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聖なるものに共通する「コミュニケートしない」という考え方(ALife Book Club 4-5)

こんにちは!Alternative Machine Inc.の小島です。

ベイトソン『天使のおそれ』の最終回になります。
聖なるものというトピックにベイトソンがどう挑んだのか、そしてそこからみえるベイトソンの壮大なビジョンを紹介していきます。

(これまでの記事はこちら(#1, #2, #3#4)からご覧ください。)

ベイトソン『天使のおそれ』最終回です。
ついに本書の本題である「聖なるもの」に迫っていこうと思います!

「コミュニケートしない」という考え方

「聖なるもの」に迫るための手がかりとして、前回二つの話を紹介しました。

① ネイティブ・アメリカンの儀式 : 儀式に麻薬成分を含むものを使っていたため、宗教性を示す証拠となる映画撮影を受け入れなければ存続ができない状況だが、それでも撮影を拒否。
② 『老水夫』という詩:アホウドリを殺して災難続きだった水夫(しかも殺したアホウドリの死骸が首からとれない、、)が、おもわずウミヘビの美しさを讃えることで状況が好転。

一見ばらばらにみえるこれらの話から見いだせる「聖なるもの」の特徴とはなんでしょうか?

ではさっそくベイトソンの答えを見てみましょう!

これらのデータにはすべて、ある状況のもとで何かをコミュニケートしないという考え方が共通している。
老水夫にとっては、海蛇を讃えているというのを自分に言い聞かせないこと、特に讃えるという行為の「目的」を明らかにしないことが重要である。彼は「思わず」海蛇を讃えなければならない。
(中略)
アイオワシティのインディアンは写真を撮らせない。彼らの儀式がカメラにさらされ、参加者が自分たちの姿を見たり、世界に彼らの神秘を明かしたりすることは許されない。
(中略)
ある種のノンコミュニケーションは<聖>の維持に欠かせないものだとわたしは考える。そうした場合コミュニケーションが望ましくないのは、それがこわいからではなく、コミュニケーションが何らかの形で観念(アイデア)の本質を変化させてしまうからである。

『天使のおそれ』青土社(星川淳 訳)

どうだったでしょうか?
まとめると、ベイトソンが見出した聖なるものの特徴とは、コミュニケートしないということになります。
そして、ここでコミュニケーションが避けられるのは、それによって何らかの形で観念の本質が変わってしまうから、と書かれています。

(注:明確に語っていくためには「コミュニケート」という言葉もちゃんと定義したいところです。ただこれについてのベイトソンによる定義が見当たらなかったので、ひとまずあるシステムから別のシステムへの情報伝達ということにしておきます。)

つまり、聖なるシステムとは、ある種の情報が出入りするだけで本質が変わってしまうもの、として特徴づけられそうということになってきました。

例での確認

先程の二つの例で再確認してみましょう。

ネイティブ・アメリカンの儀式の話では、儀式を撮影するということが肝になっていました。それが避けられていたということは、「儀式の映像」という情報が外部にでること、もしくは、そういう客観的視点の情報を参加者がみること、これらの情報の出入りが儀式というものの本質を損なうものだったということになります。

また老水夫の詩では、海蛇を思わず讃えるということが必要でした。これを情報の観点で言い換えると、彼の中の「海蛇を讃える」ことに関与しているシステムに、自分が讃えていることの情報(メタ認知)を入れない、特にその目的(「讃えることで災難から逃れたい」)の情報を入れない、ということができます。自分が讃えているなとか、自ら目的のために讃えようとすると、もはや思わずではないわけです。そして、これが満たされなければ状況が好転することはありませんでした。

よって、たしかにこの二つの例については、「コミュニケートしない」ことが重要になっていることがわかりました。

「聖なるもの」の定義

同じように聖なるもの全般についても「ある種の情報が出入りするだけで損なわれるシステム」といえるかもしれません。
もしこう表現できたとするなら、そのよさはこの説明が情報システムの言葉で表せていることにあります。前回までに扱ったように具体的なモデルで議論できるので「聖なるもの」という捉えどころがなかったものをより明晰にとらえられる可能性が開かれたのです。

