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考える、を楽しむ

以前、真似もほどほどに という文章を書いた。

世の中は答えのない問題で溢れている。だから、誰かの答えを真似するのではなく、自分の頭で考えることが大切。
内容はざっくりいうとこんな感じだ。

この文章を書いていて、自分の言いたいことと少しずれているような、何か釈然としない感じがしていた。

社会で生きていれば、真似が必要となる局面がどうしても出てくる。自分の頭で考えていては、労力も時間も浪費してしまうことがある。自分の経験からもそれは言える。だから、真似する行為自体を否定したい訳ではない。

おそらく、真似に比重を置いてなにかに取り組むことに違和感を感じているのだ。まず自分の頭で考えることの方が大事だよね?といいたい。そうでないと、答えのない問題にぶつかった時に途方にくれてしまう。もしかすると、そのせいで精神を病む可能性だってある。

真似に比重を置く文化は、義務教育の段階から僕らにずっとつきまとっている。

それは社会が競争を前提として成り立っていて、その社会を生き抜くために真似が必要になったから生まれたのだと思う。

競争は、時間の制約と密接に関わりを持っている。

たとえば、学校や会社で、何かに取り組む時に絶対意識しなければならないことは制限時間だ。

要は、「早く、結果を出す」ことがこの競争社会の中で価値のあることとされている。

すると、最中にわからないことが出てきた時には、その答えを最短ルートで見つけなければならなくなってしまう。そして大体の場合には、答えはすぐに手の届くところに用意されている。

こうして自分で寄り道や回り道をしながら答えを探し出す、または導き出すプロセスが省略されてしまう。無論、自分の頭でじっくり考えることもままならない。

そうした競争を意識させられた環境の中では、自分の頭で答えを考えることを楽しむことは難しいと思う。趣味でもなければ、そういうことはできない。

そのプロセスが省略されることで失われるものがある。セレンディピティだ。

たまたま読んでいた本に、自分がずっと疑問に思っていたことへのてがかりになりそうなものが書かれていることを発見する。点と点が繋がったような感覚になる。

全く別のところにあると思っていた点と点が線になった瞬間には多幸感に包まれ、その時に考えることの楽しさを知ることができる。

こういう楽しさがあるから、思考が自然と自由に動き回ることができる。

真似のしすぎは、それを奪う可能性がある。だから真似はほどほどに、なのだ。


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