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バルセロナのドクター・キリコと梅沢富美男

目と眉毛、そして家と仕事場は近いほど素敵である! 異論のある方もいるかもしれないが、これは俺がある体験から導きだした結論である。どういうことかって? こういうことである。

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俺がもうちょっと若かったある夏の事だった。1年おきに開催されているある学会の総会に参加することになった。その年の会場はスペインのバルセロナの近郊の街だった。


I💗海外出張アイラブかいがいしゅっちょう

俺は昔から海外出張が好きだった。もしも、I💗海外出張 と書かれたTシャツがあったら、恥ずかしいけどもしかしたら着ちゃうかもしれない。それくらい好きなのだった。

基本的に、行先どこでも大丈夫マンなので、どこに行く時でもそれなりに張り切って行くのだが、そうは行っても出張先には微妙にアタリとハズレがある。しかしスペインはアタリの中でもかなり上位のアタリで、俺の心は弾んでいた。

遠い昔にオリンピックの中継でしか見た事のないあの美しいバルセロナで仕事である。これは期待できる。しかも単独で学会がらみの出張となるとかなり自由に予定が組める。

俺は飛行機やホテルの手配をしつつ、夜の文化的な調査も怠らなかった。いや、そういうディープな夜の調査ではなく、普通の食事処や酒場などである。俺は全く邪な気持ちのない清らかな心でナイトガイドなどを隈なく検索した(やけにいい訳がましい)。

調べてみるとバルセロナ地方の人々はカタルーニャ語を話し、自らをカタルーニャ人として、いわゆるスペイン人と区別していると書いてあった。人々の印象はいわゆる典型的なスペイン人とやや異なり、イスラム文化の影響なのか、あまり無駄な愛想がなく、おとなしめだと言う。
(なるほど、そうなのか。それはまたエキゾチックな感じだなあ)
俺は期待に胸を膨らませた。

ドクター・キリコと梅沢氏

出発の日、成田空港ターミナルでチェックインを済まし、スマホで現地の天気予報を見ると東京よりちょっと寒いようである。もしかしたら夜冷えるのかもしれないなと思い、空港内のユニクロで、一番薄くて丸めるとペットボトルくらいのサイズになる上着を一枚買って搭乗ゲートに向かった。

今回の学会は医療系の学会だったのだが、搭乗ゲートには顔見知りの医師、技師、装置メーカーの人々の顔がちらほら見えた。こういう学会や展示会がらみの出張の時は、皆大体同じような現地入りのスケジュールになり、また業務上の移動のため JAL や ANA など国産エアラインを選ぶことが多い。そんな訳でおのずと空港ゲートで知り合いと顔を合わせることが多かった。

「一緒の便ですね」

声をかけられ、そちらに顔を向けると、知り合いの若い外科医と、にこやかなオジサマが立っていた。

瘦せ型サラサラ長髪のドクターは見た目ブラックジャックに出ていたドクター・キリコのような風貌なので、この話の中ではドクター・キリコと呼ぶことにしよう(漫画に出てくるドクター・キリコは安楽死を得意とするアウトローの訳アリ医師なのでちょっと不謹慎だが、風貌が似ているのでお許し頂こう)。しかしそんなクールなドクター・キリコも、ヨーロッパにはこれまで縁が薄くスペインは今回が初めてなのだと言った。

「今回学会で発表する内容は、医療機器がらみの共同研究なので機器メーカーの方も一緒なんですよ」

ドクター・キリコは、そうと言いながら、傍らのにこやかなオジサマの方に目を向けた。

その外資系医療機器メーカーの部長は昔ヨーロッパに駐在していたこともあるとの事だったが、見た目は梅沢富美男氏を思わせるベテラン・オーラを発するオジサマだった。何のためなのか小指の爪だけ伸ばしており、まあそこがヨーロッパ風と言えばそうかもしれない。ヨーロッパの人が小指の爪を伸ばすかどうかは知らないが。

梅沢氏にとってドクター・キリコは共同研究者とは言え、客に当たるはずだったが、親子ほど年の離れているせいか、ドクター・キリコに対して特に媚びることもなく普通に、というかやや横柄に接している様子がうかがえた。しかし、そんな態度が嫌味に感じられないところも梅沢風味だった。

