見出し画像

「模範的社会人」になるための自己啓発読書会 第一回ピーター・ティール『ゼロ・トゥ・ワン』


参加者【ブロードウェイ・ブギウギ(ブ) 金村(金) キュアロランバルト(キュ) ハイザワ(ハ)】

1.導入


キュ:ではまずは自己紹介からしますかね。まず僕から大学三年生で、主にフランスの現代文学や思想を学んでいます。好きな作家はフィリップ・ソレルス、ジャン・チボートー、吉増剛造などです。最近は佐川恭一の本ばかり読んでいます。
ブ:現在大学四年生で、春から哲学科修士に進み、バタイユの研究をしようと考えています。好きな作家は澁澤龍彦、夢野久作、加藤郁乎です。今日はよろしくお願いします。
ハ:早稲田大学に通っていました。今は普通に働いています。好きな作家は阿部和重と後藤明生です。
金:金村です。大学5年で留年しまして、今度卒業します。専門はレヴィナス、好きな小説家は保坂和志、多和田葉子です、最近は乗代雄介も読み始めました。
キュ:さて、始めますか。天皇たんおめ!
キュ:みなさんは天皇制についてはどう思いますか
ハ:眞子さまの結婚トラブル、ついに今上天皇が結婚に言及。人の結婚にガチャガチャいわれるのかわいそう。
キュ:ゼロ・トゥ・ワン的には天皇って独占でブルーオーシャンなので、技術力10倍以上の別の天皇を立てれば奪還できそうですよね。
ハ:技術力10倍
キュ:メカ天皇ですかね。
ハ:後継者問題も解決ですね
キュ:ティールの言うように競争相手がいると双方が疲弊するので天皇制も打倒できそうです。

