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クレアトゥーラとプレローマ (ALife Book Club 4-2)

こんにちは。Alternative Machine Inc.の小島です。
ベイトソンの『天使のおそれ』の二回目をお届けします。
今回は本書を読む上での重要概念である「クレアトゥーラ」と「プレローマ」についてお話していきます。

今回もひきつづきベイトソンの『天使のおそれ』についてお話していきます。
前回はベイトソン全般の話で終わってしまいましたが、今回からすこしずつ本の内容に入っていこうと思います!

『天使のおそれ』という本

まずこの本の成立過程についてお話させてください。
実はこの『天使のおそれ』(1987)という本、正確に言うとベイトソンが書いた本ではありません。ベイトソンの遺稿をもとに娘のメアリー・キャサリン・ベイトソンがまとめたものです。(なので実質的には半分くらいはメアリー・ベイトソンが書いています。)

ただ単なる遺稿のアンソロジーとは異なっていて、生前にベイトソンがもっていた本の構想に基づいたものになっています。これは最後の著作『精神と自然』にも記述がみられます

 じゃあ今、疑問の断片が六つあるってわけね?
 六つ?
 そうよ。はじめは二つだったけど、今は六つ。まず意識と美と聖で三つでしょう?それに意識と美の関係、美と聖の関係、聖と意識の関係。合わせて六つじゃない。
 いや七つだ。本全体を忘れてるじゃないか。お前の言った六つが全部合わさって一つの三角形の疑問を成している。そしてこの三角形と、今こちらの本で書いたことがまた関係してくる。
 納得。先を続けて。
 本のタイトルは『天使降りるを憚るところ』Where Angels Fear to Treadなんてのはどうかと思ってる。

ベイトソン『精神と自然』(岩波文庫、佐藤良明 訳)

『精神と自然』という本は、精神過程や心を体系的に取り扱う方法をまとめた本なのですが、『天使のおそれ』では、そのアプローチをさらに推し進めて意識、聖、美について論じることを目的としていたことがここからわかるかと思います。

そして現在存在している『天使のおそれ』もこの目的を引き継いだもので、『精神と自然』で作り上げた体系をベースとして、そこから意識、聖、美についてアプローチしようという内容です。
とはいえ、残念ながらベイトソンが途中で亡くなってしまったため完全な形でこれが成し遂げられたとは言い難いのですが、それでも遺稿に散りばめられているベイトソンのアイデアや試みはとても興味深いもので、その一端を紹介していければと思っています!

「クレアトゥーラ」と「プレローマ」

まずはベイトソンが「精神過程(mental process)」をどう扱おうとしていたかというところからお話させてください。
これはまさに『精神と自然』という本でメインに扱われていることなので、興味を持たれた方はぜひそちらもお読みください。)

ベイトソンがまずおこなったことは、生命的なものと、非生命的なものの区別です。具体的には、ユングの用語をベースにしたこの二種類になります。

プレローマ:物理学や科学の諸法則が記述する無生物世界
クレアトゥーラ:生命世界、精神過程。情報による記述。

以前のメイヤスーの記事をご覧になった方は、こういう分け方になんとなく既視感があるかもしれません。というのも、プレローマは物理法則で支配された物質世界のことを指していおり、これはメイヤスーでいうところの「流動」に対応するものになります。

ただしメイヤスーの場合は「流動」では扱えないものを扱うために「遮断」という別のものを導入したわけですが、ベイトソンはそうではなくクレアトゥーラという別の記述法を導入します。このアプローチはむしろ以前ヴァレラ『身体化された心』で、心を取り扱う手段として情報や人工知能を導入した感じと共通しているといえそうです。そして、実際クレアトゥーラにおいては「情報」が本質的な役割を果たしています。

僕の思うベイトソンのいいところは、この「情報」といった曖昧になりがちな言葉に定義(「差異を生む差異」)を明確に与えているところです。こういうところに体系的な理解を志向するベイトソンのよさが感じられます。
この「差異を生む差異」という定義は、ベイトソンが深く関わっていたサイバネティクスにおけるフィードバック機構と深く関係していて、そこから具体的なモデルを考えることができるので、それは次回お話しようと思います。

「地図は現地ではない」

さて、このクレアトゥーラとプレローマという話は知覚、認知のモデルと関係してきます。
というのも、生き物が外界を認識することはプレローマからクレアトゥーラを作り出す作業に対応するのです。

これについて、ベイトソンがよく使う言葉として「地図」と「現地」があります。
「現地」は元々の土地そのもののことで、これはプレローマに属するものです。一方で、生き物がこれを認知するとき、土地そのものを見ることはできず、その対応物が脳内に作られることになります。これが「地図」であり、地図は情報として記述されるものなのでクレアトゥーラです。

「地図」と「現地」という言葉の元ネタは「地図は現地ではない」("Map is not the territory")というコルジブスキーという人の言葉です。
これが意味していることは、認識できるのはあくまでも「地図」であって、「現地」ではないということです。
(このへんもヴァレラやメイヤスーのときに議論していた、知覚が外界から来るか内側から作られるかといった話と似てますよね。)
実際にはこれらが混同されることでいろいろな問題が生じるという議論へと繋がっていくのですが、、、長くなってしまうので今回は割愛させてください。また何かの機会にお話できればと思います。

クレアトゥーラとプレローマの接点が「認識論」

このようにどのようにプレローマ(現地)からクレアトゥーラ(地図)を作り出すかということは、外界をどのように理解するかという問題に対応しており、このことを認識論(エピステモロジー)と呼んでいます。

この本の副題は聖なるもののエピステモロジーといいます。そこからもわかるように、本書の主題は聖なるものについての認識論、すなわち「聖なるもの」に対して作られるクレアトゥーラとはどういうものか、なのです。

『精神と自然』には本書についてこんな一節もでてきます。

 そして次の本は?
 天使降りるを憚るところとはどこか、その領域を地図にするところから始まる。
 野卑な地図ってわけね。

ベイトソン『精神と自然』(岩波文庫、佐藤良明 訳)

そんな野卑な地図(クレアトゥーラ)に近づくため、次回はもう少し具体的なモデルの話と、学習の話をしていこうと思います

今週もお読みいただきありがとうございました。では、また次回


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