見出し画像

デトックス

音楽を聴いてみても、本を読んでみても、テレビを観てみても、なんにもしっくりこない時はないだろうか。私はたまにそんな時がやってくる。
時間を持て余しているから、何かしようと思うのだけれど、手を動かすこともなくて、じゃあ音楽を聴いてリラックス?などと思ってみても全然しっくりこない。
結果、部屋の真ん中でぽつんと、時間の過ぎる音を聞く。そんな時の私はまるで、この世界の何にもフィットしていない感覚になる。この世界が、空気も何もかも全部パズルのように組み合わさっているとして、「私」というピースだけ、ぴったりはまらず、歪な空白が体の周りにある様だ。

けれど、「この世界から浮いている」という感覚はない。いや、正確には、なんにも感じない。娯楽を楽しめない代わりに、暇だなとか寂しいとか、疎外感とか、そういった感情もない。一見穏やかではあるのだが、きっとこれは由々しき事態なのだと、薄々気づいている。心の柔軟性が失われているのだ。

心というのは、常に伸縮したり形を変えたり、湿度や色を変えている。時には質量だって変わっている様に思う。音楽を聴けば、音やリズムに溶けていき、物語を読めば、登場人物の心の中に溶けていく。形を変えられるからこそ、誰かの心の形に寄り添うこともできる。そして心の中は柔らかいひだになっていて、それが伸縮したり、様々なものをキャッチしたりするのだ。
その心が、私は今、カチコチになっている。ビー玉を落としても、何にも引っかからずに乾いた音で転がっていってしまう。だから音楽を聴いても何をしても、何もキャッチできないうえ、世界のピースにもはまることができないのだろう。
このままカチコチ状態が続けば、壊死してしまわないか。そんなことも考えるけれど、とくに何も感じない。やはり由々しき事態である。

なんて真剣に書いていたら、自分に笑えてきた。こんなことを書いてはいるけれど、そこまで深刻な現状ではない。ただ、このまま深刻化しないように、心を揉みほぐす様に、今音楽を流しながらアウトプットをしている。実際、書き始めた時より大分心が柔らかくなった感覚があるから、何らかのアウトプットをすることは、心の健康維持に非常に大事で有効な手段だと思う。

もし、心がカチコチ化している人がいたら、誰かと話すのでも、心のままを文字に起こすでも、歌を歌うでも踊りまくるでもいいから、心を揉みほぐして何かも分からない何かを、少しずつ出してみてほしいなと思う。パン生地をこねるみたいに。ああ、焼きたてのパンの匂いがする。気がする。五感も動き出したようだ。