理的かを考察していくつもりである。

[自己と世界~インド哲学の視点より/宮元啓一]

アートマンはヒンドゥー教の哲学でよく知られる概念で、個人の内なる本質や魂を意味する。一方、プルシャはサーンキヤ哲学で使われる用語で、やはり自己や個々の魂を指すが、より宇宙的な視点を持っている。この二つの概念は、自己の本質を理解するための重要な鍵となる。

現代の西洋哲学はデカルト以降、大きな進展を遂げた。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、自己意識の重要性を強調するものだが、インド哲学から見れば、まだまだ批判の余地がある。デカルトの自己観は、自分自身を物質世界から切り離して考える傾向がある。これに対し、インド哲学は自己を宇宙の一部として捉え、より広い視野からその存在意義を見つめる。

例えば、デカルトは自己を思考する主体として捉え、物質世界との関係を二元論的に分けて考えた。しかし、インド哲学では、自己と宇宙は切り離せない一体の存在とされる。アートマンはブラフマン(宇宙の根本原理)と一体であり、プルシャもまたプラクルティ(物質の根源)と相互に依存する関係にある。この視点から見ると、西洋哲学の自己観はやや狭い範囲に留まっていると言える。

さらに、西洋哲学における自己の探求は、個々の独立性を強調しがちだが、インド哲学は個と全体の関係性を重視する。自己の本質を知ることは、同時に世界全体の理解につながるという思想だ。これは、自己を宇宙の一部として認識し、他者や自然との調和を大切にするインド哲学の特徴と言える。

西田幾多郎の純粋経験

二、西田幾多郎のいう純粋経験
西田幾多郎は『善の研究』で、意識現象が唯一の実在だという主張のもとに、「純粋経験」なるものから、われわれの倫理的な行為のいかなるものかを解明しようとした。
純粋といふのは、普通に経験といって居る者も其の実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思惟分別を加へない、真に経験其儘の状態をいふのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合同して居る。これが経験の最醇なる者である。」(一三ページ)

[宮元啓一]

西田幾多郎は『善の研究』で、意識現象が唯一の実在であると主張し、その基盤として「純粋経験」という概念を提唱している。この純粋経験に基づき、倫理的行為、すなわち善とは何かを論じている。

西田幾多郎によると、「毫も思惟分別を加へない、真に経験其儘の状態」こそが純粋経験であり、これを「純粋経験」と呼ぶ。要するに、純粋経験とは思慮分別を加えないそのままの経験であり、これは直接経験と同一である。この「純粋経験=直接経験」という点が重要なポイントある。

具体的に言うと、「純粋経験は直接経験と同一である」とは、「自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合同して居る」すなわち主客未分の状態を指す。主と客がまだ別れていない状態、知識とその対象が全く合一している状態が、最も純粋な経験であるということだ。

この概念は理解しにくいかもしれないが、西田幾多郎の考えでは、言葉を話す前の赤ちゃんや、犬や猫などは常にこの純粋経験の中で生きているという。犬の場合なら、食べ物を見た瞬間、本能反射的によだれが出て、食欲を満たすための行動に移る。つまり、思考なしに行動しているので、純粋経験に近い状態であると言えよう。

しかし、人間の場合は、何かを見た瞬間に想念が浮かび、純粋経験に曇りが生じる。純粋経験とは、主客が分離していない状態であり、全く思慮分別を加えていない状態を指すが、厳密に言うと、思慮分別が一切加わらない意識状態が存在するかどうかは疑問である。

例えば、体のバランスを崩した時に瞬間的に動く反射行動や、熱いものに触れて瞬間的に手を離す行動などは、思慮分別を加える前に体が判断している。このような例から、思慮分別が加わらない純粋経験という概念がどれほど厳密に適用できるかは難しい問題である。

仏教的に言えば、「色受想行識」という概念で、「受」(感受作用)までしか純粋経験を語れないのかもしれない。このように厳密に言い出すと、純粋経験や直接経験、主客未分の意識状態という概念には無理があるように思われる。この意識状態は、気絶状態や睡眠状態のような、思慮分別を全く加えない状態に近いものしかないのかもしれない。

