博士課程... 私は何を問うべきか、問いのその先へ

博士課程スタートまで残り三週間となり、博士論文を、しかも米国大学で執筆するなんて、本当に私にできるのだろうか…、と焦りと不安のような思いが渦巻いている。出願資料としてResearch Proposalを提出してから8ヶ月弱経ち、この間に得た気づきや学びをもとに関心や問いも随分と変容してきた。今日は改めて、"私は(博士課程において)何を研究すべきか"を考えるための思考整理を試み、この焦燥感と格闘してみたい。

※以下の書き綴りに思想的影響を与えてくれた人々: Gert Biest, Ghassan Hage, Alphonso Lingis, Annemarie Mol, Karen Barad, Gloria Anzaldua, Jasbir Puar, Jack Halberstam, Tessa Morris-Suzuki, 亀山佳明, 久保明範, 藤井佳世, 田中正弘, 澤田稔…

教育に何ができるかー教育機能の3類型から考える

 オランダの教育哲学者ガート・ビースタは教育の機能を3つの重層から読み解く。一つめに、「資格化(qualification)」の機能。これは、スキル獲得を通して生徒の道具的知の発達を促すこと。二つめの「社会化(socialization)」は、既存社会の秩序や規範にうまく組み込まれ、これらを再生産できる個人・集団を育成すること。三つめの「主体化(subjectification)」は、既存の秩序や規範から独立したユニークさの発露であり、自由に関わる機能である。そしてこの「主体化」こそがビースタの教育理論における最重要項目であり、主体化の目的を持たない教育は教育たりえないというのが彼の主張である。
 従来の教育社会学や批判的教育学では、教育の社会化-再生産機能による権力や抑圧の再生産が繰り返し批判されてきたが、ビースタはこの批判が前提とする「解放の論理」に疑義を唱える。代わりに、様々な矛盾を抱えた解放の論理を骨子とする批判(critique)ではなく、一つの別のあり方(alternative)に関する実践こそを現状への批判として提示する教育(学)を、とビースタは呼びかけている。「主体化」は、既存の秩序や規範から逸脱/独立してみる、身をズラしてみるという在り方の発露であり、別のあり方を探究する実践へと身を開かせる。それこそが、既存の秩序を乗り越え、それが生み出し維持し続ける矛盾や不正義を変革する方途だというわけだ。
 「批判」から「別のあり方の提示」へ、というプラクティカルな呼びかけは、レバノン系オーストラリア人の人類学者であるガッサン・ハージによってもなされてきた。ハージが「オルター・ポリティクス(alter-politics)」と呼ぶ新たな批判的政治は、ビースタが志向するオルタナティブの提示としての教育(学)の機能によって生み出しえるのかもしれない。実際、ビースタもこの「主体化」をシティズンシップ教育や民主主義の教育において生起しうるものとしており、「主体化」と政治的発達は極めて密接な関係にある概念だろう。この意味において、教育(学)には、オルタナティブな社会や政治を構想し作り出すことのできる人々を育む可能性があるといえよう。

「主体化」はいかなる場面で発露するのかー綻び、失敗、どうしようもなさ

では教育機能のうち最重要項目とビースタが同定する「主体化」をいかにして促すことができるのだろうか。元も子もないことだが、ビースタはこの問いに対して「人間の主体化がある方法で教育的に生み出されうるという理念を諦めたときにだけ」、これが可能だ、と答える。つまり、「主体化」は教育の制度的・実践的なデザインをいかに組み立てたとしても、有為的・意図的には生起されえない機能なのである。ただしこれは、教育には生徒の「主体化」を促しえないということではなく、「意図的には」それを成し得ない(が、教育実践や教育現場において「主体化」の端緒は無限に織り込まれている)ということを意味する。
 既存の秩序や規範から独立したユニークな個人としての現れは、誰かの声や言葉によって代替されうる個人の現れではない。「主体化」と「社会化」はこの点において重要な区別がある。他でもない私/貴方としてのユニークさを有した個人は、代替可能な個人の集合である合理的集合体ではなく、「もうひとつ別の共同体」(アルフォンソ・リンギス)によって生成的に結びつく。リンギスが『何も共有していない者たちの共同体』の中で論じたように、「もうひとつ別の共同体」は、デザインし組織化して生み出しうるようなものではなく、無為たる世界のなかで偶然に立ち現れた出会いであり、どうしようもなく弱い私を他者に曝すことによって、他者の脆く朽ちた声に皮膚に触れることによって生まれる共同体である。ユニークさの現れとしての「主体化」は、脆く、弱く、どうしようもない、身体を伴った一個人としての私/貴方による「もうひとつ別の共同体」として社会や秩序を都度構成し直す、状況的で関係論的な教育の機能だといえよう。
 ビースタは「主体化」に根差した教育(それは本来的に意図できないものであるが、だからこそ)を「中断の教育学」とよび、合理的共同体のなかに置かれながらも、それが綻びをみせた時にだけ立ち現れる「もうひとつ別の共同体」のための教育を呼びかける。綻ぶこと、壁にぶつかること、失敗すること、これらは教育の失敗なのではない。意図した教育が「失敗」するとき、そこにこそオルタナティブへの開かれが見える。失敗に賭けてみることは、成功を過度に煽る既存の秩序を揺るがしうるのだ。クィア・トランス理論家のジャック・ハルバースタムは、クィアな生き残り戦略として「失敗(failure)」を称揚し、既存の秩序を構成する異性愛主義、シスジェンダー主義、家父長制、自由主義、メリトクラシーへのカウンターの戦略として「失敗」を読み替えた。クィア理論のアンチ・ソーシャル的転回は、その批判的矛先をインターセクショナルな関心に拓くことで、クィアを取り巻く全ての社会秩序への抵抗として既存秩序の代わりにオルタナティブをみるためのユートピアを想像・共有することを可能にするかもしれない。世界想像/創造(world making)を可能にするのは、成功からではなく失敗から、ではないか。

