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AKのスピリチュアル講座2:私のスタンス

※今回、「スピリチュアル」あるいは「スピリチュアリティ」といったテーマに関する私自身のスタンスを明らかにするにあたり、(読む人の迷惑を顧みず)かなり網羅的に記事にしました。
どうも私は小出しにするのが苦手のようです。
なので、すべていっぺんに読んでいただく必要はありません。興味がありそうな項目だけ選んで読んでいただいて構いません。

■スピリチュアルなものは余興か?

世はまさに「スピリチュアル・ブーム」です。
しかし、そのブームの中身と言えば、UFO、宇宙人、オカルト、心霊現象、超能力、臨死体験、体外離脱、占い、引き寄せの法則、チャネリング、瞑想、ヨーガ、予知・予言・・・といった具合です。
これらひとつひとつの現象だけを取り上げ、その真偽を問うこと自体で「スピリチュアル」を云々するのは拙速というものでしょう。
たいていの人は、スピリチュアルなものを、目に見えない、得体の知れない、胡散臭い、非科学的なものだと退けるか、あるいは不思議がって面白がって、興味本位で受け取るか、どちらかではないでしょうか。つまり、スピリチュアルなものへの興味は、一種の「怖いもの見たさ」(余興の類)なのでしょう。
スピリチュアリティとは、確かに目には見えませんが、そのことだけで非科学的な現象だと断定することはできません。それはどのような科学的尺度を持ってくるかによって変わってくるはずです。そこに物理化学系と人文科学系の分野対立の古臭い伝統のようなものまで垣間見てしまうのは、私だけでしょうか。
スピリチュアリティを非科学的に、あるいは単なる余興として捉えようと思えばいくらでもできます。一方、スピリチュアリティを純粋に科学的な研究対象と捉えることも可能です。ただし唯物論では捉えられません。

■科学でなければ宗教か?

「科学的でなければスピリチュアルだ」という考えの延長線上にある「科学 対 スピリチュアリティ」という対立は、「科学 対 宗教(あるは神秘主義)」という対立に置き換えることもできるでしょう。
真のスピリチュアリティとは、やや大袈裟に言うなら、個人的実践において、科学的伝統(特に心理学)と精神的(霊的)伝統の間に統合をもたらすことだと、私は個人的に考えています。真のスピリチュアリティを実践することで、あなた個人の中で、長きにわたる学問的対立に和解と融合をもたらすことができると、私は信じています。
ひとつの事実を思い出していただきたいのですが、それは、現代物理学の先駆者たちの多くが、究極的には神秘思想家であるという事実です。ただし、迂闊に「科学と宗教がついに和解したのだ」と拍手を贈る前に、もうひとつの事実を思い出していただきたいのです。宗教と科学はまったく異なる発展の過程を歩んできたのであり、多くの物理学者が神秘思想家になったからといって、宗教と科学が同じ結論に至ったのか、それともそう見えるだけなのか、そこは大いに議論の余地がある、ということです。
ここで重要なことは、スピリチュアルな道とは、「個」から「全体」へ至る上昇(進化)(物理学的に言えば膨張)の道であり、決して「全体」から「個」へと下降(退行)(物理学的に言えば収縮)する道ではないということです。たとえば、科学的(客観的)な真理が全体としてまずあり、そこから個別の現象を説明するなら、それは科学的な下降の道です。
もうひとつ付け加えておくなら、多くの物理学者が神秘思想の持ち主だからといって、日照り続きで作物が思うように育たないときに、雨乞いの儀式をして天に祷れば、雨雲がやってきて必ず雨を降らせてくれる(念力で雲を操れる)、という考えには同意しないだろう、ということです。このときもし自分たちの祷りが天に通じて雨を降らせてくれたのだと考えるなら、それは宗教的な意味で下降(退行)の道となります。

■スピリチュアル・ビジネスに騙されないために

この論考で私が試みようとするのは、二項対立に和解をもたらす前に、むしろ何が対立しているのかをはっきりさせることであり、非科学的であるとみなされる現象を「胡散臭い」と退けるのか、純粋に余興の対象と捉えるのかの「二者択一」に甘んじている多くの人々に、まったく別の捉え方を考えていただくことなのだろうと思います。

スピリチュアリティを単なる興味本位、「怖いもの見たさ」あるいは「苦しいときの神頼み」的な認識で捉えると、カルト教団やスピリチュアル・ビジネス(霊感商法、自己啓発セミナー、マインドコントロールなど)に騙されやすい状態になります。
そうした世相の傾向を踏まえたうえで、まず以下に、一般の人が疑問に思いそうな事柄を列挙し、私なりの(できる限り下降の道ではなく上昇の道としての)考察を加えたいと思います。この考察によって、スピリチュアリティに関する私のスタンスを、少しでも透かし見ることができればと願っています。

■UFOや宇宙人について

Q:肉体を伴った異星人が宇宙船に乗って地球に飛来している、ということは物理的にあり得るか?

