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アートと子どものことを考える

日本滞在4日目のメモです。

前々からおつきあいのある高野賢一さんが、帝国ホテルプラザにアートギャラリーを開いたという。それまでファッションや食の仕事をしてきた人がなぜ?と思った。彼は帝国ホテルのコンサルタントをやっていて、プラザをより注目される場所にするアドバイスをしているうちに、「そのスペース、私がアートギャラリーとしてやりましょう!」ということになったらしい。

話を聞いていると、アートギャラリーの可能性に賭けてみたいという動機がだんだんと分かってくる。彼のギャラリーは2階で成熟した大人がフラリと来る感じだが、1階にある他のギャラリーには香取慎吾と若いアーティストの作品が並んでいて、見事に若い女性の鑑賞者だけで埋め尽くされていた。

日本のアート市場が規模的にしょぼいという話はウンザリするほど聞くし、その原因がおよそアート作品を買う習慣がない(2-3%の人しか買わない)、という説明にもならない説明だ。一部の人が盛り上げるための方策を熱心に議論するが、現状がどういう文化的低迷を招いているかは、あまり自覚されていない。

昨日、立命館大学東京キャンパスでアートアンドロジックの増村岳史さんを講師にデッサン講座を行った。10時から16時までの6時間で、最後に鉛筆をもった手をデッサンする。たったの6時間でも、描き方を教わると、あっという間に「らしい」手が描ける。よく見るには、何をよく見るのかのポイントに気がつく必要があるし、線ではなく陰影で表現するのが鍵で、その影をいくつくらいのグラデーションで判断できるか、といったことを知っていくと飛躍的に上達するのだ。

声を出しながら描くとおかしなラインになる、という発見は面白かった。「おでこの次に目があって・・・」と言いながら描くとだめなのだ。画像イメージと言語イメージを同時に成立させるのは至難の技。小さい子どもを相手に、「お目目はこう、お耳はこう・・・」と描かせるシーンはあるし、だいたい音読など声を出すことは理解に貢献すると思ってきた。しかし対象を見つめ、それを描くとき、逆に声は邪魔になる。とするならば、例えば、座禅は画像イメージの浮き彫りに役立つわけか?などと想像する。

自分の手を描くのも大変と知った参加者たちは、日々、「言葉で逃げている」現実にも気がついていく。難局になると、対象を「頭で曲解する」ことで逃げる、という技を使ってしまうのだ。それが大人になることでもある、と心の底の何処かで半ば確信をもっているのである。

こうしてビジネスパーソンがデッサンの講座を受けると、さまざまなヒントが仕事にも役立つのが分かる。が、ホビーとしてではなく、ビジネスのためにデッサンが良いと普通の人が思うには、どうすれば良いのだろう?

似たようなプロセスが幼児教育のシーンでも出てくる。仲間と手を繋いで円になる。そうして踊る。小さな子は、その踊りの動きを出そうと身体を斜めに描く。しかし、単に斜めになっただけでは動きのダイナミックさがまったく表現できていない、と小さな彼は不満足だ。それで先生に相談して彼が思いついたアイデアは、新たにもう一枚の絵を描くのではなく、人の輪を描いた紙を筒状に丸めたのだ。これはレッジョ・チルドレンのジュディチさんがレッジョレミリア教育のプレゼンで用いた例である。まちの保育園の松本理寿輝さんのオーガナイズしたシンポジウムでのことだ。

小さな子のクリエイティブな力には驚く。ぼくも、なるほど!と膝をうつ。そう肯定的に思いながら、「どうしても対象を曲解で逃げる、という方向に、この子供の発想は行かないか?」とも思いを馳せる。いや、曲解ではなく、自分の今の力量で表現しえないときに他の表現力を活用する機転が重要なのだが、ものをそのままどこまで見切れるかということと、その見たレベルをどういう手段で表現しきるか、という2つの課題がある。

レッジョエミリア教育は、これら2つの課題に自覚的に取り組むからこそ、描くための紙の種類から鉛筆やペンまで多くの種類を常備しておくことに拘る。この道具の豊富さについては、ここにも書いた。

デッサンや審美性の視点をどうビジネスに入れるかという話と、子どもの視点を社会のなかでどう包括するか(いや、どう真ん中におくか)という話は、実は同じロジックの延長線上にある。こんなことを考えながら、次は東大で英国経営史を教える山本浩司さんの出版記念パーティの会場へ走る。彼は10年以上の研究成果としてこのたびオックスフォード出版から本を出した。とうの昔から(500年前もの過去から)企業は社会に気を遣ってビジネスをしてきた、ということらしい。

その場には歴史の研究者たちがたくさんいて、その何人かと話した。日本は島国であることを社会的閉鎖性の理由としているが、英国は島国であるために世界戦略をとったとの説明があるが、どう考えるか?という質問を1人にした。曰く、英連邦に送り込んだ人間の多くは社会的アウトサイダーであった(つまりは移民を他へ送り込む)、と。そこでインターナショナル性とは何かの再定義って必要だな、と感じる。

ぼくが以前、アイルランドの会社とよく付き合っていて思ったのは、世界にはアイルランド系が8千万人くらいいると言われるが、アイルランドにいる5百万人の英語を母国語とする人たちが海外市場を開拓する際、結構、アイルランド系を頼りにするのをみていた。世の多くがインターナショナル風が多い、と思っている実態がこれだというレベルを知っておいた方がいい。

今朝のサンケイビズのコラムはルールメイキングでGDPRにも触れています。

明日以降の予定です。
5月28日ー29日 京都  5月30日 JETROでのItalian Startups meet Japan  6月2日は立命館大学東京キャンパスで発酵文化人類学の小倉ヒラクさんとの対談。6月6日は虎ノ門ヒルズのVenture Cafe Tokyo でざっくばらんにMade in Italyと意味のイノベーションの話。6月14日は六本木のデザインハブで意味のイノベーションと社会の話。6月15日は立命館大学東京キャンパスで、子どもの保育園の松本さんと対談。6月16日は立命館大学東京キャンパスで経済産業研究所の藤井敏彦さんと対談

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