2.ゼロ・トゥ・ワン


キュ:さて、本題に入りますか。みなさんはピーター・ティールを知っていましたか?
ブ:ニック・ランドがバタイユ研究をしていたので、それ経由で名前くらいは聞いたことがありました。
金:初耳でした。全然知らない。
キュ:ブギウギ さんはニック・ランドのバタイユ論の翻訳なさっていますよね。
ブ:まあ、翻訳というか試訳程度のものですが、もうモチベーションの維持が難しくなってきちゃって……。仲間がほしいところです。
キュ:木澤さんの本で有名になって文学界隈には知られるようになった人ですよね。木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』でも第1章が「ピーター・ティール」という題になっています。
ブ:ジェラールの弟子なんで、哲学もできる感じですよね。
キュ:適当にゆるふわな感想でもいいましょうか。みなさんは読んでみてどうでしたか。
僕は「資本主義と競争は違う」という話と独占とかの話は面白いなと思いました。「独占」をして世界を変えようとしようと言ってて、コンサルの人と話した時にアマゾンとかは売り上げとかよりも「世界をどう考えるか」を考えているので、楽しいと言っていました。あとイーロン・マスクへのラブが強いですよね。萌えです。
ブ:そうですね。読んでいて面白い。ぼくもかなり逆張りするほうなので、それが肌にあっていました。ただ最近の僕は逆張りに逆張りしているので、ティールはまだ単なる逆張りの中二病を抜けられていないと思ってしまいますね。前半はかなり理論的に書かれていて読みごたえがあったのですが、後半はビジネスの話になってしまいおもしろみは少なかったです。ただ読んでいてパワーがあるというか、何かできそうな気になりました。
金:三つの社会についての説明:中国、ヨーロッパ、アメリカの三区分は、いちアメリカ人によるヨーロッパ評という点で面白い。自己啓発本と言いつつ、マインドフルネスなど個人の意識改革というではなく、企業のノウハウや技術の話をしており、面白い。
ハ:読んでいて普通に面白かったです。途中でユナボマーが出てきたことが気になりました。テクノロジーに嫌気が差していたユナボマーとテクノロジーを称揚するティールは一見真反対に見えます。というのも、神保町で『ユナボマー 爆弾魔の狂気』という本をたまたま買ってて、それで犯行声明の和訳を読んだことがあるんですね。
内容としては、テクノロジー批判だけでなく「左翼主義」批判の要素もある。むしろ主眼はそちらかもしれません。
そういう面でピーター・ティールはトランプ支持なので通じるのかも。でも自己啓発にこれを持ってくるのは謎で面白いと思いました。
ブ:何ページぐらいでしたっけ
ハ:131ページです
ブ:なぜここでカジンスキー(ユナボマー)がでてくるのかってことですか?
ハ:ユナボマーとピーター・ティールはリベラル嫌悪でつながっているが、本書では捨象されている。
ブ:ティールといえば、既存のリベラル批判という印象があったのでなんとなく読めてしまいましたが、その前提無しだとたしかによくわかりませんね。
この章のなかで、ティールは「子どもでもできる課題」「難しいが可能な課題」「不可能な課題」というふうに課題を区分して、「難しいが可能な課題」に取り組むべきだと主張していますね。ただティールの主張している「海洋上に人口の島を作ってリベラル国家を作ろう」という計画は、技術的には「難しいが可能な課題」ですが、思想的には「子どもでもできる課題」だなと思います。技術的に難しいだけの課題を解決したところで変わるのは表層的なものでしかない。真に変革をしようとするなら思想的に難しいことをしなければいけないと思います。
キュ:技術の社会変革力を重んじるあまり、思想的な社会変革力への軽視があるんじゃないかってことですかね
ブ:そうですね。ニック・ランドもそうなんですけど簡単にイグジットって言い過ぎですよ。みんなで山にこもったり、海に島を作ればたしかに現代社会からのイグジットだけれども、それでは根本的な解決にはならないのではないでしょうか。もっと現代社会の構造や歴史に対面して、慎重に考えるべきでしょう。僕はそういう意味でバタイユから出口を探りたいですね。
金:ティールはアメリカ人じゃないですか。プラグマティズムと、同時に科学技術への楽観主義があって、そこに悲観的な懐疑がない。
ブ:まさにティール自身が書いている「あいまいな楽観主義」ですね。
キュ:加速主義もそうですけど、具体的なヴィジョンや構想する力みたいなのはないですよね。最後の章の「停滞かシンギュラリティ」もまさにそんな感ですよね。明るい未来があるはずだっていう感じで、それ以降は語られないという。
ブ:そういえば、最近デリダの『グラマトロジーについて』の読書会に参加していて思ったことがあります。フランス現代思想ってバタイユが草分けで、デリダはお尻ぐらいにいてというイメージですよね。彼らに共通しているのは慎重さなんですよ。みんな近代哲学、ヘーゲルを乗り越えようとしているが、乗り越えようという思いと同じくらいヘーゲルを重視しているんです。ヘーゲルを越えるにはヘーゲルに正面から向き合っていかなきゃいけない。ヘーゲルから抜け出るためにはヘーゲルを緻密に読まなければいけない。そういう点で彼らは非常に慎重な態度をとっています。しかし、ランド世代になるとそういう慎重さが一瞬で壊される。ランドからしたら彼らの慎重さはしがらみにしか見えなくて邪魔なんでしょうけど。
ハ:慎重な限り競争をするだけになる
完全に0から一を生むのは無理ではって思う
ブ:デリダが言っている「起源はない」に接続できますよね。オリジナリティが起源性というか独創性を言うようになったのはわりと最近のことで、「天才神話」が根っこにあると思います。
金:なにかできる、ユートピアにいける。アメリカは一から作った面がある。そのためアメリカ大陸の白人に共通するユートピア幻想がある。そこに対する反省がない。
まさに現代フランス哲学ってそこに対する反省であって、起源やユートピアにいけるのかという思想なので
キュ:この「隠された真実」を見出して、っていうのは言ってしまえば植民地主義ですよね。
新大陸の発見によってヨーロッパの競争から抜け出して新地を開拓していくというのと同じとも言えてしまう。
金:まあそれは植民地主義というよりも、アメリカ固有の問題なんでしょうね。
ええと、ピルグリムファーザーズ……でしたっけ、新天地を求めて新大陸に渡って行った集団がいて、自分らは穢れのない地でゼロから国家を作ったというイノセンス幻想がある。
キュ:他の植民地に比べてアメリカは自らを作ったという二重性があるので、フランスの植民地とかとは違いますよね。