私たちがよく目撃するUFOの大半は、気球や鳥や隕石などの見間違いか、あるいは明らかな作り物の映像だろうと、私は思っています。
UFOの映像だけでなく、いわゆる心霊現象を映したとされる映像でも、その撮影の意図がはっきりせず(撮影者がなぜそのときそこへカメラを向けていたのか疑問)、いかにも偶然何かが映ったという「体」で録られた映像は、作り物の可能性が高いと、私は見ています。なぜなら、そういう類の映像を捏造することで成立するビジネスがあるからです。そんな捏造映像の中には、定点監視カメラの映像を装って作られたような手の込んだものもあるでしょう。
確かにこれは作り物ではなく、「UFO(未確認飛行物体)」と言えるかもしれない、という映像を見ると、大気中ではあり得ないようなスピードで移動したり、一瞬消えたかと思ったら、また違う場所に現れたり(量子レベルでなら確かにそういう現象が観測されますが)、ということを繰り返しています。それがもし本当に異星から飛来した宇宙船だとすると、その中にいわゆる三次元空間でいう「肉体」を伴った異星人(知的生命体)が乗っていることは物理的にあり得ません。もし乗っていたとするなら、肉体は粉々に破壊されるでしょう。「宇宙船でなければ、何なのか」と問われれば、「わからない」と答えるしかありません。
もし「宇宙人」あるいは「異星人」と呼ばれる存在が地球に飛来してきているとしたら、肉体を伴わない霊的存在だろうと、私は考えています。「霊的な現象が物理空間に反映されるか?」と問われれば、「わからないが、あり得る」と答えるでしょう。
私は、UFO現象や「宇宙人の地球襲来」といった現象を見るにつけ、思うことがあります。
もし肉体を伴わない(はずの)霊的存在が、すでに地球に来ていて、しかも肉体を伴って存在しているとしたら、それは誰か(人間)の肉体に宿ったか、あるいはエイリアンの魂を宿したまま地球上で人間的な肉体にまで進化したかのどちらかです。もうおわかりですよね。それこそ私たち人間そのものではないですか? そう、まさに私たち自身が、肉体の衣をまとったエイリアンではないでしょうか(「私たち地球人全員が、魂レベルではET(地球外存在)である」という考えの根拠はどこにあるのかについては、また詳しく取り上げたいと思います)。
つまり、私たちはUFOを見上げる度に、あるいは夜空の星を見上げる度に、私たち自身の「隠された正体」を鏡に映して見ている、ということなのです。UFOや異星人に関心が強い(自分が純粋な地球人であることを完全には認められない)人ほど、魂の故郷に対する望郷の念が強い、とも言えるかもしれません(私もその一人かも)。
いわゆる「アブダクション(エイリアンによる地球人の拉致・誘拐)」という現象も、「未知への不安や恐怖を伴った魂の望郷の念」と私は捉えています。つまり、アブダクションの恐怖のイメージは、自分たち人間こそが地球侵略・地球征服の張本人である、ということを認められない人間たちが(大規模な地球環境破壊を見れば、そう考えざるを得ません)、その認められない自分たちの真実をエイリアン(という仮想敵)に勝手に投影した結果、ということです。「投影(特に集団投影)」という心的現象に関しては、いずれ詳しく取り上げるつもりです。
もちろん、肉体を持った異星人が宇宙船で地球に飛来していることは物理的にあり得ないと思っている私には、実際にエイリアンに誘拐されて宇宙船に乗せられるということも、あり得ないわけです。
このように考えるなら、「地球侵略のためにエイリアンがすでに訪れている」という考えは、何と何が対立した結果生まれたものかは明らかではないでしょうか。自分たちこそがエイリアンであると認められない人間が、自分たちの影としてのエイリアンのイメージと対立している、ということです。デーヴィッド・アイクの言う「レプティリアン」も、ゼカリア・シッチンの言う「アヌンナキ」も、カルロス・カスタネダの言う「捕食者」も、すべて基本的にはこの類だろうと、私は見ています。
ハリウッド映画は、「宇宙人の侵略からの地球防衛戦争」というテーマを繰り返し描いていますが、これは古くから神話に描かれた英雄伝説(英雄が悪魔や怪物と闘って、人々の窮地を救った)の現代版の焼き直しでしょう。つまり、古代神話の英雄も地球防衛軍も、自分の影と闘って勝利する、という物語に他なりません。
「人間は異次元の存在に支配(家畜化)されている」、「人間は異星人によって奴隷として創造された」といった地球規模、全人類規模の「被害妄想」がなぜ起きたのかに関しては、これからじっくり解き明かしていくつもりです。いずれにしろ私たちは、この巨大な被害妄想のメカニズムにいい加減気づくべきであり、自分たちがなぜエイリアン的な現象に恐怖や対抗意識(ある種の畏敬の念?)を抱くのか、その理由を真剣に考えるときだと、私は思っています。もうおわかりのように、この恐怖が裏返れば、スピリチュアルなものに対する「怖いもの見たさ」「苦しいときの神頼み」になるわけです。

