2022/03/28

先月16日に伯父が亡くなった。

親戚がとても多く、会うことの多い少ないは驚くほどバラつきがあるが、亡くなった伯父とは本当に数回しかお会いしていない。従兄の結婚式、祖母の葬儀、それから伯父のお見舞い。多分3度。

従兄の結婚式では、おそらく初対面で、僕自身もまだ社交性に乏しく、どう接したら良いか分からず、ほとんど会話はしていない。ただ、自分で会社を興していた伯父は自分が人生で初めて会った代表取締役社長だった。乾杯の音頭をとるときに肩書を読み上げられたのだが、その時、耳に入ってきた「ダイヒョウトリシマリヤクシャチョウ」という言葉にとにかく驚いた。

祖母の葬儀の折は、少しは社交性が出てきていて、ほぼ初対面ながら伯父に挨拶をして、あれこれと話をした。いずれも他愛もない話だったが、伯父の暇つぶしくらいにはなったと思う。伯父は僕のことを本家の長男(僕からすると従兄)と間違っていたようだったが、「そうでない」という話をしたら、こっそりと耳元で「ここの息子にしては、しっかりしたなぁと思ったけど、違ってたんだね」と笑いを含みながら、照れを含みながら話してくれた。その言葉の詳細をつっこむことはしなかったが、何となく伯父の人となりや、これまでのことなど、いろいろ想像できた。それから後は、酒を好む伯父の相手をしながら、盃を酌み交わして、あれこれ話をした。無論、飲みながらのことなので詳細は覚えていない。ただ、最終的に、伯父は飲みつぶれて、広間に布団を引いて休んでいた。朝起きると、明らかに二日酔いになっている伯父と、機嫌の悪い伯母がいて、どうも伯父は夜にもどしたらしく、その始末に伯母はあれこれ大変だったらしい。伯父の酒の量に思い至らなかったのは、申し訳ない限りだが、そんな慌ただしい朝だったことも、今となっては思い出の一つだ。

最後に会ったのは、伯父が体を壊して入院した時だ。病状の詳細は失念してしまったが、ちょうど孫もまだ小さい頃で、伯父も何とか身体を良くしようとしていたのを覚えている。見舞いの間はあれこれと話をしていたが、リハビリの時間になったら、そそくさとリハビリの部屋に行き、懸命にリハビリに励んでいた。その姿は、これまでに2度見た伯父の姿のいずれとも違っていて、生きるために只管できることに取り組む姿だったと思う。

見舞いには父と待ち合わせて。帰り道のことをよく覚えている。従姉と父と私で三田線で巣鴨まで行き、巣鴨からは山手線で東京駅へと向かったが、その車中のことだ。巣鴨までの三田線の中、父は叔父としての姿を見せていたように思う。従姉は私より随分年上で、父がまだ相模原に住んでいた頃、つまり若い頃の父を知っていたのだろう。おそらく叔父というより「おにいちゃん」と呼ばれるくらいの頃なのだと思う。いつも甥に比較的厳しく接する父の姿とはずいぶん違って接し方が柔らかく、「そうか、父もこんな感じで姪に接することがあるのか」と感じたのを覚えている。
閑話休題。

手元に、伯父の葬儀と四十九日法要を兼ねて送る現金書留がある。縁が強い伯父ではなかったが、なんとなくこれを発送してしまうと、伯父の死を認めるようで心苦しい。とはいえ、縁の薄かった伯父の冥福を祈る、せめてもの気持ちとして用意したのだから「送らないと」という気持ちもある。
近くにいたはずなのに、もっと違う接し方もあったのではないかと、そんな気持ちに苛まれるというのもある。

親戚のお弔いは、一筋縄で受け入れられるものではないと思う。
お葬式があって、そこで現実に死を受け止めて、そこで何となく納得するような気がするのだが、こういうのは辛い。

伯父はずいぶん長い間病院で過ごしたと聞く。
ありふれた言葉だけれど、せめてこれからはゆっくりと過ごしてほしいと、心から思う。