3.労働or創造


ブ:さっきの創造の話にもどるんですが、コジェーヴが「労働は創造だ」っていっているんですよ。ぼくはこれにすごく違和感があって、創造ってもっと根本的なものじゃないですか?労働は所詮労働で、1をnにするだけですよ。
ティールも「ゼロをイチに」「創造しよう」というわりには1をnにしているだけなので、もっと抜本的なものが必要なんじゃないかと思いました。なので、僕は創造するためにもっと慎重にやろうよ派ですね。そういう派閥があるかはしりませんが。
ハ:労働じゃない創造ってなんですか
ブ:労働で作ったものって後に残りますよね、木を切って棒にして鍬にして、作物を作る。
僕が思う創造は作っても後に残らないもので、バタイユで言えばセックスとかですかね。セックスももちろん快楽を生産しますけど、その快楽が何かを作ることは無い。そこで作られて消えてゆく。ぼくはこれが創造的だと思っています。
キュ:カーニバル的な?
ブ:そうですね。ディオニュソス的ってことですね。やっぱり酒を飲むことが一番創造的じゃないですかね。ディオニュソスってバッカス、酒の神で、あとには何も残らない乱痴気騒ぎが特徴ですし。酒を馬鹿みたいに飲んで、記憶がなくなって、部屋とかめちゃくちゃで、残っているのは何にも使えないゲロだけ。そういうのが真に創造的だなと思います。
金:バタイユ色だ
ハ:絶対ビジネス書には載らない内容だ
キュ:確かに、ゲロ吐くって自然に逆らっているんで創造的ですよね。
人間の臓器の動きにおいて有機的で生産的じゃない運動はゲロ吐くことだけですよね。
ブ:もっとみんなゲロを吐いて、有用性至上主義に刃向かった方がいい。
金:腹を下すのはどうですかね。
キュ:下痢は生産ラインには入った不良品みたいなものなので臓器の運動には逆らえてないかなと言う。
金:なるほど、そもそも栄養摂取もすっ飛ばしたゲロの方が創造的
ブ:労働に歯向かうというか有用性に歯向かうといえば、糞ってすごくないですか。有用なものを取り込んで無用にする運動なので。ただ生命の糧にしているという意味では有用なものの残りかすですけど。
ハ:ティールの労働の未来性に対してゲロとうんこって現在しかないですね。ゲロやうんこがティール的に未来につなげていく可能性というのはないんでしょうか。
ブ:でも糞やゲロは残らないからこそ、というところはありますね。それらを持ち上げて「価値がある」と言って、売り出したら資本主義に取り込まれるので、終わりですよね。
キュ:そう考えるとスカトロってすごくないですか?普通のうんこは有益から無益ですが、スカトロは無益から無益なので…最強に生産的じゃないですか。ゼロからゼロを生み出しているので
ブ;確かに。「ゼロ・トゥ・ゼロ」ですね。スカトロといえば、キュアロランバルトさんはダンテとエロ漫画論を書いてましたよね。聞いてもいいですか。
キュ:あー。ダンテの『新生』って抒情詩集があるんですけど、その本は日記と詩と解説(解説は詩を区分し解体される形でなされる)で構成されているんですね。で、日記的な散文箇所で起きたことをダンテは詩にして、のちに解説するんですけど、この構造がエロマンガやAVの構造に似ているんじゃないかという話ですね。つまり、ダンテにとって詩がメインなのに導入としての散文があって、それと同じようにエロマンガでもAVでも性行為だけを描いているものはないわけで。散文が前戯、詩が性行為、解説が賢者モードですね。
あと、バフチン的に言うと小説はポリフォニー(多声的)でそれらが共鳴したり不協和音を奏でることで作品になるんですけど、逆に詩は様々な言葉を詩人の一つの言葉にまとめ上げる統一化の働きという扱いになるので、この詩の統一性と性行為の統一性は同等に語れないかということを思って論理展開していました。
金:散文、詩、解説でしたっけ、散文、解説、詩の順番でしたっけ
キュ:最初は散文、詩、解説なんですけど愛するベアトリーチェが死んでからは散文、解説、詩になるんですよね。
金:それはどういう。それを賢者モードとして扱っていいのか。
キュ:とりあえず、エロマンガを置いといて『新生』の中での話に絞ると、ダンテの詩は「よびかけ」の形式を取っていて、つまりベアトリーチェの応答を待っているんです。作中でも語り手はベアトリーチェから挨拶されないってことで悩み続けるんですよ。だから、ベアトリーチェの死後には「応答の絶対的な不可能性」によって、詩のよびかけは初めから応答を得られずに解体されるって感じですね。なので可能性のある妄想と、実現不可能な妄想という感じで二つに分けられるって感じです。
ハ:それで二つのタイプのエロマンガを分析するって感じですか。
キュ:そこについては…練ってるところですね。