※この理由をいち早く知りたい方は、小説「コズミック・スピリット」をぜひお読みください。→ https://howlingwolf.cart.fc2.com/ca0/13/p-r-s/

■霊的現象について

Q:現代の物理化学で説明のつかない現象は、魂や霊といった目に見えない存在が引き起こしているのか?

そういう可能性はあると思います。肉体を伴わない宇宙人(霊的存在)がいるかもしれないと想定するなら、魂や霊といった目に見えない存在もいると想定しないと整合性はとれません。宇宙のどこかにいるなら、地球にもいるだろう、ということです。何しろ、地球も宇宙の一部ですから。
たとえいなかったとしても、霊感の強い人がいわゆる「残留思念」のようなものを感じ取ることはあり得るかもしれません。
この世に何らかの怨みや未練を残して死んだ人の霊魂が、生きている人間に危害を加えたり、恐怖心を煽ったりするという考え自体は古くから存在しているでしょうが、これほど科学的知見が浸透している現代でさえなお根強く残っている背景には、単に古い時代の迷信の残滓という以上の何かがあるのかもしれません。
たとえば、極端な科学信仰や唯物論がはびこれば、人間の真実の一部でありながら非科学的とされる部分は外部に投影され、そういうものが霊魂の姿を借りて人間に反撃を加えてくる、という発想はあり得るわけです。つまり、古代における迷信(アニミズムと言ってもいいでしょう)と、科学時代の現代における迷信とでは構造が異なるとも言えます。少なくとも、アニミズムが絶対的信仰だった古代社会に比べ、現代のアニミズムはかなり相対的(様々な信念体系のなかのひとつであり、しかもかなり古臭いもの)であるはずです。
私たちが考えなければならないことは、人間の意識進化のプロセスを「前近代」「近代」「後近代」という具合に三つに大きく分けるなら、アニミズムも唯物論もどちらも「後近代」的ではない、ということです。
蛇足ながら、「引き寄せの法則」といったものも、下手をすると「現代的迷信のポジティブなバージョン」という類になりかねません。そもそも「自分が望む現象だけが自分の周りに起こる(引き寄せられてくる)」あるいは「望まない結果が出たのは、ちょっとでも否定的なことを考えたからだ」という考え方の落とし穴については、また論考を改めたいと思います。誤解をおそれずに結論から先に言うなら、「引き寄せの法則」とは、人を盲目にし、人間的成長を妨げ、「ガキ(餓鬼)」のままにしておくための方法論です。

■メッセージの受信やアカシックレコードについて

Q:霊魂、悪魔、あるいは神は本当に存在していて、そうした存在が人間に近づいたり、メッセージを送って寄こしたりすることはあるのか?

