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『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(筆者:平野啓一郎)を読んで

 この本との出会いは、オードリー若林正恭さん著の「社会人大学人見知り学部卒業見込」の中で紹介されていたのがきっかけだった。
 若林さんみたいに独特な視点を持っている人が面白いという本とは一体どんな内容なんだろう?と興味を持ったところからこの本を手に取った。
 そして、この本を読了した頃には自然と平野啓一郎さんの作品を手に取っており、この本含めた平野さんの作品の大ファンになっていた。


本書の概要

<本当の自分>はひとつじゃない!
小説と格闘する中で生まれた、まったく新しい人間観。嫌いな自分を肯定するには?自分らしさはどう生まれるのか?他者との距離をいかに取るか?ー恋愛・職場・家族など人間関係に悩むすべての人へ贈る希望の書。

平野啓一郎 公式サイト

 私はこの「分人」という考えにとにかく感銘を受けた。
 ずっと霧がかったまま頭の中に漂っていたもやもやを、見事に言語化してくれたから。


「分人主義」とは

その中心には自我や「本当の自分」は存在していない。ただ、人格がリンクされ、ネットワーク化されているだけである。不可分と思われている「個人」を分けて、その下に更に小さな単位を考える。そのために、本書では、「分人」(divisual)という造語を導入した。「分けられる」という意味だ。

~中略~

分人は、自分で勝手に生み出す人格ではなく、常に、環境や対人関係の中で形成されるからだ。

私とは何か 「個人」から「分人」へ P68 L3
P69 L5

 つまり、「個人」(indivisual = 分けられない)を英語訳した場合、それ以上はその人を分けられないとされる。確かに肉体は一つであり、あくまでその人を特定する個体としては一個である。だが、様々な対人関係や本を読んでいる時の自分、映画を観ている時の自分などの自分はそれぞれ別の人格をしている。それも、中心にスイッチングする「本当の自分」が訳ではなく、その対象毎に無意識下で。その一つ一つを「分人」と”分けて”考えてみては?とするのが「分人主義」である。

「分人」の発生するステップ

 分人が発生するまでには幾つかのステップがあるとされている。
 この本では、以下のステップで分人は発生するという。
①社会的な分人

この最初の段階の分人は、「不特定多数の人とコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人」である。これを社会的な分人と呼んでおこう。社会的な分人は、私たちが、日常生活の多くの場面で生きている未分化な状態だ。

私とは何か 「個人」から「分人」へ P71 L10

②グループ向けの分人

社会的な分人同士の次の段階は、特定のグループ(カテゴリー)に向けた分人だ。

~中略~

社会的な分人が、より狭いカテゴリーに限定されたものが、グループ向けの分人だ。

私とは何か 「個人」から「分人」へ P75 L10
P76 L11

③特定の相手に向けた分人

「社会的な分人」と「グループ向けの分人」を経て、最終的に生まれるのが「特定の相手に向けた分人」だ。

私とは何か 「個人」から「分人」へ P77 L1

 「分人」について、本当にかいつまんででの記載で「理解が浅い!」「間違っている!」と言われるかと思うが。。
 一応はこれを踏まえて、自分がどう思ったか、考えたかを書こうと思う。


なんとなく感じていた「もやもや」

 思えば、学校でも家の中でも、(いまもそうだが)一人でいることの方が好きだった。特にいじめられている訳でもなかったし、学校の中で友人と話したり部活動したりすることをちゃんと楽しいと感じていた(①)。それでも、好きは好きで変わらないが、放課後まで一緒にいたいや休日にどこかへ遊びに行きたいかと問われるとそうではなかった(②)。誰か一人と話していること、もしくは3、4人で話すことはまだ大丈夫だが、それ以上となるとどうにも居心地の悪さを感じていた(③)。所属していた1年時のクラスは割と仲の良いクラスだったのだろう。卒業後もそのクラスでのミニ同窓会のようなものが催されていたが、どうにも気乗りせずに未だに行ったことが無い(④)。学生時代に何度か告白とかされたことがあるが、(当時は言語化出来なかったが)どうにも同じ学校(コミュニティ)内に恋人関係にある人物がいるのがなんとなくイヤでお断りした(⑤)。

 こうしてみると環境としては悪くない、むしろ良い環境だったのだろう。但し、周りの人はむしろやりたがっていることを自分は何故かイヤと感じてしまう。何故自分はそう感じてしまうのだろう?とぼんやりと考えていた。
 自分はズレているのかなーと考えながら、それでも独りにはならないぐらいのコミュニケーション能力はあったので、そんなこと考える自分自身に嫌気が差しつつも適当につかず離れずな関係で現在に至る。

