心優しき香港のモヒカン男
しばらく海外に行けないでいるが、その間にどんどん様子が変わっちゃった国がたくさんある。海外からの観光者が減り経済が苦しくなってしまった国もあれば、政治的な問題で市民の自由が脅かされるようになってしまった国もある。香港のそのひとつである。
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随分昔の話になるが、生まれて初めて訪れた外国が香港だった。初めての海外渡航の格安航空券の乗り継ぎ地だったので、思い切って香港に何泊かすることにしたのだった。いわゆる返還前の香港なので20年以上前と言うことになる。
もちろん北京語も広東語も話せない俺は不安だった。手持ちの武器はNHKラジオで覚えたばかりの片言英語と素敵な笑顔だけである。しかし、さすが香港、行って見ると観光地や空港だけでなく道端の新聞売りのおじいちゃんにまで英語が通じたのである。
飯を食ったり、バスに乗ったり、フェリーに乗ったり、調子に乗ったりして夜の街にも出たが、とにかく俺の片言英語でなんとか不自由なく過ごせたのである。ま、多分知らないうちにぼったくられたりもしていたのであろうが、そこはまあ、あれである。
その後、働くようになってから、私用でも仕事でも幾度か香港を訪問したが、ある時気がつくと最後の香港訪問から10年ほど経っており、その間に「香港は意外に英語が通じない」という話を色んなところで耳にするようになった。そして、その10年ぶりの訪問ではそれをとても強く実感してしまったのである。
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久しぶりの香港だった。亜熱帯に位置する香港では、「冷房が一番のサービス」と考えられており建物の中や地下街はこれでもかというくらい冷やされている。空港や地下鉄も例外ではない。しかしその快適さも九龍(Kowloon=カオルーン)駅に着くまでだった。駅から外に出たとたんムッとした熱気に包まれ、その湿気で一瞬にして眼鏡が白く曇った。そしてしばらくすると全身から汗が噴き出してきた。久しぶりの香港だったが街並みはそれほど変わっていない。俺は以前香港に来ていた頃と同じ調子で何日か過ごした。
そして、週末がやってきた。週末は特に人に会わず一人で過ごす予定でいた。
俺は早起きして、近くの食堂に朝粥を食いに行って見た。地元の皆が行く店と言うだけあって、ザ・ローカルという感じの飾りっ気のない石で出来た様な佇まいである。俺は出された水を飲みながら、何かお勧めがあるか聞いて見たが、そこの店番の若い女の子は全く英語が通じないようだった。しかし、英語はまだ公用語のはずである。
(俺のしゃべり方が悪いんだろうな)と思って
「ホワット・ドゥー・ユー・リコメンド?」(何かおすすめありますか?)
とゆーっくり言って見た。もちろん顔は素敵な笑顔である。
しかし女の子は漢字がびっしり書かれたメニューを俺に渡し何か言うだけである。俺は素敵な笑顔の保持で精一杯である。結局俺は「粥」という字だけを手がかりに、適当なヤツを指差し注文して朝飯にありついたのだった。
しかし評判の店だけあって、鳥の出汁の効いた薄味のお粥は美味しかった。俺は金を払いながらまたちょっと英語で話しかけて見たが、返ってきたのは広東語(たぶん)だった。
(そうか、こういうとこ英語あんまり通じないわけか … )
その後は、日本で良く休日にしているようにカフェでちょっと勉強でもして見ようと思いマックに行って見た。香港マックは日本よりずっと IT化していた。
店に入ると大きなタッチスクリーンを設置したATMみたいなブースがずらっと並んでいる。そこで画面をタッチして欲しいものを注文したら、あとはカウンターに呼ばれるのを待つというシステムなのである。実に近代的と言えよう。最近、日本のファミレスや居酒屋にもあるタッチパネル注文方式。あれの親玉みたいなヤツである。
俺はそれを見て、「香港の街は、さっきのお粥屋さんからこんな電子バーガーまでが違和感なく共存していて、東京なんかよりよっぽどブレードランナー的だよなあ」などと一人しみじみと感じたのである。
マックの中も一言で言うと寒かった。冷房効きすぎである。そして店の中を飛び交う広東語は実にうるさい。普通に話をしているのだろうが喧嘩をしているようである。
俺は、どうせ誰もわかんないだろうから、「うっせーなあ!」と言って見た。でも万が一の事を考えて、顔は素敵な笑顔である。しかし俺の小さな声など直ぐに広東怒号の中にかき消されていた。
日本から持ってきた耳栓をしても、音はゼロにはならなかったが、意味のわからない雑音の中での勉強は意外にはかどった。俺は体が冷え切る前にマックを後にした。
その後、我が心の師である李小龍(ブルース・リー)の銅像を見に行ったり、友人の土産にタイガーバームを買ったりすると、休日らしい気分転換になった。しかし、ドラッグストアの女の店員さん達にタイガーバームがあるかと聞いても、これまた全く通じなかったのである。