霊魂、悪魔、あるいは神といった「存在」が、物理空間の中に肉体を伴って存在するとは、私は思っていません。私たちがそういう「存在」を見たり、接触したり、交信したりするとしたら、何かしら霊的な次元でのことだろうと思います。
私は「ポンカワンカ」という言葉を「アカシックレコード」からダウンロードしたと申し上げましたが、全人類の記憶、全地球の(あるいは全宇宙の)記録といったものが、物理空間のどこかに存在しているかどうかは疑わしいし、科学的に完全に証明はできないだろうと考えています。また同時に、そうした記憶域が人間の脳の中だけに存在しているとも考えていません。そうした記憶域があるとしたら、物理空間というよりは、物質、生命、心、魂、霊といったすべての領域(「圏」あるいは「層」)にまたがって存在しているだろうと考えています。
つまり「アカシックレコード」とは、その存在が証明されるべきものではなく、想定されるべきものだと、私は考えています。
霊的次元で起こっている現象を物理次元で捉えることはできません。捉えたいなら、肉体をそこへ持っていくことはできませんので、意識を持っていくしかありません。
私たちがそうした次元にアクセスすることができるとしたら、通常の意識状態ではあり得ないでしょうし、いわゆる一般的に流布している常識的な発想も超越する必要があるでしょう。たとえば「人間の意識は脳が作り出している。したがって脳が死ねば意識も消滅する(これこそ、典型的な唯物論)」といった発想です。こうしたことからも、唯物論は私たちの意識を狭める方向へ働くことがよくわかります。そういう意味で、唯物論は下降(退行)的です。
ここでお断わりしておきますが、私は科学的事実が間違っていると言っているわけではありません。科学は正しいことを言っていたとしても、あくまで部分的なのです。唯物論は、その部分をもって全体(絶対)だと言ってのけてしまうところ(極端な還元主義)が、極めて限定的であり、下降(退行)的なのです。
もうおわかりだとは思いますが、「唯物論」はあっても「唯霊論」といったものはないのです。霊的次元とは、物理次元に対立するものではなく、物理次元を「含んで超える」ものだからです。このあたりは、またじっくりお話しします。

■霊的次元の理解は「時間軸」がポイント

Q:物理化学は、超能力、霊魂の存在、ポルターガイストといった現象をいずれ証明できるか?

可能性はあると思いますが、そう簡単にはいきません。少なくとも唯物論では証明できません。科学が唯物論を乗り越えるだけでも、何百年もかかるかもしれません。たとえば、科学と宗教の融合が真の意味でできたとしたら、こうした現象の証明に一歩近づくかもしれません。そこで初めて物理次元と霊的次元が融合するのかもしれません。
ただし、現代物理学が「次元」という概念を捉えるときに、決定的に欠落している部分があると、私は思っています。それは「時間」という現象の捉え方です。人類はいまだかつて「時間」という現象の定式化に成功したためしはない、と私は思っています。
「60秒で1分、60分で1時間。24時間で一日、約365日で一年」? それは太陽系における地球の動きを表す尺度にすぎません。ならば「時間=光の速度」? それも「時間」を光の性質に置き換えたにすぎません。光の速度はむしろ距離を表す尺度です。私たちはまだ「時間」そのものの本質を定式化できていないのです。
いわゆる「タイムマシン」というものが可能かどうかも、「時間」という概念を物理的に定式化できるかどうかにかかっている、と私は見ていますが、おそらくそれは不可能でしょう。なぜなら、「時間」は多次元にまたがる性質のものだと考えられるからです。アカシックレコードが多次元にまたがるものだと考えるなら、当然「時間」も多次元にまたがるでしょう。
X軸、Y軸、Z軸の三つのベクトルによって三次元空間が表され、そこに時間のベクトルを加えたものがこの物理次元(四次元)だということになりますが、実際には誰も時間のベクトルを見たことはないはずです。なかんずく、五次元より上の次元がどのようなものかを、私たちはどれだけ正確に把握(想像)することができるでしょうか。五次元以降は、もはや通常の時間軸が通用しない世界なのか、それともまったく別の時間軸が追加されるのか(つまり、次元の数だけ別の時間軸が存在するのか)・・・?
物理次元だけで「時間」を捉えるなら、タイムマシンは単なる論理矛盾になるだけです。それは「意識」という現象を多次元的に捉えられるか(脳の中に納まっていない意識を想定できるか)、という問題ともかかわっているでしょう。

※ここでご注意願いたいのは、物理学でいう「次元」と、スピリチュアリティでいう「次元」とでは、アプローチがちょっと異なる、ということです(最終到達点は同じかもしれませんが)。

■未来予知は可能か?

Q:人間は、未来に起こることを正確に予言したり、気象現象や天変地異などの物理現象を意識の力(想念、念力)で制御したりできるか?