したがって、この純粋経験という言葉の定義自体が、思想的に破綻しているように感じる。しかし、この主客未分の意識状態があるとして、その哲学を組み立てるとどうなるか、という点に注目する必要がある。

自己は意識ではない

つまり、純粋経験といっても直接経験といっても同じであり、その経験は、西田のいわゆる「主客未分の状態」にあるものだということである。
そしてここでは、知識が主体であり、その対象が客体であると西田は言っている。
揚げ足取りをするつもりはないが、「自己の意識状態を」というからには、「自己」(我)は「意識状態」とは別物でなければならない。

[宮元啓一]

「主客未分」について
「主」は知識、「客」は対象を指す。西田幾多郎は、知識が主体であり、対象が客体であると述べている。知識と対象が完全に合一している状態を純粋意識と呼ぶ。

純粋意識とは、私たちが何かを見て認識や判断をする前の状態を指す。何かを見た瞬間、そのものが何かまだ分かっていない状態であり、この状態では知識と対象が分離していない。つまり、判断を加えていない状態である。

例えば、「これは何々である」という知識とその対象が分離していない状態が純粋意識であり、判断が伴わない意識状態を指す。西田幾多郎は、知識が主体であり、それを対象として見るものが客体であると述べている。

一方、宮本氏は自己の意識状態について、「自己(我)」は意識状態とは別物でなければならないと述べている。例えば、「これは私のiPhoneだ」と言った場合、そのiPhoneと私は別である。同様に、「自己の意識状態を……」と言ったら、その意識状態を観察している自己がいるということになる。

また、「直下に経験した時」という場合、経験する主体があるはずであり、それは「自己」以外にはありえない。しかるに西田は、五七ページ以下に、「第二章 意識現象が唯一の実在である」という章を展開している。
すると、こういうことになるのではないか。すなわち、主体であるはずの知識と客体であるはずのその対象とがまったく合一している純粋経験という意識現象を客体として、自己が主体としてあることとなる。

[宮元啓一]

西田幾多郎は、「自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない」と述べている。これが純粋経験というものだ。ここで、「直下に経験した時」というのだから、経験する主体があるはずで、それは自己ではないのかという疑問が出てくる。

しかし、西田幾多郎は「善の研究」の第2章で「意識現象が唯一の実在」と述べている。したがって、自己は意識現象ではないため、自己は実在ではないという結論が導かれる。意識現象だけが実在であり、自己は意識ではないので当然実在しない。西田の立場では、意識状態だけが実在し、自己は意識ではないため実在ではないとされる。

一方、宮本氏は「その純粋経験を経験している主体がいるはずだ」と指摘している。宮本氏の立場では、主体であるはずの知識と客体であるはずの対象が完全に合一している純粋経験があり、その純粋経験を客体として、純粋経験という意識を意識現象として自己が主体として存在するのではないか、という指摘である。

自己は実在ではない

ところが、西田は、意識現象のみが実在であるといっているのであるから、自己は実在でないことになる。実在でない自己が、実在である意識現象を経験する主体であると、どうしていえるのであろうか。念のためにいい加えれば、自己意識(自意識、自我意識)は、自己ではなく、あくまでも意識現象である。自己意識は実在であるが自己は実在でないとはいかなることなのであろうか。

[宮元啓一]

西田幾多郎の立場では、自己は実在しないとされる。つまり、実在ではない自己が実在する意識現象を主体とし、経験する主体となる。これに対し、宮本氏の立場では、実在しない自己が実在する現象を経験する主体になるという矛盾が生じる。自己意識はあくまで意識現象であり、自己そのものではないという点を強調している。

自意識とは、周囲と自分を区別する意識のことを指す。これは単なる意識現象であり、西田幾多郎の立場では、自己は実在しないとされる。したがって、自己意識は実在するが、自己は実在しないという結論になる。これは西田幾多郎の立場では当然のことだ。

