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論理階層、そして「聖なるもの」へ (ALife Book Club 4-4)

こんにちは!Alternative Machine Inc.の小島です。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今回も引き続きベイトソンの『天使のおそれ』についてです。
(これまでの記事はこちら(#1, #2, #3)からご覧ください。)
前回の「誤差修正」と「キャリブレーション」の話題から、「聖なるもの」についての話に入っていきます。

今回は『天使のおそれ』の副題にも入っている「聖なるもの」の話に入っていきますが、まずは「誤差修正」と「キャリブレーション」の補足からいかせてください。

誤差修正とキャリブレーション

前回は情報(「差異を生む差異」)のモデルとして、サーモスタット銃(ライフルと散弾銃)を説明しました。

そして、ライフルのように照準をのぞき込んで獲物との距離を少しずつ修正していくものを「誤差修正」、散弾銃のように一度に複数の銃弾が発射されるため、距離を少しずつ修正するのではなく、これまでの経験を蓄積して調整していくものが「キャリブレーション」なのでした。

まずはこの派生として、論理階層意識・無意識的調整の話をします。

論理階層(Logical Type)

「誤差修正」と「キャリブレーション」でそれぞれどのような情報をつかっているか考えてみます。

「誤差修正」の場合、今の狙いと獲物の距離が誤差であり、その一つの情報だけで修正が可能です。つまり使っている情報は一回の出来事由来です。
一方「キャリブレーション」では、経験の蓄積によって少しずつ腕を上げることができるので、使っている情報はたくさんの出来事によるものです。

言い換えると、「誤差修正」での情報は一回の出来事という要素に由来し、「キャリブレーション」での情報はその要素の集合由来のものです。そして要素とその集合は概念として別の階層に属する(例えば生徒個人と、その集合であるクラスは抽象度が違う概念ですよね)ため、この二者が使っている情報は量的に違うというより、質的に違っていることがわかります。

このような違いをベイトソンは情報の論理階層(Logical Type)が異なっていると呼び、集合はそこに含まれる要素よりも高次の論理階層になります。

この論理階層という概念、実はベイトソンではかなりの重要概念で、例えば「ダブルバインド」、「二次学習」といった主要な話の中核です。今回はこれ以上深掘りできないですが、興味を持たれた方はぜひ「精神の生態学へ」と「精神と自然」をご覧ください。(このALife Book Clubでもいつか触れられれば、、と思っています。)

意識的・無意識的調整

さて、使う情報が違っていることから調整法も異なってきます

「誤差修正」では一回ごとに誤差を見て取ることができるので、意識的に修正可能です。一方「キャリブレーション」では、たくさんの出来事の集合のレベルで考えないといけないので、見て取れる誤差を意識的に調整するというよりも、経験による修正という無意識的なプロセス(「練習」)が必要です。

これをベイトソンは「意識的自己修正」「キャリブレーションへの無意識的服従」とまとめました。キャリブレーションが求められる課題では、意識的な修正ではうまくいかず、無意識的なものに委ねるしかないということです。

聖なるものへの展開

こうやって、単純なフィードバック制御のモデルから、論理階層、さらには意識・無意識という話まで展開してきました。

二回目でお話したようにこの本の目的は聖なるものをどう扱うか(「天使降りるを憚るところとはどこか、その領域を地図にするところから始まる」)だったので、このモデルをさらに拡張して聖なるものに対応する部分を見出す、と展開していきたいところです。

しかし、本書ではそうなっていません、、以前お伝えしたようにこの本はベイトソンの未完成原稿をまとめたもので、残念ながらここをきれいに接続することは叶わなかったようです。

実際、娘のメアリー・ベイトソンはつなぎでいれた章でこんな風に書いています。(ちなみにこれはメタローグという架空の対話で、実際の親子の対話を記録したものではないです。)

 とにかくここじゃいわないのね、パパ。
 何をだ?
 だって、結局のところパパのいう「聖」が何なのかはっきりさせないし、<エコ>のことなんてこれっぽっちも説明してくれないじゃない。生物学的世界の認識論や、パパ独特の「構造」について新しい議論に踏み出すにはまだまだ準備不足よ。

『天使のおそれ』青土社(星川淳 訳)

そんなわけで本書は「聖なるもの」を明快に論じることは達成できていないのですが、それでも面白い糸口には至ることには成功していますし、これまでの話(フィードバック制御で意識的・無意識的プロセスが作れること、そしてサーモスタットと人の関係のようにそれらが関係し合うこと、など)は十分そのための補助線として機能していると思います。

そのあたりの本格的な説明は次回させてもらうことにして、今回の残りではその準備としていくつか聖なるものと関わるエピソードや寓話を紹介します。

ヒントとなる寓話

本書の聖なるものを扱う章ではたくさんの寓話や物語がでてきます。巻末の注を見ると、ベイトソンには寓話だけの本を出す考えもあったみたいです。ここではそのうち二つを紹介します。

ネイティブ・アメリカンの儀式

一つ目のエピソードはネイティブ・アメリカンの儀式についてです。

当時、あるネイティブ・アメリカンの教会では麻薬成分を含むサボテンの芽を儀式に用いていて問題になっていました
しかし、もしこの儀式が十分宗教的なものであると認められれば憲法で保証された信教の自由から保護を受けることができます。そこである人が、この儀式を撮影して動画にすることでこれを証明しようと考えました。

この映画撮影を受け入れれば儀式が続けられるが、断れば麻薬の使用に対する批判をかわせないため継続は困難です。

ところが、儀式の参加者(や長老)は撮影の受け入れを拒否しました。儀式を存続させることよりも、一回の撮影を受け入れることのほうが損なうものが大きいと判断されたのです。

コールリッジの詩

二つ目はコールリッジの『老水夫』という詩の一節です。

老水夫がアホウドリを殺したことで、船にさまざまな災難がおそいかかります。そしてその鳥の死骸は首にぶら下がりつづけて取れなくなっていました。

ところが、船の影に見えたウミヘビの姿をみて、その美しさを思わずたたえたことで状況が好転します。

愛の泉が心に溢れて
思わずわしは彼らを讃えた。
やさしい天使があわれんでくれたのか、
思わずわしは彼らを讃えた。

その時わしは祈ることができた。
すると首からあほうどりが
するりと落ちて、鉛のように
海の中へと沈んでいった。

『老水夫』(宮下忠二 訳)(『天使のおそれ』内での引用から)

ここで「思わず」たたえたという部分がベイトソン的にはキーポイントになっていきます。

ここからどう進むか?

急に全然違う話が並んで困惑したかもしれません。
でも安心してください。ベイトソンはちゃんとここから(完全ではないですが)体系的な理解へと向かっていきます

次回はこれらの話からベイトソンが見出した、「コミュニケーションしないこと」というアイデアについてお話していきます。

今週もご覧いただきありがとうございました!次回またお会いしましょう。

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