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『持続可能性』に代わる『やまとことば』を考える

オレが地域おこし協力隊だった時に、地元の人たちとこれからの地域社会について話していたときに、自分では普通に使っている横文字の言葉に嫌悪を示されたことを思いだした。それもまだ若いと言える同年代の人にだ。

まるでドラマのワンシーンのような場面であるが、本当の話である。

たしかそれは「サスティナビリティ」だとか「ダイバシティ」だとか「オルタナティブ」、といったような言葉だったと思う。

「持続可能」「多様性」と日本語にしたところで、またそういう難しい言葉を出して、という顔をされたのも覚えている。

さりとてこうした言葉を相手の腑にストンと落ちる言い回しが思いつかなくて、自分自身が言葉に踊らされていることをすごく恥じた覚えがある。

このnoteでは都会暮らしの筆者が岐阜県恵那市に移住して9年の農村暮らし経験に加えて、30年以上のドラマーとしての音楽経験(仕事レベルで)や登山経験(登山店勤務経験あり)、アフリカでのワークキャンプ、地域おこし協力隊、有機農業、現在は夫婦でEC運営、といろんな畑を歩んできた自分の経験からお伝えできるトピックを発信しています。(内容は個人の見解に基づくものであり、岐阜県移住定住サポーターとしての公式見解ではありません。所要時間3分。タイトル画像は、我が家の茶畑に咲くヒメノオドリコソウ。)

「より良い未来のための言葉」が分断を生んでいるのかもしれない

以前にも養老孟司氏の「いちばん大事なこと」を紹介した。
その中でも印象に残ったのが、生物多様性について書いた次のくだりだ。

「生物多様性という言葉自体がそうだが、全部が漢字である。(中略)『生物多様性』という言葉に代わる『やまとことば』が現れるまで、この概念は定着しない」

生物多様性という部分を「持続可能な社会」とか「サスティナブル」とかに置き換えても良い。

これらの言葉を唱える人たちは、当然良いことを広めたいと思っているはずだ。そしてそのような情報を受け取る人たちも概して意識が高く、多様性やサスティナブルに十分な理解を持っている、という印象をオレは持っている。

そしてもう一つには、これらの言葉には「変わっていく」というニュアンスを含んでおり、これも印象だけではあるが、リベラルな主張をもっている人たちからよく聞こえてくる。

何が言いたいかというと、本当に一人ひとりの人が意識を変えて行動し続けなければ未来はさらに過酷になる、という局面にあるのに、本当に意識を変えてほしい人たち、つまり過剰な消費を続ける人、あるいは機能不全のしきたりを守る「変わりたくない」人たちには伝わらず、ごく少数の”わかってる”人たちの中で、ぐるぐると回っているのではないだろうか。

そうしてお互いに敬遠しあい、「意識高い系」などと揶揄されるし、逆側からは「情弱」なんて揶揄もしている。その溝は深そうだ。

そりゃ確かにわかっている人同士で、そういう未来がいいよね、一緒にやっていこう、と共感し励まし合っている方が心地は良いだろう。そういう人たちとつながり合っていれば、なんだか世の中には自分と同じようなサスティナブルでダイバシティ豊かな未来を描いている人たちばかりに思えてくる。

でも残念ながら現実はそうではない。近年の選挙の動向を見てもわかるだろう。「あの人の演説にこんなに人が集まってる!これはすごい波が来ている!未来は変わる!」とSNS上で盛り上がっていたにも関わらず、結果は惨敗、というようなことがなかっただろうか。

いや、少しずつ、少しの仲間たちで、やれることをやっていく、ということを何ら否定したいわけでない。そうやって行動と結果で示していくことで、何らかの影響を周囲に与え、周りも行動が変わっていく、という事例もいくつも見てきた。
言葉では理解しあえなかった人たちも、行動と結果を見れば言葉を超えて「そういうことか」と理解してくれて協力してくれたりする。