その可能性はゼロではないと思います。しかし、そこへ至るには絶対にはしょれないプロセスがあると、私は考えています。
まず第一に、人間が地球上のあらゆる物理現象に対して完全に正確な科学的知見を有すること。CO2のコントロールやウイルス対策やその他の災害対策でさえままならない現状では、物理現象の自在なコントロールも未来予測もとてもあり得ないでしょう。すべての物理現象を科学的に解明するだけでも、今後数百年から1000年ぐらいかかるかもしれません。天気予報でもするような感覚で、世界中の災害予報がテレビで毎日放送される日は、いつ訪れるでしょうか。
そのうえで、天変地異や気象現象を完璧にコントロールできる技術を開発すること(これだけでもプラス数百年?)。そこへ至る過渡的な段階として、降雨量不足や日照時間不足などによる作物への影響を解決する技術や、災害から人間を完璧に守る技術などの開発が必須となるでしょう。
さらに、そうした科学技術を駆使しなくとも自然現象をコントロールしたり予測したりできる能力を相当数の人間が身に着けること。これができて、初めて私たちは科学とスピリチュアリティを完全に融合させることができるのかもしれません。もちろんここには、「時間」のベクトルに対する理解の深まり方も絡んできます(これでさらに数千年?)。
余談ですが、もしあらゆる人が(あるいは、ほとんどの人が)本当にこうした能力を(程度の差こそあれ)身に着けたら、人間の平均寿命は数百年単位(つまり亀仙人?)になっているかも。

■死後の世界と魂の永続性

Q:死後の世界とは本当に存在し、人間の魂は肉体の死後も永続し、再び肉体に宿るということを繰り返しているのか?

その可能性は大いにあると思います。
むしろこの分野は、そうとしか考えられない証拠や証言が多数出てきている以上、「ある」という前提に立った客観的な研究ないし検証の対象と見るべきだと、私は思っています。
一方、専門の研究者でない私たち一般の人間にとって重要なことは、「人生は一回では終わらない」「私の魂は、この生を始める以前から、何かを経験し、何かを学んでいる」「私は、何らかの課題や、固有の目的をもって生まれ変わっている」と考えることで、自分自身の生き方や他人の人生への理解がどのように深まるか、という点です。
また同時に、「私の魂が地球上で転生を繰り返しているとしたら、それ以前はどこで何をしていたのか?」といった空想に想いを馳せることで、自分の意識がどのように拡大(上昇)するのか、といったことも興味深いところです。

さて、瞑想、チャネリング、ヨーガといった分野が最後に残りましたが、こうした精神修養につながる営為に関しては、改めて掘り下げるつもりですが、ここで一言だけ言っておくなら、退行的(下降的)な傾向の持ち主がこの手の営為を行えば、結果も退行的になる(質の低い、次元の低いものになる)ということです。たとえば、唯物論者が瞑想を行っても、最も高い霊的次元には決して至らないだろうし、逆に、霊的修行を積んでいるはずの宗教家の中にも、低いスピリチュアリティしか示さない人もいます。どちらも退行的であることにかわりはありません。

■私のスタンスは「主観」

この辺で、私自身のスタンスをはっきりさせておきましょう。
私は特定の宗教を信仰しているわけではありません。だからといって、無神論者でもありません。ついでに言うと、科学信仰も持ち合わせていません。当然、唯物論者ではありません。科学的な知見とスピリチュアリティを安易に結びつけてしまうことにも慎重な立場です。
「~ではない」ということばかり申し上げましたが、では「何者だ?」と言うと、私がもっとも重視していることは個人のリアリティです。主観と言っても構いません。ただし、「客観」に対立する「主観」ではありません。「客観性こそが科学的態度だ」という考えによって、隅に追いやられた「主観」です。あるのにないことにされている「主観」です。したがって、「主観」を重視しているからといって、「主観」にとどまっていたいわけではなく、個人主義を奨励しているわけでもなく、すべての人の考えが平等(等価値)だとも思っていません。すべてが平等(等価値)だとする一種の「相対主義」こそが「ドグマ」であり、ドグマこそが「主観」を隅に追いやっている原因だとも考えています。それと同時に「主観」(「個」)から出発しない限り、「全体」には至れないとも考えています。

■私の経験していることは「幻覚」か?

