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餞別/恋愛短編

しまった。書類入れのひとつをそのまま残してきた。全てシュレッダーにかけなければ。おれは立ち止まったが、しばらく考えたのち、再び駅へと歩き出した。

さっきの裕子の顔が浮かんだ。まだ残業しているはずだ。今さら戻りにくい。

書類入れなんか放っておいていいさ。
おれはたった今、会社を辞めてきたのだから。

おれはこの一年間、財務経理課の課長として、フロアの責任を一手に引き受けてきた。毎日、黒字を守るのに必死だった。たいした仕事もしないくせに休憩ばかり取る社員。クソ忙しい時期に限って「体調不良で……」とか言ってズル休みする社員。日中はだらだらしているくせに、残業になると張り切り出す残業代目当ての社員。

こういう奴らに制裁を加えるべく、おれはかなりの強権をつかった。

まず休憩時間の積算を取って、多すぎる社員にはこれまで以上に厳しく指導を行い、査定の対象にすると脅した。ズル休みする社員(かどうかは分からないがおれから見て明らかにそうと思える奴)は元々仕事が出来ないので、仕事を与えず自ら辞めるように仕向けた。残業を依頼する社員はおれが抜粋し、他の者は強制的に帰らせた。

こうして財務経理課はおれの思い通りに回っていたが、一年が経ち、おれの元に会社のコンプライアンス委員会より連絡が来た。おれの行為がコンプライアンス違反に当たるため、是正せよと言うのだ。

おれが課長補佐だったころ、こうした輩に何も出来ない課長にいつも、不甲斐なさを感じていた。こいつらのせいで、本当にがんばって収益に貢献している社員が割りを食っているのだ。

こんなゴミのような奴らは、生きていても社会が迷惑するだけだ。
クビになり、路頭に迷った挙句、死んだって構わないではないか。

だから一年前、課長に昇進した時、おれがこの課を変えてやると息巻いていた。効果はあったはずだ。その結果がこれか。おれはコンプライアンス委員会のフロアまで出向き、ゴミどもの悪行を述べ立て、昨年とおれが来てからの一年の業績比較のプレゼンまでしてみせたが、委員会の連中は渋い顔を崩さなかった。

「大島課長のお気持ちはわからなくもないですが、もうそういう時代じゃないんですよ」

自分に関係ないからそんな綺麗ごとが言えるのだ。おまえらは脳みそが千切れるほど、血尿が出るほど会社の存続を考えたことがあるか。

頭に血がのぼったおれは、流れのままに、会社に辞表を叩きつけたのだった。

おれはできる社員としか喋らなかった。くだんのゴミたちと関わる時は、思い切り見下す態度を取った。できる社員とも、必要以上に仲良くはしなかった。そんなだからおれが嫌われているのは重々承知していた。おれと仕事以外で会話をする奴は一人もいなかった。

……いや、一人だけいた。それが、長野裕子だ。

長野裕子は二年前に他部署から移動してきた、おれより四歳下の二十七歳、独身。課長補佐だったおれが彼女にロッカーの開け方から仕事の流れまで逐一、説明してやったのだ。

美人だから親切にした訳では決してなく、長野裕子が頭のいい女で、おれの言うことを瞬時に理解してくれたので、嬉しくなったおれはつい喋りすぎてしまうのだ。

「大島さんがこんなに朗らかにお話しされる方だとは思っていませんでした。ここの課長補佐は怖い方だと聞いていたので……」

「怖い? おれは思ったことを正直に実行に移しているだけだよ」

「もちろん私は怖いだなんて思っていないですよ」

おれはフォークを動かしていた手を止め、裕子の横顔を見た。その言葉に何か意味が含まれているのか探ろうとしたが、裕子がふいにこちらを見たので、慌てて目を逸らした。

裕子とは好きな本や音楽、映画が一致し、どれだけ喋っても飽きることがなかった。おれは課長になってからも社内で唯一裕子とだけは、時おりランチを共にした。ふたりだけのとき、裕子がおれを課長ではなく、大島さん、と呼んでくれるのが嬉しかった。

「大島さんの考え、私は分かりますよ。でも、あんまり強引にやると、反発くらいますよ」

「分かってる。でも、真面目にやっている社員のためなら、おれはどんな罰でも受ける覚悟だ」

言ったあと、裕子をちらと見る。裕子は、駄々っ子を見守る母親のようなまなざしでおれを見つめ、微笑んでいる。

仕事でならどれだけ横暴に振る舞えても、裕子を夜、誘うことは出来なかった。連絡先を訊くこともできなかった。おれは課長なので部署全員の連絡先を知る立場にあったが、無論私用で使うことはできない。

むしろ連絡先一覧の、裕子のアドレスが載っている個所をおれは意識的に避けていた。ひとめ見れば、行動を起こしてしまうと思った。一歩踏み出すような真似をすれば、ふたりを保つ均衡が崩れ、彼女が去っていくような気がして怖かった。

また、裕子も決して必要以上にこちら側に入って来ようとはしなかった。それでも時おり、おれを見つめる彼女の瞳の奥にゆれるものを感じることがあった。おれも、静かに、圧を込めて見つめ返す。

だが、これ以上は……というところで、どうしても目を逸らしてしまう。
もっとも肝心なところで気の弱さが出る自分が情けなかった。

送別会など無かった。最終日の定時後、形だけの挨拶を済ませると、みな淡々と業務に戻った。ただひとり裕子だけが社屋の玄関まで見送ってくれた。心なしか、目が赤かった。いや、おれの願望がそう思わせているだけだろう。

自分で決めたとはいえ、課長の肩書を失い、明日から無職の男になる自分を裕子の前に晒し続けたくなかった。

じゃあ、とそっけなく言い、おれは彼女に背を向けた。


退職して三ヶ月が経った。これと思うスカウトに巡り合わず、就職先はまだ決まらない。毎日悶々と過ごしていたおれに、元会社から宅配便が届いた。

開けると、外国の風景が印刷された紙袋が入っていた。裕子からのものだと直感した。「大島さんの書類入れの中に入っていました。」アルバイトの峯川清実の付箋が貼ってあった。

裕子に、餞別なんか仰々しくて大嫌いだと言ったことがあったっけ……。
おれは紙袋を開けた。

中にはおれの好きなバーデン・パウエルのCDと、夏にリバイバル上映されていたフランス映画のチケットが一枚入っていた。それと、水色の封筒。

大島さん、もしよろしければ映画、一緒に行きませんか。
8月7日(土)13時にスターバックスの渋谷ストリーム店で待っています。
                           長野裕子

 
今日は10月22日。
おれは天を仰いだ。