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「光る君へ」のその後をめぐる宇治陵巡礼  その3 「ある光」

「宇治陵15号」はとても大きく、立派な陵墓だったが、埋葬者は不明のようだった。前方後円墳なのでもしかしたら藤原北家のものではなくそれ以前の古墳時代にこの地に形成されていたとされる古墳群のひとつなのかも知れない。ちょうど森の向こうに太陽が昇っていて、後光がさしているようだった。強い光が、強い闇を生み出す。まさに藤原家の歴史のようだとぼくは思った。

それにしても祝日でおまけによく晴れたお出かけ日和であるにもかかわらず、周囲には観光客はおろか、住民にもほとんど出会うこともなかった。まるでこの地に眠るやんごとなき人々を起こさないよう気配を潜めているかのようだった。かわりにウグイスがすぐ近くでひっきりなしに啼いていた。その啼き声は壊れたレコードプレイヤーのように、啼き終わるとまた最初から繰り返される。また、そのほかにもおそらくはホトトギスだろうかキンキンと甲高い声の鳥の声をはじめ数種類の鳥の声が、静かな住宅地に響き渡っていた。なんだか今昔物語に出てくる不思議な説話の場面のようだった。

そういえば今昔物語には藤原北家を扱った話も登場する。左大臣・藤原時平が叔父である藤原国経の若妻を寝盗る話だった。ちなみに国経は80歳の老人、妻はまだ20歳くらいとずいぶん歳の離れた夫婦だった。ぼくはそこまで歳の差の離れた恋愛が果たして成立するものなのかとしばらく考えてみたが、けっきょくのところ自分に納得がいくような明確な答えのようなものは見つからなかった。まあ平安時代の話だから、家同士の政略結婚などの類ではあったのだろうが。

ウグイスとホトトギス(たぶん)の啼き声とともに映り込む霊的な光。今昔物語的な世界。

このずいぶんと立派な15号があるあたりはけっこうな数の陵墓が密集する地帯になっているので、ついでというと語弊があるというか申し訳ないのだが16号、17号、18号、19号、20号もチラ見していくことに。これらも調べた限りではすべて埋葬者は不明のようだ。17号はわりに規模の大きい墳墓だったがすぐそばの18号はとても小さい。20号も大きめの円墳だった。やはり埋葬されている人物の身分などによって墳墓の大きさが違っているのだろうか。

5月の風薫る丘のアスファルトに映し出された、強い光が生み出す強い影。

そんなことを考えながら、ふたたび府道側へと坂を降りていく。その途中にある畑とマンションの敷地の奥にある宇治陵13号は藤原道長の父である兼家の墓ではないかといわれているそうだ。そう、ドラマ「光る君へ」では段田安則さんが演じたあの兼家だ。じつはここは畑だか私道に入って行かないと辿り着けないようだった。ネットなどを見る限り、みなさん農道を進み、敷地内に入っていって撮影されているようだったが、ぼくが行ったその朝はちょうど畑仕事をしているおじさんなんかもいてちょっと気後れしてしまい、撮れた写真はかろうじて脇の民家の柵越しに撮れたこれだけ。

兼家が眠るとされている宇治陵13号。

まあしょうがない。またどこからかキンキンと耳につく大きな声でなく鳥の声が聴こえた。そしてまたしてもその姿は見えない。ふとそこで、ああそういえば兼家はこんな恋の歌を残していたっけと思いだす。

音にのみ
聞けば悲しなほととぎす
こと語らはむと
思ふ心あり

ほととぎすの鳴き声ばかり聞いているように、
あなたのことを噂にだけ聞いているだけなのはつらいのです。
ぜひお話がしたいのです。

『蜻蛉日記』上巻より

兼家は野心家で策略家で、道長、頼通へとつながる平安後期の藤原家栄華と摂関政治の礎をつくる役割を果たし、最後は非業の死を遂げた人だったが、多くの恋に生きた人でもあったのだろう(恋の歌を多く残し、お妾さんの数もかなり多かったようだから)。そう考えると、歴史的事実だけを追っていけば藤原兼家は冷徹で強引な強権的タイプの人物に思えるが(まあ実際にそうだったのだろう)、ただもしかしたら実際には「光る君へ」で兼家を演じている段田安則さんのような、ちょっと抜けたところもあってお茶目で女性からしたら憎めないユーモラスな面もあったのかもしれないなあとふと思ったりもした。当たり前のことだが人は多様な側面を持っている。何千人何万人を殺した暴君がじつは子煩悩で愛妻家といった例は枚挙にいとまがない。そういえば段田安則さんは京都出身で花山中学卒業ということだから、じつによく考えられたなかなかいい配役だなと思った。

と、振り返るに、これまでのぼくはといえば、とくに名をあげたいとか有名になりたいというような野心もなければ、策略をめぐらせてうまく世を渡るタイプの人間でもなかった。むしろそういう人物を毛嫌いさえしていたところがあった。大阪の広告制作会社で働いていたころ、広告代理店の偉い部長から作品を広告賞に出したらどうかと勧められたが関心がなかった。後輩たちはせっせと賞レースに加わり、いくつか賞を取ったら会社を辞め、着実にキャリアアップしていった。またひところ流行った「セルフプロデュース」とやらにも興味はなかった。ずっと目の前の仕事のクオリティを上げることにしか興味がなく、目の前のクライアントや担当者の満足と、消費者にきちんと言葉を届けることにしか関心がなかった。だが歳を重ねてみて、もう少し上手くやれたのにな、と思うようにもなった。まあそうはいっても、もしもういちどその時代に戻れたとしても、うまくやれるとは思えないけどね。また色恋沙汰もほとほと苦手で、その多くは実りのないまま、暗い湖の底に沈む泡のように消えていった。比較的うまくいって長く続いたケースは(全てとは言わないまでも)たいていが相手から付き合ってほしいと言われたパターンだった。まあつまりこの話の結論としては、ぼくにはどう逆立ちしたって兼家のようには生きられないということだ(うまくいって直秀あたりかな)。

この線路を降りたら虹を架けるような
誰かがぼくを待つのか?
いまそんなことばかり考えてる
慰めてしまわずに

ふと、いま岐路に立っていることに気づく。(いまさらとも思うが)、ここへきて自分の人生がコトンと音を立ててこれまでとはまったく異なる方向へ大きく動き出そうとしている予感のようなものがこの1ヶ月ほどある(もちろん大いなる勘違いである可能性は否定できないが)。しかもそれは下手をすれば破滅とまではいかないまでも、せっかく築き上げてきたいまの地位(というほどのものでもないのだけど)を手放すことになるかもしれない。でも、その危うさの前に立つことに、どこかで心地良い陶酔のような感覚を覚えている自分もいたりする。かつて若かった頃の明日をもしれない不安を抱えていたからこそ持っていたある種の飢えというか未来への渇望みたいなもの、それがまた歳をとって鈍っていた自身の感覚を鋭敏に研ぎ澄ましてくれている気がしてうれしかったりもするのだ。「光が強ければ強いほど、闇は深く、影は濃くなる」。踏み外す勇気がなければ得られないものが人生にはあるのだ。若き青春時代を過ごした丘を歩きながら、懐かしい痛みが疼き始めているのを感じていた。

この飛行機はJFKに向かって飛んでいるのだろうか。まさかね。

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