私は、肉体を持たない多次元宇宙の霊的存在(意識体)と名乗る存在たちと触れ合う経験をしていますが、彼らの実在について、完全に信じてもいませんし、完全に疑ってもいません。あくまで主観的な経験であり、彼らの客観的実在を証明しようとも思いません。実在するかしないか、どちらの可能性もある、というニュートラルな認識に(今は)とどまっています(彼らには、「疑いたいだけ疑えばいい」と言われますが・・・)。
ただ私は、個人的(主観的)にそういうリアリティを生きている、ということは疑いようがありません。もっと言えば、それは私にとって、豊かな内面を生きているということでもあるので、そういう自分を否定したりしませんし、その信憑性を人に押しつけもしません。
こういう私を、統合失調症の類ではないか(幻覚を見ているのではないか)と疑う専門家もいるようです。
そういう専門家に対して、私はひとつの問題提起をしたいと思います。
私が経験していることが、百歩譲って病的な「幻覚」だとしましょう。しかし、私はその幻覚に「悩まされている」わけではありません。「見たくないのに現れる」なら、それは悩みのタネでしょうが、むしろ私は自分から求めに行っています。そして、求めに行くことで、明らかに自己成長につながっている、という実感を抱いています。そして、私が求めることで、彼らとの関係性も進化(深化)しているという実感も抱いています。この実感を専門家に言わせると、「幻覚が人を育てる」ということになるのでしょうか?
私は、彼らが私の「幻覚」ではない、という論理的整合性を持っていますが、説明が長くなるので今は省きます。
私にとってもうひとつ重要なことは、彼らとの触れ合いによって、長年苦しんでいた致命的な慢性病が治ってしまった、という紛れもない事実です。少なくとも、現代西洋医学には治せませんでした。それどころか、この経験によって、現代医学の盲点まで見えてきました。ごく簡単に言ってしまえば、人はなぜ病気になり、そしてそれが癒えるのか、といったことも、物理現象、あるいは生命現象だけで捉えるなら、答えは出ないだろうということです。このことについても、いずれ詳しく述べようと思います。専門家はこれをどう解釈するでしょうか。聞いてみたいものです。

■「チャネリング」について一言

私は、多次元宇宙存在との触れ合いによって、メッセージを受信し(メッセージを受け取ることは、彼らとの関係性のほんの一部にすぎませんが)、重要(私個人にかかわるだけでなく、全人類にかかわるもの)だと思われるものは発表することもあります。たとえば、上述のような、「神話に登場する怪物退治の英雄とは、自分の影と闘う地球人自身の(滑稽な)姿に他ならない」といったことや、「時間」の概念に関してなどは、彼らから伝えられたことです。
しかし、私にとっては情報の出所は大した問題ではありません。内容の真偽を問われるなら、それはいくらでも議論の俎上に乗せましょう。それは、内容の真偽を、私自身が常に検証している、ということでもあります。したがって、発表したメッセージは、私自身の考えだと思ってもらって構いません。
蛇足ながら、チャネラーを自任しているあなたに申し上げておきます。もしあなたの受信したメッセージに、科学的(唯物論ではない)に言ってまったくあり得なかったり、人類に対して、あるいは地球に対して、必要以上の介入を仕掛けてきたり、恐怖心や危機感を煽ったり、ある種の期限を区切って、何かの準備をさせようとしたり、「何年何月にどこそこで何が起きる」といった予言めいたことが含まれていたり、あるいはあなたのチャネリングにある種の「物質化」が含まれていたりしたら要注意です。こうしたことが出てきたとき、人は対処に困るはずです。誤解を恐れずに一言で言うなら、これらはすべてマインドコントロールの手口です。
メッセージの真偽を問うときに最も重要なことは、そのメッセージがあなた自身の、あるいは人類全体の成長や進化に寄与するか否か、ということです。人心に困惑や混乱を招くなら、それは成長や進化とは逆向きです。
チャネリングにおいて最も重要なことは、その営為によってあなたの心と身体に「エネルギーシフト」が起きるかどうかです。チャネラーには大きく分けてトランスチャネラー(チャネリング中、本人に意識がない人)とコンシャスチャネラー(意識を伴ったままチャネリングする人)の二通りいます(私は後者)。トランスチャネラーの場合、本人に意識がないので、その間の記憶はないでしょうが、エネルギーに変化があるかどうか、そばにいる人ならわかるはずです。トランスチャネラーなら、自分に何が起きているのか、本人がいちばんよくわかっているはずです。

私自身のスタンスについては、今はこのぐらいにしておきます。


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