ただ、ベイトソンはこれはまだ聖なるものの定義にはなっていない(事例を集めていくことによっていつか接近できるかもしれない)としています。つまり「コミュニケートしない」ことは一つの特徴だけれど、まだそれだけではこれこそが「聖なるもの」というには足りないということです。

考えられる足りなさとしては、システムを損ないうる「ある種の情報」とはなにかがまだ曖昧であるとか、情報がシステムを損なうメカニズムがわからないとか、がありうると思います。

残念ながらこれが遺稿となったため、ベイトソンの聖なるものの定義を見ることは叶いませんでした。
ただ、そこにできるだけ迫っていくために、この本で指摘されている「聖なるもの」のもう一つの側面もみてみましょう。

もう一つの側面:世界の持つ「生物学的性質」

実は、老水夫の詩についてはこんな記述もあります。

祈りや宗教といったものの本質は、「変化」の瞬間 ― 仏教でいう悟りの瞬間に、最も顕著になる ということです。
(中略)
非常に多くの場合、悟りとはわたしたちの住む世界のもつ生物学的性質を忽然として了解することにほかならない点だと思います。それは<生命>の不意の発見、ないし了解(りょうげ)なのです。
そのことは海蛇によってほのめかされております。

『天使のおそれ』青土社(星川淳 訳)

さきほどは、「不意に讃えた」という部分だけをクローズアップしましたが、それだけではなく、讃えた中身も重要で、それは「わたしたちの住む世界の持つ生物学的性質」だというのです。

ここからなかなか壮大な話になっていきます。
だんだん僕の手には負えなくなってくるので、詳しくはぜひ本書を読んでいただくことにして、ここではざっくりと概要だけ説明します。

まず、それぞれの人が部分として含まれるような非常に大きなシステムの存在を想定します。生態系をイメージしてもらってもいいのですが、大事なのはここで想定しているのは物理的なシステムというよりも、情報的なシステムであることです。つまり以前取り上げた分類でいうとプレローマではなくクレアトゥーラを考えます。
そこでお話したように生命的なものはクレアトゥーラにあるので、このシステムの性質、法則がさきほどでてきた「わたしたちの住む世界の持つ生物学的性質」に相当することになります。

宗教と魔術

この大きなシステムはたくさんのサブシステム(人や動物など含む)が関係しあっているので生態学的(エコロジカル)なもの(ただしクレアトゥーラなので物理的ではなく、情報的な関係性)であるとベイトソンは呼びます。

ベイトソンは更に踏み込んで、宗教とは人がこの生態学的システムとの一体性(unity)を感じることなのだと論じています。そしてこれが堕落すると魔術が生まれるというのがベイトソンの考えです。

この堕落は「目的」によって生じます。例えば、宗教的な雨乞いは、もともとその振る舞いによって気象のシステムとの一体性を感じるものであったのに対し、「雨を降らせる」という(物理的な)目的が明示化されてくると宗教性を失い、魔術になるのだとしています。

「聖なるもの」の定義(仮)

ここから考えると、より大きなシステムとの一体性を感じるもので、それが目的などの情報で損なわれうるもの、これがベイトソンによる「聖なるもの」の定義(仮)といえるかもしれません。
そしてこれがどう具体的なモデルで表現されるのかはまだ残された問いのままです。
その糸口のひとつはもしかしたら最初に取り上げた本である "Endophysics"(内在物理学)のようなところ(外部からの情報があるかどうかで世界内ルールが変わってしまうという話)にあったりするのかもしれませんね。

まとめ

さてお気づきの通り、もう僕の手にはあまる内容になってきているのでこのあたりで『天使のおそれ』解説を終わりにしようと思います。それでも大まかな内容はカバーできていると思うので、ぜひこれを手がかりに本書にあたっていただけると幸いです。(残念ながら、現状は絶版で手に入りにくいので、お近くの図書館などで探してみるのがよいかもしれません。)
そして、『天使のおそれ』について(というよりもベイトソン全般の話になってますが)話しているYouTube動画もあわせてぜひご覧ください

次回予告

さて、次回からは新しい本の解説に入っていきます。
まだ決めかねていますが、現段階ではラヴロックの話をしてみようかなと思っています。ガイア仮説はオカルト的な文脈で話されがちなので、元はちゃんとしてますよという話をするつもりです。

今週もお読みいただきありがとうございました。ぜひ来週もご覧ください!


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