「私にとってヨーロッパは庭のようなもので、スペインは中庭のようなもんですよ。大丈夫、大丈夫、先生、なんでも任せて頂戴」

梅沢氏は、上手いような、よくわからないような大見得を切っていたが、基本的に明るく楽しい人のようだった。

梅沢氏とドクター・キリコは「むこうでもよろしくお願いします」と言いながら搭乗口の人混みの中に消えて行った。

カタルーニャ到着

そして乗り継ぎを含め東京を出て約16時間、スペイン・バルセロナの玄関口であるバルセロナ・プラット空港に到着した。時差対策のため、積極的に飲み食いしながら体を昼状態に保ちつつ、アクション映画、恋愛映画、踊るマハラジャ・インド映画など見続け一睡もしないように過ごしてきた。

その時点でかなりくたびれていたが、これでこのまま夜まで起きて過ごせば更に疲れて、その後は翌朝まで熟睡できるという作戦である。これをしくじると、昼眠く、夜寝付けない出張になってしまうので、飛行機に乗ったらなるべく計画的に行動するのがお勧めだ。

そんな訳で到着したプラット空港。見回すと現地の人々は皆それほど長身でもなく我々と背格好はそれほど変わらなかった。髪も黒い人が大半で肌の色もまあそれほど変わらない。着ているものもそれほど変わらない。

しかし、どこかが我々と決定的に違うのである。どこなのだろうか。遠目に見ても直ぐに見分けがつく印象の違いがある気がした。

そんなことを考えながら、スーツケースがグルグル回るカルーセルに行くと、ドクター・キリコと梅沢氏も荷物を待っているのが見えた。

荷物を受け取る間に話をしていると宿泊は一緒のホテルだということが判った。これはそれほど珍しいことではなかった。学会がまとめて押さえた幾つかのホテルを、特別料金で参加者に当てがうことが多いので、予算が同じくらいだと同じホテルになることも多いのだった。

そんな訳でホテルまでのタクシーに同乗させてもらったのだが、ホテルにつくと、さすがベテランの梅沢氏、スペイン語で何か言いながら長財布から金を出すとスッとタクシーの支払いを済ませてくれた。

「小さな店やバル(酒場)やタクシーではカードが使えないところが多いので、ユーロの現金をたくさん持っておくのがコツなんですよ」
と「スペインが中庭」の梅沢氏は言うのだった。

スペイン語を少し話す梅沢氏はなかなかカッコよく、俺は見直した。スペイン人とまでは行かなかったが、南米の日系人くらいには見えてきた。

ホテルについてもまだ日が高かったが、部屋に入ると眠ってしまいそうだったので、梅沢氏とドクター・キリコを誘い少し街に出てみることにした。

サグラダ・ファミリアとバルの早変わり親父

梅沢氏のお勧めで、かの有名なサグラダ・ファミリア聖堂に行ってみることになった。ホテルから地下鉄で数駅だったが、公共交通機関はわかりやすく迷う事もなく、また街の通りも京都のように碁盤の目状で実に明快だった。とても異国情緒溢れる清潔な街だった。ここから少しの間スペイン観光ブログ風になってしまうかもしれない。

サグラダ・ファミリアは想像の何倍もデカかった。この聖堂は、ご存じのとおりアントニア・ガウディの設計により永年建築中の大聖堂である。1882年に着工以来、その時点でもまだ建築が進んでおり、元々2256年完成見込みだったものを、ガウディ没後100周年の2026年完成を目指すように最近軌道修正したと書かれていた。

しかし、230年の工期前倒しなんて、鹿島建設と大林組を一緒に呼んでも無理じゃないのかと思ったのだが、中に入ると冗談抜きで重機がずらっと並んでいるのだった。俺は、髪を後ろに束ねたような職人がこつこつとノミで石を削っている姿を想像していたので、聖堂の中で爆音と共にクレーン車やユニックが動きまわっている姿は意外だった。なるほどこれなら何百年か前倒しできるのだろう。

入場料は12ユーロだったが、その資金で十分に建築と修復作業をまかなうことができるとのことだった。確かに聖堂の外の行列からすると一日に10,000人くらいは軽く入場しそうな様子だったので、それで計算しても毎日1000万円くらいは収入があることになる。それまで名前だけしかしらなかったサグラダ・ファミリアだったが、こうして一度見ると完成まで見守って見たいという気になるのだった。

