残念なことがあった。ビジネスとしては、ちょっと厳しいとの印象。少し距離を置かざるを得ないと思う。自分は自分のことを進めるしかない。 知人への共有は…、どうしたものか。いずれにしてもたぶん急がなくて大丈夫なはず。落ち着いたら別途対応しよう。
なにもかもミスってるのかな。 と自己嫌悪する夜。
6/7がこんな日になろうとは…。 でも、たぶん、無理してもいいことはなかったはず。
診察。 かすかに肩、首が痛いのが気になるので、報告する。先生、困った顔に。先生が困った顔をすると僕も困る。 結局は、様子見ましょう、なのだけど。 困った顔は大きすぎるお土産で、気持ちブルーになる。自分で努力できないことって辛い。ああ、運動はできるかな。あんまりできてないことの一つだから。 あとは。 そうか。 先生は僕の困った顔を見て、だいじょうぶって話してたんだな、きっと。もしあんまり良くないようなら、他の手を考えようって言ってくれたんだな。 先生、めんどくさい
お薬だけもらいに病院に。 仕事は落ち着き気味なので、帰宅したらゆるりと、と思っていたら、病院から書類が届く。 やむなく(おぃ)、役所への書類提出準備。 大急ぎで準備して、何とか提出を済ます。 事前にいろいろ確認しておいたので、手続は極めてスムース。色々あったのだけど、お茶の水で助言をもらっておいてよかった。感謝。 ちょっと検査の数字が良くなかったのが気になる。 まさかのV字回復。 こんなのV字回復しなくていいんだって…。 先生、心配してるのかな。 ふぅ( ´Д`)=
明日になると、20年目。 過ぎてみるとあっという間だ。 最初は、一流のファームで、自分も今日から一流に。 一流の先輩、仲間に恵まれて、一流の教育を受けた。自分の基礎は間違いなくここで作られた。 次は更に一流を目指した。 超一流の会社、超一流の同期同月(入社メンバー)。 でも「一流って何?」って。 一流も色々だということを知って悩む。今思うと、あの時の僕は井の中の蛙だった。自分が経験してきた世界の価値観が全てだと思っていた。 その次は柵を捨てて、自分がやりたいこ
先月16日に伯父が亡くなった。 親戚がとても多く、会うことの多い少ないは驚くほどバラつきがあるが、亡くなった伯父とは本当に数回しかお会いしていない。従兄の結婚式、祖母の葬儀、それから伯父のお見舞い。多分3度。 従兄の結婚式では、おそらく初対面で、僕自身もまだ社交性に乏しく、どう接したら良いか分からず、ほとんど会話はしていない。ただ、自分で会社を興していた伯父は自分が人生で初めて会った代表取締役社長だった。乾杯の音頭をとるときに肩書を読み上げられたのだが、その時、耳に入って
役所に出す書類の準備。 役所で説明を受けて、まだ間に合いそうだったから、そのまま病院に持ち込む。 2〜3週間かかるそうです。 イラッ! ってなることもなく。(ホントです) 大きい病院の先生も大変だなと思いましたとさ。 患者からすると、悩み大きいときに、代診だったりして、素っ気ないと「大きい病院の先生だから仕方ないよね」なんて、自分を納得させるために諦めてしまうこともあるけど。。。 大きい病院の先生だからこそ、大きい病院の責任を果たしてるのだなぁと思いました。
伊達政宗公の御遺訓と言われます。まずは前半。 仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。 冒頭の仁義礼智信についてのところは、「五常訓」とも言われている模様です。人間の本質をついていると言われますが、「何事もバランスが大切ということ」のように感じます。(レーダーチャートのイメージ) 続いて後半。 気長く心穏かにして、萬(よろず)に倹約を用いて金銭を備ふべし。倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり。
