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そして「日常」に。

オーストラリアの季節が冬から春へと変わるように、自分の生活も日本式からオーストラリア式に移り変わり始めました。
朝起きてGood Morningと言い、出かける時には「Have a good day」という。大学でも「おつかれ~」ではなく、「Hi how are you?」と声をかける。
お店での支払い時もクレジットカードをかざすだけ。

そんな、オーストラリアの滞在が1か月を過ぎ、帰国まで残すところ数日になりました。

あっという間だったというのが正直な感想です。
今回は、実験手法を習うというのが主目的でした。その手法を完全に習得したというわけではないですが、日本で実験を始めるにあたって十分なことを学ばせてもらったと思います。
人間とは欲深いもので、もしもっと時間があったのなら、その手法を使って、実際の研究を始めるというところまで踏み込めたのかもしれないと考えてしまう。でも、今回の目的は「日本で実験を始められるように基礎を習う」ということなので、その目的は十分に達したでしょう。

それに大きな収穫として、意外と海外の大学でも研究できそうだということを肌感覚で学べたことは大きな財産です。
初めて海外に出たのは高校2年生の海外研修の時。それまで「海外」といえば、「遠すぎていけない場所」と進学先どころか旅行先にすら上がらない場所でした。
研修旅行の3日目の地域ごとの自由時間に古い町並みを自由に散策した時、日本とは異なる歴史や価値観によってつくられたどこまでも広がる街並みに興奮を覚えたことと、「海外にも行けるんだ」と実感したことをよく覚えています。
それから実際にベトナムや、ヨーロッパ、インドなどを訪れるようになったので大事な転機でした。

とはいえ、それは「遊びに行く場所」としてのこと。自分が海外の大学に滞在して何かを学ぶという未来は、難しすぎると考えてすぐに消えてしまいました。
実は、大学院浪人している時にも海外の大学院への進学を少し考えましたが、日本語でも大変そうな博士論文を英語でディスカッションしながら書くのは無理だろうなと臆病になり逃げました。

今回1か月滞在してみて、自分の英語力でも指導教員の言ってる内容を(き返しながらでも)理解して実際に手を動かすことができるとわかったし、自分の考えも伝えられないこともない(伝えられると断言できるほどではない…)とわかりました。

高校生の時の散策時と同じように、自分の人生に新たな選択肢が追加されたのだと思います。海外で研究者として生きる道もあるのかもしれない。

高校や大学に入学した時はドキドキしながら構内を歩いていたけど、1か月もすれば日常になる。人生はそんな変化と日常化の連続。

自分の人生がどこまで行けるのかは、その変化と日常化を何度経験できるのかに拠っているのかもしれない。

多分数年前の自分であれば「変化し続けることを日常に」と表現していた気がする。でも今の自分からすると、それは手段が目的になっているし、一つ一つの大事な変化を軽んじているような気がするのであまり好みじゃない。
今の自分の好みでいうのなら、必要な時に新しい場所に身を置いてその場に適応することをためらわないという意味を込めて、「流れに乗るのをためらわない」

頂いたサポートは、南極の植物を研究するために進学する大学院の学費や生活費に使わせていただきます。