世界遺産を見て満足した俺たちは聖堂近くのバル(飲み屋)に入って赤いラベルの地元のビールを飲んだ。そこまで歩いてすっかり腹が減った俺達だったが、そのバルの親父さんに食事ができるところがないかと聞くと、「隣がレストランだが昼でも頼めば食事ができる」とのことだった。そこで「じゃあ頼んでもらえますか」と聞いたところ、OK だと言う。

そしてビールを飲んで勘定を済ませ、隣のレストランらしき店に入っていくと、そのさっき話したばかりの親父が蝶ネクタイを締めて奥から出てきたのだった。

笑うところかと思ったが、特に冗談でもなかったようで、涼しい顔で我々からオーダーを取ると、その後の調理も自分でやってくれているようだった。その、「早変わり親父」の作ってくれた、何か肉を焼いたような料理は非常に美味かった。

そんな訳で初日はぐっすり寝ることができ時差ボケ解消に成功し、翌日からの学会は順調に仕事をこなすことができた。日中の学会聴講や併設展示での取引先との打合せも無事に進行していった。

そして学会2日目、俺は学会場で見かけた梅沢氏とドクターキリコを誘って、その夜フラメンコを見に行ったのだった。

タブラオと長財布

そこは、かなり大きなタブラオだった。タブラオというのはフラメンコのショーを見れる場所なのだが、このタブラオという言葉、もともとスペイン語で「板」を意味するタブラ(tabla)と言う言葉が由来とのことで、フラメンコのできる板張り舞台のあるレストランや酒場をタブラオと呼ぶのだった。

恥ずかしながら、フラメンコというと女性の踊り手のイメージしかなかったのだが、そこで初めて男の踊り手もいることを知り、その踊りを見て迫力にぶっ飛んだのだった。男性の踊り手はバイラオール (bailaor)、女性の踊り手は バイラオーラ (bailaora) と呼ぶのだと言う。

ちなみに男性の歌い手はカンタオール (cantaor) 、女性の歌い手はカンタオーラ(cantaora)である。これもまたなんとも日本人には出せそうもない何か喉の奥に鞣し皮(なめしかわ)でも入っているんじゃないかと思うような、頭に直接響いてくるような渋い声である。

そのほかにもギタリスト、手拍子(パルマ)を叩く人なども加わり、一体となって音楽と踊りが目の前で繰り広げられて行く。踊り手が板を踏み鳴らす音が鼓膜を破くような大きな音で体全体に響いてくる。ライトを浴びたバイラオール(男の踊り手)からは回転する度に汗が飛び散るのが見える。

俺はしびれっぱなしだった。フラメンコギターは通常のギターよりも弦高が低く、わざとビリつくような雑音が出るようになっているとのことで、その音色も新鮮だった。やはりなんでも本場で見てみるものである。圧巻だった。

ステージが終わり、入れ替えのため場内は移動する人で混雑していた。興奮も冷めやらず、ただ茫然としている中、梅沢氏が追加の飲み物などの会計をしてくれた。さすが頼れる座長である。その姿は板についていた。

しかし会計を終え、かなり飲んで良い調子になっている様子の梅沢氏は、「ちょっとトイレに行ってくる」といい、長財布を無造作に尻ポケットに突っ込むとごったがえす人混みの中をトイレに向かって行ったのだった。

その後ろ姿を見てなんだか危ないなと思ったのだが、「スペインは俺の中庭だ」というような人にアドバイスするのも失礼な気がして俺は何も言わなかったのだ。

ドクター・キリコも生のフラメンコは初めてだったとのことでいつになく饒舌だった。俺たちはテーブルで話をしながら梅沢氏を待っていた。

しかし嫌な予感は的中していた。テーブルに戻ってきた梅沢氏は
「じゃ、行きましょうか」と言ったが、しばらくすると、「あれ?あれ?あれ?」と言いながら全身を探るように叩き始めたのだった。どうやら長財布が見当たらない様子だった。

自分の胸や腰をパタパタと叩きながら、首をかしげてゆっくりと回るその姿はまるでフラメンコのバイラオール(男の踊り手)のようだった。踊りのキレは100倍悪かったが。しかし、そんな冗談を言うのも気の毒なくらい梅沢氏は慌てており、俺たちも店のセキュリティに聞いたりしてみたが、そのようなものは届いているはずもなく、梅沢氏はがっくりと肩を落としたのだった。

