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SNSを見ていると、人の人生を垣間見た気になる。大半の人は、自分の生活の見てほしい部分をSNSに投稿するので、そうした投稿を見ると、羨ましく感じたりする。
素直に羨ましがるだけならまだいいかもしれないけれど、それが妬ましく思うようなものであると、自分の中にある劣等感に気づき、突如として嫌悪感に襲われる。 人のことを妬む感情は、自然発生的なもので対処法がないように思える。 僕自身そう思っていた。が、ついにその対処法を見つけた。それは、生き方の多様性を知ることだ。 それは、いろんなところに自分の足で行き、そこで出会う人々の生き方に触れるということだ。 朝、大阪の事務所まで電車通勤すると、本当にたくさんの人たちとすれ違う。すれ
真似をするのはいいことだ。大いに真似しよう。という風潮が今の世の中少なからずあると思う。このことについて、僕は少し立ち止まって考えたい。
例えば、何かを新しいことに挑戦しようとするとき、失敗したくないと思う。その心から、ロールモデルを見つけ出し、それを真似する。これが一つの正攻法だと思われている。 しかし、自分でやる前から真似ることはそんなに正しいことだろうか? 真似ることは、確かに先人たちが悩んできたことをショートカットできる。ショートカットした時間を使って、さらに深い悩みに切り込める。とても効率的だ。 だけど、答えがあると思い込んだ真似の連続は、自分で考える力を養わない。むしろ、一種の思考停止であり、
世の中では、一途に何かに取り組むことが「いい」とされているように思う。そして、それを志すぶれない精神もまた「いい」とされる。確かに、脇目も振らず高みを目指している人はかっこよく映る。ぶれない心を持つにはどうしたらよいのだろうか?
ぶれっぶれな自分の生き方 一方で、僕の生き方は、ぶれてぶれてぶれまくっている、ように周りからは思われるだろう。 大学時代の就職活動時には、僕は新聞社や通信社の記者職を志望していた。だけど、一社も内定をもらうことができず、唯一内定をもらえたIT企業に就職を決めた。その会社では、会計システムの開発をした。 1年半で辞め、映像をほとんど独学で学び始め、今年からフリーランスとして映像の仕事をちょくちょくするようになった。 仕事がない時も長らくあった。ずっといきたかったラダック