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高校野球スタンド応援部隊の経験者見解(コラム)

先日、夏の甲子園が開幕した。
予選を勝ち抜いた49校による夏の風物詩である。

高校野球に限らず日本においては一発勝負のトーナメント形式が多く採用されている。

「負けたらおしまい」

これが引き起こすのは、一度も試合に出場、あるいは大会メンバーに登録されることなく3年間を終える部員である。

かくいう、私もその一人であった。
県内屈指の名門と呼ばれる学校に進学し、甲子園を目指して日々練習を重ねてきた。

部員数は120名(在籍時)。専用グラウンドはなく限られたスペースで練習していたので、必然的に、練習すらできない部員も多くいた。

彼らは主力メンバーの練習のサポート、あるいは声出しが主な”部活動”であった。

もちろん、チャンスはあった。週末の練習試合で結果を残せば上に上がれたので、「チャンスがもらえなかった」という言い訳はできなかった。

しかし、大会のメンバー登録は20人。必ず100人はスタンドに行くのである。私は最後の夏の甲子園につながる県予選までその20人に入っていたが、最後の最後で外れてしまった。

私に限らず、名門や強豪と呼ばれる学校に来るものは大体、甲子園に行きたいからくる。

自分の実力ではレギュラー、もしくは登録メンバーに入ることすら確実ではないが、それでも甲子園に行けるチャンスがある学校に進むのだ。その結果、自分の実力から背伸びして入ってくるものも少なくない。

話を本題に戻そう。

先日、ネットニュースで甲子園のスタンドで応援する部員が多い、教育としてどうなんだ、といった趣旨の記事があった。

それにどうこういうつもりはないが、経験者の見解をここに書こうと思う。

教育的にどうなんだ、という意見に対しては、自業自得だと思っている。言葉がちょっと良くないが、そもそも”そうなること”を覚悟の上でその学校に来ている部員が多い。というか99%そうであろう。

これがもし、「100%登録されます」と謳っていたのであればどうかと思うがそんなことはまずない。

みんな覚悟の上で、それでも甲子園に行けるチャンスをと、そこに集まる。だから、教育的には別に問題ない。ただし、スタンドで応援することを美化されるのはどうかと思う。

まるで、自己犠牲は素晴らしいと言わんばかりに

「自己犠牲の美しさ」
「レギュラーのために」
「部員100人一丸となって」

という見出しがつくのは寒気すら感じる。
まるで進んでスタンドに行ったかのような表現である。

しかし覚悟の上だったとしても、正直、「早く負けろ」と思っていた。
夢にまでみた甲子園でチームメイトが楽しそうにプレーする姿を素直に応援することなど、拷問に等しいだろう。

本当はグラウンドがいいのだ。
好き好んで応援しているわけではない。

他部活のクラスメイトと一緒にメガホンを振って踊ったり、
気になるあの子の目の前で応援歌を歌うのは本当にしんどかった。

私は県予選の決勝で敗れて甲子園にはいけなかったが、同じような感情を抱いていた。

「”もし”、勝ったら甲子園」

なんとも複雑な気持ちで試合を”応援”していた。
その試合は最終回まで同点で、甲子園がちらついていた。
球場の雰囲気も準決勝とはまるで違って、甲子園がいかに特別かを物語っていた。

辛かった。幼い頃から憧れ続けた夢の舞台を目の前でお預けだなんて耐えられないだろう。

まとめると、教育的には問題ない。なぜなら、彼らはおおよそ覚悟の上でその学校に来ているためである。しかしやはり思うところはあるというのが経験者の見解である。

決してスタンド部員を過剰に美化してはいけない。これだけはしっかり伝えたい。


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