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読書まとめ『はじめてのスピノザ』→個々の自己理解と変化のために実験しよう

『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』國分 功一郎

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000346995


一言で言うと

個々の自己理解と変化のために実験しよう



概要

17世紀の哲学者・スピノザについての入門書です。哲学の本をいくつか読んできましたが、その中でもスピノザはどうも異端児扱いされがちな人物で、興味を持っていました。

本書では、スピノザの特異性が下記のように評されています。

ありえたかもしれない、もうひとつの近代

たくさんの哲学者がいて、たくさんの哲学がある。それらをそれぞれ、スマホやパソコンのアプリ(アプリケーション)として考えることができる。
~中略~
頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない。

17世紀のヨーロッパ社会は、自然界の普遍的な原理・法則を見出そうとした時代でした。本書でスピノザと対比される哲学者デカルトをはじめ、ニュートンが近代科学を、ホッブズやロックが社会契約説を唱え、現代に続く思考のOSが作られたといえます。

一方、スピノザの考え方は、個人的な真理を追究したものです。公的なエビデンスを重視する近代科学とは異なり、主体や個人を重視していると感じました。

昨今のバズワード絡みで表現すると、スピノザの考え方は「多様性の哲学」と言えるかもしれません。著者は、近代の選択した方向性の矛盾が飽和点に達しており、スピノザ哲学がその問題を解決する手助けになると述べています。ダイバーシティの尊重に注目し始めた現代社会にこそ、スピノザ哲学は輝きを放つのかもしれません。

本書からの学びを3点で共有します。入門書でありながら、3点ではまとめきれないほどの学びある書でした。



① 善悪:活動能力を増減させる組み合わせ

善悪は事物それ自体にはなく、他の事物と組み合わせたときに生じるものとしています。生物にとっては、組み合わせたときに活動能力が増大するものが善、活動能力が減少するものが悪です。ユーカリの葉には青酸化合物が含まれるので、多くの動物にとっては毒になりますが、その毒への耐性を得たコアラにとっては善と言えますね。

自分にとって善になる事物を見つけるには、自分のコナトゥスの性質を知る必要があります。コナトゥスとは、外部の刺激に対して自分の存在を維持しようとする力です。例えば、他人に嫌味を言われたとき(外部の刺激)に、聞き流したり反撃したりヘコんだりする反応は、コナトゥスの作用と言えます。

スピノザは、コナトゥスの力こそが本質だと捉えました。力としての本質が変化しながらたどりつく各々の状態が欲望として作用するので、欲望は本質そのものになります。ニーチェの「力への意志」に通じる考え方ですね。

自分の身体が何をなしうるか、私たちはほとんどわかっていません。悩みがあるときには、本を読んだり、他者にアドバイスを求めたり、さらにはAIに聞いてみたり、色々な方法で対応策を集めることができます。しかし、それらの対応策が自分のコナトゥスに合うか、自分にとっての「善」であるかは、試行錯誤して見極める必要があります。

人によって、あるいはタイミングによって、同じ組み合わせでも活動能力の増減は変わります。かつての私にとって、お酒は善でした。20代のころは、人と話すことや自己開示が苦手だったので、お酒・飲み会のテンションに頼ることが多かったですね。そこで酒の味を覚え、家で一人で飲むことも多くなりました。今は対人スキルがそれなりに向上しているのと、お金・健康・時間を失うデメリットの方が大きく感じるようになったので、お酒が悪に傾き、ゆるめの断酒に自然と移行しました。



② 自由:自らの必然性に従うこと

前述のコナトゥスは、自分自身の必然性とも言い換えることができます。そして、これは本人もよくわかっていないことが多い。自分に合う組み合わせは何か、どんなときに楽しみを感じるのか、実験しながら学んでいく必要があります。

与えられた制約・必然性のもとで力を発揮することこそが自由だとスピノザは説いています。なんの制約もないことが自由だと捉えられがちですが、そもそも制約がまったくないことなどありえません。例えば私たちは、満員電車で腕を動かせなかったら不自由だと感じますが、右腕で右ひじを触れないことを不自由とは感じないですよね。人体の構造上の制約に従いながら、その可動域の中で腕を動かせる状態を自由と呼んでいるわけです。

自分のコナトゥスは自分にもよくわからないので、人は生まれながらに自由なわけではなく、自らを自由にしていくのだと表現されていました。赤ちゃんが、自分の身体がどう動くのか、自らの身体の必然性を学ぶように。よい教育とは、形式(エイドス)を押し付けるのではなく、生徒自身のコナトゥスを理解させ、自由への気づきを与えることなのかもしれません。

スピノザの考え方では、自由の反対は制約や束縛ではなく、強制です。外部の原因によって、何かができないことではなく、何かをさせられること。行動の原因が自分ではなく、外部になることとも言えます。動画の倍速視聴は、他にも視聴したいコンテンツがあるから等の外部の原因によって強制的に見させられている感があるので、自由ではないように思いますね。



③ 真理:自分を変化させる個人的体験

スピノザの主張は、真理を客観的に証明することはできない、と捉えられます。真理の基準は真理自身だから、見ればわかると。すべてを疑ったデカルトや、客観的なエビデンスに立脚する近代科学とは、真っ向から対立しかねない主張です。

スピノザの真理観は、自分と真理の関係だけを問題にしています。真理の獲得とは、ものごとを自分なりに認識し、自分に変化をもたらす体験です。他人を説得するとか反論を封じるとかは考慮していない、主観的・私的な真理と言えますね。19世紀アメリカで興ったプラグマティズムに近いのかも。

真理を獲得するためには、自分を変化させなければなりません。あくまでも自分=主体ありきの考え方といえます。一方で、デカルトは、真理を自分の変化から切り離して客観視することで、真理を単なる認識の対象にしました。デカルト的な考え方が近代科学の発展につながっているので、現代の私たちにはスピノザの考え方は理解が難しいところです…

また、何かを認識することは、その対象を認識することだけでなく、「自分の認識する力」を認識することでもあります。自分を知る・メタ認知とも言い換えられますね。例えば、歴史上の人物に対してどんな感情(尊敬、否定、同情など)を持ったかを分析することで、自分の価値観が見えてくる、みたいなものですね。



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1年近く前に読んだ哲学総論の本、読んだときに着目していたところが今回と似通っています。スピノザの哲学は、自分にとって「善」なのかも。



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