4.脱成長の受容について


キュ:話が変わりますがイーロンマスク関係でTeslaに関連してですが、斎藤幸平の『人新世の資本論』や『100分de名著 資本論』がビジネス界隈に広まっているのは謎。あの人は「脱成長」を唱えていて、それがビジネスマンに広まっているのは倒錯している状況ですね。
ハ:それがどのようにビジネスマンに受容されているのでしょうか。
キュ:受容のされ方はよくわかんないのですが、読まれる理由としては二つあるかなと思っています。まず一つめがデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』がビジネス書に紛れ込んでいることからわかるようにブルシットジョブなどの蔓延による資本主義への不信感。もう一つはコロナで、経済を回すか、感染拡大防止をするかの二者択一の状況で、経済を回すということの懐疑心ですかね。
ハ:それはおかしいですね。回さないといけないのに
ブ:みなさんは『人新世の資本論』を読みましたか?ぼくは面白そうだなと思いつつ読んでいないです。
ハ:買ったんですけど、置いてます
金:読んでないですね
キュ:読みました
ハ:解決策として本の中だとどういう結論が提示されているんですか
キュ:まず環境問題がグローバルサウスに負担が偏っていることによって、環境の影響を受ける人間が人種や性別によって大きくことなるということを言っていて、それで環境問題が人種差別やフェミニズムと関わっていることから、現状のリベラルの結合点として「環境問題」を置こうという話でした。さらに既存の「グリーン・ニューディール」など企業に支援してクリーンなエネルギーを開発させるというのもIEA(国際エネルギー機関)によるデータで二〇四〇年電気自動車が2億8000万台使用されるようになっても、それで削減される世界の二酸化炭素排出量は1%ということから、成長する資本主義をやめて「脱成長」を目指そうという内容です。
ブ:「脱成長」というのは同じ世界をループさせるということですか?
キュ:「ドーナツ経済」(オックスフォード大学経済学者ケート・ラワースが提唱)というのがあって、ドーナツの真ん中は十分にインフラが整備されていない状態で、ドーナツの外は持続不可能な負荷を地球に与える状態になります。なので、そのドーナツの圏内で回していこうという感じですね。まあ実際現実味はない理論ではあるなと思うんですが、これがビジネスマンに広まっているのはかなり倒錯した状況ですよね。
ブ:なるほど。コロナのせいで素直にみんな疲れているんでしょうね。みなさん、コロナで疲れたなーって経験ありますか?僕は大学生なのであまりかわらなかったのですが。
金:僕も変わってないです。
ハ:僕の仕事はリモートじゃないので、何も変わらないです。でも、仕事後にお店は閉まってて牛丼屋とかもしまっているので大変ですね。
キュ:僕は働いていた居酒屋が休業したのでウーバーすることになって、人間観察が捗っています。
ブ:でも会うのって短時間ですよね?
キュ:まあそうなのですが。住居などで貧富がわかるので、そう言う人たちが何を食べているか、どういう対応をするのかというのはみれます。
金:そういえばウーバーの話ありましたね。141ページ
ハ:ここで言ってる創造って、問題としては前からあったけど誰も手をつけてないものっていうのが独占の手段であり、創造ってことですよね。
ブ:それって、ぜんぜんゼロからイチじゃないですよね。ピースとピースの間の隙間を埋めるような、永遠に完成しないパズルをやっているというだけ。「ゼロからイチを」っていうのはただの売り文句のような気がします。デリダ的に言えば「起源はない」のですし、ゼロからの創造に拘泥しても仕方ないのかもしれませんが……。