この考え方は、一見すると非常に奇妙に感じられる。自己意識は実在するのに、自己は実在しないというのは矛盾しているように思える。この点に対して、批判が生じるのは当然のことだ。

自己は物質ではない

西田は、第二章で次のように述べる。
我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物質現象ではない。」(五七ページ)
我々は意識現象と物質現象と二種の経験的事実があるやうに考へて居るが、実は唯一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。」(五八ページ)
すると、物質現象も意識現象の一種に過ぎないというからには、自己は物質現象ではないし、唯物論者がいうような物の存在などないというからには、自己は物でもない。
このようにして、「我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって」と規定するかぎり、西田は、暗黙の了解事項であるはずの自己を、どこまでいっても位置づけることができないことになる。「我々に最も直接である」というときの「我々」は、暗黙の了解事項である自己であるはずである。ならば、「我々に最も直接である原始的事実は」意識現象ではなく自己であるというべきではなかろうか。

[宮元啓一]

西田幾多郎は『善の研究』第2章で、「最も直接的な原始的事実は意識現象であり、物質現象ではない」と述べている。彼は物質現象の存在を否定し、意識のみが存在すると考えている。

これに対し、宮本氏は批判を展開する。もし物質現象も意識現象の一種に過ぎないとするならば、自己は物質現象でも意識現象でもないことになる。西田の立場では、自己は実在せず、意識のみが実在するということになる。

宮本氏は、「最も直接的な事実は『私』、すなわち『自己』であり、直接経験という曖昧なものではない」と主張する。彼は、自己が存在しなければ直接経験も存在しないとし、意識が実在するならば自己も実在すると考える。この立場は首尾一貫しており、説得力がある。

宮本氏は、意識や純粋経験も認めるが、自己も同様に認めるべきだと主張する。西田が言うような主客未分の状態があるとすれば、それを経験する「自己」が存在するはずだと考える。この違いが、両者の立場を平行線に導いている。

大乗唯識説と自己

三、大乗唯識説と自己
西田の『善の研究』における意識論は、直接には当時の西洋哲学の文脈の中から出てきたものであることは確かであるが、それはじつは、西暦紀元後四世紀頃に確立された、大乗仏教の流れを汲む唯識説と、根本的な発想において軌を一にしているのである。
唯識説とは、「われわれが世界を見る」という事態は、識(心)が虚妄分別(無明)によって自己分裂していることにほかならないとする学説である。すなわち、識が、見分、すなわち主体である知識(意識現象)と、相分、すなわち客体である対象世界とに分裂しているのが、凡夫の経験世界である。したがって、対象世界というのも、意識現象と別のものではなく、じつは見分と同じ意識現象であるにほかならない。
では、虚妄分別(無明)を除去した仏などの修行完成者にとって世界はどうなるかというと、見分と相分との分裂がなくなる、つまり主客未分の状態である純粋経験に還元されつくすというのである。こうした主客未分の状態である純粋経験のことを、唯識説では通常、「無分別知」という。
そこで、すべての自分の認識は自分のもとに統合されるが、その「自分」とは当該の認識の自己反省にほかならないとする。そしてそれが知識の本性だという。
つまり彼らは、意識現象の中に立てこもり、意識現象を可能にしているもの(実在の自己と実在の世界)についての判断を中止している(エポケー)のである。

[宮元啓一]

西田幾多郎の意識論が、直接には西洋哲学から出てきたものでありながら、根本的には大乗仏教の唯識説と一致するという指摘は興味深い。このことは、西田の思想が東洋と西洋の哲学を融合させたものであることを示している。唯識説の「識が自己分裂している」という考え方は、現代の心理学や認知科学に通じるものであり、意識の本質を探る手がかりを提供している。さらに、「無分別知」という概念は、禅や瞑想の実践における悟りの状態を示しており、西田が追求した「純粋経験」との関連性が見えてくる。