徳川家康の遺訓と伝わる言葉。 (少なくとも裏付ける史料はないとのこと) 以下に引用して僕なりの訳を付しておきます。 (訳は一部改訂) ===== 人の一生は重荷を負て遠き道を行くがごとし。 急ぐべからず。 不自由を常と思へば不足なし。 心に望みおこらば、困窮したる時を思ひ出すべし。 堪忍は無事長久の基。 怒りは敵と思へ。 勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、 害その身に到る。 おのれを責めて、人を責むるな。 及ばざるは過ぎたるよりまされり。 ===== 【我
まだ、ラジオをちゃんと聞いていないのだけど、大阪の放送局にいるアナウンサーさんが異動でアナウンス職を離れるらしい。 「人にはいろいろな生き方がある」 そう言ってしまうと簡単なのだけど、アナウンサーさんというお仕事を考えると、おそらく「絶対にこの仕事に就く」と思って、人生のある期間を打ち込んで来られているのだと思うし、それは比較的人生の早い段階、15歳やあるいはそれより前からなのかもしれないと思う。 上記はいずれも勝手な想像だし、ご本人からしてみると「そんなことはない」と
3月も折り返しを過ぎて。いろいろあった数週間。 少し違うのは、前を向くためにいろんなことをした。 それはストレスではあったのだけど、たぶんひとつひとつ大切なことで。 結果、前を向くための理由を、たくさんの人にもらったように思う。 自分は自分が思っていたほど、ダメダメではなかったみたいだし、 一人だと思っていたけど、たくさんの人に元気づけてもらえて、 その一言一言に感謝しながら、壊れた自分の気持ちや心、考え方を埋めていくことができた気がしている。 まだ、その旅は途中だけ
会社に病気のことを報告して、今日、産業医面談。 産業医からも、「大丈夫」と言ってもらえた。 いろんな人から、大丈夫と言ってもらえて、幸せに思う。 あの日。眠れなくて、ただただ泣き続けていた時。 死ぬことも選ぶことができず、ただ途方に暮れて、絶望していた時に比べると、本当に恵まれていると思う。 たくさんの人に囲まれて、 助けてもらって、 その間で生かされてる。 ただただ感謝しかない。 今は嬉しいのと緊張がほぐれた涙の方が強くて、 「ありがとう」って言うのは難しいのだけ
応援歌って好きだ。 迷ったとき、躓いたとき。 それから何かと立ち向かわないといけないとき。 少しだけ、自分の心と体に鞭を入れることができる。 両手で、両側のほっぺを「ペチン」と叩く感じ。 試験場で緊張をほぐしたり、気持ちを切り替えたり、あるいは覚悟を決めるとか。 でも、応援歌ではどうにもならないこともある。 当たり前だけど、万能ではない。 人それぞれに辛かったり苦しかったりすることは、たくさんあるから。 巷にあふれる応援歌のほとんどは、当然のように未来に目を向けられる
震災から11年。 あの日と同じ金曜日。 あの日は平河町から歩いて帰宅。 人混みの中、安全と思われるルートをひたすら。 家についたら19時過ぎで。 原子力発電所のことに恐れおののきながら夜を明かしたことを覚えている。 11年経って、置かれた境遇は随分変わった。 人はいつ死ぬかわからない。 「人の悪口は絶対口にするな。人にしてあげたことはすぐ忘れろ。人にして貰ったことは生涯忘れるな。」 石原裕次郎氏の言葉。 感謝の心、極まる。 そこまで到達できるかわからない
ひとりで(いや、正確にはそうではないのだけど)悩んで、悩んで。 絶望して、どうしたらいいかわからなくて、 泣いて、泣いて、 そういう状況が少しずつ変わった週。 今日も、Dead or Aliveの間で、少しだけ居場所を持てる可能性が見えて。 まわりに知らず知らず救われている。 悲しさと悔しさにばかり涙していたけど、 でも、今は感謝の涙が増えてる。 同時に、 自分がいかに気張っていたのか、ゆがんでいたのか、意固地になっていたのかを強く感じる。 そのくせ迷惑ば