5.ZERO to 陰謀論


キュ:そういえば、話変わると樋口恭介の奥さんが『ゼロ・トゥ・ワン』を読んで、これが現代の陰謀論の軸になっているんじゃないかと言ってましたけどそんな感じしますよね。
「隠れた真実」や「大企業が世界を変える」みたいなって陰謀論と親和性ありますよね
ハ:わかります。
キュ:GAFAが変える未来って感じですかね
ブ:僕は陰謀論者っていうのがあまりよくわかっていないのですが、どういうことなんですか?
金:Qアノンは有名ですけど、ここでいうのは地球平面説に近い気がします。Qアノンは少し派手すぎるような……地球平面説の方が起業の「カルト」、秘教サークル的に見える。
ハ:構造は同じだと思います。我々を取り巻いている世界と、そこから隠されたもう一つの世界にアクセスできるのが陰謀論者だと思います。地球平面論者ならそれが地球は平面であるという世界観、Qアノンならばトランプは超巨大な小児性愛者の組織と戦っている世界があるという世界観、みたいな感じです。
ティールもそのもの感あります。
ブ:ちなみにみなさんの隠された真実はなんですか?
金:あんかありましたよね30ページに
ブ:文言が違いました。「大切な真実とはなんですか」ですね
ハ:「阿部和重は絶対『からかい上手の高木さん』に影響を受けている」