自分なりの「分人主義」の適用

 ①~⑤までで感じていたことは大まかに分けると3つに分類されると思われる。
A⇒①・③・④:会話する人の人数:
B⇒②:そこにいなくてはいけない時間以外の時間
C⇒⑤:(基本的には)一人しか表せない、特定の関係性にある人物

 Aは、その会話する人数であろう。誰か特定の人と二人でいる時に、居心地の悪さを感じることは勿論あるが、そんなに多い方では無い。但し、これが学校でのクラス単位、部活動単位と人数が5人程度以上となると居心地の悪さを感じるようだ(そのため、そういった人数の多い飲み会などもあまり楽しいと感じることは少ない)。これは「分人」の発生するステップでいうグループ向けの分人が苦手なんだろう。他方、社会的な分人はグループ向けの分人よりも居心地の悪さは無い。恐らくこれは、相手に踏み込む必要が無い、一定の分人でいれば大丈夫なため居心地の悪さはそこまで無いのではないか、と考える。

 Bは、その分人でいる時間であろう。自分としては好きな友人(その友人といる分人である自分も好き)でも、長時間いることには苦痛を感じる。好きな分人でいられても、ずっと一緒に居られる人も勿論いると思うが、自分はそうではないんだろう。これは、分人毎でも差はあるが、そこではなく、自身の特性自体がそうであり、一人でいて映画を観たり、読書をしたりするときの分人が一番ラクでいられるということなのだろう、と考える(決して、他の分人がイヤという訳ではなく、誰かといる時の分人で好きな分人も勿論いる)。

 Cは、特定の相手に向けた分人、それも特定の関係性を持つ分人であろう。これも自身の特性として一対となる(彼氏・彼女や夫・妻など)分人が苦手なんだろう(分人とはまた別の問題かと思うが。。)。特定の誰かと仲良くなりたく無い訳ではない。私にも地元に帰れば毎回のように会い、離れていても時たま連絡を取り合う親友がいる。その人らといる時の分人は幸せだ。それは男女ともにいるが、かと言って特定の関係性になりたいとは思わなかった。
 また、社会人になり、恋愛についての話になった際に社内恋愛ってどう思う?という会話は多くの人がしたことがあるのではないかと思う。これについても自分は合わないと思われる。それは最初、単純に仕事にプライベートを持ち込むことは、プライベートの関係性が良し悪しが仕事のパフォーマンスにも影響が出ることは良くないことだと考えていた。但し、これも「じゃあ、ずっと仲良くいればいいじゃん」と言われそれもたしかに。。と説得力の弱さを自身でも感じていた。それを「分人」を通して考えるともう少し説得力が増すと感じる。
 つまり、社内の誰かと恋人関係となった場合、恋人といる時の分人を、普段は仕事の時の分人で接している人らに知られることとなる。それがイヤだったんだろう。それは学校内で恋人を作りたくなかったというのも同じだろう。「まったく関係も知られずに恋人関係であることも伏せておけばいいじゃん」と言われたが、これも分人の考え方で言えば、分人同士相互に影響し合うため、出来る人もいるだろうが、自分には合わなかったんだろうと思う。

まとめ

 こうしたモヤモヤを、この「分人主義」の考え方を採用することで、自分としてはこれらの「モヤモヤ」「なんとなく」が言語化され、納得を得た。
 そしてそれは、単純に嬉しかった。「あー、自分は変なんかなー」と考えていたが、「そうではない。それはあり得る考え方なんだー」と肯定してもらえたような気がした。自分全体が、人と同じ考え方を持てない、変わっている、ではなく、そう感じる分人もいるが、人と仲良く出来ている分人もいる。その分人を認めることで、イヤと感じる分人もそう感じない分人も、どちらもいていいよ、と思えすごく心が軽くなった。

 「分人主義」はツールだと考える。「分人主義」を採用することが絶対正しいとは思わない。但し、「分人主義」という考え方を通して自身の特性をみたり、対人関係を振り返ることの方が、自身の頭の整理がしやすい。
 分人の割合は刻一刻とかかわる人、本などによって変わる。もしかしたら事故などの突発的な経験によっても変わることがあるかもしれない。重要なのは、自身の分人の割合であり、またそれを把握、整理したうえで、自身がどう生きていくかを考えることにあると考える。


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