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アルファリズム

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1200字以内で書かれた掌編小説です。
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記事一覧

Anger

 ねえ、怒ってる? 彼女がぼくに訊ねる。
 怒ってないよ。ぼくはそう答える。
 少しのあいだじっと黙りこんだあとで、彼女が再び訊ねる。ねえ、やっぱり、怒ってるんでしょう?
 怒ってないったら。ぼくは答える。
 その後も彼女は幾度となくぼくに訊ねつづける。でも、ほんとうは、怒ってるんでしょう? と。
 煩わしさに辟易したぼくは思わず怒鳴り返す。いいかげんにしてくれ。怒ってないと言ってるじゃないか。

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Button

 ある午後、電車に乗っていたときのことだ。私は座席に腰かけて生ぬるい空気に包まれた車内をぼんやりと眺めていた。すると隣からカチャカチャという音が聞こえてきた。隣を見ると、男が座っていて、なにやら熱心にボタンを押しているようだった。
 ああ、携帯用ゲームをやってるんだな。そう思い、私は横目で男の手元を覗き込んだ。男は器用に十本の指を駆使して、長方形のゲーム機の前面と側面にあるボタンをカチカチと矢継ぎ

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Camp

 会社帰りに、ふと気が向いて、ぼくはカレーを食べることにした。店先に貼られていたポスターが目についたのだ。
 けれども、それはとてもまずいカレーだった。高度資本主義経済社会下でこのようなカレーが給仕されていようとは、到底予想できないような味だった。まるでインドの収容所に入れられたイワン・デニーソヴィチが食べている粥を思わせる、具もなにも入っていない粗末な代物だった。でも、こんなふうな言い方は適切で

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Disappear

 十時間働いて家に帰ってくると、ぼくはろくに着替えもしないで、ベッドに突っ伏して眠ってしまった。なにしろ、とてもとても疲れていたのだ。眠りについた記憶すらなかった。ほとんど暴漢に襲われて意識を失ったかのような眠り方だった。
 すると、筋書きのない夢を見た。そこでは神と呼ばれるべき存在が目の前に現れて、ぼくを神にしてあげようかと提案した。あまりに唐突でいかがわしい申し出だったので、ぼくは訝しげな視線

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Empty

 ほうろう製のドリッパーに無漂白のペーパーフィルタをセットする。そのなかにコロンビア産のコーヒー豆を計量カップで三杯入れる。そこに九十度に熱した湯を全体にゆき渡るように入れて豆を蒸らし、二十七秒待ってから、中心に螺旋を描くようにゆっくりと注ぎ入れていく。すると、肥大していく自意識のように豆は膨らみ、混血の雲のような色の泡が香気を放つ。その泡の粒をじっと見つめながら、ぼくは痺れつつある前頭葉を働かせ

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Frederic

 サルバトール・ダリの絵のモチーフのようにどこかちぐはぐな印象を受けるその図書館は、とりたてて特徴のない住宅街のなかにあった。ぼくは返却期限を一週間ほど過ぎたフローベールの『感情教育』とスティーブ・エリクソンの『アムニジアスコープ』、チェーホフの短篇集、それからアーヴィン・ウェルシュの『フィルス』とブローディガンの詩集という文学的まとまりを欠いた一連の本を、無印良品のトートバッグに入れてそこへ向か

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Gestaltzerfall

 土曜日の夕方、自宅のアパートの一室でエマニュエル・カントの『実践理性批判』(岩波文庫)を読んでいたら、ゲシュタルト崩壊がやってきた。いつもの無遠慮で機微というものに少しも注意を払わないやり口だった。
 ゲシュタルト崩壊は訪問に際して、決してチャイムを鳴らさない。もちろんノックもしない。事前に連絡をよこすこともしない。彼はまるで自分の家に入るときのように、慣れきった無神経さで玄関のドアを開け、ぼく

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Heaven

 休日の昼下がりにベランダの手すりにもたれかかって、塀の上で丸くなっている猫を眺めているときのことだった。もったりとした風が漂ってくる感触がして左手を向くと、そこには神様がいた。
 どうしてそれが一目で神様だとわかったのか、ぼくにもうまく説明できない。説明はできないけれど、すぐにわかったのだ。ぼくは特に驚いたりもせずに、ただそこに神様がいることを受け容れた。突然のことだったから、多少は心拍数が上が

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Irony

 草原の小さな小屋の軒先で老人は揺り椅子に腰かけていた。残忍な刑務官のように凍てついた季節が過ぎ、温和な気候がこの辺り一帯を包みはじめている。初夏の青々とした空が広がっている。老人は眠たげな瞳で遥か先に広がる尾根を見るともなく見つめていた。
 とてもいい季節だ。老人は胸の内で呟く。かじかみ縮こまった心根が溶きほぐされていくようだ。いつ果てるとも知れなかったあの陰鬱な季節はもう過ぎ去った。これからは

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Join

 ひよりとめぐは仲のよい友だちらしく振る舞っていた。二人とも一緒にいるときに笑顔を絶やさなかった。休日にはよく買い物に出かけたり、映画を観に行ったりもした。どことなく服装の趣味も似ていたし、顔のつくりにも近いものがあった。見る人によっては二人は親友だと思われたにちがいない。
 ランスとラドウィックとスティーヴンスはいつだって三人で連れ立って歩いた。ほとんどどこに行くにも三人でひと塊だった。三人とも

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Killer

 男は生来、いささか社会に適さない倫理観を抱いていた。幼少のころから生き物を殺すことに名状しがたい志向性をもっていたのだ。そうはいっても、決して殺傷行為に愉悦を感じていたというわけではない——もちろんいくらかは感じていた。快楽は彼にとってはあまり重要な要素ではなかった。それよりはむしろ、モラルというものを理解することができないだけだった。
 まだほんの幼いころ、彼はただひたすら虫を殺して過ごした。

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Lacan

 ひどく眠たかった。目の前の風景はぼんやりと霞み、上瞼と下瞼とが磁石のS極とN極のように引きつけ合っていた。とにかく、目を閉じたくて仕方がない。できることならばどこかやわらかいものの上に寝転がりたい。そして、心ゆくまで意識を失いたい。そんなふうに願っていた。けれど、そうするわけにはいかなかった。ぼくはいまとても重要な話を彼女としているのだから。
 こみ上げてくるあくびを噛み殺し、必死に眠気を押し隠

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Moral

 夜中の、そうね、十時すぎくらいだったかしら? 太めの男の人が住宅街を走っていたの。Tシャツとハーフパンツ姿で。ドタドタとした足取りで、走り方なんててんでなってないって感じなの。息をぜいぜいと切らして、今にも倒れそうだったわね。あまりにみっともなかったから、私は思わず振り返ってその男を見てみたの。そうしたら、案の定というかなんていうか、その人、もう走ることをやめて、よたよたと歩いていたわ。いったい

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Navel

 神さまってどこにいると思う?
 彼女が僕に訊ねた。僕はいつものとおり、小さな息をひとつ吐き出してから、答えを考えはじめる。一昨日訊かれたとき、僕はエルサレムと答えた。疲れていたからあまり頭を使いたくなかったのだ。その前にはたぶん、十字架のなかと答えたと思う。その他に今までどんな答えを導き出したのかはおぼえていない。そんなことをいちいちおぼえてもいられない。
 僕が考えているあいだ、彼女はマットレ

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