プロット沼 / ニラ栽培農家(S家のこと2)20230318sat
3531文字・60min
男は裏のトシオの家から帰ってきて、昨晩アップしたブログをもう一度、時間をかけてよみ返してみた。
男のブログはもともと人気のないブログだ。そのうえ体調をくずしてからここ数日は写真しか載せていなかった。
男は、ディスプレイをまじまじと見つめて首をかしげる。
いいねがいつもより多いのである。
男は元気がわいた。
それとは別に、ディスプレイの右上にベルのマークがあって47の赤い数字がついていた。
そのベルのマークは、クリックすると自分のどの記事にだれが訪れたとか、フォロワーがどの記事にいいねをしたかがわかる。
ベルの赤い数字を放置してから数日がたっていた。
男はベルのマークをクリックしてそれらを確認するのがこわかった。
ネコが男の膝に飛び乗ってきた。ネコは遊んでくれと部屋であまえ声で鳴く。ネコは新居を気に入ったらしい。最近ではひんやりとした木目の廊下のうえで身体を一直線に伸ばしたまま気持ちよさそうにうごかなかったり、一階の台所の陽の当たる出窓のブラインドを引っかいてあそんだりする。
男の母親はネコを迎えてから目があかるくなった。毎日ネコを名前でよぶ。まるで孫にでも話しかけるように。動物は人間に元気をあたえるようだ。男は自分も九州に引きこもっていたとき、ネコが隣にいなかったらとおもうと、いまでも恐ろしさがこみあがる。
ブログを何度か精読したあと、今日をしおに裏のトシオの家に出入りするのはやめる。男はきめた。
先日ハマダユリカに言われたとおりの朝九時半に男はトシオの家に行った。
裏の家の敷地に入るとハマダユリカの黒のボクシーがとまっていた。男は敷石をあるいてさらに敷地のなかへとすすむ。トシオは母屋と村の目ぬき道路を隔てる生垣のあいだの午前の陽が当たる横庭においた工具箱にこしかけていた。大腿骨骨折をした腰まわりは柿の老木のように痩せて灰色のズボンはブカブカでシワが目立った。脇にいつも置いてあるポケットラジオはなかった。背をせむしのように丸めて盆栽鋏で積みあげだ細い枝木を一本ずつ手元に引いてはパチパチと切っていた。挨拶をすると、男の顔を見ずに、おうあんちゃん。といって作業にもどる。トシオの目には力がなかった。眼球は萎んでいる。死相だ。
男はあるアニメーション映画を思いだした。『ハウルの動く城』だ。その映画では荒地の魔女という老婆がでてくる。その魔女は登場シーンでは妖艶という言葉に相応しい豊満な魔女であるが、魔力をうしなってしまったラストシーン近くでは、いまのトシオとおなじく自立やプライドがくずれて命の活力が闇に奪われた純真な目になる。あの目は命が終わる目、人間の尊厳を失った目だ。
トシオは火曜日と木曜日はデイサービスに通っている。男はデイサービスに通っていた頃の祖母の目をおもいだした。そのすっかり萎えた祖母の目を見た男は、老人という生き物はデイサービスに通いはじめるとその老いは恐ろしいほどすすむ。男はそれに気がついた。皮肉なことだが老人はヘルパーに命をうばわれるのだ。人間は他者に己の力のすべてを任せる生活をするようになると、自力で何かをしようとする体力も気力も思考力も反骨心もうばわれる。祖母は、力を失った眼球のなかにみずから自分のうつくしい過去もみにくい記憶もすべて閉じこめて死んでいった。
男の祖父はデイケアに通うことをこばんだ。最後まで形あるものを自分の手でつかみ自分の足であるいた。祖父は自分の肌は他者にふれさせようとしなかった。頑なだった。老いさらばえても祖父はつよい拒絶をみなぎらせた。祖父は脾臓がんにくるしめられ腹に水を溜めて死んでいったが最期まで自分の尊厳を守りぬいた。祖父は自分を他者へ依存させて自己を見失う安楽の沼に沈めるよりも他者を拒絶して死の恐怖と対峙して死んだ。男はおもった。
タイヤに白く乾ききった土がへばりついた赤色のトラクターが眠る大きな納屋では、孫のハマダユリカが椅子にこしかけてエアー作業をしていた。男は戸口に手をかけて挨拶をする。男が立つところからフミが窓越しにこたつに座っているのが見えた。フミが、待ってました。というふうな顔でニヤリと笑って、
「ウチんなかにへえって茶でも飲まねえかい」
男はこたつで茶を飲むことにして玄関をあけた。せまい三和土から足をかけた框に、プラスチック製の手すりがつけてあった。