「私」問題

四、自己についての判断中止が生み出した自己論の不可能点
さて、実在の自己(および実在の世界)について判断を中止すると、また別のやっかいな問題が出現してくる。それは、昨今、「私」問題という形で展開される議論の中に、果てのない堂々巡りの論点として出てくる。「私」問題を論ずる人たちは、心(その核心は記憶)も身体も、ともに意識現象として包括する。そして、実在するのは意識現象だけであるとするから、「私」(自分)も、それが実在でなければならない以上、実在の意識現象としての心か身体か、あるいは両者を合体した何らかのものか、ということに議論の向く方向が固定される。
しかし、公平に見て、多くの気鋭の哲学研究者たちがそのような努力を必死に行っているにもかかわらず、何らかの結論めいたものが導出される見込みも予感も感ずることができず、彼らの議論はどこまでも堂々巡りしている風に見える。
なぜそうなるかといえば、そもそも出発点に無理があるのだというべきではなかろうか。すなわち、意識現象のみが実在で、その外部については判断してはならないという前提のもと、意識現象を担う主体である自己は、端から実在である意識現象の外部に放り出されているからである。
現象学の流れを汲むハイデガーやメルロ・ポンティなどが、現在在(実存)は世界内存在だといっていることからあえて言明すれば、「私」(自分)なる自己は、「世界外存在」である。現象学的には世界は意識現象としての実在である。ここからいえることは、判断中止という、いってみればきわめて臆病な態度から一歩踏み出て「私」(自分)なる自己に手を伸ばそうとすれば、自己は、意識現象である実在の外にある、意識現象には含まれない唯一の例外的実在であることを認めなければならない。

[宮元啓一]

自己についての判断中止(エポケー)が生む問題点は、現代の哲学における「私」問題として現れる。「私」問題を論じる者たちは、心と身体を意識現象として含み、実在するのは意識現象のみであるとする。しかし、これらの議論は結論に至らず、堂々巡りを繰り返す。その原因は、意識現象のみが実在とする前提にある。この前提により、自己は実在の意識現象の外部に放り出され、「世界外存在」となる。したがって、自己を意識現象の外にある例外的実在として認める必要がある。

意識現象は認識対象

五、世界外存在としての実在の自己
--- インド哲学の視点から
では、自己は、なぜゆえに意識現象に含まれないものとして想定されなければならないのであろうか。それは、意識現象は、認識の対象であって、認識の主体ではないからである。
このことを人類史上最初に見抜き、言語化した人物こそ、西暦紀元前七世紀にインドに現れたヤージュニャヴァルキヤであった。
彼はいう。「[自己は]見られることがなく見る者であり、聞かれることがなく聞く者であり、思考されることがなく思考する者であり、知られることがなく知る者である。これより別に見る者はなく、これより別に聞く者はなく、これより別に思考する者はなく、これより別に知る者はない。これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。これより別のものは苦しみに陥っている。」(『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』三・七・二三)

[宮元啓一]

サーンキヤ哲学の世界観では、自性(プラクリティ)という物質性の根源から、意識(プルシャ)と物質世界が分かれる。サーンキヤ哲学では、意識も物質的なものとして捉えられるが、物質そのものとは異なる。意識と物質が分かれる過程で、見られるもの(物質)と見る主体である自己(意識)に分かれる。この世界観では、自己を見られるもの(物質)から分離しなければならないとされる。

この概念を理解しやすくするために、光の粒子性と波動性に例えられる。物理学では、光は粒子としても波としても振る舞うとされるが、この振る舞いは常識的には説明できない。光が意識を持っているかのように見えることがあるからだ。
光はサーンキヤ哲学でいう自性であり、それが意識と物質に分かれる。光は元々意識性の存在であり、同時に物質にもなる。物理学者は物質に意識がないと信じているが、光が物質を生み出し、同時に意識でもあると考えるのは自然なことだ。

サーンキヤ哲学では、意識性の濃いものと物質性の濃いものに分かれて見えるだけで、実際には一つの不可分なものである。全ての物質には意識があり、光が存在する。どれか一つが崩れると全てが崩れるという考え方だ。
しかし、自己(意識)は光(物質)ではない。光を見ている自分が存在する。見ている主体は光そのものではないというのがサーンキヤ哲学の世界観である。

