【連載小説】絵具の匂い 【最終話】ファストカー
絵具の匂い 【最終話】ファストカー
それからしばらくしたある日のこと、仕事を終えてフラットに戻るとセシリアもバイトを終えて帰って来ていた。彼女は俺の顔を見ると、もともとの自分のルーツでもあるヨーロッパに行くことに決めたのだと話を切り出した。
ヨーロッパと聞き、行き当たりばったりの半分旅行のような形で色んな場所を回るのかなとも思ったが、良く聞くと、そこはしっかり者のセシリア、補助金も出る芸術交換プログラムのようなものを既に探してきており最終的に大学の推薦も使ってフィレンツェという街に行けることになったようだった。
その半年間のプログラムが終わったら、母親の親戚がいるマルタにも行くつもりで、その先の事はその後考えると言う。
***
プログラムの日程は既に決まっており、あとはそれに合わせて渡航準備するだけだった。それからしばらくセシリアはカフェでバイトをして渡航資金をためながら準備を進め、俺は仕事の合間にそれを手伝った。
俺は旅行の手配には慣れていたので、初めて海外に出る彼女のためにパスポート申請や国際運転免許証発行の手続きを調べたりエアチケットを手配したりした。ちなみにオーストラリアで発行される国際運転免許証も、大きな灰色のボール紙でできたもので日本とほぼ同じ規格だった。そうかこれ、世界共通でダサいのか。エアチケットはとりあえず行きの便だけ予約した1年間のオープンチケットを手配した。
俺は自分が国外に初めて出た時の事を思い出した。
そういや俺の時は準備は一人でやって、出発の日も平日で誰の見送りもなかったけど今思えばそれなりに希望に満ちて充実してたなあ……
セシリアもそんな気持ちでいるだろうか。
旅行の手配というのは楽しいもののはずだったが、誰かが自分の元を去っていく準備と言うのはこういう気持ちなんだな、と改めて思った。
俺は、出発の日まで淡々と準備を手伝い、できるだけ一緒にいられる時間を大切に過ごそうと考えていた。
今のようなスマホや SNS もない時代、いわゆる電子メールは既にあったがそれでも連絡手段の主体は電話か手紙なので、物理的に離れてしまえば遠くにいる大事な人間ともどうしても疎遠になっていくのが常だった。第一、俺自身が日本の友人と何年も連絡していなかった。新しい生活が始まれば目の前のことに精一杯でそんな風になって行くものだというのは自分が一番知っていた。
***
出発の日が近づいてきたある週末に、久しぶりに二人で郊外のワイナリー(食事もできるワイン醸造所)にドライブに出かけた。この街の郊外は緑も豊かで車で走るのも気持ちが良い。こうしてセシリアと出掛ける機会ももうあまりないだろう。
走る車のラジオからトレーシー・チャップマンと言うアメリカの女性シンガーの唄声が聞こえてきた。
ラブソングのようでいて、「スピードの出る車でこの街(今の生活)から抜け出してどこかに行きたいが、一度はまり込んだ環境からは抜け出せない」というような現実を唄った Fast Car(ファストカー)と言う曲だった。その頃の多くのアメリカの社会的弱者の置かれた生活を代弁するような歌詞だった。
俺達はこの唄のような厳しい境遇に置かれた訳ではなかったが、
You gotta make a decision, leave tonight or live and die this way?
(さあ、そろそろ決めなきゃ。今夜ここを離れるか、それとも死ぬまでずっとこうしているのか)
というフレーズが耳に残った。
ふいに助手席の彼女が前を見たまま、Why don't you stop me? と言った。
二つの意味に取れるその言葉は「何故止めずに行かせてくれるの?」なのか、「止めてよ」なのかわからなかったが、俺が Yeah?(え?)と聞き返し彼女の方を見ると、彼女もこちらを見て少し微笑むと小さな声で That's alright. (なんでもないよ)と言った。
***
セシリアの出発の日がやってきた。空は青く晴れていた。
出発は午後の便だったが、早く起きた俺達はエスタの店に行って朝飯を食べた。もう70歳を越えるエスタは別れ際、名残惜しそうにセシリアの手をずっと握っていた。
フラットに戻り、そろそろ出かけようとセシリアのスーツケースとバックパックを車に積み込んでいると、車の傍らにどこからか茶色の猫がでてきた。フラットの窓を開けていると良く中に入ってくるようになり、セシリアに良くなついていた猫だった。セシリアは猫の喉を指で掻き上げるようになでると Take care, puss.(元気でね、猫ちゃん)と言った。
平日昼間の空港までの道は空いていた。バイトでツアーガイドをしていた時に、日本に帰る旅行者は空港で山ほど見送ってきたが、まさかこうしてセシリアを見送ることになるとは思わなかった。
チェックインカウンターでの搭乗手続きはあっという間に終わり、俺達はコーヒーを飲みながら、離れ離れになる時が近づいていることを意識しながらも、いつも通りの他愛のない話をして時間を過ごした。
登場時間が近づいてきた。出国ゲートに移動すると、俺はセシリアにこれまで色んな事で支えになってくれた事に礼を言った。セシリアは俺に寄りかかるようおでこを付けて俺の体に手をまわすと、体に気を付けるようにと言った。
彼女の手が俺の背中をぎゅっと握るのを感じると同時にこれまでずっと一緒だったセシリアの髪の匂いがした。
手を振りながらゲートの向こうに消えてゆくセシリアを見送ると、俺は空港の外の駐車場に戻り、Aircraft Viewing Area(航空機見学エリア)に停めた車の中からセシリアの乗る飛行機が飛び立つ様子を見守った。
***
セントキルダに戻ると、なんだか今日から一人暮らしになるフラットに真っすぐ帰る気にならず、海沿いのセーフウェイの駐車場に車を停めた。売り場の通路でカートを押しながら、「今日からは買い物は一人で食い切れる分だけにしなきゃな」と思い、長く持たない肉や魚は少な目にして、その分、久しぶりにプラムを買ってみた。
ここに来たばかりの頃はこのプラムばっかり食ってたよなあ……
薄いビニール袋にプラムを詰めながらセシリアと会ったばかりの頃の事を懐かしく思い出した。
レジにならんでいると、いつものように隣にならぶオバちゃんが俺に話かけてくる。この国では当たり前の習慣である。それ美味しい?とか、昨日どこどこに行ったら混んでたと言う様な、結構自分勝手な話題だったと思うが、俺はなんだか少し人恋しい気分になっていたのか、話しかけてきてくれたことがちょっと嬉しくオバちゃんのその話に付き合った。
ここに来たばかりの頃は知らない人とこんなに話せなかったよなあ……
考えてみると、俺がこうして話しているこの言葉はほとんどセシリアから習ったものなのだ。俺がこの国でこの言葉を話して生活する限り、これからも彼女は俺とずっと一緒にいるのだ。
駐車場に停めた車の後ろのハッチを開けて買ったばかりの食べ物を積み込むと、車はそのまま駐車場に残したまま、プラムの袋を片手に近くのビーチにある公園まで歩いた。
海の見えるベンチに腰掛けて買ったばかりのプラムを齧ってみるとまだ完全に熟していないようで少し酸っぱかった。日はもうだいぶ傾き、ポートフィリップ湾へと続く桟橋は夕日でオレンジ色に染まっていた。
俺が食べかけのプラムを足元に放り投げるとカモメの様な白い鳥がそれを咥えて海に向かい飛び去って行った。
(了)
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