6.身体と性


金:性別ってないと思っている。人間は性別を持っていると思っているけど、あるのは肉体だけ。
ブ:というと?
金:生殖器と、性自認、あとはどの性別に欲情するのか(sexual orientation)がある。そういう区分で人間の性別は分類できるのだけれど、どんな人間も肉体を持っている点は共通であり、そこに性という区分で線を引く必要が感じられない。既存の分類に収まらない欲望をクィアと呼ぶ、と言われているけれど、わざわざ新しくクイアと名乗るのではなく、肉体とだけ呼べばいい。誰にも性別はなく、肉体があるだけではないか。
ブ:肉体一つというのは考えることができますが、人間は所詮動物なのでどちらにしろ子供を産む方と産まない方という二分が生まれてしまうのではないですか?
ハ:意識としての性別はないんじゃないかってニュアンスなのかと思ったんですけど、
金:ちょっと違ってて、肉体の話ですね。肉体あるいは精神の性別が色々と分類されているし、そうした分類そのもの――とりわけ既存の男女の二項対立――が批判に晒されてもいる。従来の分類が雑であるとするなら、クィアとか、新概念を立てるのではなく、白紙にできないか。
ブ:ランドはバタイユ論のなかで、レズビアンの話をするんですが、その内容としては、ざっくり言うと男根-ファルス的なものではなく女陰的であるものとして世界を捉えようという感じです。この論考のなかで何度も「ゼロ」といく言葉が出てきて、たぶん身体なき器官の言い換えなんですが、女陰的な宇宙というのもその言い換えの一つです。「神」という巨根から派生する世界像ではなく、女陰のように受け容れ溶けるような世界像を見ているのかなと思います。それはそれでフェミニズム的な問題はありますが。
金:全然バタイユ読んでないので、改めて読んでみます。今の話も覚えておいて読めば発見があると思うので。
ブ:バタイユはレズビアンについて何も言っていないので、あくまでランドのなかでの話ですが。
金:ブログの試訳もよませていただきます
ブ:宣伝みたいになってすみません。
キュ:そういえば、今の技術ではある程度精子があれば、男性が滅んでも人類続くらしいですね。
ブ:いいですね。男根って気持ち悪いので。
ブ:あ、でも僕百合・レズビアンの漫画とか好きでいっぱい読むんですけど、「壁になりたい」ってオタクがよく言うじゃないですか。でもそれって暴力だよね、男性性を消そうとするのは暴力だよねという論考を江永泉さんが出していて、確かにそうだなと思いました。暴力がだめかはともかく、ユートピアを求めて自分たちに暴力を嗾ける男性って面白いなと。
金:すごく無粋な話をしてしまうとそれって腐女子のアナロジーじゃないんですか?
腐女子も「壁になりたい」って言ってるじゃないですか。あれを真似て――腐女子という起源のコピーペースト――男オタクも「壁に成りたい」と言っているんじゃないか。遡って腐女子の「壁になりたい」が自分への暴力になるという話もできて……男女の性別のどちらかに限定した話じゃなくできそう。
ブ:確かに。僕が男で百合が好きだからそう思っていただけかもしれません。
キュ:女性性の特集とかが挙げられるのに対して、男性性特集は組まれないって批判を前にツイッターでみたのですけど、男性性自体が言及しなくても良い、透明な存在として扱われているという錯綜構造はありますよね。つまり第一次フェミニズムでは女性が男性と同じ位置を目指すというところがあって、そこの名残として男性性が透明であるように錯覚させる構造があるように思います。で、その透明性とさっきの壁になりたいと言う話は似ているなと思いました。壁になることで男性性を
金:壁になることで性愛から離脱しようという
キュ:壁になることで男性性が消えるということですね
金:フェミニズムの文脈で男が消えるというのは「まなざし」じゃないですかね。
男がまなざしの主体となり、みられなくなると言う…でもここで関係あるか。どうでしょう
キュ:まあでも、女性が透明に扱われるという問題と、男性性が透明であるように思わせるというのは別の問題じゃないですかね
金:ゼロ地点にありうるのが男性だけという構造に問題があると…
キュ:そうですね。ある種「完全な人間としての男性」という神話が残っている。
ブ:そのような話をバトラーがしていました。そもそも哲学や「語る」ということが男性的な語りだということで、女性は語ることができていない。そのため女性は全く別の仕方で語っていこうという流れがありますね。なので、男性性の神話の批判をしていこうという流れ自体はすでに議論が始まっているところだと思います。
キュ:フェミニズムが「男性に語られてきた女性像」を語り直して奪還するというところが重要で、そこで抜け落ちるのは男性性への言及なのかなと。やっぱりLGBTや女性が取り上げられても、男性を取り上げるようなものはない。男性性への言及があっても「男性」が「男性」の辛さを語るものばかり。
金:そこでいう男性性というのはトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)のような有害な男性性から降りようと言う話ですかね。それとももっと全般的に男性特有の問題を取り上げると言うことですかね
キュ:まあ有害無害に関わらず、女性性とかクイアはトピックとしてあげられるんですよ。でも男性はそのトピックに挙げられることがないというのはある種特権ですよね。
金:なるほど
金:二階堂奥歯『八本足の蝶』を読んでいて、男性の眼差しについての問題提起もありまして。(注:『八本脚の蝶』河出文庫版、p. を参照)二階堂はもっと広くいわゆる文学一般の「女性幻想」についての話をしていて、「女性幻想」とは書き手と読み手を含む「我々」が「我々ではない別のもの」である女性に対して持っている幻想だと言っている。書き手読み手を全て男性だとされている。それで一個飛んでレヴィナスのエロス論の話をしていて、愛撫の話をしているのですがここでレヴィナス が想定している読者が男性に限定されているという。文学の話も、哲学の話も、議論に参入するのが男性であることが前提されている。女である自分はそこが気に入らないと二階堂は言っている。
ブ:愛撫論はイリガライが批判していましたよね。「男だけが愛撫するわけじゃない」といったふうに。レヴィナスを研究していたと聞いたので、イリガライの印象を聞きたいです。
金:さっぱりですね。クリチュールフェミニンでしょうイリガライって……レヴィナス からハイデガーに、過去に行ってしまったので、戦後の話題は明るくないんです……イリガライねえ……エクリチュールフェミニンってプロジェクトがあったのは知っているのですが、実際うまく行ったのでしょうか?
ブ:いやーどうでしょうね。僕もそこまで詳しくないのですが、横田裕美子さんっていうバタイユを研究されている方がいるんですけど、その人はバタイユとフェミニズムを繋げようみたいなことをやっていて、そこでイリガライの名前が出てきたんで、そういう人もいるんだなという感じですね。あと、単純にレズビアンのことを調べていたらイリガライとか、モニック・ウィティッグが出てきたので、フランスフェミニズム系の話が気になっているので、共有できないかと思って話していました。