「それ、月々四百円だあ。補助金でよ。安いもんだんべえ」
「月四百円か。それじゃあ安いね」
「だんべえ」
男は、布団の角にへばりつく固まった米粒を引っ張ったがとれずに、あぐらですわった。男は顔をあげる。すると目に入ったトシオの家の仏壇は男の家にある祖父母が眠る仏壇とまったくおなじ型のものであるのに気がついた。こげ茶色の具合も安手のプラスチックでできた引き戸でひらく黄色い格子戸もまったくおなじだった。昔、大八車に仏壇を山と積みあげた行商人がこの村の一軒一軒をまわってあるいたにちがいないと男はおもった。
フミと昔話や世間話をするが男は内心では人間がこわい。自分のカガミに映る自分のそういう異常をフミに悟られぬように、男はわざと大声で笑ったりする。外で作業をするハマダユリカやトシオに聞こえるような大声で男は、昼前の陽が当たる居間で大きく笑ってみせる。
フミとの話のながれで、昨日のブログに書いた、田植えでトシオを指さして「アイツは自動車の運転免許の学科試験でおちた」と笑った老婆はいまは肺がんのステージ4だということがわかった。それからしばらくのあいだ男はフミとの世間話をどう切りあげていいかわからないでいた。男は座布団の角にへばりつく小石のように硬くなった米粒を親指の爪が白くなるまで強くつまんで、だまりこんだ。
「昨日、喜(よし)ちゃん飯店に行ったんよ」
フミは言った。
「喜ちゃん飯店って、たしか…」
「あそこだ。駒形のセキチューがある十字路があるんべ。そこの高駒線から上がった、ほら」
男は仏壇をしばらく眺めた。それから小さく喉を鳴らした。
「あんちゃん、おもいだしたか?」
「ああ、前橋七中の向こう側だね。県道の高駒線からこっち側の田んぼの真んなかにある、いっつもランチに行列ができるあの中国料理屋か」
「そうだ。あそこは昔っからうめえんだ。にいちゃんも行ったことあるんべえ!」
男は思いだした。結婚して娘が生まれて帰国して、それから妻に頭を下げて中国でもう一度、再就職をするために上海に経つ前だった。娘はよちよち歩きの一歳だった。蒼井一家が総出で、喜ちゃん飯店に行った。そんな記憶がある。空いてる日を見計らっての平日の夜だった。前妻も娘も祖父も日頃外食にでない祖母も両親もみんなそろって出かけたのだった。いまおもえばあの喜ちゃん飯店の外食が、蒼井家三代(娘を入れたら四代)でそろって出かけた最初で最後の外食だった。
「そうだ。行ったことあった。たしか炒飯がうまいね。ぼくはレバニラを食べた記憶がある」
「昨日、上の子と行ってきたんだ。おら炒飯と餃子たべた。おらん家の娘も」
トシオとフミには娘がふたりいる。上の娘がふっくらとしていてフミにそっくりだ。下の娘は華奢で細面でトシオに似ていた。ハマダユリカは上の娘の長女だった。
「うめえんだけどな。待たされた。いつも待つんだよなあ。昨日は四十分待たされた」
「そうだね。あそこはランチは混むだろうね」
「にいちゃん、あそこで仕事やればいいんに」
男は目を瞬かせた。虚をつかれてだまった男は、仏壇を眺めながら喜ちゃん飯店で働くことについて考える。皿洗い、オーダーとり、トイレ掃除、レジ打ち…あとは思いつかない。男はイタリアンや居酒屋や学生食堂では働いたことはあった。だが中華料理屋で働いたことは一度もなかった。男はそれからまた時間をかけて黙考した。
男は顔をあげると、フミは男の顔を見てニヤニヤと笑っている。男は察して口を開いた。
「そうだなあ。ぼくがトシオさん家のニラの手伝いは手に余るだろうね。入る余地はないかあ」
男は笑った。フミも笑った。
「喜ちゃん飯店に電話かけてみるよ」
「人は足りてねえからよ。すぐに働けるさ」
フミは笑った。男は内心で腹が立った。外の納屋からハマダユリカがエアー作業をする空気音が聞こえる。
「少しニラ作業を見学させてもらうよ」
男は立ち上がった。上がり框につけられた手すりをつかんで男はカカトが潰れた運動靴に足を入れた。
「そういえば、庭に咲いているあの花なんてんだっけ?」
「え、どこのよ?」
「ほら、南の生垣から入ってきた脇のさ」
「沈丁花だんべえ」
「そうか?」
「そうだよ、沈丁花だよ!」
「そうか。あとで帰るときにでも写真を撮らせてね」
「そんなもん、好きに撮んなよ」
男は玄関をでて納屋に向かった。
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