「綻び」が生まれる場所でー教育実践・教育現場で意図したものの失敗に賭けてみる

 「主体化」は教育のどこで立ち現れるのだろうか。ビースタは合理的共同体が綻ぶ最中に、その開かれがあるという。では、どこで何がどのように綻んでいるのだろうか。
 一つの事例として、学生の政治的/市民的活動に焦点が当てられよう。ビースタが「主体化」と民主主義の教育に強い結びつきをみていることは先述のとおりであり、「政治的主体性と政治的行為主体の現れに寄与する市民学習」といった民主主義に関与する教育-実験的実践のなかでこそ「主体化」がおこなわれえると彼は言う。
 例えば、現在米国の多くの大学はDEIB(Diversity, Equity, Inclusion, & Belonging)推進の取り組みとして、インターセクショナルな周縁的アイデンティティ対応した学生支援機能や学生組織の運営支援をおこなっている。私が留学する大学にも、Identity-Based Student Organization(アイデンティティに基づく学生組織)が数百とあり、大学の運営交付金を受けながらアイデンティティを共有する学生間での心理的紐帯強化や情報交換を可能にしている。だが、これらの学生組織に所属していながらも、他のアイデンティティに基づく学生組織と共同でインターセクショナルな政治的・市民的活動に取り組むことがある。その際、組織を輪郭付けるアイデンティティは流動したり融和したりして、状況に応じた結びつきのあり方へと変化変容することがみられる。カレン・バラッドが言うように、全ての差異は根源的に差異としてあるのではなく、モノや人の関係性のなかで「内部作用(intra-action)」を通して差異化されたものの堆積としてあると捉えれば、確固たるものとして組織内の人々を結びつけていたアイデンティティが関係のなかで綻び新たに差異化されることは、「もうひとつ別の共同体」の可能性の開かれとして考えることができよう。それは、ブラック・フェミニズムが掲げる認識-存在論よりも、チカーナ・フェミニズムが境界地域という曖昧さやリミナリティの経験から編み出してきた認識-存在論に近いのかもしれないし、社会から押された失敗の烙印を肯定的に奪取し逆照射してきたクィアな認識-存在論に近いのかもしれない。うまく協働できない瞬間、苛ついたりぶつかったりしてしまう瞬間、それでも心動かされ巻き込まれてしまう瞬間は、学生組織やそれらを架橋させる活動のなかでは日常茶飯事な現象だろう。その綻びのなかに希望は見いだせないだろうか。
 他には、米国大学が掲げる「成功」のロジックに乗れ(ら)ない人々についても焦点を当てるべきだろう。アカデミック・キャピタリズムが加速する現在の米国大学で、新自由主義的・商業的意味での成長や発達から逸脱する者は多くいる。かれらの失敗(の抵抗)から、大学の規範的価値を逆照射することはできないか。また、DEIB推進の「成功」として想定されているマイノリティ・アイデンティティやその支援政策に馴染め(ま)ない者もいるだろう。アメリカナイズされたマイノリティ像を乗りこなせ(さ)ない者たちの失敗(の抵抗)も可能性を開く力を持っているだろう。より批判的な角度からは、そもそもアメリカで規範化されるような政治的参画のあり方に失敗/から逸脱する者たちはどうだろうか。自らのマイノリティ性を開示しながら権利擁護を訴えかけるほかに、オルタナティブな政治行動はありえないのだろうか。例えば、日常的な互いのケアとキンシップの拡大、母国の価値批判と家族擁護の言論、移住のためのキャリア発達への没頭など、クィア留学生の行動は、静かなる/日常の政治(quiet / living politics)として大学や社会を作り替える力が全くないのだろうか。
 久保明範が言うように、他者性を抑制する論理(自他同一視・他者化の両方)を避けて、他者から学びオルタナティブな倫理を語る方法を考えることが現代エスノグラフィの一つのエッセンスだとすれば、観察した事象を研究者=啓蒙者として批判するのではなく、事象の内側から私たちが生きる秩序や組織を逆照射するような研究に、教育人類学者を志す私は取り組むべきだろう。

やるべき仕事はたくさんある、では何を。

 ここまでウダウダと書き殴ってきたことは全て私の頭の中にあることで、今日初めて文字として世界に開かれた。だがこれで終わりではない。文字になった時点で、投稿ボタンを押した時点で、これらの思考は過去の一時点に結びつき、不動の位置におかれてしまう。考えることをやめてはならない。問われるべきは実践であり、過去に残したものではない。
 やるべき仕事はたくさんある。闘うべき領野は途方もなく広がっている。問うべき問いは、何を問うかではなく、何をやるかであり、いかに闘うかだ。


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