7.スター性と超人思想


ブ:そういえば、『ゼロ・トゥ・ワン』の話に戻るんですけど236ページで供儀の話をしているんですよね。これが供儀論としてめっちゃしっかりしていて、この人ちゃんと頭いいんだなと思いました。
ハ:ただ文脈が
ブ:そうですね、論の運び方が雑ですが。出し方が変で、知識をひけらかしたいのかなと思ってしまうような文章ですよね。
キュ:この章、マイケルジャクソンやレディガガ、ビルゲイツなど出てきてオールスターですよね。急に人間の写真めっちゃ出てくる。
てか、「創業者のパラドックス」の章で「弱い/オタク」の対概念「強い/アスリート」、「サヴァン症候群」の対概念「博学」って出てて、なんだこれって思いました。
ブ:ティールは議論を恣意的にしすぎですよね。これでティールをすごいって思ってしまったらやばいというか。魔術的な喋り方ですよね。
キュ:ちょうど良く頭いいですよね。シェイクスピア出したりマルクス引用したり、人を騙すのにちょうどいい。というか頭いいんだなって思わせるぐらいには教養がある感じですね。
ブ:『ゼロ・トゥ・ワン』読んで活気付いてるビジネスマンへの皮肉みたいになっちゃってる。
ハ:最後の「創業者のパラドックス」はキュアさんの言うようにオールスター感があります。ここは「読者もスターになれ」的なメッセージを発しているってことなんですかね。245ページで、「創業者は、個人の栄光と賞賛はつねに屈辱や汚名と背中合わせであり、慎重さが求められることを自覚しなければならない。」とあります。木澤さんの本では、ニーチェの「超人思想」を持って国家などから離れて自分で独立したユートピアを作って絶対的勝者に立つといったことが語られていました。創業者の「スター性」が「超人」と重なるということなのかなと思います。
金:やろうとしてることは創業者論だけど、それにしては具体的な事例のオールスターで、そこがアンバランスですよね。読者を担ごうとしてる感がありますね。
ハ:その辺はアメリカンドリームよもう一度! という感じです。ならこの本は本当に「ゼロ・トゥ・ワン」でいいのかって問題がありますよね。「ゼロ・トゥ・ワン」は過去をぶった切っていこうという姿勢のわりには過去に拘泥している。歴史を切って1を作るのがタイトルの意図なのに、その0は結局過去から来ている感じがして、自分としてはタイトルに納得いかないです。
『ゼロ・トゥ・ワン』というタイトルとティールの思想が本当にあっているのかというのをすごく思います。

次回予告


「模範的社会人」になるための自己啓発読書会 第二回
ローバート・ライト『なぜ今仏教なのか』
一切皆苦から解脱(イグジット)せよ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?