「タイガーバーム、ユーノー? オイントメント、オイントメント!」
と俺が言うと、なんか「いやだー、変なこと言って」みたいな顔で二人で顔を見合わせて笑うのである。オイントメントは軟膏と言う意味のはずだが、どんなエッチな言葉に聞こえているのだろうか。
結局、最終的に俺が、缶をパカッと開ける真似をして、人差し指をつっこみそれを顔に塗るジェスチャーをして「ガオー」と言ったら、やっと一人の店員さんが頭上に電球が現れたような表情をして、俺を売り場に引っ張って行ってくれたのだった。売り場に並んだ箱にはちゃんと英語で TIGER BALM と書いてあったが皆中国語の製品名で呼んでいるようだった。
(うーん、街のど真ん中の店でもこんなもんか。こりゃ結構不便だな。)
しかし、俺がビジターなので文句は言えない。次回はもう少し準備して基本的な用が足せるくらいの言葉はちゃんと調べてから来ようと思ったのである。
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さて、買い物を済ませた頃には、いつの間にか日が暮れて対岸の香港島のネオンが光り始めていた。俺は閉園前の九龍公園を少し散歩した後、尖沙咀 (チムサーチョイ)の繁華街で飯を食うことにした。
手ごろな広東料理のレストランがあったので入ると店員さんが席に案内してくれた。みやぞんをモヒカンにしたような兄さんである。しかしモヒカンの高さがハンパない。20センチはありそうである。
なぜ広東料理店にモヒカンなのか。俺はあたりを見回したが、他の店員さんは結構常識的中国系おじちゃんなのである。もしかして名物男的キャラなのであろうか。しかしこのアメリカンな髪型からして、英語は期待できるのではないだろうか。
みやぞん(仮名)は俺を地元客と思ったようだった。何故なら俺がメニューを指差し英語で話しはじめたら、一瞬「ん?」という顔をしたのである。みやぞんもあまり英語は得意ではなさそうだった。しかし、みやぞんは広東語に英語を交えながら一生懸命答えてくれた。
すると奥の方からそのやり取りを見ていた一人のウエイターが、「はいはい、ボクの出番のようですね」という感じでゆっくりとテーブルに近づいてきたのだが、それを感じた男みやぞんは右手をピシャリと下げて「おまえ、こなくていいかんね」というサインを送ったのだった。
多分、地元客と外人客担当のような感じで役割担当が決まっているのだろうが、みやぞんは「ここは俺が頑張る」と思ってくれたのだろう。
みやぞんは根気良く、一生懸命身振り手振りで説明してくれた。おお、こういう人もいるのか。俺は心を打たれた。
俺は彼が話し終わったようなので、注意深く彼の眼を見ながら、海老油炒め的料理と野菜的料理を指差し、最後に青島ビール(チンタオビール=青島啤酒)を頼んだ。この青島ビールという単語が俺とみやぞんの間で初めて通じた言葉だった。
「アンド、チンタオビア!」と俺が最後に言うと
「オーケー、チンタオビア!」とみやぞんが答えたのである。
俺とみやぞんの心が触れ合った瞬間である。そしてみやぞんはホスピタリティあふれる男のようで、俺の選んだ海老料理の写真を指差し少し険しい顔をして何か言いながら首を横に振った後に、別の海老料理を指差して満面の笑みを浮かべて何かを言ったのである。
わかりやすい。これはわかりやすい。いかに鈍い俺でもこれはわかる。どう考えても「こっちの方が美味しい」ということだろう。
俺は後者を指差し、「オーケー、オーケー」と言ったのだった。みやぞんの返事も「オーケー、オーケー」である。髪型の違う男達の心に国境を越えたラポール(心の架け橋)がさらに築かれた瞬間である。
そして最後にみやぞんは、メニューの「白飯」という文字を指して俺の目を見て、少し心配そうで悲しそうな表情を浮かべた。
もう、皆まで言うな。俺の頭の中にはみやぞんの「ご飯を頼み忘れてない?」という声が響いていた。俺はその気遣いが嬉しく、それならばと「白飯」ではなく「炒飯」の文字を指差した。
みやぞんは「オーケ、オーケ、オーケーーー!」と言いながらメニューを小脇に抱えて奥に消えていった。頼もしい後ろ姿だった。そして、出てきた料理は全て最高に美味かった!
俺は通りがかったみやぞんに、親指を立てて見せた。みやぞんも、俺に親指を立てて見せた。もはや俺達は、トップガンで見た、戦闘機のパイロットと機体誘導員くらい心が通いあっていた。
俺は出された料理を平らげるとみやぞんに礼を言い店を後にした。みやぞんは笑顔で俺を見送ってくれた。
***
街はまだまだ賑やかだったが少し涼しくなっていた。人ごみの中を歩きながら「しかし、食ったなあ」と呟いたところで俺はチップを渡し忘れたことにハタと気がついた。
(ああ、失敗したなあ ... )
俺は、帰る前にもう一度その店に行き次は二回分のチップを渡そうと心に誓いながら、尖沙咀の地下鉄駅に続くエスカレータに乗った。
(了)
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