に非ず、に非ず

六、自己と心身の峻別
ヤージュニャヴァルキヤは、さらにいう。
「それによって一切を知ることになるもの、それを何によって知ることができるのであろうか。かのものは、《に非ず、に非ず》としかいいようのない自己(neti neti ty AtmA)であり、不可捉である。なぜなら、把握されないからである。」(『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』四・五・五)
ここにいう「一切」というのは、認識される対象世界の一切である。その一切を知るものは、いうまでもなく、世界(意識現象)の外部にある認識主体、つまり自己である。
ここから、われわれが「私」「自分」ということばによって何を指そうとしているのかをめぐる混乱を整理することが可能になる。
「自分は足が速い」といった場合、「自分」は身体を指している。また、「自分は悲しみに圧倒されている」といった場合、「自分」は心を指している。
いわゆる「私」問題と格闘する哲学の徒たちは、自分(「私」)は記憶を中核要素とする心であるのか、それとも身体であるのかと、執拗に考察を巡らせる。
しかし、ここで「心」というは「自分の心」のことであり、また、ここで「身体」というのは「自分の身体」のことである。ということは、われわれは、「自分」ということばで、「自分」と「自分の心」と「自分の身体」とを、何かごちゃまぜにして表現するのがふつうである。
自分の心や自分の身体は、これをわれわれはよく観察することができる。「分かる自分」と「分からない自分」とが渾然となって、「自分探し」「自己実現」などということばが横行する。
ところが、もう判然としてきたように、「分からない自分」とは、端的な自分(「自分の自分」とはいえない自分)のことであり、「分かる自分」とは、「自分の」心身のことである。心身は認識対象となるが、端的な自分は認識対象とはならない。
こう見てくると、「私」問題を追及する哲学の徒が堂々巡りの迷走した議論から抜け出せないのは、世界外存在である自己を、世界内存在である心身の中に位置づけようとしているからにほかならないことが分かってくる。

[宮元啓一]

サーンキヤ哲学における「一切」という概念は、認識される全ての対象を指す。これは仏教と同じ立場であり、仏教でも認識される対象の全てを「一切」と呼んでいる。そして仏教はこの「一切」を無常だと言っている。

無常とは、独立して永遠に存在することがないという意味であり、何かに支えられなければ存在できないものという意味合いを持つ。つまり、全てのものは変化し続け、永遠に同じ状態で存在し続けることはない。

一切が無常であるという考え方に基づいて、仏教は認識される世界の全てを無常とし、独立した存在としての自己を認めない立場を取る。仏教では、認識される世界の全てが一切であり、その一切は無常であるとする。
仏教のこの立場は一見奇妙に思えるかもしれない。輪廻転生を認める仏教において、誰が輪廻するのか、何が輪廻するのかという問題が生じるからだ。しかし、仏教はこれを認めつつも自己を否定する立場を維持している。

ヤージュニャヴァルキヤは、インド哲学において認識する主体を自己と呼んでいる。これは絶対に見ることも知られることもない存在であり、外部に存在するものとして捉えられている。一方、仏教はこの認識主体を認めず、認識される対象の世界全てがあるとし、自己を否定する立場を取っている。これにより、仏教の立場では自己という存在はなく、全てのものが認識される対象であるとする。

ヤージュニャヴァルキヤの立場では認識主体である自己が外にあるとされている。この考え方を理解しておくと、多くの哲学的な問題がすっきりと説明できる。認識主体が外にあるという前提を理解することで、様々な議論が整理される。

デカルトの物心二元論

「私」問題の迷走は、デカルトの物心二元論に端を発する。この二元論は、物質と精神を別個の実体として捉え、それぞれが独立して存在すると主張する。この考え方は西洋哲学における基本的な枠組みとなり、科学と宗教、心と体、自己と他者の分裂を深めた。しかし、インドのサーンキヤ哲学の二元論は、デカルトの二元論とは次元の異なるアプローチを取る。

