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心理学者が考える: 「言葉を知る」 ことの意義

見出しの写真に添えた言葉は、決して大げさな煽り文句ではありません。
スピリチュアルな思想でもありません。文字どおりの意味です。
科学的な心理学者として、けっこう本気で言っています。

詩人・白井明大による著書
『一日の言葉、一生の言葉:  旧暦でめぐる美しい日本語』を読み、
日本古来の美しい言葉たちとの出会いを通じて「言葉」について考えたこと。

それが見出しの写真のとおり。
言葉を知ると、見えなかったものが見えるようになる
ということです。

我ながら怪しいことを言っていますね。
どういうことなのか、順を追って説明していきます。

・・・

何かが 「見える」 ということ

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そもそも何かが「見える」ということは、どういうことなのでしょうか。

私たちはふつう、努力しなくても当たり前のようにものが見えるので、このことについていちいち考えることはしませんよね。

これを機に、ちょっとだけ深く考えてみましょう。

ものを見るとき、目の奥の網膜に映し出された光の像は、電気信号として変換され、神経細胞の配管を伝って脳へと送られていきます。脳の様々な部位の働きによって信号の下処理がなされると、ある時点で脳は、それらの情報から「意味」を読み取ろうとします。

この全体像のうち、どれが物体でどれが背景だろうか?
何か物体のように見えるものがあるが、これは一体何だろうか?
自分はこれを知っているだろうか?知らないだろうか?
これは自分にとってどんな価値があるだろうか?
良いものだろうか?はたまた危険なものだろうか?

こうして何らかの「意味」を読み取ることができたとき、私たちはその対象を「IKKOさんだ」とか「いや、チョコプラ松尾じゃないか」といった具合に、認識することができるのです。
その一方で、「意味」を読み取ることができなかったものは、単なる背景の一部として無視をすることになります。

こればかりは、体験してみないと実感がわかないですよね。

では、せっかくなので体験してもらいましょう。

以下の画像をご覧ください。

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一見、めちゃくちゃな画像に見えますが、この白黒の画像のどこかに「あるもの」が隠れています。何が隠れているでしょうか?

じ〜〜っとよく見てください。

わかりませんか?


では、これでどうでしょうか?

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ピンクの枠の中を、よ〜〜く見てみてください。



草むらが気になってしょうがない「犬」がいますよね?


勘の鈍い人のため、思いっきりわかりやすいバージョン。

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ね?「犬」ですよね?

模様からして、『101匹わんちゃん』でもおなじみのダルメシアンでしょうか。

え?「牛」に見えるって?ちょっと疲れてるんじゃないですか?


さて。答えがわかったところでもう一度、最初の画像をお見せします。

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ヒントがなくても、もう大丈夫ですね。
今ではハッキリと、犬が見えると思います。


でも、ちょっと待ってください。

おかしな話だと思いませんか?

さっきも今も、皆さんの目に映っている物理的な情報(網膜上に投影された光の像)は何一つ、1ミリ足りとも変わっていませんそれなのになぜ、今となってはこんなにもわかりやすい犬の姿が、最初の時点では見えなかったのでしょうか?

その理由は、初めてこの画像を目にしたとき、私たちの脳が、この黒い点の集まりに「犬」という「意味」を読み取れていなかったからなのです。

白黒で粗くて、とても曖昧な画像ですから、当然ですよね。
ところが、答えを知った後は、相変わらず曖昧な画像であったとしても、そこに「犬」という「意味」を読み取ることができるため、今では「犬」が「見える」というわけです。

私が冒頭で述べた 「意味が読み取れたものだけを認識できる」ということは、ようするにこういうことなのです。

より詳しく知りたい方へ:専門的には「オブジェクト知覚(認知)」として知られる脳の機能です。(← スッキリ説明してくれている日本語の資料でアクセス可能なものがなかったため、英語のページです。すみません。)


つまり、ですよ。

世界のほうはいっこうに変わらなくても、そこから私たちがどんなふうに「意味」を読み取るかによって、世界の見え方は変わるということなんです。

・・・

世界の見え方と言葉の関係

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重要なのは、この「意味」の読み取り方が、私たちの使う「言葉」によっても左右されることがあるということです。

たとえば、この記事を読んでいる今が、よく晴れた日の夜であるならば、ちょっとベランダや庭に出て、空を見上げてみてください。

何が見えますか?

「月」が見えますよね。
(残念ながら見えないという方は、想像してください。)

では、それは「どのような月」でしょうか?

こう聞かれても、私たち現代人は、

「満月」
「何も見えないから、新月かな」
「とんがってるし、三日月?」
「えっと、なんかいい感じに欠けた満月…。」
「みつき、やみつき!今日、ケ○タッキーにしない?」

そのくらいの区別しかすることができません。

なぜなら、私たちは月の満ち欠けに関する言葉をそれしか持ち合わせておらず、それ以上の微妙な違いに対して「意味」をいっこうに見出せないからです。

ところがこの本によれば、昔の人びとは、日ごとに変わる月の満ち欠けを言い表すために十数種類もの言葉を使い分けていたそうです。

新月、繊月、三日月、弓張り月、十日夜の月、十三夜月、小望月、望月、・・・

というように、言葉のリストは続きます。


さて、ここで大事なことを言います。
名前をつけるという行為には、とても重要な意味があります。

名づける」ということは、「区別する」ということです。
そして、区別する」ということは、「異なる意味を読み取る」ということに他なりません。

生まれたばかりの赤ちゃんに "次郎" と名づけるとき、私たちは暗黙のうちに「この子は上の子の "太郎" とは違うのよ」という、存在の区別をしているのです。

あるいは、誰かを "彼氏" あるいは "彼女" というもう一つの名前で呼ぶとき、私たちは "それ以外の人" との関係性の違い、その関係の中で何が許され何が許されないかという規則の違いを、区別しているのです。

月の満ち欠けにたくさんの呼び名をつけて、区別していたかつての日本人たち。彼らにはきっと、日ごとに異なる月の豊かな表情が、こまやかに「見えていた」ことでしょう。

より詳しく知りたい方へ:言語と思考・認識に関する話は、専門的には「サピア=ウォーフ仮説(言語相対性仮説)」に関する議論として知られています。

・・・

言葉を知れば、 見えるものが増える

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かつては見えていたのに、今となっては見えなくなってしまったもの。
そういうものが、きっとこの世界にはたくさんあります。

さいわい、言葉とは新しく学び知ることのできるものです。
この世界に生まれ落ちてから、土に還るその日まで。
誰もがいつでも新しく出会い、新しく知ることができます。

そして、知らなかった言葉を一つ知るたびに、
見えなかったものが一つ、見えるようになる
のです。

月の満ち欠けの名を知れば、まいにち違う月が見えるようになる。

草木や花の図鑑を開き、それらの姿と名を知れば、
いつもの帰り道にたくさんの命の輝きが見えるようになる。

気持ちや感情にまつわるこまやかな言葉を知れば、
"愛" や "恋"、"友情" では言い切れないあの人への想いに気づくことができる。

「言葉を知る」ということには、
この目に見える世界を広げて、こころ豊かに生きていくという、
そういう大切な意義があるのだと私は信じています。

・・・

詩人・白井明大の導きのもと、数々の美しい言葉たちと出会う本。


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