むしろ、自分のヴィジョンが言葉で伝わらない時の唯一の解決策は、ヴィジョンのほんのわずかな部分でも先に実行して成果を示すこと、の一択だと思う。

自分も相手も体感でわかる言葉を使いたい

しかし、どこかのタイミングで、自分と違う価値観を持った人たちに、言葉で想いを示すべき時も来るだろう。その時は、どんな言葉を使えばいいだろうか。

投機のための投機を繰り返す人には、なんて声を掛けたら本当のお金の役割を知って行動してもらえるだろうか。

資源はあるだけ使って、あとの代のことは知らん、という人には、なんて声を掛けたら1000年後の人の未来を思い描いてもらえるだろうか。

言葉の違い、言語の違いが及ぼす影響について、ジャレド・ダイアモンドはパプアの伝統的社会における言語の在り方について、このように書いている。

人間というものは、自分と同じ言葉を話す人を、自分の集団の一員であると思うものなのである。同じ言葉を話す人は仲間であり、助け合う対象なのだ。(中略)複数の言葉をごちゃまぜに話せる場合は、どちらの言語集団とも話は通じるだろうが、自分と同じ言葉を話す人間としては受け入れてもらえないのである。つまり、どちらの集団からも命を守ってもらえないのである。(『昨日までの世界』より)

保守的な地域では、これからの未来を創り出すための言葉よりも、自分たちが代々受け継ぎ守ってきたやり方を信じている。

冒頭にあげた話では、オレの使った横文字から、地元の彼は自分の仲間の防波堤になるべく怒ったのである。

それ以来オレはなるべく聞きかじった新しい言葉を使わないようにしている。そもそもオレ自身がその意味が腑に落ちていない言葉を使ったところで、言葉に踊らされているだけだと気が付いた。オレはもっと実体のある言葉を使いたい。

『持続可能性』に代わる『やまとことば』を考える

さて、そろそろどちらか寄り添えないものだろうか。お互いがしっくりくる言葉を使っていけないものだろうか。

例えば「持続可能な社会」のやまとことばを次のように提案する。

が、その前に「持続可能」の概念には2つの側面があると考えるので、両者を分けて言い直したい。

一つ目は、

「人や生き物が生き永らえていける社会」

辞書では「生き永らえる」を

死の危険があったり、死が身近な問題としてあったりしても、命を落とさずに生き続ける。

と定義する。

まさにこの現代から未来にかけて、ヒトは種として生き残れるのか、その瀬戸際にあるとされているので、「生き永らえる」のギリギリ感がぴったりだと思うし、自分事として体感的な言葉だと思う。

そして二つ目は、

「心豊かな文化が伝え継がれる社会」

「伝え継ぐ」という言い方は日本語としてあまり言われないように思うが、「受け継ぐ」だとちょっと受動的な感じもするし、遺したい方と継いでいく方の両者の能動感があらわれるよう自分で作ってみた。

前者はエネルギー問題や食糧、環境問題に対して、後者は文化や暮らしに対して、「持続可能」から言い換えることができると思う。

持続可能な、という言葉には、人間の営みや自然環境に対する言葉としてはユレやアソビがなく、杓子定規で機械的な響きがする。

「生き永らえる」「伝え継ぐ」には、日本人なら直感的で誰にでもすぐにイメージがついて、何が伝えたいか日本人として共通に感じることのできる言葉に思えるのは、自分だけだろうか。

自分の中でこのように置き換えはじめてから、田舎暮らしだとか、まちづくりだとか、環境保護だとか、そういったものに対して、だれかのつくった標語のために活動しているというのでなく、自分のために自分が行動している、という感覚が生まれたと感じている。

自分と言葉の違う人にどういう言葉を使えば伝わるか、という以前に、まずは自分の中でその言葉の意味を体感的に理解できているのかを確かめてみてはいかがだろう。

そこがスタートなのだと確信している。


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