デカルトの二元論は「思考する自我」(コギト)と「延長する物体」(レッセ・エクステンザ)を明確に区別する。彼の有名な命題「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」は、自己の存在を確証するための出発点として、思考する自我を絶対的な基盤とする。しかし、このアプローチは「私」とは何かを問う上で、精神と物質の相互作用を説明する難題を生んだ。精神がどのようにして物質に影響を与え、逆に物質が精神に影響を及ぼすのかという問題は、依然として解決が困難な課題である。

一方、サーンキヤ哲学の二元論は、プルシャ(純粋な意識)とプラクリティ(物質原理)の二元論であり、これらが相互依存する形で宇宙を構成すると考える。ここで重要なのは、プルシャが観察者であり、プラクリティが観察される対象であるという点だ。サーンキヤ哲学において、瞑想や内省によってプルシャとプラクリティの区別を明確にし、自己の本質に到達することが目指される。このプロセスは実体験を通じて行われるものであり、理論的な理解だけでなく、深い内的体験に基づくものである。

デカルトは、実体を二種に分け、一つを精神的実体とし、一つを物質的実体とした。しかし、デカルトは、精神的実体とは要するに心であるとした。
インドでは、デカルトのように精神的実体(自己)を心と捉えるような哲学者は出てこなかった。「私」問題の迷走は、こうしたデカルトの非(インド)哲学的な機想を引きずったものだといえうであろう。

[宮元啓一]

インドではデカルトのように自己を心と考える哲学者は出てこなかった。仏教も同様であり、ヤージュニャヴァルキヤのウパニシャッドもそう考えていない。デカルト以降の現代哲学は心を精神的実体として考え、物質との二元論として捉えている。

一方、インドのサーンキヤ哲学は自己という精神的実体と自性という物質的実体の二元論を立てている。デカルトの二元論は心と物質的実体の二元論であり、サーンキヤ哲学とは全く異なる次元の話だ。サーンキヤ哲学では自己は物質や意識ではなく、外部にあるものとされるが、デカルトの場合は自己が内部にあるとする。
このようにレベルが全く異なり、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」はインド哲学においては馬鹿げていると見なされる。インド哲学では意識を超えたところに自己があり、意識や物質の中には存在しない。デカルトの論説は2500年以上前に論破され、議論の対象にもならない。

インド哲学と西洋哲学のレベル差を考えると、西洋哲学は少なくとも2000年遅れている。インドでは瞑想を通じて実際に自己を体験しているが、デカルトの哲学はただの思想に過ぎない。ユングは東洋哲学をよく知っており、西洋の精神探求が2000年以上遅れていると述べている。インドや仏教を理解している人々はデカルトの二元論を相手にせず、その哲学を学ぶ気にもならない。これは説明のしようがないほど次元が異なるためである。

ラマナ・マハルシ

ラマナ・マハルシはインドの大聖者であり、正統派のインド人としてアートマンを当然認めている。彼は「一切はアートマンなり」という感覚を持ち、シャンカラの一元論の立場に近い。すべては自己であり、自己の現れであるという考えを持っている。そのため、対象としての世界を実在とは認めず、影のような存在として捉える。世界は夢を見ているようなものであり、実在していない。すべては自己であり、自己しか存在しないという立場に立っている。

彼の立場を表現する文章がある。

(要約)映画の上映にあたって、光景はスクリーン上に投影される。動いている光景はスクリーン自体に影響を与えることも変化を与えることもない。見物人はその光景に注意を向け、映画を見ているが、スクリーンには注意を払わない。光景はスクリーンなしには存在できないのに、スクリーンは無視されている。自己というのはそのスクリーンのようなもので、常にそこにあるのに誰も気づいていない。

自己なしには世界は存在しない。スクリーンという表現が分かりにくいなら、時空という表現に置き換えると理解しやすい。宇宙は時空の中に浮いており、光の織り物でこの世界が見える。時空がなければ、世界の投影もない。自己はその時空のようなものだと考えるべきである。