しかしその後、店の人も色々と調べてくれたようで、なんと女子トイレの屑籠の中に長財布が捨てられているのが見つかったのである。クロークの人が持ってきてくれた長財布を梅沢氏が中を開いてみると、現金は全てなくなっていたがカード類はそのままだった。スリやひったくりは、足のつくようなカードは取らずに捨てることが多いとのことだった。直ぐにトイレの屑籠に捨てるというのも定番らしかった。

梅沢氏にしてみれば、現金はかなり取られたようだがカード類が戻って来たので大喜びで、その頬を赤らめて小おどりしていた。その今度の踊りはフラメンコ風ではなく、どちらかと言うと和風の踊りだったが、なかなか感動的だった。

その長財布は出番の終わったバイアオーラ(女性ダンサー)が見つけてきてくれたそうである。梅沢氏が是非お礼を言いたいというとクロークまで出てきてくれた。確かに先ほど舞台で情熱的に踊っていた若い女性の一人だった。さすが「スペインが中庭」の梅沢氏、スペイン語で何かお礼を言っていた。そのオルガさんと言う、彫りが深く手足の長い女性は「日本には行ったことがあり大好きな国です。またフラメンコを見に来て下さい」と言い我々を見送ってくれたのだった。

しかし、初めて生で見たフラメンコは凄かった。ドレスの裾を広げハイヒールのような靴を踏み鳴らし踊る女性ももちろん格好いいのだが、男性がまたカッコよかった。胸をはだけたようなシャツで汗を飛ばしながら床を踏み鳴らし回転する姿はやはりアジアでは見られないエキゾチックな魅力がある。そしてステージの照明に照らされ汗の浮かんだ彫りの深い顔は俺の頭に深く刻まれた。

梅沢氏の長財布事件のおかげで酔いが覚めたが、踊りを見た興奮は覚めなかった。俺は帰り道、完全にスペインの男になりきっていた。気分的にはもう薔薇を咥えている感じである。そしてホテルに入り酔った顔を洗おうと洗面所に入り鏡を見て初めて違和感に気が付いた。そう、鏡に映ったその顔の眉毛と目の間には明らかに余計な空間があった。そうか、この違いか! 俺は遠目に見て何故印象が違うのか納得した。

エル・フラメンコ

すっかりフラメンコの虜になった俺は、日本に帰ってから新宿にエル・フラメンコというレストランがあるのを知り、ちょくちょく通うようになったのだ。手頃な値段でスペイン料理が出され、本場スペインのダンサーがフラメンコを踊る姿を見ながら食事ができるのだった。

ギタリストや歌い手も全て本場の人だった。観客はやはり本場に比べると静かなのだが、ステージの迫力は本場そのものだった。

その日は、結構迫力のあるオバサマ風のバイラオーラがメインで、その踊りの迫力に圧倒されたのだが、そのステージにどこかで見た彫りの深い顔の女性が現れた。あのオルガさんだった。なんと世界は狭いのだろうか。

ステージの合間に近くを通った彼女に話しかけ、タブラオの名前を言い「友達が財布を無くした時に見つけてくれましたよね」と言うと、「あー、あの時の」と覚えていてくれたのだった。日本にはたまに来ており、今回も一カ月くらいはこの店でステージに立つ予定なのだと言った。

俺は、オルガさんがいるうちに一度梅沢氏を誘ってみようかなとも思ったのだが、なかなか実際にはそうは上手く行かず、そのうちにひと月が過ぎてしまったのだった。

***

世の中には色んな出会いがあるものだ。日本には、袖振り合うも他生の縁などという言葉があるが、明日誰に会い何が起きるかわからないところがこの世界の面白いところだ。

きっと今頃、オルガさんも梅沢氏も世界のどこかで元気に踊っていることだろう。



(了)

旅行記のようなことも書いてしまったのですっかり長くなってしまいましたが、最後まで読んで頂いた方には心からお礼を申し上げます。気に入ったら 💗 を押してもらえると励みになります。

他の海外出張がらみの話です。良かったら読んでみて下さい。


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