自己というものがあるが、誰もそれに気づいていない。見えている映像にだけ注意を払っているのが彼の立場である。ところが、時空とその中にある物質や光の関係については、彼は答えられない。全てが自己であるという立場では説明がつかないからだ。最後には自己が全てを含むと主張するが、自己はスクリーンであり光景であり見物人であり俳優でありオペレーターでありその他全てのものであるという。映画を見て俳優を自分と見なす見物人のように、自己を身体と感情で行為者と考える様子である。

彼は自己がスクリーンだと言っていたが、次には自己がスクリーンであり光景であり見物人であり俳優だと言い出した。自己が全てだと認める立場では、自己と物質や光、意識との関係を説明できない。全てが自己だと言えば何も説明していないのと同じである。全てが物質だと言う唯物論と全てが意識だと言う唯識論と差はないし説明になっていない。

どれか一つを実在とし、他を幻とする立場では説明が成り立たない。自己、意識、物質の相互関係を調べなければ説明にならない。全てが自己であるとか全てが物質であると言えば、意識や私が存在する問題が解決しない。例えば、全てが意識だと言うなら、自己は意識の外にあるのかという問題が生じる。全てが自己だと言うなら、見ているものも自己であるとすれば、何の説明もしていないことになる。哲学として何も言っていないに等しい。

インドの哲学は自己だけを実在とする立場では何も言っていない。また、仏教のように「識」だけを認め、自己を否定する立場でも同じく何も言っていないように思う。論点が違うため、立場が違うと非常に面白い議論が生まれる。

10人の愚かな男たち

10人の男たちが大きな川を歩いて渡った。川を渡り終えた時、仲間の無事を確かめるために、1人の男が全員の数を数えた。しかし、彼は自分を数に入れなかったために、9人しか数えられなかった。他の誰が数えても、皆、自分を数えないので、どうしても1人足りない。「誰がいなくなったのだろう?」10人の男たちは考えたが、分からない。
その時、感傷的な男が「あいつが流されたんだ」と言って泣き出したので、皆、つられて泣き出してしまった。そこに旅人が通りかかり、泣いている男たちに事情を聞いたところ、旅人はすぐに問題を理解した。そこで、旅人は「お前たちの頭を1人ずつ殴るから、殴られた者は、自分が何番目に殴られたかを言え」と男たちに言い、男たちは同意した。
最初に殴られた男は大きな声で「1」と叫び、そして、旅人は次々と殴り続け、数は「2」、「3」と続いた。そうすることにより、10人の無事が確認できた男たちは喜び、悲しみから解放してくれた旅人に感謝したのだった。

この話は誰でも分かる馬鹿げた話だが、実は非常に本質を突いている。10人の旅人、つまり仏教徒が川を渡り、無事に全員渡ったかを確認したが、9人しか数えられない。1人が欠けている、その1人は自己、つまりアートマンだ。仏教徒は認識される対象を徹底的に調べるが、調べている本人を数えない。だから数が足りない。おかしいと悩み苦しむ。

そこに賢者が現れ、何が起こっているかを理解する。賢者は、彼らが自分自身、つまりアートマンを数えていないことに気づく。この賢者の助言を聞き入れた仏教徒は、10人いると喜んで理解する。

しかし、現実では仏教徒は外部の賢者の意見を受け入れず、自力で悩みを解決しようとした。どうしたかというと、彼らは「我々は初めから9人しかいなかった」と悟る。一人が現れ、真実を悟ったと宣言し、「実は本当は9人しかいなかったのだ」と言う。全員が数え、9人しかいないことを確認し、「アートマンは初めからいなかったんだ」と納得する。それ以来、川を渡る時も「9人だ」と数え、悩まなくなった。

仏教徒の感覚は、10人と教えられたが実は9人だったと理解することで悲しみを取り去った。アートマンが必要ないことを知り、9人で十分だと納得した。仏教とインドの哲学の違いを示している。

仏教徒は常に自分を数えないで「9人だ」と合意していた。外部の者が「10人いる」と言っても、彼らは「我々は9人だ」と主張する。これは、仏教徒が自分の数え方を守り続けていることを示している。


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今後ともご贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。